ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後堀河天皇の時代

・承久3年(1221) 7.9 後鳥羽院の兄である守貞(行助入道)親王の子息,茂仁王が践祚した(後堀河天皇)。(『百錬抄』『公卿補任』)

・承久3年(1221) 7.13 後鳥羽院隠岐国に移るため、都を出御(外出)した。(『愚管抄』『吾妻鏡』)

※これは鎌倉幕府による、事実上の配流の処置である(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 7.20 順徳院は佐渡国に移るため、都を出御した。(『愚管抄』『吾妻鏡』)

※これは父後鳥羽院と同様に、積極的な倒幕派であった順徳院に対する、事実上の配流の措置である(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 7.24 雅成親王但馬国に移るため、都を離れた。(『吾妻鏡』)

※雅成親王は倒幕に積極的であり、事実上の配流である(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 7.25 頼仁親王備前国児島に移るため、都を離れた。(『吾妻鏡』)

※頼仁親王は倒幕に積極的であり、事実上の配流である(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 8.6 三善康信は老病により、子息の康俊に問注所執事の職を譲った。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 8.7 北条(平)泰時は調査記録を作成し、幕府と対立した公卿や武士から没収した土地は3000余であることが分かった。

※これらの没収地は北条(平)義時の差配により、功績のあった御家人に与えられた。これにより西国に所領を得た東国御家人を「新補地頭」と呼ぶ(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 8.16 守貞(行助入道)親王は、子息,後堀河天皇から太上天皇の尊号を贈られた(後高倉院)。(『百錬抄』『公卿補任』)

※即位せずに尊号を贈られ、治天の君となったのは異例であった。しかし当時、院政という形が朝廷の「あるべき姿」であり、人々はそれを守ろうとしたのである(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 8.? 鎌倉幕府が設置した六波羅探題は、「悪党」や狩猟人などが狼藉行為を行うことを禁じた。(『黄微古簡集』)

鎌倉幕府が法律の条文や訴訟の判決書などで使用した「悪党」とは、山賊、強盗、謀反などの国家的犯罪を犯した者のことを指し、そのような罪状で訴えられた者を意味する言葉であった(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・1221年 ホラズムのスルタン,ジャラール ウッディーンは6~70000の兵を率いて、パルワーン平原にて30000のモンゴル軍を壊滅させた。しかし戦利品である馬の分配を巡って将軍たちが対立したことや、トルクメン人が離反したことで、ホラズム軍はインダス川まで撤退した。チンギス カン率いる部隊はホラズム軍を追うが、ジャラール ウッディーンは川を渡ってデリーへと逃れ、モンゴル軍はインダス川を渡るも酷暑により帰還した。

・1221年 冬 モンゴルのチンギス カン,テムジンに招かれ、かつての金の領内より、道教の教主,長春真人丘処機がサマルカンドに到着した。彼は、それまでサマルカンドには10余万戸の住民がいたが、ホラズム朝の滅亡後には四分の一まで減っていたと書き残している。(『長春真人西遊記』)

※25000家族と考えたのなら、それは『世界征服者の歴史』の記す数と一致する(宮脇淳子『モンゴルの歴史[増補新版]』)。

・1223年 モンゴル ウルスの軍は、ルースィの南のステップにてアラン人およびポロヴェツ人と衝突した。

※モンゴルに破れたポロヴェツ人の一部は、ルースィ諸侯に助けを求めた。キエフ大公ムスチスラフなど、南ルースィの諸侯らがキエフにて会議を開き、モンゴルを迎え撃つことを決めた。(『年代記』)

※『年代記』の記す集結した諸侯の中には、ウラディーミル公ユーリーの名はない。

・1223年 4. 南ルースィの諸侯、およびポロヴェツの騎馬部隊が集結した。

・1223年 5. 31 カルカ川にて、モンゴル軍は、南ルースィの諸侯らを破った。

〔参考〕ムスチスラフら6人の公が戦士し、10分の1の兵だけが帰国できたのだという。(『年代記』)

