ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後鳥羽天皇~仲恭天皇

壇ノ浦の戦いの同年の文治元(1185)年、源義経平宗盛・清宗・能宗を都に送還。3人は処刑された。捕虜となった平重衡は、焼き討ちされた東大寺の衆徒の強く要求して引き渡され、処刑された。

朝廷は高野山の高僧重源を大勧進に任じて、勧進上人たちによって東大寺再建のための費用が集められた。宋から工人の陳和卿を招くなどして技術者を集めた。

大仏殿の再建には「大仏様」という建築様式が用いられた。

  東大寺の再建には奈良仏師の一派である慶派が活躍した。東大寺南大門には運慶・快慶・定覚(運慶弟)・湛慶(運慶の長男)らによって金剛力士像が造立された。他にも運慶はインドの僧侶アサンガ(無著)・ヴァスバンドゥ(世親)兄弟などの像を作成した。運慶の四男康勝は空也の像を作成している。

八咫鏡は入れ物とともに浮いてきたため回収されたが、草薙剣は海中を捜索しても見つからなかった。そのため、草薙剣の本体がある熱田神宮は新たに形代(分身)とされた剣を献上した。こうして再び三種の神器は朝廷の元に戻った。

壇ノ浦の戦いにおいて、義経は頼朝の望む安徳天皇三種の神器の奪還よりも、後白河院の望む速急の平家追討を優先したことは、義経に対する不信感を抱かせた。それだけでなく義経御家人の支持も失っていった。頼朝は自身の政権運営において後白河院義経を取り込むことを警戒。兄弟仲は険悪になった。また、鎌倉に赴くことを拒否していた行家の討伐を義経は頼朝より命じられたが、梶原景時の子景季は病気を理由に断ったとの由を伝えたことで、それを頼朝は仮病と判断し、行家とともに義経を討伐することを決定した。

頼朝は後にも、自身に無断で任官した御家人を激しく非難している。無断での任官を禁じることで、政権が外部の影響により瓦解することを防ごうとした。

義経と叔父の行家は、後白河院より四国の武士を統率する権限を与えられ、頼朝追討命令を下された。

しかし、多くの武士は頼朝に臣従して義経に従わなかったために孤立、奥州の藤原秀衡の元に逃れた。義経の愛人静御前が身篭っていた子どもは男児であったため、処刑された。

頼朝は、朝廷の権威を正当性の根拠としながらも、御家人は直接朝廷と結びつかない政権を作り上げていった。その統治機構には自身に近しい御家人や公家が任じられた。

公文書の管理などを行う「公文所」を設け、その別当(長官)には下級公家大江広元が、令(事実上の副官)には頼朝の母方の親族である南家貞嗣流二階堂主計允藤原行政が任じられた。他には広元の従兄弟で義兄(どちらも外祖父中原広季の養子)の藤原親能、藤原邦通、大中臣秋家などが公文所にいた。

同年に設置された、訴訟を取り扱う「問注所」の執事には三好康信が抜擢された。

以前に設置された、警察権と軍事を担当し、御家人を総括する侍所の別当には和田義盛が任じられていたが、不適格とされたのか後に解任され、梶原景時が新たな別当となる。

頼朝は、北条時政に軍勢を率いさせて、後白河院が追討命令を出したことに抗議、義経と行家を討つための権限を与えることを要求した。

後白河院はそれを承認。五畿内・山陰・山陽・南海・西海の諸国は頼朝の配下に与えられることが決定。追討命令の撤回は撤回され、荘園や公領から兵粮米を徴収し知行する権限を得て、在庁官人の人事権を掌握した。

これにより、後の守護・地頭制の基盤が成立した。

守護には東国の御家人が任命され、大番催促・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕という大犯三箇条の任務を受け持った。

北条時政は京都代官となって義経捜索を続けていたが、義経の勢力が弱まる中で兵糧米徴収の強引さなどに批判が集まり、地頭職を返還した。代わりに都には京都守護が置かれ、頼朝の同母妹坊門姫の夫、頼宗流一条藤原能保がそれに任じられて都の警備と御家人の統括を行った。

惟宗忠久は、薩摩国大隅国日向国の守護となって薩摩国の荘の名前から島津を苗字としたように、有力御家人には複数の国の守護になることもあった。

  藤原(中原)親能の養子の(藤原北家秀郷流近藤氏出身か)能直は豊前・豊後の守護となり、大友氏の祖となる。

忠久と能直は、後年どちらも頼朝の落胤説が唱えられた。

地頭にも御家人が任命され、年貢を徴収荘園領主国衙への納入すること・土地の管理・警察権を行使しての治安の維持の任務を受け持った。

  頼朝は朝廷政治を改革し、九条兼実を内覧に任じることを要請した。頼朝はかつて平家と親しかった近衛基通や義仲と結託したことがある松殿基房よりも、九条兼実を重用した。後白河院は摂政の基通と内覧の兼実が協調して政治を行うことを構想しており、頼朝と利害も一致していた。

一条能保と坊門姫の儲けた娘は九条兼実の子良経に嫁いだことで、頼朝と兼実はさらに強く結びついた。

能保と坊門姫の娘の1人が嫁いだ閑院流藤原公経は、北山に建立した寺院の名称から西園寺を家名とした。事実上の西園寺家の祖である(系譜上での初代は3代前の藤原通季である)。

文治2(1186)年、摂政ではなく内覧になったことに兼実は不満を覚え、また基通も兼実の権勢が強まることに反発して政務を放棄した。朝廷政治が滞ったところで、頼朝は兼実を摂政に任じることを要求。後白河院は基通を摂政から外し、新たに兼実を任じた。同時に藤氏長者の地位も兼実に渡った。

