ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後宇多天皇の時代

・文永11年(1274) 1.26 亀山天皇の譲位により、世仁親王践祚した。(『帝王編年記』) 九条(藤原)忠家は摂政に任じられた。(『増鏡』)

・文永11年(1274) 10.3 Mongγol・高麗連合軍は、合浦を出発した。(『高麗史』)

・文永11年(1274) 10.3 対馬国にて、日本人とMongγol人が合戦に及んだ。(『帝王編年記』)

〔参考〕『関東評定衆伝』には、対馬国に到来したのは5日とある。

国分寺周辺の国分を占領したのが5日とも考えられる(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

・文永11年(1274) 10.11 〔参考〕『高麗史節要』によれば、高麗軍は壱岐に到来したという。

・文永11年(1274) 10.14 高麗軍は壱岐にて日本人と合戦に及び、対馬国守護代を討ち取った。(『一代要記』)

・文永11年(1274) 10.16 〔参考〕『八幡愚童記』によれば、この日と翌日、平戸、能古、鷹島辺りの多くの男女を捕らえたという。また、松浦党を破ったという。

※『八幡愚童記』は編纂史料集『伏的編』に収録されているが、Mongγol軍が鷹島を攻撃したとの記録は他にない。大宰府を目標とした軍が平戸を迂回することは不自然であることから、信憑性に疑問が呈される史料である(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

・文永11年(1274) 10.20 日本軍とMongγol・高麗連合軍は交戦した。肥後国御家人竹崎(藤原)季長は彼含め5騎で従軍していた。(『蒙古襲来絵詞』)

※季長は一族間の裁判に敗れて所領を失っていた。そのため歩兵を連れてくる財力がなく、姉婿の三井資長を含めた4人の騎兵で従軍したのだと思われる。郎党の藤源太資光や旗指の資安は、諱に「資」とあることから、季長は1部隊も編成できず、資長の部隊に参加する形だったとも推測できる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・文永11年(1274) 10.20 竹崎季長は敵陣のある鹿原に突撃を行った。旗指の三郎二郎資安は落馬、季長ら3騎は負傷し、季長の馬は射られた。そこに白石通泰が100以上の援軍で駆けつけたため、Mongγolは撤退した。(『蒙古襲来絵詞』)

〔参考〕『八幡愚童訓』によれば、日本の武士は名乗りを挙げて1騎ずつ前に進んだが、そこをMongγol軍に集団で包囲して殲滅していったのだという。

※合戦において名乗りを上げる行為は、自分が名乗ることで敵に名乗らせ、名のある武士を探すためのものであった。言葉が通じないMongγol兵に対して行っても意味は無い。そのため『八幡愚童訓』の記述は現実味がないことが指摘される(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・文永11年(1274) 10.20 〔参考〕『八幡愚童訓』によれば、この日の夜の内にMongγol・高麗連合軍は撤退したという。

※『堪仲記』11月6日条には逆風により「凶賊」が本国に帰ったとあることや、『高麗史』に「遇大風雨」とあることから、別の日の出来事が混合され、風のために1日で撤退したと考えられた。また、『八幡愚童訓』は八幡神の偉大さを喧伝するために記されたのであり、「筥崎の神」がMongγol軍に打撃を与えたなど、荒唐無稽な逸話が語られることから、史料的価値を疑う見解がある(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

※Mongγol軍を倒したのは八幡神であると主張するために、日本の武士は活躍しなかったように記されているのだと考えられる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・文永11年(1274) 10.24 Mongγol軍は大宰府に到来した。鎌倉幕府軍はそれと交戦し、勝利した。(『関東評定伝』)

・1274年 10.? 〔参考〕『元史』日本条によれば、Mongγol・高麗連合軍は日本軍を破るが、矢が尽きてしまい、統制を失ってしまったため、付近を掠奪しただけで帰還したという。

〔要参考〕『堪仲記』11月6日条には、逆風が吹いて船は本国に帰り、残った船にいた50人以上は式部大夫,大友(藤原)頼泰が捉えたとある。

※都に伝えられた日から逆算して、Mongγol・高麗連合軍の撤退は29日頃と考えられる。この月日には北部九州に台風が来るとは考えられず、「逆風」というのは、寒冷前線による異常気象であると推測される。冬になれば北風が来るため帰国が困難となる。そのため連合軍は大風を口実として撤退したのだと考えられる(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

