ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後花園天皇の時代

・正長1年(1428) 7.28 彦仁王は践祚した(後花園天皇)。(『満済准后日記』『椿葉記』)

・1432年 1. 明の宣宗,朱瞻基は、長い間日本より使者が来ないことを気にもんで、琉球を通してその由を日本に伝えた。(『明史』日本)

・永享4年(1432) 上杉(藤原)憲実は円覚寺より禅僧の快元を招いて庠主とし、足利学校を再興した。

※快元は易学の大家であった。講義内容は儒学が主であったが、特に『易』を学ぶ易学が重視された。合戦においては、吉凶を占うことが必要であったからである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・?年 明の宣宗,朱瞻基の時代のはじめ、室町幕府朝貢に関する取り決めは変えられ、使者の人数は300人以下、船は3艘以下と決められた。しかし日本人には入明の際に私物を言い値で売って利益を得ている者がいた。そこで明側は、払う金銭を、私銅銭21万7000せめて銀3万4700までにすることを決めた。(『明史』日本)

・?年 明に来る日本の使者は、私物を売却した際に払われる金銭が少ないと不満を述べた。そこで明景泰帝朱祁鈺は銅銭1万をさらに追加することを詔した。しかしそれでも使者が少ないと文句を言うので、絹布1500を追加した。それで使者たちは不満ながらも帰国した。

・1432年 ヴァシーリーⅡとユーリーが、どちらがウラディーミル大公になるか、カンのウルク ムハンマドに委ねた。ユーリーはヴァシーリーⅠの遺言状を根拠としたが、ヴァシーリーⅡはツァーリーたるウルクの意志を尊重するとした。ウルクは大公位をヴァシーリーⅡに与えた。

・1433年 夏 足利(源)義教が明に使者を派遣した。明は使者に白金と模様付きの絹を贈った。(『明史』日本)

・1433年 ユーリーはモスクワを陥落させ、ウラディーミル大公に即位した。

・1434年 モスクワを追われたヴァシーリーⅡは、大ムハンマドの支配するサライに向かった。

※大ムハンマドはヴァシーリーを支えていたことがわかる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1434年 ウラディーミル大公ユーリーは死去した。

・1436年2月 明の英宗,朱祁鎮が即位した際に訪れた室町幕府の使者が帰国する際、改元に合わせて再び勘合貿易を開始することが決定した。(『明史』日本)

・1437年 小ムハンマドは大ムハンマドサライから放逐した。

・1437年 モスクワはクチュク ムハンマドをカンと認め、ウルク ムハンマドを討伐するための軍を派遣した。

・1438年 イタリアにてフェララ フィレンツェ公会議が開かれ、ローマ カトリック教会とギリシア正教会の再合同について議論された。

※東ローマはオスマンからの侵攻に悩まされており、西方に支援を求めていた。ローマ教皇座はその条件として、コンスタンティノープル教会を、ローマ カトリック教会に吸収することを提案した。

・永享11年(1439) 上杉(藤原)憲実は『尚書正義』、『毛詩註疏』、『礼記註疏』、『春秋左伝註疏』といった、それぞれ『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の注釈を、金沢文庫から足利学校に寄付した。

・1439年 ウルク ムハンマドはモスクワを攻めた。

・1442年 ニジニ ノヴゴロド諸公に対し、ウルク ムハンマドは旧支配地域を支配する勅許を与えた。

・1444~1445年 ヴァシーリーⅡはウルク ムハンマドを討伐するために遠征を行ったが、スズダリ近郊にて敗北し、ヴァシーリーⅡは捕虜となった。

・文安2年(1445) 筑前国人の麻生(藤原)弘家は、機内に「年貢米五百斛内弍百石雑具等」を運ぶために、船で九州から兵庫まで輸送した。(「麻生文書」『九州史料叢書』17)

・1445~1446年 カン位を争っていたフダイダトの子息ベルデダトは、ヴァシーリーⅡに仕えた。

※その後、相続争いで敗れたチンギス・カン,テムジンの一族らがモスクワに亡命するようになる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1446年 2. ドミトリー シェミャカはヴァシーリーⅡの目を潰した。

・1446年 朝鮮の世宗,李裪は、ハングル文字を頒布した。

※ハングル文字は、大元ウルスのパクパ文字から作成されたものである(岡田英弘「中央ユーラシア、世界を動かす」『岡田英弘著作集 Ⅱ』)。

・文安3年(1446) 上杉(藤原)憲実は足利学校の規則「学規三条」を定め、『三注』『四書六経』『列子』『荘子』『老子』『史記』『文選』以外は講義を行わないことに決めた。

※憲実は講義内容を儒学関連に限定し、仏教色を排したのである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1447年 ヴァシーリーⅡがウラディーミル大公に即位した。

・1447年 大ムハンマドの子息マフムドは、ムロムとウラディーミルを攻めて荒廃された。

・文安5年(1448) 1.1 権大外記,中原康富は、家中にて新年を祝った後に、上司である局務大外記,清原業忠の邸宅を訪れて挨拶をした。(『康富記』)

※清原家は、康富の出身である中原家が代々仕えていた。これは年始の挨拶であり、朝廷の官人は元旦から仕事に動いていたことが理解できる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・文安5年(1448) 1.? 少弐(藤原)教頼は大内(多々良)教弘と争い、筑前国博多を焼き討ちした。(『宗氏世系私記』)