同年、源行家は頼朝の追討を受けて討死した、

文治3(1187)年、義経は奥州の藤原秀衡の元に匿われていることが判明した。頼朝は東大寺毘盧遮那仏像の塗金用の砂金を要求するなどして圧力を掛けたが、秀衡は断った。その後も緊張関係は続くが、秀衡の勢力を警戒した頼朝はすぐに奥州藤原氏を攻めることはしなかった。

同年秀衡が、義経を主君として頼朝からの攻撃に備えることを遺言して死去。正妻の藤原信頼の娘が産んだ次男泰衡が跡を継いだ。泰衡の異母兄国衡は、泰衡の母と再婚することで義理の親子となった。

文治4(1188)年、東海・東三道の国司や武士に対して、義経追討の宣旨が出された。泰衡は義経引き渡しを要求されたが、返答しなかった。

翌年、藤原泰衡義経を引き渡すことを朝廷に伝えたが、それまで義経を匿っていた泰衡を頼朝は信用しなかった。頼朝は泰衡討伐の許可を得ようとするなど圧力をかけると、泰衡は義経のいた衣川館を襲撃した。義経は妻子を殺した後に自害する。

それでも泰衡討伐の動きは止まることはなく、朝廷の許可を得ぬままに計画は進行した。奥州藤原氏河内源氏の家人であり、謀反を起こしたために討伐するとして正当化した。家人という扱いは、源義家にたいする藤原清衡の立場のことである。旗の寸法は前九年の役源頼義と同じくするなど、河内源氏に連なる先祖を意識したものになった。

逃亡した泰衡は家人の河田次郎によって殺害されて奥州合戦は集結した。泰衡の首は安倍貞任と同様に釘で打ち付けられた。

これにより奥州平泉で栄華を誇った奥州藤原氏は滅亡した。

この合戦で功績のあった藤原朝宗は、陸奥国伊達郡を賜り、伊達を苗字とする。伊達氏の常陸入道念西(朝宗のことか)の娘大進局は頼朝の妾となって男児を産んだ。その子は北条氏の立場もあって出家、貞暁と名乗る。

文治5(1189)年、武田信義の三男板垣兼信が地頭職を解任されるなど、一条忠頼の謀殺に続いて甲斐源氏武田氏が大きな打撃を被った。以降板垣氏は武田氏の家臣として存続する。

後白河院と関係を修復した頼朝は、建久元(1190)年に右近衛大将になった。

後白河院崩御後の建久3(1192)年、頼朝は征夷大将軍に任じられる。同年に頼朝と政子との間に男児千幡が産まれた。後の実朝である。これもまた同年、北条義時は既に長男泰時が産まれていたが、比企尼の子朝宗の娘姫の前と結婚した。間には朝時・重時などが産まれる。

幼年の後鳥羽天皇を補佐するために九条兼実は摂政となった。

後の世に、「鎌倉殿」である頼朝の興した政権は、出征中の将軍の陣地や近衛大将唐名を意味する「幕府」から、鎌倉幕府と呼称されることになった。

頼朝を先例として、征夷大将軍になった者の政権は幕府と呼ばれるようになる(誕生時点で幕府を名乗った政権は1つもない)。

御家人は、鎌倉殿より「一所懸命」に守っている土地の所有を認められる「本領安堵」と功績を挙げた際に新たな土地を与えられる「新恩給与」といった2つの「御恩」を受けて、鎌倉殿のために命懸けで戦う「奉公」の義務を負った。鎌倉幕府はそのような幕府と御家人の「御恩と奉公」の関係によって成り立っていた。

御家人の平時の奉公には、都に滞在して朝廷を警備する「京都大番役」と、相模国鎌倉において幕府を警備する「鎌倉番役」があった。

戦時には家子・郎党を率いて「いざ鎌倉」と馳せ参じた。しかしその費用負担は御家人にとって苦しいものであった。

御家人などの武士は、寝殿造を簡素に改めた「武家造」と呼ばれる邸宅に住み、犬追物・流鏑馬・巻狩などを行って鍛錬に励んだ。

武士の普段着は、庶民の衣服であった直垂が用いられ、格式のある場では貴族の平服の水干が用いられた。男女ともに元は下着であった小袖も平服となった。

源通親後鳥羽天皇の乳母藤原南家貞嗣流範子と結婚し、範子と前夫能円の間に産まれた在子を養女とした。在子は後鳥羽天皇後宮に入内した。九条兼実も娘の任子を入内させて中宮とした。

範子の妹卿二位藤原兼子も後鳥羽天皇の乳母であって朝廷に重きを置いた。他にも兼実は鎌倉幕府に好意的であったが、通親は次第に幕府に対して批判的になっていくなどして、朝廷と幕府のあり方を巡って対立するようになる。

乳母が権力を持ったように、当時の女性の地位は比較的高く、武士が土地を分割して相続する際も亡くなった武士の妻が当主となることもあった。分割された土地も女子に与えられたが、他家に嫁ぐとその女性の所領が他家に渡ってしまうため、後の時代になると女性の土地相続は少なくなってゆく。

しかしその後頼朝は娘の大姫を入内させることを構想し、通親や、後白河院に寵愛を受けていた丹後局高階栄子に接近した。

建久4(1193)年、曾我祐成・時致兄弟が、かつて祖父伊東祐親・父祐泰と抗争していた工藤祐経を襲撃、殺害した。さらに頼朝も殺害しようと向かったが、祐成は殺害され時致は捕らえられて処刑された。この一件は曾我兄弟の「仇討ち」として、後に軍記物語「曾我物語」に記され人気を博した。

同年、源範頼が謀反の疑いを掛けられて伊豆国へと流罪となりその後の動向が分からなくなる。殺害されたとも考えられている。

また、安田義定の子義資は聴聞に来た女房に恋文を送ったことを理由に処刑された。これは一条忠頼の殺害と同様に、頼朝が甲斐源氏の増長を恐れたことが理由であると思われる。このころ、義定が治めていた遠江国の、相良荘にいた、工藤・伊東氏と同じく藤原南家為憲流とされる相良頼景が肥後国多良木村へと下降して土着した。その後義定も謀反が発覚したとして処刑された。