※Mongγolは宋を攻める予定であったため、宋と海上通交を行う日本を威嚇する目的で遠征したとも考えられる。そのため、Mongγolの実力を示すことさえ達成したため撤退したという見解もある(杉山正明モンゴル帝国の興亡〈下〉』)。

※Mongγol軍は日本の戦力を過小評価しており、一度強い攻撃を加えれば屈服させることができると思っていたとも推測される。総司令官が撤退を決めていることから、目的の達成ができていなかったものの、予想以上の抵抗をされ、犠牲を増やさないために撤退したとも考えられる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

※日本が中緯度で適度な雨量があり、土地の生産力が高いことから、それらの敵軍に対応できるほどの実力を蓄積できたとも考えられる(梅棹忠夫「文明の生態史観」)。

・文永11年(1274) 11.1 北条(平)時宗と義政は連署にて安芸国守護,武田(源)信時宛に関東御教書を送り、安芸国の地頭御家人と本所一円地住人を指揮して、大元からの攻撃に対処するよう命じた。(「東寺百合文書」)

※「本所一円地住人」とは、荘園を現地で管理する荘官のことを指す。彼らは荘園領主から預所や公文に任命されており、鎌倉幕府に従っているわけではない。鎌倉幕府荘園領主に圧力をかけて動員を行ったようである。鎌倉幕府は本所一円地住人を指揮する権限を獲得したものの、恩賞を与える義務を負うこととなった(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・1275年 2. 礼部侍郎の杜世忠、兵部侍郎の何文著、計議官のサトウルテン(チェドゥ ウッディーン)が大元ウルスの使者として派遣された。しかし国書に対する日本の返答はなかった。(『元史』)

・1275年 3. クビライは次男,チンキムを皇太子とした。

※チンキムは華北の政務を行った。クビライの三男,マンガラは安西王として、クビライの旧領,陝西の京兆を与えられた。四男のノムガンは北平王としてゴビ以北の抗原を統治し、千戸群を束ねた。クビライの権限は、この3兄弟がクビライ政権の格を担った。クビライの庶子である西平王,アウルクチはティベット方面、同じく庶子雲南王,フゲチは雲南・大理地方を統括した。クビライの嫡子はカアンに準じる地位になったが、庶子の格はそれより低く、嫡系の兄弟を補佐する立場にあった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

改元とともに、形式上の漢化が見られる(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・建治1年(1275) 8. 大元からの使者が相模国鎌倉を訪れた。(『鎌倉年代記裏書』)

・建治1年(1275) 9.7 大元から攻められないためとして、大元からの使者は鎌倉幕府の命によって処刑された。(『鎌倉年代記裏書』)

・1275年 ジョチ ウルスの軍が、クルスク周辺で掠奪を行った。

・1276年 ウラディーミル大公ドミトリーは、弟たちに土地を分割して与えた。アンドレイはゴロジェツを、モスクワをダニールが手に入れた。

※こうした行動は、競合する他のリューリク家門に対抗するためである(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1276年 大元ウルスは南宋を接収した。

※北と南で言語・文化・習俗などが異なっていた中国を、大都と杭州は核となって、経済や文化活動の中心となってゆく(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・建治3年(1277) 12.1 北条(平)時宗の子息,幸寿丸が元服し、諱を貞時とした。(『建治三年記』)

※貞時は将軍より偏諱を賜ることがなかった。貞時の「貞」は、北条家の祖先に位置づけられる、平貞盛に由来するとも推測される。藤原摂関家では、かつて隆盛を誇った時代の祖先の諱に使用された19文字を、男子に付けることがあった。そのため、北条家においても、祖先の諱に使われた文字を男子の諱に付ける発想があった可能性が指摘される(細川重男「さだたか」『論考 日本中世史』所収)。

・弘安2年(1279) 7.25 藤原兼仲はこの日、「日本これ危うし」と日記に記した。(『勘仲記』)

※当時の社会に、外的襲来に対する恐怖が高まっていたことを象徴している(森茂暁『後醍醐天皇』)。

金沢文庫の所蔵する「日本図」は龍が日本を取り囲むようにして守っている図案の絵画である。大元から侵略されるという緊張感や、対外戦争において非御家人まで動員された「挙国一致」的情勢が背景にあったと考えられる。また、自国「日本」の範囲が理念上規定されていたことを示すものであるとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

・弘安3年(1280) 2. 日本は杜世忠を処刑した。(『元史』日本)

・弘安3年(1280) 7.14 日蓮は妙一女という人物に書状を送り、自分の門弟は万事を差し置いて即身成仏を旨とするよう説いた。(『妙一女御返事』)