・モンゴル軍はドニエプル川まで追ったものの、東に転進してブルガール人を攻めた。ただ、その攻略に失敗して東に去った。

・1223年 6. モンゴル軍はヘラートを陥落させた。

※60000人が殺害されたと伝わるが、実際は100倍程度誇張されていたと考えられる。イスラーム圏においては、戦争は交渉の一つの手段であり、取引を行いながら進めるものであった。しかしモンゴル軍は無条件降伏のみを要求し、逆らえば殺戮を行った。イスラーム圏では身代金との交換のために大切に扱われる捕虜であっても、降伏を受け入れず抵抗するなら殺害した。虐殺数が誇張されたのは、降伏させるためのモンゴル側の脅しの目的の他に、ムスリム心理的な衝撃が作用していると考えられる(宮脇淳子『モンゴルの歴史[増補新版]』)。

・貞応2年(1223) 11.2 大友(藤原)能直は、妻の深妙に相模国大友郷地頭司職と、豊後国大野庄地頭職を譲った。(「志賀文書」『熊本県史料』中世篇2 P389)

・貞応3年(1224) 6.13 北条(平)義時は死去した。(『吾妻鏡』)

・貞応3年(1224) 6.28 北条(平)泰時と時房は政子と対面し、鎌倉殿の後見人として幕府の政務を行うよう命じた。(『吾妻鏡』)

・貞応3年(1224) 7.17 尼御台所,政子は、三浦(平)義村の邸宅を訪れ、義村が伊賀(藤原)光宗、伊賀方兄妹と組んで、北条(平)泰時を排除しようとしているのか詰問した。義村は政子に詰められ、伊賀方の子息である政村には謀反の意志はないが、光宗は戦闘準備をしていると伝えた。義村は政子に対して、自分が計画を阻止すると誓った。(『吾妻鏡』)

・貞応3年(1224) 7.18 三浦(平)義村は尼御台所,政子に対し、伊賀(藤原)光宗を説得して北条(平)政村を擁立する計画を諦めさせたと伝えた。(『吾妻鏡』)

・貞応3年(1224) 閏7.3 伊賀光季、伊賀方兄妹らの処分が裁定された。参議,一条(藤原)実雅については裁きは朝廷に任せるとし、光季と伊賀方、そして朝行、光重らキョウダイは流罪となった。光宗は政所執事を解任され、所領を没収された。北条(平)政村は関与していないとして、罪を問われることはなかった。(『吾妻鏡』)

・1224年 ルースィ方面に、「タルタル」を自称する、正体不明の部族が到来したと伝えられた。(『ノヴゴロド年代記』)

※当時のモンゴルは、かつての大勢力であるタタルの名で呼ばれることが多かった。それがラテン語で冥界を意味する「タルタルス」と似ていることから、それが誤解を産み、恐怖を増幅させたのである。イスラーム圏のさらに東は、ヨーロッパよりも豊かであるという憧れと、東方は怪物の住む土地という考えは、ヨーロッパに混在していた。その2つの東方の像が、「プレスビテル ヨアンネス」と地獄の民「タルタル」というイメージを生じさせたのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・嘉禄1年(1225) 6.10 大江広元は死去した。(『吾妻鏡』)

・嘉禄1年(1225) 7.11 尼御台所政子は死去した。(『吾妻鏡』)

・嘉禄1年(1225) 11.9 尼御台所,政子の冥福を祈るためとして、伊賀(藤原)朝行、光重兄弟は罪を赦されて相模国鎌倉に帰還した。(『吾妻鏡』)

・嘉禄1年(1225) 12.21 〔参考〕この日以前。鎌倉幕府において評定が設置され、中原師員、三浦(平)義村、二階堂(藤原)行村、その甥,行盛、中条家長、三善康俊、その弟,康連、康俊の甥,倫重、後藤(藤原)基綱、藤原業時、斉藤(藤原)長定が評定衆に任じられた。(『関東評定伝』)

※評定は鎌倉幕府の最高議決機関であり、執権がその頂点、連署がその次の地位にいる。『御成敗式目』の下、合議制と法治主義の政治体制が確立した(細川重男『宝治合戦』)。

※合議制という体制は、北条(平)時政の独裁が廃絶させたが、義時が政権を担った時期から次第に復活していった。評定は義時時代の合議制の拡大である(細川重男『宝治合戦』)。

・嘉禄1年(1225) 12.22 伊賀(藤原)光宗は赦免され、相模国鎌倉に帰還。所領の内8ヶ所を返却された。(『吾妻鏡』)