頼朝による粛清が加速する中、大庭景義のように出家して引退する御家人も多くいた。

兼実の同母弟で比叡山延暦寺天台座主となった慈円は、著書の「愚管抄」において、当時の世相を「武者の世」と呼んだ。愚管抄は、歴史の流れを道理を元に述べるという史論書であるが、武士が政治を主導するようになることもまた道理であると記す。

また、天皇(王)は百代で絶えるという「百王説」も垣間見ることができる。現代の数え方で後鳥羽天皇は82代、神功皇后も代数数えて淳仁天皇を除いても同じ数である。百代目の天皇は、当時の人にとってそう遠くない未来であり、末法の世の中の到来をも思わせた。仏教的無常観に裏打ちされた思想が愚管抄の論理を形成しているのである。

末法の世を感じた人々は来世に救いを求め、その願いに応えようと新たな仏教の宗派が勃興した。

元々比叡山で修行していた法然源空は、末法の世において、それまでの厳しい修行は意味を成さなくなるとして、1つの教えを選択し、専修(ひたすら、その教えのみにすがる)ことを説いた。様々な解釈のある「念仏」を「南無阿弥陀仏」と唱える口称念仏として簡略化し、念仏をひたすらに唱えれば(専修念仏)、誰であっても極楽浄土に往生できるという浄土宗を開いた。

建久6(1196)年、任子は昇子内親王を、在子は為仁親王を産んだ。源通親は皇子の外祖父となったことで兼実よりも優位に立ち、翌年には反兼実派と協力して関白を罷免させた。近衛基通が再び関白となり、任子は内裏を退去する。兼実と疎遠になった頼朝は兼実を助けることはなかった。さらに通親は兼実を流罪にしようもしたが、後鳥羽天皇がそれを止めた。さらに兼実の子良経も内大臣の職を失わなかった。

その後の兼実は浄土宗に帰依し、法然は兼実の願いにより「選択本願念仏集」を著した。

その後、既存の仏教勢力から念仏停止を求められて迫害され一時期弟子とともに流罪になるなどしたが後に帰京を果たした。法然が長きにわたり本拠地とした東山の住房が知恩院として総本山となる。

浄土宗は法然の弟子によって広められ、隆寛の長楽寺派・覚明の九品寺派・証空の西山派などに分派した。

法然の弟子の1人である親鸞は、元は藤原北家真夏流日野有範の子で、幼少から出家して比叡山で修行していた。

親鸞は僧侶に禁じられていながらも暗黙に肉食を行い妻帯する者が多くいる中で、肉食妻帯を公然と行った。

親鸞の著書「教行信証」などがあり、極楽浄土への往生するという本願の全てを阿弥陀如来に委ねるという「絶対他力」を説いている。

また、親鸞の教えとして特徴的なのが、弟子の唯円が記した言行録「歎異抄」にある「悪人正機説」である。自力で往生の出来ない悪人(煩悩に苦しむ凡人)こそが、阿弥陀如来が救済しようと思う人であると説いた。

親鸞の子善鸞は父より真の教えを伝授していると吹聴したために絶縁されている

親鸞は新たな浄土宗の分派の祖となるつもりはなかったが、死後には東国下野高田の専修寺派が立てられたほか、曾孫覚如(親鸞の娘覚信尼の孫)の本願寺派が成立するなど、後の世に「浄土真宗」と呼ばれる教団が成立してあった。

建久8(1197)年、大姫が死去したことで入内の計画は立ち消えとなる。同年に一条能保も死去したことで朝廷との繋がりが弱くなってしまった。

翌建久9(1198)年、源通親の強い意向で、為仁親王が即位し(土御門天皇)、後鳥羽院院政を開始した。

近衛基通は儀式を上手く進めることが出来なかったため、通親が松殿基房と協力して政務を行った。基房は基通と和解して、基通の子家実に儀礼作法を教授するなどして復権に成功した。

建久10(1199)年、源頼朝は死去。頼朝と政子の子頼家が新たな鎌倉殿、その後征夷大将軍となった。このころ幕府に好意的になっていた源通親のはからいで、頼家は摂関家の子弟のみに許されていた五位のまま中将となる待遇を受けた。

御家人からは北条時政北条義時大江広元・三好康信・藤原(中原)親能・三浦義澄・八田知家和田義盛比企能員安達盛長足立遠元梶原景時二階堂行政の13人が選出され、政治判断を評議して頼家の裁可を仰ぐ制度が確立した(十三人の合議制)。

北条氏から時政と義時の2人が選出されているのは、時致と牧の方の間に産まれた政範が新たな時政の後継者となり、義時が江間家をとして時政の跡継ぎから外れて独立していた可能性も考えられている。

北条義時比企尼の孫娘姫の前を妻として次男朝時を儲けていたが、比企能員の娘若狭局が頼家の妻妾となって長男一幡を産んでいたことで、北条氏と比企氏はどちらも将軍家の身内となったことで緊張状態が生まれた。

北条時政は娘の多くを御家人に嫁がせて関係を深めた。時政の娘の内、阿波局は頼朝の異母弟阿野全成に嫁いで四男時元を産み、時子は足利義兼に嫁いで三男義氏を産んだ。他には八田知家の兄朝綱の孫宇都宮頼綱に嫁いで泰綱を産んだ娘、畠山重忠に嫁いで重保を産んだ娘などがいる。