日蓮は、天台宗由来の密教の影響を受けており、即身成仏を強調するといった特徴がある(中村元『日本人の思惟方法』)。

・弘安4年(1281) 5.26 忻都、茶丘、金方慶の率いる高麗軍は、「日本世界村大明浦」に到来した。(『高麗史節要』)

〔参考〕『異称日本伝』は「日本世界村大明浦」を志賀島であると比定した。

〔参考〕陶山訥庵の『津島紀略』は、対馬国ではあるが、どこのことかは不明とした。別人による、頭注は「世界」を「佐賀」の訛りであると説明した。

※『津島紀略』の頭注は根拠に乏しく、高麗軍が上陸したのは志賀島であると考えられる。日本軍が防衛していたのは博多周辺であり、志賀島は手薄であったために占領されたのだと考えられる(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

・弘安4年(1281) 6.6 志賀島に駐屯していた大元・高麗の東路軍に対して、船に乗った日本が夜半に来襲した。高麗軍は船に乗って日本軍と交戦した。暁に日本軍は撤退した。(『張成墓碑銘』)

〔要参考〕『壬生官務家日記抄』の6月16日条は、海上の合戦にて、日本軍は敵の船3艘を討ち取ったという。

※この季節の博多湾は、深夜1時前後に満潮となる。日本側は夜襲を多様しており、潮が緩やかになるころに撤退したのである。京都に情報が伝わる日を推測すると、『壬生官務家日記抄』の内容も同時期と思われ、兵員の少ない船を拿捕したものと考えられる(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

・弘安4年(1281) 6.8 張成率いる高麗軍は、要地を占領して日本軍を退けた。(『張成墓碑銘』) 金方慶の軍は日本軍の兵300を斬首した。(『高麗史』) 豊後国御家人,右田能明とその配下の下人は傷を負った。(『右田文書』12月2日付)

・弘安4年(1281) 6.9 洪茶丘率いる高麗軍部隊は日本軍に敗れた。(『高麗史』)

※日本軍は志賀島の奪還には失敗した。高麗軍への勝利の過大評価が、敵軍が志賀島に上陸できなかったという風説の流布の原因とも考えられる(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

・弘安4年(1281) 閏7.1 台風が起こり、鷹島に碇泊していた大元・高麗連合軍の艦船は破壊され(『元史』日本 相威『張成墓碑銘』)、多くの兵が溺死した。(『高麗史』) 同日夜には台風が山城国京都に至り、夜通し風雨が止まなかった。(『勘仲記』)

※海底から発見された連合軍の船には、多くの釘が打ち付けられており、老朽化した船に補強外板を打ち付けて補修していた可能性がある。また、帆船の安定性を保つために多くの石が積まれていた。そのため、破損・沈没する可能性は高かったのだと考えられる(服部英雄『蒙古襲来と神風』)。

1281年8.5 兵卒,干閶の報告によれば、范文虎ら諸将軍は、各々が勝手に、残った船の内頑丈なものを選んでそれに乗り、部下たちを見捨てたのだという。残された者たちは張百戸という人を指揮官として、木を切って船を作り帰還しようとした。(『元史』日本)

1281年 8.7 大元・高麗連合軍の残党の元に、日本軍があらわれ戦闘となり、連合軍は壊滅した。生き残った2万~3万人は捕虜にされた。(『元史』日本)

1281年 8.9 日本人が八角島に来て、モンゴル人、高麗人、大元の漢人を皆殺しにした。宋人は唐人と呼ばれ、奴隷にされた。(『元史』日本)

1281年 8. 遠征軍は大元に帰還した。遠征軍の生き残りは、万戸の厲徳彪、招討王国佐、水手総管,陸文政が逃亡したことと、残った兵を解散させて故郷に帰還させたことを使えた。しかしその報告は、帰国した兵卒干閶によって嘘であったことが判明する。(『元史』日本)

・1281年 アンドレイの要請で、モンゴル軍は北東ルースィを襲撃し、ウラディーミル大公ドミトリーをノヴゴロドに逃亡させた。

・弘安5年(1282) 12.8 北条(平)時宗円覚寺を建立した。(『鎌倉五山記』)