※承久3年の朝廷軍との戦いにおいて伊賀(藤原)光宗が討死という軍功を挙げたことを鑑みて、伊賀一族を没落してはならないと考えた北条(平)泰時が、光宗ら兄弟の赦免を主張したとも推測される。伊賀一族の赦免は、御家人間の抗争が過去の時代になったことを知らしめたとも考えられる(細川重男『宝治合戦』)。

・嘉禄1年(1225) 12.29 三寅は元服し、藤原頼経を名乗った。(『吾妻鏡』)

・嘉禄1年(1225) 1.? 在京中だった佐原(平)盛連は、友人の邸宅で泥酔し、友人の1人の腕を折り、もう1人に暴行を加え、馬にのって宇治に向かいながら、道中の家屋を破壊して回った。(『明月記』)

藤原定家は『明月記』に「本より酔狂」と記しており、盛連は、アルコール依存症で酒乱だったようである。このような素行不良が原因なのか、盛連は後に鎌倉に戻されている(細川重男『宝治合戦』)。

・嘉禄1年(1226) 1.27 藤原頼経征夷大将軍に任官した。(『吾妻鏡』)

※当時の頼経は9歳である。源頼家は鎌倉殿になってから、任官に相応しい年齢になるまで、3年以上待っている。政権を主導する北条(平)泰時としては、早くに鎌倉殿を征夷大将軍に任官させ、政権の体裁を整えることを優先したのだと考えられる(細川重男『宝治合戦』)。

・1226年 西制に従わなかった、西夏王国に向けて、モンゴル軍は進行した。

・1227年中秋 大夏(西夏)はモンゴルに滅ぼされた。

・1227年 チンギス カンの長男、ジョチは死去した。

・1227年 8.25(18とも) チンギス・カン,テムジンは死去した。

・嘉禄2年(1227) 10.17 松浦党が船で高麗に渡って略奪を働いたことに関して、藤原定家は、日本と高麗が敵対すれば宋との往来か困難になるという懸念を日記に記した。(『明月記』)

朝鮮半島南端から宋に至る海流は、日本の船が「中国」に渡るために使用されていたことが理解できる(新井孝重『蒙古襲来』)。

・嘉禄3年(1227) 5.14 北条(平)時氏は安達(藤原)景盛の娘(松下禅尼)との間に戒寿を儲けた。(『吾妻鏡』) 後の時頼である。

安貞1年(1227) 6.18 北条(平)泰時の子息、時実は、家臣の高橋二郎に殺害された。二郎は捉えられて刑場の腰越で斬られた。(『吾妻鏡』)

※時実が殺害された理由は不明である(細川重男『宝治合戦』)。

・安貞2年(1228) ?.? 道元は宋より帰国し、建仁寺にて『普勧坐禅儀』を著した。(『正法眼蔵』『永平寺文書』)

※この書物は、従来の日本仏教の「贅肉を鉞で殺ぐ」ものであったため、比叡山延暦寺からの攻撃を受け、建仁寺道元を追い出そうとした(松岡正剛『千夜百冊』第998夜)。

・1229年 9.? モンゴルにてクリルタイが開かれ、チンギス・カン,テムジンの三男、ウゲデイが後継に選出された。

※当時、モンゴルには相続における規定がなかった。家督は実力者が、家産は末子が相続において有利であった。しかしカンとなったのは、同母兄弟内の末子のトルイではなく、ウゲデイである。野心があるが人望に乏しいチャガタイが、ウゲデイを支持して、トルイの後継指名を妨害したからとも推測される(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

※ウゲデイは君主号として「カアン」を名乗った。これは唯一無二の君主を意味する称号であり、皇帝に近い(白石典之『モンゴル帝国誕生』)。

※ウゲデイは、君主号として「カアン」を名乗った。他のウルスの長は、「カン」を名乗った。モンゴル ウルスは、1人のカアンの下に複数のカンがいるという、二重支配の構造であった(杉山正明『クビライの挑戦』)。

・1229年 モンゴル ウルスにてクリルタイが開かれ、ウゲデイは亡き兄ジョチ子息たちに西方の攻略を委ねた。

・寛喜2年(1230) 4.12 北条(平)時氏は六波羅北方探題を辞し、相模国鎌倉に帰還した。代わりとして、異母弟,重時が六波羅北方探題となった。(『吾妻鏡』)