足利義氏の異母兄義純は、新田義兼の娘を妻としている。

阿波局は頼家同母弟千幡の乳母となっている。

対して比企能員信濃国の笠原親景・武蔵国の中山為重・上野国糟屋有季などに娘を嫁がせて東海道北陸道における影響力を強めていた。

若狭局所生の一幡は長男であったが、清和源氏満政流賀茂重長の娘辻殿の産んだ次男善哉が跡継ぎであった可能性もある。

頼家の乳母は比企尼の三女(平賀義信妻)であったため、比企氏の影響力は強まった。

  正治元(1199)年、結城朝光は「忠臣は二君に使えず」を引き合いに出して、頼朝が死去した際に出家しなかったことへの後悔を他の御家人に話していた。

その朝光の発言を聞いた阿波局は、「梶原景時が結城朝光の発言を意図的に曲解して、朝光が謀反を考えていると頼家に伝えたことで、朝光が殺害されることになった」という内容を朝光本人に伝えた。

危険を感じた朝光は三浦義村(義澄の子)に相談し、和田義盛安達景盛(盛長と比企尼孫娘丹後内侍の子)などの御家人を募って、梶原景時の弾劾状が作成された。

景時は頼家に対して申し開きをすることなく所領の相模国一ノ宮へと退いた。

正治2(1200)年、景時は都を目指して一族とともに相模国を発つが、駿河国において地元の武士勢力と衝突して子の景季・景高・景則らとともに討死した。

同年、九条良経の妻の、一条能保と坊門姫の娘が死去。新たな妻に松殿基房の娘寿子を迎えた。

良経は義父となった基房から作法を学ぶなど、近衛家・松殿家・九条家は協調するようになった。

土御門天皇の生母在子と、その養父源通親との密通を信じた後鳥羽院は、土御門天皇が自分の子であることを疑うようになり、南家の藤原範季の娘重子との間に儲けた守成親王を皇太子に立てた。

また同年、三浦義澄と安達盛長が死去。宿老がまた減り、力関係も崩れ、千幡の乳母阿波局の実家である北条氏と頼家の乳母比企尼三女の実家である比企氏の対立が激化した。

建仁2(1202)年、源通親が死去し、九条良経が内覧に任じられた。しかし、近衛基通はそれに反感を覚えて政務を放棄。朝廷政治が滞ったため、後鳥羽院は基通を解任して良経を摂政とした。

建仁3(1203)年、近衛家実九条良経より一上の職を譲られ、良経の下で政務を行うようになった。後鳥羽院近衛家九条家をともに摂関家として承認した。

同年、頼家は阿波局の夫で頼朝の異母弟の阿野全成を謀反を計画したとして武田信光に捕えさせ、八田知家に殺害させた。阿波局も拘束されそうになるが、政子が止めた。全成の子頼全(阿波局の所生ではない)も佐々木定綱に殺害されたが、阿波局が産んだ時元は助命された。

比企氏が北条氏より優位に立ったかと思われたが、頼家が重病を患い危篤となった。

関東28ヶ国の地頭職と総守護職はそれぞれ一幡と千幡に分割して相続されることが決定したと「吾妻鏡」にはあるが、実際はほとんどが一幡に譲られたと思われる。これにより比企氏は北条氏よりも優位に立った。死期を悟った頼家は出家している。

追い詰められた北条時政は、比企能員を自邸に招いて殺害し、政子の同意を得て一幡の住居小御所を攻め、一幡を捕らえて殺害した。比企一族の多くは屋敷に火を放って自害した。

その後、誰も予期しなかったことに、頼家は奇跡的に重病から回復。とはいえもはや取り返しの付くわけがなく、征夷大将軍を解任されて伊豆国修善寺に幽閉された。時政は頼家が死去したと朝廷に伝え、後鳥羽院によって千幡が源実朝として、従五位下征夷大将軍に任じられた。

義時は比企氏出身の姫の前と離婚。姫の前は村上源氏俊房流源具親と再婚した。

元久元(1204)年、時政の放った刺客によって頼家は殺害された。

善哉は祖母政子に保護され、鶴岡八幡宮で出家し法号公暁とし、叔父貞暁の弟子となった。

頼家の他の子も出家して栄実・禅暁と号した。

同年11月、実朝の妻には、後鳥羽院の母方の伯父藤原北家道隆流坊門信清の娘が都より迎えられた。

後鳥羽院の従兄妹を妻にしたことになる実朝は後鳥羽院と親しくなり、得意としていた和歌に関しても関係を深めた。

御子左流藤原定家は、「千載和歌集」を編んだ父俊成と同様に和歌の名手として名高く、後鳥羽院の命で「古今和歌集」を編纂した1人でもある。また、後鳥羽院と実朝が和歌に関して交流した人物であり、定家に触発された実朝は自ら「金槐和歌集」を編んでいる。

定家の異父兄で藤原国経子孫である藤原隆信およびその子信実は、「似絵」を発展させて写実的な人物画が広める先駆けとなった。また、禅僧の肖像画も写実的な「頂相」として発展した。

また、唐末期に興った禅宗の一派臨済宗が、延暦寺で学んだ経験もある、宋より帰国した明庵栄西によって伝えられた。臨済宗は禅の基本である座禅はもちろんのこと、「公案」という問答を師弟の間で行い、答えを考えることで悟りを目指すものである。栄西は禅の興隆が国家にとっても利益があると考え、「興禅護国論」を記した。

臨済宗は総本山を建仁寺とする。

栄西臨済宗とともに、途絶えていた喫茶文化を伝え、実朝に自署「喫茶養生記」を献じている。

北条時政と牧の方の娘が信清の次男忠清に嫁いでいたことも理由であると考えられる。

同月5日、平賀朝雅畠山重忠という時政の娘婿同士の間で口論があった。周囲の取り成しで収まったものの、朝雅は重忠を恨み続けた。

また、同月に政範は死去している。

元久2(1205)年、朝雅は時政に対して「重忠に謀反の意思がある」との内容を伝えた。

義時とその弟時房は、本当に謀反を起こしたかわからない重忠の討伐に消極的であって時政に対しても反対意見を伝えたが、牧の方の兄大岡時親に強く説得されて消極的に討伐に協力することにした。

