ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

明治天皇の時代

・1867年 9.14 Karl Marxは『Das Kapital』1巻を刊行した。

※4篇13章においては、資本主義農業の進歩は、一定期間の土地の豊度を高めるものであるが、永続的土地豊度を失わせると主張される(柄谷行人『世界史の構造』)。

・1867年(和暦慶応3) James Hepbornによる和英辞典『和英語林集成』が横浜にて刊行された。

※当時の日本では、英文と日本語文を組み合わせた活字の組版を作ることができなかったため、上海で組版と印刷が行われた。英語で説明された国語辞典といえるものであり、外国人のために作成されたが、日本人にも使用する者は多かった(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

1871年(和暦明治4) 10.12 日本政府は「姓尸不称令」を公布した。

※これにより、公文書には姓ではなく苗字を用いることが定められた(岡野友彦『源氏長者』)。

・1872年(和暦明治5) 日本の太政官は「学制」を公布した。

※立身出世のために学問が必要であることが説かれており、功利主義的であった。それまで武士と平民は、別々の教育組織で学んでいたが、それが一元化される形となった。均等化という点で、その進歩性が指摘される。(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

1873年(和暦明治6) 3.14 政府は「内外人民婚姻条規」を発布した。(『太上典類』)

※別々の国籍を持った人物同士が結婚した場合、妻が夫に合わせて国籍を変更するという「父系血統主義」的な法律である。これは欧米諸国に追いつこうとする意図を持って制定されたのであるが、外国人男性が「婿養子」として結婚した場合は、その男性は妻に合わせて日本国籍になることが規定されていた。国際法に日本の「家制度」を組み込んだものであり、父親が誰かよりも入った家がどこかを重視する傾向が窺える(與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』)。

1873年(和暦明治6) 3. 文部省は国語教科書『小学読本』を編纂した。

※これはMarcius Willsonの『First reader』の翻訳である。「上の絵の林檎は幾個ありや。今一つを増せば幾個となるや。猶一つを増せば幾個となるや」というように林檎を例に出すなど、直接的に翻訳したことが理解できる。外国のものを取り入れようとする精神の現れとも考えられる。外来文化を過剰なまでに取り入れる性質は、日本の特性とも考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

・1874年(和暦明治7) 劇作者の仮名垣魯文と、浮世絵師の河鍋暁斎は、横浜にて『繪新聞日本地』を発行した。

※「日本地」とは「日本」と「ポンチ」に由来し、ポンチ絵を売り物にした雑誌であった。(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1875年(和暦明治8) 2.13 日本政府は「平民苗字必称義務令」を公布した。(太政官布告第22)

※政府は既に、公文書には姓を除いて苗字を使用することを定めていた。そのため、戸籍に登録した時点で、大江、菅原、藤原といった姓に由来する名乗りであっても苗字になったのである(岡野友彦『源氏長者』)。

・1877年(和暦明治10)3.14or24 野村文夫によって、『團團珍聞』が創刊された。

※この雑誌は政治風刺を得意としていた。また、UKの『Punch』紙から表紙やマンガ表現において強い影響を受けていた。その紙面場において活躍した本多錦吉郎は、『Punch』や『Puck』を参考にして、細密な絵を発表した。その画風は以前にはないものであり、マンガ表現の幅を広げた(清水勲『日本近代漫画の誕生』)。

・1879(和暦明治12) 植木枝盛は『民権自由論』を刊行した。(刊記)

※「自由の権」という概念を日本の人々に伝えることを目的としていた。彼は冒頭において「御百姓様」「御商売人様」「御細工職人様」「士族様」「御医者様」「船頭様」「馬かた様」「猟師様」「飴売様」「お乳母様」「新平民御一統」といった、その概念が最も役に立つ市井の人々に対して呼びかけている(戸田山和久『教養の書』)。

1881年(和暦明治14)頃 唱歌蛍の光」が作詞された。

※Scotland民謡に、故事「蛍雪の功」を元に歌詞が付けられている。「あけてぞけさは、別れゆく」という歌詞の「ぞ」は係助詞であり、「ゆく」と、連体形の係り結びとなっている。当時、実際に日常で係り結びが使われていたわけではない(山口仲美『日本語の歴史』)。

1884年(和暦明治17)頃 唱歌あおげば尊し」が作られた。

※歌詞の最後あたりの、「今こそ別れめ(山口仲美訳:今こそお別れしよう)」の「め」は意志を表す助動詞「む」の已然形であり、「別れめ」に呼応して係り結びを作っている。書き言葉として残っていた古語によって作詞されており、当時、日常で使っていたわけではない(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1887年(和暦明治20) 2.15 Georges Bigotは『トバエ』を創刊した。