・寛喜2年(1230) 6.18 北条(平)時氏は病死した。父,泰時は、時氏の遺児,経時を後継者に定めた。(『吾妻鏡』)

・寛喜2年(1230) 12.9 藤原頼経は、源頼家の娘,竹御所を正妻に迎えた。(『吾妻鏡』)

※頼経と竹御所との間に子息が産まれたなら、幕府の創設者,源頼朝・幕府の守護者,政子夫妻の血統を残し、北条家の血を引く将軍が将来的に誕生する可能性があった。13歳の頼経と28歳の竹御所という年の差の大きい結婚には、そのような周囲の思惑があった(細川重男『宝治合戦』)。

・貞永1年( 1232) 8.10 北条(平)泰時によって、「御成敗式目」が定められた。(『吾妻鏡』)

※『御成敗式目』は「起請」において、その基準は「道理」であると述べられる。この道理というのは、世俗における好ましい理法であり、法や倫理の根拠を神仏以外に求めている(末木文美士『日本思想史』)。

※式目12条は、悪口を「闘殺の基(殺人の原因)」禁じるものであり、重い場合は流罪、軽いものでは禁固刑とされた。また、土地の訴訟の最中に訴訟相手に対して悪口を言えば、土地の全ては悪口を言われた方のものになると定められた。罵詈雑言が飛び交う社会であるために、悪口に対する厳格な規定が設けられたとも考えられる(清水克行『室町は今日もハードボイルド』)。

※式目21条は、妻や妾の離別に関する規定である。女性に落ち度があって離婚する場合は、 夫から譲られた所領の返還が定められるる。男性が若い新妻と結婚するために、古女房と離婚する場合には、与えた所領を取り戻すことはできないとされた。夫側が妻と離婚することはできても、妻側からの提案に関する規定が見えないため、女性側からの離婚が可能であったかは不明である(呉座勇一『日本中世への招待』)。

※式目24条では、未亡人の女性が再婚する場合には、亡夫から譲られた所領を、亡父との間に儲けた子供に引き渡すことを定めている。これは、御家人の所領が、別の家に流出することを目的としている。また同条においては、夫に先立たれた女性が、出家して夫の菩提を弔うことを奨励している。これは、未亡人女性の再婚に対する非難が垣間見えるものであり、父系で継承される「家」への従属が、婚姻した女性に対して求められていたとも考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

※式目34条には、人妻との密通、辻浦(ナンパ)を行った御家人の処罰が定められていることから、当時において、人妻との不倫は非倫理的という観念が成立していたとも考えられる。人妻と密通した御家人は所領の半分を没収され、所領のない御家人は遠流に処されると規定されていた。つまり、間男が殺されることはなかった(呉座勇一『日本中世への招待』)。

武家の興隆によって、律令制崩壊後の「頽廃的風潮」が終わって、人々は「勇気と果断を尊び、倹約と名誉を重んずる精神」を持ち、新たな秩序が形成されたとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

・1230年 ジョチ ウルス軍がヤイク川を越えて西に向かった。

・1231年 モンゴルによる金攻略が開始した。モンゴルの本拠地はチャガタイが預かった。オッチギン率いるモンゴル軍左翼は、遅く進行した。普段は早いモンゴル軍が、緩やかに進行することに怯えた黄河北方の住民は、開封地区に逃れた。こうして開封の人口は過剰になり、金の食料を欠乏させた。

・1231年 モンゴルのカアン,ウゲデイは、中書省を設置した。

※ 中書省とは、カアンの命令を各言語に翻訳し、文書を管理する中央官庁である(宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来』)。

・1232年 1. トルイ率いるモンゴル軍右翼は、金軍約153000と交戦した。

※飢えと寒さで金軍が弱ったところでトルイ軍は反攻し、金軍の主力を壊滅させた。開封では疫病が発生し、90万人以上が棺桶に葬られたという。棺桶は高価であるため、実際はもっと死者は多かったと思われる(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1232年 10. トルイは死去した。(『集史』)

※金滅亡に寄与したトルイは、実力と名声を兼ね備え、オゴデイ、チャガタイ、オッチギンにとって邪魔であった。少なくとも、トルイの死は彼らにとって好都合であった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。