対して、かつて重忠に祖父三浦義明を討たれた三浦義村和田義盛は積極的に時政に協力した。

重忠討伐には義時・時房・和田義盛が実行することになった。

畠山重保は父重忠の従兄弟稲毛重成に招かれて鎌倉に来たが、実は重成は妻の父時政の命令で重保をおびき出しており、由比ヶ浜において時政の命を受けた三浦義村によって討たれた。時政は頼家に続いて2人目の孫を殺害させたことになる。

重忠は郎党134騎を率いて交戦し討死した(二俣川合戦)。

重忠が率いていた軍勢があまりに少数だったことで、義時は重忠に謀反の意思がなかったことを知り、時政を批判した。

重忠を陥れた稲毛重成・重朝兄弟は子らとともに殺害された。

重忠の妻で重保の母である時政の娘の1人は足利義兼の庶出の長男義純と再婚して畠山氏の名跡を継承する。以前の妻である新田義兼の娘は離婚し、間に儲けた時兼・時朝はそれぞれ岩松氏・田中氏の祖となった。畠山の苗字は重忠元妻の産んだ泰国によって継承される。

時兼・時朝は祖父新田義兼に寵愛され、所領の多くを譲られたため、新田氏自体の所領は少なくなった。

同年、時政・牧の方夫妻は実朝を殺害して娘婿平賀朝雅を新たな将軍として擁立しようとするが、政子・義時に阻まれ、時政は故郷の伊豆国北条に出家のうえで牧の方とともに強制的に隠居させられた。朝雅は殺害された。

時政の引退によって、義時は北条氏の嫡流を継承した。

その後、義時の妹婿宇都宮頼綱に謀反の疑いがかかり、小山朝政に討伐の命令が下る。しかし、朝政は頼綱と親戚(頼綱の祖父朝綱の姉妹寒河尼の子)であることを理由に拒否した。

頼綱は謀反の意思がないことを書状にして提出し、約60人の郎党とともに出家した。

これは実朝への権力集中のために宇都宮氏の力を削ごうとしたためとも考えられている。

また同年、九条良経が38としで急死し、近衛家実が摂政に任じられた。当時14歳の、良経の子道家後鳥羽院によって左近衛大将に任じられ、祖父兼実や大叔父慈円によって補佐された。

承元3(1209)年、後鳥羽院は守成親王の皇太子妃として、九条良経の娘立子を迎えた。

翌年、後鳥羽院土御門天皇に譲位を促し、守成親王が即位し(順徳天皇)、立子が皇后となった。順徳天皇と立子との間には懐成親王が産まれる。

建保元(1213)年、千葉常胤の孫成胤が、自身を反乱計画に勧誘しようとした僧侶阿静房安念を捕らえて義時に差し出した。

取り調べの結果、安念は自白。信濃国の泉親平が中心となり、和田義盛の子義直・義重や甥の胤長も参加して、頼家の子栄実を擁立して義時の討伐を計画していることが発覚した。

それを知った義盛は、自身の功績を述べて実朝から子2人の赦免を得ることに成功した。そして甥胤長の赦免も取り付けようとしたが、そのことを実朝は許可しなかった。

義時は、幕府の決定を過去の功績を理由に覆す義盛を幕府を揺らがしかねないと考えたのか、義盛との合戦を覚悟し、胤長を和田一族の前で縛って連行するなどして挑発。胤長の所領だった荏柄郡は義盛に与えられるはずであったが、北条義時の手で金窪行親・安東忠家に恩賞として与えられた。義時はその後も、屋敷を警護していた義盛の代官を追い出すなど挑発行為を繰り返した。

義盛は従兄弟の三浦義村・胤義兄弟とともに挙兵することを決めたが、三浦兄弟は義盛を裏切り母方の従兄弟義時に密告した。

兵の集まらないまま義盛は挙兵。将軍御所を襲撃した。義時にとっては実朝のいる将軍御所を襲撃すらことは予想外であり対応が遅れた。さらに、義盛の妻の甥横山時兼が、娘婿の波多野盛通・甥の横山知宗を率いて義盛勢に合流するなどして軍勢を拡大した。しかし、実朝と義時は法華堂に逃れたため、義盛は実朝を確保することに失敗した。実朝自ら義盛らの討伐の命令書を発行するなどしたため、西相模の武士たちは実朝と北条氏に味方し、それ以上義盛の勢力は拡大しなかった。 千葉成胤の兵が和田勢を攻め、三浦義村の兵が退路を断ったことで、和田勢は敗北。義盛・義直・義重は討死、義盛の子常盛・孫朝盛・横山時兼らは自害した。胤長も殺害された。

以降義時は政所別当と侍所別当を兼ねるようになる。

その後、和田勢の残党が栄実を担いで謀反を計画していることが発覚。残党は襲撃されて栄実は自害した。

次々と御家人が死ぬ中、成長した実朝は新恩給与本領安堵による御家人への御恩を与えるなど積極的に政務を行うようになる。しかし実朝は子に恵まれず跡継ぎは未定であった。朝廷の卿二位兼子より、実朝にもしものことがあれば、後鳥羽院の皇子の1人を将軍として鎌倉に送るという提案があった。実朝の妻の姉妹が後鳥羽院との間に儲けていた頼仁親王がその候補であった。