※雑誌名は「鳥羽絵」に由来する(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1887年(和暦明治20) 5.? 中江篤介(兆民)は集成者より『三酔人経綸問答』を出版した。(刊記)

※最初は立憲君主制の実現が必要であり、その過程で与えられた「恩寵の民権」を「回復の民権」へと変え、自由、平等、博愛に基づく民主共和制に至るための努力が必要である説かれている(清水正之『日本思想全史』)。

・1887年(和暦明治20) 11. 自由民権運動の呼びかけの後、政府が言論人への弾圧を行ったことに対し、Georges Bigotは風刺画を発表した。

1888年(和暦明治21) 4. 政教社は機関紙『日本人』を創刊した。

※紙上において政教社の人々は「日本民族(大和民族)」という自認を表明した。それは、政府は特定の藩閥ではなく日本人全体のための政治を行うべきであるという意志表明であった(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1889年(和暦明治22) 2.11 「大日本帝国憲法」が公布された。

・1889年(和暦明治22) 2.11 「皇室典範」が制定された。

〔要参考〕『皇室典範義解』は、皇室の「家法」を条定したものであるため、臣民に公布するものではないと述べる。

帝国議会が触れることのできない法律である。何らかの理由で改正する必要があったとしても、帝国議会の審議や協賛は必要ないものであった(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

皇位は皇統に属する男系男子が継承することが定められた。また、18歳以下である場合は皇族が摂政を担うことが定められた。このことから、天皇は成年であることを原則として定めたことが理解できる(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

天皇太皇太后、皇太后、皇后の敬称は「陛下」と定められた。太皇太后を最初に、皇后を最後に記すのは、年齢・世代による長幼の序の序列に従ったからである(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※複数の君主が存在することは政治的な混乱を生じさせると考え、譲位の規定は記されなかった。こうして天皇譲位という制度は否定されることになった(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・1889年(和暦明治22) 11.29 「大日本帝国憲法」が施行された。

・1890年(和暦明治23) 4.21 日本政府は『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』を公布した。(法律第28号)

※苗字のことは法律上「氏」と呼ばれることとなった。政府は苗字と姓を混同していたようである(岡野友彦『源氏長者』)。

・1890年(和暦明治23) 10.7 日本政府は『民法財産取得編・人事編』を公布した。(法律第90号)

・1890年(和暦明治23) 10.30 「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が下された。

※明治政府は、精神・倫理における天皇の伝統的権威を復活させ、国民統合の象徴として、欧州の先進国から植民地にされることを防ごうとした。「大日本帝国憲法」と「教育勅語」によって、その支配体制の内実が規定され、国家・国民の活動は天皇の権威に統合され、同質化が強制された。しかし実際に統治機構を運営したのは各担当者であり、当の天皇は煩雑な手続きと儀式に拘束される機械的で無力な存在であった(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。

・1899年(和暦明治32) 3.16 国籍法が制定された。(法律第66号)

※この法律による外国人の日本国籍取得は、日本人の妻になった場合と、日本人父母に認知された場合、そして日本人女性戸主と結婚して家に入った場合と、日本人の養子になった場合、内務大臣の許可によって帰化した場合である。「国際法」「血統主義」「家制度」を混合して運営していたことが理解できる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1901年(和暦明治34) 9.3 中江篤介(兆民)は東京博文館から『一年有半』を出版した。(刊記)

※「我日本古より今に至る迄哲学無し」と述べて、それまでの日本には「哲学」がなかったことを説いている。彼は、世界把握の認識論と、政治変革のための実践的哲学こそが哲学だと考えていた。そのため彼にとって伊藤仁斎荻生徂徠は古典学者であり、本居宣長平田篤胤は考古学であった。そのため彼の考える「哲学」は日本になかったのである(清水正之『日本思想全史』)。

・1097年(和暦明治40) 1.31 『皇室典範』が公布された。(「勅令六号」)

※『皇室典範義解』が「皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に、公式に依り、之を臣民に公布する者に非ず」と述べるように、本来は公布する予定はなかった(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

・1909年(和暦明治42) 5.19 夏目漱石(金之助)の『三四郎』が春陽堂から刊行された。(刊記)

※主人公の三四郎と、汽車で隣に乗り合わせた「紳士」は、日本が世界に自慢できるものが富士山しかないと嘆く。三四郎日露戦争に勝った日本を「段々発展するでしょう」と予想したが、それに対して「紳士」は「亡びるね」と答えている。漱石日露戦争の勝利に沸き立つ当時の風潮に、日本人の驕りを見ていた(水谷千秋『教養の人類史』)。