ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

正親町天皇の時代

・弘治3年(1557) 10.28 方仁親王践祚した(正親町天皇) 。(『お湯殿上日記』)

・永禄4年(1561) 9.10 武田(源)晴信と上杉(藤原)政虎が合戦に及んだ。武田方では晴信の弟,信繁が討死した。(『歴代古案』「安田文書」「武州文書」)

甲斐国年代記『常在寺衆中年代記(勝山記/妙法寺記)』は、この合戦を最後に記録している。村や寺が自分たちの歴史を書き残そうとする意志による産物だと考えられる。飢饉・災害・戦乱といった記録が多く、苦難を通して地域のアイデンティティが創出された時代であったとも捉えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

・永禄7年(1564) 3.13 近衛(藤原)稙家は、樺山安芸入道玄佐に古今伝授を伝えた。(『伝家亀鑑』)

※これにより、近衛流の古今伝授が薩摩国に伝わった(桑田忠親「薩摩の歌道」『國學院雑誌』55-1号)

・永禄7年(1564) 安芸毛利家臣の玉木吉保は13歳になり、勝楽寺にて学問を学んだ。最初の5日間は47文字を練習し、その後で仮名文字を書くことを習い、そして漢字を覚えていった。(『身自鏡』)

鎌倉時代から南北朝時代にかけての武士は、漢字を書けない者が多くいたが、この時代の武士は漢字を習うようになったのである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・永禄10年(1567) 11.18 足利(源)義栄への将軍宣下にあたって、武家伝奏勧修寺(藤原)晴右と、義栄方の伊勢(平)貞助および畠山守肱が交渉を行った。朝廷は宣下の費用として100貫と馬などを提示したが、貞助は分割払いを望んだ。(『晴豊公記』)

※その後に関連記事は記されず、交渉は中断したものと思われる(橋本政宣「信長上洛前後における山科言継の行動」『近世公家社会の研究』所収)。

永禄11年(1568) 1.27 富田より畠山守肱が上洛し、武家伝奏勧修寺(藤原)晴豊、公外記押小路(中原)師廉、水無瀬(藤原)親氏、管務(藤原)壬生、伊勢(平)貞助が集まり、談合した。(『晴豊公記』)

※これにより、足利(源)義栄への将軍宣下の話が纏まったようである(橋本政宣「信長上洛前後における山科言継の行動」『近世公家社会の研究』所収)。

・永禄11年(1568) 2.1 山科(藤原)言継は、足利(源)義栄の将軍宣下に際して、上卿の内示を受けた。(『言継卿記』)

※『言継卿記』の刊本には、4日の出来事として記されるが、自筆原本にはない。活字化される際に誤って4日条に挿入されたと考えられる(橋本政宣「信長上洛前後における山科言継の行動」『近世公家社会の研究』所収)。

・永禄11年(1568) 2.6 足利(源)義栄の将軍宣下に際して、義栄側より出された費用は50貫であった。朝廷側はこれを「不可然」として受け取らず、その旨を畠山守肱に伝えた。(『晴豊公記』)

※昨年11月に朝廷が提示した額の半分であり、朝廷はそれを突っぱねた形になる(橋本政宣「信長上洛前後における山科言継の行動」『近世公家社会の研究』所収)。

・永禄11年(1568) 2.7 足利(源)義栄への将軍宣下に必要な費用が、義栄側から十分に出されなかったことに対して、朝廷は突っぱねたが、畠山守肱は、それでは延期せざるを得ないと伝えた。守肱は富田に下向すると言い出したので、朝廷はそれを止めて、5拾を出させた。(『晴豊公記』)

※既に将軍宣下の準備が整った状態で、延期するわけにもいかず、守肱は譲歩したのだと考えられる(橋本政宣「信長上洛前後における山科言継の行動」『近世公家社会の研究』所収)。

・永禄11年(1168) 5.4 島井宗室は兀良哈で多くのものを購入し、商船「永寿丸」に乗って帰国。筑前国博多袖湊に帰着した。(『嶋井氏年録』)

・永禄11年(1568) 7.23 島井宗室は摂津国大坂に永寿丸で赴き、兀良哈で購入したものを売って、永寿丸の船頭や水主に、褒美として銀子を与えるほどの利益をあげた。(『嶋井氏年録』)

※宗室の経済力は、永寿丸を用いた交易に支えられていたことが理解できる(「遣明船と相良・大内・大友氏」)。

・永禄11年(1568) 9.? 勧修寺(藤原)晴右は「武命」に違い蟄居した。(『公卿補任』)

・永禄11年(1568) 9.? 参議高倉(菅原)永相は「武命」に違い山城国京都を出奔し、摂津国大坂に移った。(『公卿補任』)