建保5(1217)年、鶴岡八幡宮別当の定暁が死去すると、公暁が新たな別当となった。

建保6(1218)年、源実朝権大納言になった後に左近衛大将と左馬寮御監を兼任。さらに内大臣・右大臣と、その地位を上昇させた。

建保7(1219)年、実朝は右大臣任官を感謝する「拝賀」を、鶴岡八幡宮で行った。義時も同行する予定であったが、実朝の指示で中門に留まり、都から下降した実朝側近の源仲章が同行した。参拝を終えた帰りに、実朝は甥の公暁に殺害された。仲章も義時と間違えられて殺害された。

公暁は新たな征夷大将軍になる由を三浦義村に伝えた。義村はそれに同調するふりをして北条義時に密告し、家人に公暁を殺害させた。

将軍を失い、その時点で時期将軍が決定していなかった鎌倉幕府は大いに混乱した。そこで、以前に卿二位兼子が勧めたように、後鳥羽院の皇子を新たな将軍として下降してもらうことを朝廷に要請することにした。

鎌倉より、二階堂行光が、後鳥羽院の皇子の雅成親王か頼仁親王のどちらかを新たな将軍にすることを嘆願書を携えて上洛した。その嘆願書には、宿老の御家人たちによる署名がなされていた。

また、義時の後妻伊賀の方の兄で、源頼義の血を引く、二階堂行政の外孫伊賀光季が京都守護として上洛している。

同年、阿野全成と阿波局の子時元が挙兵した。義時は金窪行親を派遣して討った。しかしこの一件は、兵を差し向けられた時元が後から挙兵したとの説もある。

伊賀光季に続いて、大江広元の子源親広が京都守護に就任した。

後鳥羽院は、皇子を鎌倉に下降させることをすぐには出来ないとしながらも約束した。しかし、同時に北条義時の地頭職の解任を要求した。仮に幕府がそれを拒否すれば、後鳥羽院は皇子下降を拒否して義時を逆賊にすることが可能となる。

政子の使者として、弟の時房が1000騎を率いて上洛。義時の地頭職解任の拒否と皇子下降の願いを伝えた。

後鳥羽院は譲歩して、「日本国を2つに分けてしまう」として皇子下降は拒否しながらも、代わりに皇族以外であれば誰でも下降させることにした。

その結果、九条道家と、西園寺公経の娘掄子との間に産まれた三寅(後の頼経)が鎌倉に赴くことになった。道家も掄子も、どちらも祖母は頼朝の妹坊門姫である。公経は幕府と朝廷を取り持って権勢を振るった。

承久3(1121)年、順徳天皇は譲位。懐成親王が即位した(仲恭天皇)。仲恭天皇生母立子の弟である九条道家は摂政となった。これにより道家は朝廷と幕府を仲介する立場となった。

2歳の幼い頼経の代わりに義時とともに政務を行った政子は「尼将軍」と呼ばれた。

同年、後鳥羽院は城南寺の警護を名目として招集していた軍を中心として兵を集めた。

朝廷軍には河内源氏義光流大内惟信、佐々木秀義の次男経高・長男定綱の子広綱・三浦義村の弟胤義・秀郷流後藤基清・藤原秀康伊予国河野通信などがいた。

また、後鳥羽院により、源親広と伊賀光季も参加を命じられ、親広は従ったが光季は拒否した。

藤原頼経の外祖父西園寺公経・その子実氏は捕縛されて押し込められた。

光季は朝廷軍に攻められ、寡兵で奮戦して子の光綱とともに自害した。

その後、後鳥羽院仲恭天皇の名義で、北条義時追討の宣旨を発行。諸国の武士に義時の討伐を命じた。順徳院や、かつて鎌倉殿になる可能性のあった雅成親王・頼仁親王などは後鳥羽院に同調したが、土御門院は消極的であり、父に協力しなかった。

対する鎌倉幕府は、大江広元三善康信を中心として「後鳥羽院の奸臣を討伐する」として徹底抗戦の構えを見せた。

幕府軍は、頼朝の剣を携えた、義時の子泰時を総大将として、各地の後鳥羽院方の勢力を討伐しながら都に進軍した。

三浦義村は弟胤義と交戦、胤義は逃亡後に自害した。

その後後鳥羽院は、「今回の合戦は臣下が勝手に行ったことだ」として、義時追討の宣旨を撤回し、藤原秀康に対して追討令が出された。秀康は逃亡後、自害したとも処刑されたともいう。

このようにして「承久の乱」と呼ばれる戦は集結し、戦後処理が行われた。

後藤基清・佐々木広綱などの、後鳥羽院に味方した御家人は処刑された。佐々木氏は広綱の弟信綱が本拠地の近江国佐々木などを継承した。

また、当時の貴族の極刑は慣例上は流罪であったが、幕府の判断で参議一条信能(能保の子。母は遊女)などの後鳥羽院側近の公家も処刑されている。

後鳥羽院・順徳院は出御(上皇/天皇の外出)という名目で、それぞれ隠岐国佐渡国に流された。雅成親王・頼仁親王兄弟も、都から移るという名目でそれぞれ但馬国備前国に流された。

土御門院は義時追討に関与しなかったが、父が、流されていながら自身が都に留まるべきでないとして土佐国に自ら移り、幕府も仕方なく認めた。その後幕府は土御門院に、少し都に近い阿波国に移ってもらった。

仲恭天皇は退位させられて、外叔父九条道家の館に移った。道家は摂政を解任され、近衛家実が摂政となった。

幕府は倒幕計画に同調した公家などから所領を没収し、功績のあった御家人に与えられた。これにより幕府は西国まで強い影響を及ぼすようになった。このときに所領を得た御家人を「新補地頭」と呼ぶ。

同年、三善康信問注所執事の座を子の康俊に譲った後に死去した。

幕府は新たな治天の君として後鳥羽院の同母兄守貞親王を迎え、法皇となり(後高倉院)、院政を開始した。そして、後高倉院の子茂仁親王が即位した(後堀河天皇)。

 

 