※大内家が筑前国守護職を奪取したことが争いの原因である(佐伯弘次「中世博多の火災と焼土層」『法哈噠』3 所収)。

・1448年 東ローマが、ローマ カトリックのもとで、コンスタンティノープル教会が再合同されることに同意し、ファララ フィレンツェ公会議は終了した。しかしこれはモスクワでは受け入れられなかった。

・1448年 全ルースィ府主教区の主教が集まり、リャザン主教ヨナを全ルースィの府主教に選出した。

※これにより全ルースィ教会は、人事などの世俗的なものを含めた、東ローマおよびコンスタンティノープル教会との繋がりを失った。そのため全ルースィ教会が頼れるのは、モスクワのウラディーミル大公ヴァシーリーⅡと、リトアニアのカジミエラスとなった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・宝徳3年(1451) 9艘の遣明船が出発した。(『笑雲入明記』) 397500斤の硫黄、157500斤の銅、106000斤の蘇芳、9500振の太刀、417振の長刀、1250本の扇、634色の蒔絵物などが輸出のために積まれていた。(『大乗院日記目録』)

※この派遣は、天龍寺の再建資金の調達を目的として企画された。しかし、幕府の財政悪化のために自前の船を造ることができず、諸勢力に勘合をばらまいて、勘合礼金を獲得しようとした。これが、これが、大内家が大明との貿易に参入する端緒であった。最大の輸出品は硫黄であり、自領に硫黄鉱山がある大友家以外は、島津家からの供給に頼っていた。大友家の優位性を物語る。(橋本雄「遣明船と遣朝鮮船の経営構造」『遥かなる中世』所収)。

※少弐家と大内家の争いで博多が焼かれていたため、博多商人にとっては復興の良い契機であった(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』)。

・1451年 サイイド アフメドはモスクワを攻めた。ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡと子息イヴァンは都から逃れ、モスクワは炎上した。その後、市民の防衛団が形成されると、モンゴル軍は撤退した。

※その後、サライ方面のモンゴル勢力からの脅威は少なくなったため、ヴァシーリーⅡはドミトリー ミェシャカへの攻勢を強めることになる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1452年 ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡは、ドミトリー ミェシャカの籠るウスチュグを攻めた。ドミトリーはノヴゴロドに逃れ、そこで受け入れられた。

リトアニアとモスクワに挟まれたノヴゴロドは、ドミトリーを受け入れたのである(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1453年 ?.? とある日本人が貢ぎ物を持参したとして入明したが、臨清まで来たところで住民から掠奪した。それを問い詰めた隊長は殺されかけた。役人は処罰を求めたが、明の代宗,朱祁鈺は、遠い国からの信用が無くなることを恐て見逃した。(『明史』日本)

・宝徳3年(1453) 8.28 毛利(大江)熙元は、子息の豊元に全ての所領を譲った。女子には一期分を与え、熙元の男子は豊元が「扶持」するよう命じた。(「毛利家古文状」)

※兄弟は新たな家督に仕え、女性は一期分(一代限り)の所領が与えられた。他家に嫁げば化粧料として所領が与えられるのだが、本人の死後は、その女性の実家に返還される。他家に所領が流出するのを防ぐためである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1453年 ドミトリー ミェシャカは毒殺された。

※ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡが殺害したという噂や、ノヴゴロド貴族が殺害したとの噂が立った(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1453年 オスマン東ローマのコンスタンティノープルを制服した。

※これにより、オスマン帝国ローマ帝国の後継の正統性を得たともいえる(岡本隆司『世界史序説』)。

・享徳3年(1454) 関東において、「鎌倉年中行事」が制作された。

鎌倉公方の誕生日に、祈祷や酒宴などを行うことが記されている。また、本当の誕生日(正誕生日)と同じく、毎月の誕生した日も祝われている。これは月命日に対応しており、仏事だったという推測もある(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1456年 1. ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡは、ノヴゴロドを攻めた。ノヴゴロドは敗北し、賠償金の支払いや、ノヴゴロドがウラディーミル大公の相続地であることを定めたヤジェルヴィツィ条約が結ばれた。

※これにより、ウラディーミル大公はノヴゴロドの上級支配権を持つことになった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1457年以降 朱祁鎮が重祚した時代のはじめ、足利(源)義政は使者の非礼に関して謝罪の使者を明に派遣しようとした。ただ、直接明の皇帝に会わせるのをはばかって、朝鮮王を通して明に報告した。(『明史』日本)

・1458年 全ルースィ府主教区の内、リトアニアに属する部分には、ローマ教皇の支援を受けて、新たな府主教座が置かれた。

※これにより、モスクワの府主教はリトアニアにも頼れなくなり、モスクワの大公への依存を強めた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1458年 全ルースィ府主教区の内、リトアニアに属する部分には、ローマ教皇の支援を受けて、新たな府主教座が置かれた。

※これにより、モスクワの府主教はリトアニアにも頼れなくなり、モスクワの大公への依存を強めた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・長禄3年(1459) 雲章一慶は『勅修百丈清規』の講義をはじめた。

※ 『勅修百丈清規』とは、大元Mongγol Ulusにて定められた禅宗寺院の規則である。日本の禅宗寺院はこの規範を受容しており、禅僧の必須知識であった。彼は原文の内容だけでなく、東福寺領における荘園経営の実体験も語った。それは、荘園の実務に携わる東班衆も講義を聞いていたからであり、生活全てが修行だという禅宗実学志向の強さを示している(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1462年 ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡが死去し、子息がイヴァンⅢとしてモスクワ公となった。

・1463年 モスクワ大公国はロストフ公国を併合した。