・永禄11年(1568) 9.? 参議水無瀬(藤原)親氏は、足利(源)義栄に供し阿波国に下向した。(『公卿補任

・永禄11年(1568) 2. 厳島神社にて、狂言「二九十八」が上演された。

※内容としては、清水寺で結婚を祈願した男が、夢のお告げの通りの場所に行き、そこにいる女を妻にしようとした。女の出す謎を解いていき、最後に何件目の家に住んでいるかを尋ねると、女は「にく」と答えた。男は2×9で18軒目と悟り、会いにいくが、女は醜女だとわかり、逃げ去るというものである。当時の庶民に、掛け算が広まっていたことを示す演目である(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・元亀2年(1571) ?.? 曲直瀬正盛(道三)による医書『察証弁治啓迪集(啓廸集)』が成立した。(『察証弁治啓迪集』)

※正盛は田代三喜に当流(李朱)医学を学んでおり、この著書によって広まることになる。この著書の「老人門」という項目では、60歳が対象となっている。当時として、60歳以上は老人だった(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1575年 10. イヴァンⅣは退位して、モスクワ大公を名乗り、代わりに大オルダのカン,アフマドの曾孫、サイン ブラト(シメオン ベクブラトヴィチ)を全ラスィーヤのツァーリとした。

・1576年 6. サイン ブラト(シメオン ベクブラトヴィチ)は退位してトヴェリ公を名乗り、モスクワ大公,イヴァンがラスィーヤのツァーリとなった。

チンギス・カン,テムジンの子孫から譲られたことにより、ラスィーヤのツァーリは、カン位の神聖性が付加された。モンゴル人はツァーリを「オロスのチャガーン(白い) ハーン」と呼び、ジョチ ウルスの後継と見なした(岡田英弘「中央ユーラシア、世界を動かす」『岡田英弘著作集 Ⅱ』)。

・1584年 Macauにいた宣教師Lourençoは、本国Portugalの神父Miguel de Sousa宛に書簡を送り、日本人が、短期間に病気が回復する理由について、気候が温和で健康に最適であり、生水を飲まず、病を患えば銀の針を刺すからではないかとあう分析を伝えている。

※生水を飲まないというのは煮沸消毒をしていたのだと考えられる。また、宣教師にとって鍼治療は奇異に映ったようである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

天正3年(1575) 2.20 島津義久の異母弟,家久は薩摩国串木野を出発し、山城国京都に向かった。島津家が薩摩国大隅国日向国を統一出来たのは神仏の加護があったとして、伊勢神宮愛宕山などを参詣するためである。(『家久君上京日記』)

※当時の島津家の領国では、連歌や立花など京都の文化が伝わっていた。家久が京都に向かったのは、京都観光も目的にあったと考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

天正3年(1575) 2.25 島津家久肥後国大渡の関所で関銭を払い、加勢川を渡った。しかしその先の川尻でも関所があり、家久は関銭を払うことになった。(『家久君上京日記』)

※当初の関所は律令国家が治安維持のために設けたものであるが、家久が通る時代には、通行料を徴収するために、有力者が独断で関所を設けており、旅人を苦労させていた(呉座勇一『日本中世への招待』)。

天正3年(1575) 2.29 島津家久筑後国にて関所に出くわした。関守が提示した通行料を法外な額と感じた家久は、家臣たちに関守を打ちのめさせ、強行突破した。(『家久君上京日記』)

※家久は5つの関所を迂回した末に、この関所に会って怒りが爆発したのである。家久のような上級武士であっても、関銭を払うのはなるべく回避したいものてあった(呉座勇一『日本中世への招待』)。

天正3年(1575) 5.30 島津家久伊勢国宮川に至り、衣服を脱いで禊を行った。その際「禰宜ども」がやってきて何かを言い、家久一行の物を取っていってしまった。その後家久一行は伊勢神宮参詣を終えた。(『家久君上京日記』)

※この「禰宜ども」は、「神道乞食」のことだと考えられる。神道乞食は神主の姿をして祓いを唱え、米銭をねだる者たちである。家久一行のもとに来た神道乞食は、祈祷の押し売りを行い、その見返りとして物を持っていったのだと考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

天正3年(1575) 6.20 伯耆国にて、安芸毛利家臣は「わらじ銭」を配っていた。そこを訪れた島津家久も銭を受け取った。(『家久君上京日記』)

※当時の毛利家は、尼子(源)勝久を擁立する山中(源)幸盛と交戦しており、毛利家は民衆の人気を得るために「わらじ銭」を配っていたのかもしれない(呉座勇一『日本中世への招待』)。

天正3年(1575) 6.7 島津家久山鉾巡行を見物した後、進藤賢盛から長篠合戦についての話を聞いた。(『家久君上京日記』)

※家久は情報収集も行っていたのである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1576年 Jean Bodinは『Les six liures de la republique de I(国家論)』を著した。

※Jeanは、国家の絶対・永続的な権力を「主権」であるとした。彼は主権を伴った正しい統治を行うものを国家であると説いた。君主の主権は国内における諸侯や貴族に優越し、国外におけるRoma教皇庁を含めた干渉を排除できる権限のことであった。その主権には、外交、人事、最高裁判、恩赦、貨幣鋳造、度量衡統一、課税の権限が含まれていた(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・1576年 Filipin総督,Francisco de Sande Picónは、EspañaのRex,Felipe IIに上申を行った。