高倉天皇~安徳天皇

後白河院六条天皇を反後白河勢力が利用することを防ぐために六条天皇を譲位させ、憲仁親王を即位させることを望み、六条天皇の政権と対立した。中宮藤原育子が六条天皇の養母として、その兄藤原基実が外戚として六条天皇の政権を支えていた。しかし永万2(1166)年、基実は赤痢が原因で、24歳で死去した。六条天皇の政権は支柱を失い、後白河院が再び院政を敷いて政治を主導するようになった。

後白河院は、閑院流藤原季成の娘成子との間に以仁王を儲けていたが、季成が失脚したことで以仁王親王にもなることが叶わず、皇位継承の可能性は潰えた。

基実の子基通は当時7歳であったため、新たな摂政には基房が任じられた。基房は松殿という屋敷を住まいとし、松殿家の祖となる。

摂関家の相続に際して、六条院の乳母の父に当たる良門流藤原邦綱の主張により、盛子・基通母子が摂関家の財産および日記・荘園などを相続することになった。これにより、基房は基通が摂関家を継ぐまでの中継ぎのような位置づけとなった。盛子は当時11歳であり、後白河院により、摂関家の運営は盛子の父清盛が行った。仁安2(1167)年、盛子は憲仁親王の養母となった。翌年、平滋子は院号を与えられた(建春門院)。

後白河院六条天皇を退位させ、憲仁親王を即位させた(高倉天皇)。これにより平清盛天皇の母の姉の夫、つまりは天皇の義理の伯父となった。高倉天皇の近臣となった、顕房流本流の源通親は清盛の異母弟教盛の娘と結婚した。

嘉応2(1170)年、松殿基房と清盛の孫資盛の従者同士が争い、資盛の車を破壊した。その報復として資盛の父重盛の部下が基房の部下を馬から引きずり下ろして髻を切るなどした。この一件があった後に基房は平家と接近、清盛の娘婿花山院兼雅の姉妹忠子と結婚した。新田義重は花山院家に新田床を寄進して平家に接近、都を中心に活動するようになった。

清盛は高倉天皇に娘の徳子を嫁がせ、承安2(1172)年には徳子を皇后に昇らせた。非皇族・非藤原氏としては檀林皇后以来367年ぶりの立后である。院号建礼門院高倉天皇との間には言仁親王が産まれた。

安元2(1176)年、建春門院の死により清盛と後白河院の関係は悪化の道を辿る。同年、六条院が崩御した。

安元3(1177)年、山城国東山鹿ヶ谷において、院近臣藤原成親・その子成経・西光(俗名藤原師光)・北面の武士平康頼・真言宗僧侶俊寛らによって平家打倒の謀議が行われた。しかし実行前に発覚、西光は処刑、成親は流罪先で殺害された。成経・康頼・俊寛薩摩国鬼界ヶ島に流された。「鹿ヶ谷の陰謀」の実態は、平家による成親らの排除のための策謀だという説もある。

妻の兄成親が処罰されたことで、平重盛は平家から孤立気味となった。

そのような状況の中、松殿基房後白河院と結託して再び平家と対立した。

言仁親王が皇太子となる際に、基房は妻の忠子を言仁親王の養母にすることで、清盛に外戚の座を与えないことを画策した。基房は忠子との間に儲けた師家の出世を早めて、基通の官位よりも高い位に就かせた。これにより、基房は自身の系統が摂関家の本流であることを主張した。さらに盛子の死後、摂関家の土地はその養子高倉天皇に相続させることで、平家から摂関家の財産を切り離した。

治承3(1179)年、清盛は数千の兵を率いて都に向かい、後白河院を幽閉した。基房は関白を解任され、師家とともに流罪となった(治承三年の政変)。後白河院院政を停止させられ、高倉天皇による親政が始まる。同年、高倉天皇は隆家流藤原信隆の娘殖子との間に守貞親王を儲けた。

清盛は基房の代わりとして基通を関白とした。しかし基通はそれまで参議以上の官職にすら就いたことがなく、基房からも疎まれていたために儀礼作法に関する知識も不十分であった。そのため、基実・基房の弟である兼実が基通を後見した。高倉天皇も兼実を頼りにしたためにその影響力は増大した。

基通は近衛殿を本拠とし、兼実は九条殿を本拠としたため、それぞれの家系は近衛家九条家と呼ばれることとなる。

高倉天皇平清盛は、宋銭を、それまで通貨として用いられてきた絹布や米の価値の基準として用いることを考えた。銭を通貨とすることで、絹布で示した朝廷の事業の負担額を別の品物で支払うといった手間を省くことを狙ったのである。対して九条兼実は、銭の需要が増えて絹布の需要が減れば、税として収められる絹布の価値が下がってしまうとして、銭の使用を禁じることを提案した。最終的に高倉天皇は銭の使用を認め、絹布や米の値段の基準と定めた。その同年に麻疹と思われる感染症が流行、銭の形の発疹が出るため「銭の病」と呼ばれた。感染症が銭を連想させるほどに宋銭が流通していたことを物語っている。多くの人が宋銭を用いたことで需要が増えて、宋銭を輸入することがさらなる利益を生んだ。

しかし、同年平重盛が死去、このことが平家政権に大きな打撃を与えた。既に同母弟基盛は死去しており、時子所生の三男宗盛が跡継ぎとなった。

このころ、桓武平氏の一族平兼隆が、父の信兼から何らかのことを訴えられて、伊豆国田方郡山木郷に配流された。源頼朝の邸宅の近隣である。罪人であった兼隆だが、伊豆目代に抜擢され、現地豪族と思われる堤信遠による支援を受けていた。