円覚寺舎利殿は、宋の禅宗寺院の建築様式「唐様(禅宗様)」を採用した(田中卓『教養 日本史』)。

・1282年 アンドレイは再びモンゴルの兵力を呼び込んだ。

・1282or1283年 ドゥアがチャガタイ家の当主となった。

※これはオゴデイ家のカイドゥの後押しを受けてのものである。こうしてオゴデイ家の下にドゥアを中心としたチャガタイ一門が位置することで、中央アジアは安定した。チュベイらは東方にて勢力圏を築いた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。ムバーラク シャーはフレグ ウルスに亡命し、カズニーン地方にてニークダーリヤーンの長となった(『集史』)。

・1283年 大元は再び日本遠征を計画した。しかし淮西宣慰使,アンキルが、民が疲弊していると上奏したことで中止された。(『元史』日本)

・1284年 日本は仏教が盛んということで、大元は王積翁と普陀山の僧侶如智を使者として派遣しようとした。しかし船団の中には日本に行くのを嫌がる者たちがいて、その者たちが王積翁を殺害したことで取りやめとなる。(『元史』日本) 

・弘安7年(1284) 4.4 北条(平)時宗は死去した。(『勘仲記』)

・弘安7年(1284) 5.20 安達(藤原)泰盛は、徳政の綱領として38ヶ条の『新御式目』を発布した。(『新御式目』)

※こうして弘安徳政が開始した。北条(平)時宗の死去から発布までの期間の短さから、時宗の生前から計画されており、泰盛は時宗の案の実行を望んだのだと考えられる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・弘安7年(1284) 7.7 北条(平)貞時は執権となった。(『北条九代記』)

※貞時は14歳で執権となった。実務経験のない貞時を執権にしたことからも、形式だけでも整える必要に迫られた、鎌倉幕府中枢の危機感を伺わせる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・弘安7年(1284) 9.10 鎌倉幕府の『御成敗式目』に追加法562条が加えられた。

※これにより、非御家人の武士であっても、先祖や本人が御家人としての務めを果たしたことが、守護などの文書から証明できるのならば、御家人として認可することが定められた。これは、対Mongγolの戦争において、軍事動員された、西国の本所一円地住人の鎌倉幕府内における処遇を決めるためのものであった。こうして全ての武士は幕府の管轄下に包摂された。全国の武士を鎌倉幕府に取り込んで、武士たちの求めに迅速・的確に対応するために、守護や探題の支配権を強化することを狙ったのである(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・1284年 ウラディーミル大公ドミトリーは、将軍ノガイに要請して、弟アンドレイを攻めさせた。

・弘安8年(1285) 11.17 安達(藤原)泰盛は平頼綱に攻められ、一族とともに自害した。(『北条九代記』『鎌倉大日記』) 上野国武蔵国御家人も、報告できないほどに多くの者が自害した。(熊谷直之所蔵『霜月騒動聞書』)。

※安達家は上野国武蔵国御家人を従者化させており、上野国世襲分国のようになっていたことが理解出来る(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

※中央集権的な機構の利益を享受する特権的支配層からすれば、泰盛の進める御家人制の改革は、その権益を侵害されるものであった(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・1285年 アンドレイはサライより軍を呼び込んだ。

・弘安10年(1287) 5.25 鎌倉幕府は『御成敗式目』の追加法609条を発布した。祖父母の下文があれば、所領を持っていなくても御家人を認めるというものである。

※この追加法は、当時御家人を僭称するものが横行していたのが制定の理由である。そのような事態を防ぐために、御家人を、源頼朝の時代に御家人になった者に限定したのである(細川重男『頼朝の武士団』)。

※異国警固のための本所一円地住人への軍事動員の要請、および恩賞給与は続いたものの、安達(藤原)泰盛の進めた、本所一円地住人の御家人化は否定された形になる。平頼綱一派としては、泰盛の進めた政策は、御家人制を破壊する「悪」の行為を見なしたと考えられる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・弘安10年(1282) 9.26 鎌倉幕府からの使者である佐々木京極(源)宗綱は、関東申次,西園寺(藤原)実兼に対して、将軍,源惟康親王にすることを要請した。(『実躬卿記』)

・弘安10年(1282) 10.4 伏見天皇親王宣下により、源惟康親王となった。惟康親王は右近衛大将を辞し、代わりに源通基が任じられた。(『勘仲記』)

・弘安10年(1282) 10.12 鎌倉幕府の使者,佐々木京極(源)宗綱は西園寺邸を訪れ、皇太子,熈仁親王皇位継承を要求する書状を提出した。(『勘仲記』)

※これは平頼綱による譲位の強制であった。頼綱は持明院統に接近し、朝廷の権威を背景に、その権力基盤の強化を望んだ。大覚寺統よりも不利であった持明院統は、強く後援される形になった(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。