ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

称光天皇の時代

・応永19年(1412) 8.29 後小松天皇が譲位し、躬仁親王践祚した(称光天皇)。(『常永入道記』『山科家礼記』)

・1418年 足利(源)義持は明に帰国する呂淵に使者を随行させた。そして、倭寇に妨害されて明に使者を送れなかったことの由を奏上した。こうして以前と同じように室町幕府の使者はもてなされるようになったが、明の倭寇からの被害はその後も続いた。(『明史』日本)

1419年 チンギス・カン,テムジンの一族である、ウルク ムハンマドサライにて権勢を握った。

※モンゴルでの内紛は拡大し、ジョチ ウルスは分裂した(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・応永25年(1418) 8.13 足利(源)義持は、後小松天皇の側近が、天皇に意見出来ないことを推し量って、彼らが言えないことは、自分から天皇に伝えようと側近たちに述べた。(『康富記』)

※彼は後小松天皇の採決には、時に問題があると理解していた。そこで採決を裏から補佐することで、天皇の体面を守りながらも、より良い政務を行おうとしたのである(髙鳥廉「四代・足利義持」『足利将軍事典』)。

・応永26年(1419) 11.3 足利(源)義持の弟、准三后,義円は天台座主となった。(『看聞日記』)

・応永27年(1420) 宋希璟(老松堂)は、日本と朝鮮の関係修復のために来日した。(『老松堂日本行録』)

※希璟は日本の僧侶の数を、非僧侶の倍はいると記す。これは誇張と思われるが、労働力が不足するのではないかと彼が思うほどの数であったことを物語る。また、遊女や男娼が盛んであることが記され、厳格な性規範を持つ朝鮮の官僚は衝撃を受けたようである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・応永27年(1420) 宋希璟は足利(源)義持に謁見した後に、博多商人が引率する船に乗って帰還することとなった。博多商人は、瀬戸内海の蒲刈を通過する際に、東西の海賊の内、東の海賊の構成員1人に7貫文を支払った。(『老松堂日本行録』)

※当時の海賊は、自身の勢力圏を通る際の安全を保証する代わりに通行料を徴収していた。これは「上乗り」と呼ばれ、全国で見られた風習である(清水克行『室町は今日もハードボイルド』)。

・応永29年(1422) 4.13 伊勢講のために、中原康富の上司、同僚、部下にあたる外記局や弁官局の官人が、講親のもとに集まって精進潔斎を行った。(『康富記』)

※伊勢講(神明講)とは、伊勢神宮に参宮するために複数人で金を積み立て、参宮費用に充てるというものである。それを何年おきかに繰り返すことで、関東からなら往復30日かかる参宮も、参加者は生涯に一度は可能になるのである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1422年以降 チンギス・カン,テムジンの子孫らによるサライの奪い合いは続いた。

・応永30年(1423) 足利学校に付属する療養所の入院に関する規則が定められた。(『学校省行堂日用憲章写』)

足利学校の創設者としては、小野篁や足利(源)義兼なども一説として上げられるが、後世の伝説と考えられる。ただ少なくとも応永30年時点では足利学校は存在していたようである。ただ、どのような内容を教えていたかは不明である(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・応永32年(1425) 2.27 将軍,足利(源)義量は死去した。(『看聞日記』) 死因は「内損(内臓疾患)」とも考えられた。(『薩戒記』)

〔参考〕『日本国語大辞典』によれば、「内損」とは、主に飲酒などにより、胃腸を悪くすることである。

※彼の死因が、アルコールの過剰摂取であった可能性は捨てきれない(髙鳥廉「五代・足利義量」『足利将軍事典』)。

・正長1年(1428) 朴瑞生は朝鮮通信使の正使として来日した。かれは日本の市場において、商人は屋根の下に棚を作り、その上に商品を置いていることを報告した。また、商品の食物を地べたに置く朝鮮は不衛生だとして日本の市場を参考にすることを提案した。また、日本人が入浴好きであることや、農村に水車があることにも着目している。(『朝鮮王朝実録』)

・正長2年(1429) 3.15 足利(源)義宣は、諱の音が「世を偲ぶ」に通じるのが不快だとして、義教に改名した。(『看聞日記』)