※FranciscoがFelipe IIに求めたのは、鉄や生糸の貿易のために、大明に軍隊を派遣することである。軍事制圧を望んでいたと考えられる(平川新『大航海時代と戦国日本』)。

・1577年 EspañaのRex,Felipe IIは、Filipin総督,Francisco de Sande Picónに書簡を送った。

※大明に対しての友好政策を改めてなくてはならない場合は然るべき措置をとるとしながらも、軍隊派遣はまだ適切な時期ではないと伝えた。時を見計らって征服することを望んでいたとも考えられる(平川新『大航海時代と戦国日本』)。

・1583年 Filipin総督,Diego RonquilloはEspañaのRex,Felipe IIに上申を行った。

※大明の為政者は宣教活動を妨害しているとして、Diegoは大明を征服することは正当であると主張し、遠征隊の派遣をRexに求めたのである。1580年にも大明の征服を主張する上申があったことから、征服すべきという観念がFilipinの統治現場にあったと考えられる(平川新『大航海時代と戦国日本』)。

天正10年(1582) 6.2 惟任(源)光秀の兵は、本能寺にいた織田(平)信長を襲撃した。信長は自害したほか、小姓の森(源)成利・長隆・長氏兄弟らが討死した。(『信長公記』)

天正10年(1582) 6.7 吉田(卜部)兼和(後の兼見)は安土城に赴いて惟任(源)光秀に面会し、京都の秩序を守るようにという、勅旨を伝えた。(『兼見卿記』)

天正10年(1582) 6.9 惟任(源)光秀は上洛し、禁裏と誠仁親王に銀子500枚を献上し、五山と大徳寺に銀100枚充、吉田社に50枚を寄進した。摂家清華家のほか、廷臣たちは上洛を出迎えた。(『兼見卿記』)

※これらの銀は、安土城の金蔵にあったものと思われる。光秀としては、銀を朝廷などに献上、寄進することで、主君を討ったことにたいする非難を避けようとしたのだと考えられる。近衛(藤原)前久に対しても工面した可能性もある(橋本政宣「豊臣政権と摂関家近衛家」『近世公家社会の研究』所収)。

天正10年(1582) 6.19 神戸(平)信孝は大徳寺宛に書状を贈り、惟任(源)光秀が寄進した銀子を処分することを命じた。(『大徳寺文書』)

※光秀からの預け物についての詮索が行われたことを意味する(橋本政宣「豊臣政権と摂関家近衛家」『近世公家社会の研究』)。

天正10年(1582) 6.20 吉田(卜部)兼和(後の兼見)は織田(平)信孝に使者を派遣し、銀子の配分に関して誓紙を書き、継目の安堵を求めた。(『兼見卿記』)

天正12年(1585) 10.16 羽柴(平)秀吉は朝廷より将軍への任官を勧められたが辞退した。(『多聞院日記』)

天正13年(1585) 7.11 内大臣,羽柴(藤原)秀吉は関白に任じられた。(「木下文書」)

〔参考〕林信勝(羅山)『豊臣秀吉譜』には、秀吉は征夷大将軍になることを望み、足利(源)義昭に自分を養子にするよう頼んだが、断られたので関白になったとある。

※当時の義昭は秀吉の御伽衆であり、秀吉からの要請を断ることが難しいほか、かつて京都から追放された後の義昭は「貧乏公方」と嘲笑されたことがあるなど(『信長公記』)、将軍職の権威は低下していた。秀吉も将軍任官を辞退していた(『多聞院日記』)。また、将軍になるより関白になるほうが困難であるため、『豊臣秀吉譜』の記述は事実でないとも考えられる(堀新「豊臣秀吉と「豊臣」家康」『消された秀吉の真実』)。

天正13年(1585) 7.11 羽柴(藤原)秀吉の妻,ねねは、従三位に昇り「北政所」の名乗りを許された。

※下克上の気運が高まった時代には、姓の明らかでない家が対等し、姓がほとんど使用されなくなった。そのため、「藤原氏」「源氏」といった名乗りと同様の感覚で、ねねは生家の苗字から「杉原氏」とも呼ばれた。「北条政子」「日野富子」といった女性の名前に苗字を付ける呼称は、そうした流れから定着したようである(岡野友彦『源氏長者』)。

天正13年(1585) 8.? 羽柴秀吉は、自らの姓を「豊臣」にすることを望み、奏請した。(大村由己『秀吉事記』)

〔参考〕藤原姓により関白になったものの、古姓の「遺躅」を襲っていることは本意でないとして、源平藤橘に続く第5の姓を名乗ることを考え、儒学者に古伝や系図を調査させ、有識に明るい菊亭(藤原)晴季との相談して、「豊臣」にしたのだという。(大村由己『秀吉事記』)

天正13年(1585) 9.9 羽柴秀吉は、豊臣への改姓を許されたと考えられる(『押小路文書』78)