治承4(1180)年、高倉天皇は譲位、言仁親王が即位した(安徳天皇)。これにより平清盛天皇の外祖父となる。同年、高倉院は再び殖子との間に尊成親王を儲けた。

同年、高倉院の異母兄以仁王が「最勝親王」を称して、源頼政と結託して平家の排除と後白河院の救出を画策、松殿基房の排除に不満を感じていた興福寺も同調した。

源為義の十男である神宮十郎源行家以仁王の令旨(皇太子・親王の命令文書)を源氏を中心とした反平家勢力へと伝えて回った。もちろんのこと以仁王は皇太子でも親王でもない。

以仁王の令旨は源頼朝の元にも送られたが、頼朝はほとんど勢力がなかったために黙殺した。

以仁王の挙兵は、同じく令旨を受け取っていた、頼朝の乳母寒河尼の夫小山藤原政光の甥下河辺行平によって伝えられた。しかし以仁王源頼政の計画は平家方に漏れ、以仁王皇籍を剥奪されて「源以光」とされた。以光は園城寺(三井寺)に逃れるものの、南山城の加幡河原において殺害された。頼政平等院で子の仲綱とともに自害、養子の仲家も討死した。 仲綱の子有綱は生き延びた。以光の子北陸宮(本名不明)は平家の監視下に置かれる。

令旨に呼応した反平家勢力の蜂起が相次ぐ中、平清盛は高倉院・安徳天皇を伴って本拠地の播磨国福原に移った。そこで清盛は新たな都の造営を開始する。

近衛基通は清盛に同行したが、福原には公卿の居住可能な場所が少なく、九条兼実は都に残った。このことで基通と兼実は疎遠となる。基通は清盛の娘完子を妻に迎えて、更に平家との関係を深める。

大庭景親は有綱を追討するために相模国へと赴いていた。

頼政の死により、平時子の弟時忠が新たな伊豆国知行国主に任じられたことで、工藤(狩野)茂光は勢力を弱めた。

平家政権は、以光・頼政一派の残存勢力を討伐するよう命じた。しかし、そのことを三善康信は「令旨を受け取っていた源氏の討伐」のための兵を出したと誤解したらしく、弟の康清を頼朝の元に派遣して、奥州藤原氏を頼って逃げるように伝えた。

そこで頼朝は打倒平家を目標として挙兵した。伊東祐親の影響下を脱することを目論んだ義父北条時政も協力、しかしその時点で兵は30人程度であった。

挙兵に際して、頼朝は小野田盛長・中原光家を遣わして、かつて頼義・義家・義朝に仕えていた家臣に協力を要請した。

相模国の三浦義澄と下総国の千葉胤頼は頼朝の元に馳せ参じて3人で密談を行った。しかし、頼朝の挙兵はほとんどの者にとって無謀に思われていたらしく、頼朝の乳母の子である山内首藤経俊までもが協力を拒否した。

手始めに、頼朝は伊豆国の行政掌握を考えて山木邸の平兼隆と堤信遠の襲撃を計画。藤原邦通に来客を装わせて内情を探らせた。甥の伊東祐親に圧迫されていた工藤茂光とも連携していたと思われる。

頼朝は、佐々木秀義の子定綱・経高・盛綱・高綱を加えて計画を実行に移し、始めに信頼遠、次いで苦戦しながらも兼隆を討ち取った。山木邸襲撃を終え、兼隆の親族中原知親から伊豆国蒲谷御厨を没収したことが、頼朝が最初に行った行政命令であるとされる。

平家打倒を決意した頼朝にとって、「以仁王の令旨」は平家方の武士を討伐して、その所領を没収して味方に与えることを正当化するものであり、一度黙殺しながらも頼朝にとっての大義名分となった。

その後、三浦義澄の父義明も、頼朝に呼応した。三浦氏が大庭氏に圧迫されている現状の打破が目的であったと思われる。義澄の兄杉本義宗の子和田義盛や、義明の弟岡崎四郎義実・その子義忠、義実の妻の兄弟である土肥実平・その子遠平、工藤茂光源為義の娘婿で魚名流とされる藤原朝宗も従った。大庭景親の兄景義も、弟と袂を分かち頼朝に服属した。清和源氏では、足利義兼や、新田義重の子里見義俊・山名義範が加わった。当の義重と跡継ぎである三男義兼は、平家に近しかったために頼朝への協力を渋っていた。

約300騎まで増えた頼朝勢は相模国石橋山に布陣したが、3000騎を率いた大庭景親・その同族梶原平三平景時と、300の兵を率いる伊東祐親によって攻められた(石橋山の戦い)。

頼朝勢は多勢に無勢で散り散りとなり、義忠は討死した。

頼朝一派は洞窟に潜伏していたところ、梶原景時によって発見された。しかし、景時は頼朝を見逃し、景親から問い詰められても洞窟には誰もいなかったと言い通した。

頼朝には実平が付き添い、他の味方とは別行動をとった。北条時政は次男の小四郎義時とともに箱根湯坂を超えて甲斐国に向かった。長男の三郎宗時は土肥山から平井郷に着いたが、祖父伊東祐親の軍勢に包囲されて討死した。工藤茂光も自害した。

頼朝勢の敗戦を知った三浦勢は、三浦半島へと引き返す途中で、当時平家に従っていた畠山重忠率いる秩父党と交戦、三浦義明は外孫重忠の軍勢に討ち取られる形となった。

時政・義時父子は安房国を目指して航海するときに三浦勢と合流した。頼朝もまた実平とともに安房国へと向かった。

義光流甲斐源氏の武田太郎源信義も、独自に反平家として活動を開始、大庭景親は弟の景久と、駿河国目代橘遠茂を討伐に向かわせたが、信義の叔父安田義定に敗れた。

頼朝は和田義盛を上総広常の元に、千葉常胤の元に小野田盛長を派遣した。北条時政・義時父子は、同盟締結のために義光流甲斐源氏武田太郎源信義の元に向かった。

千葉常胤は頼朝に従うことを決め、源頼義平直方から譲られて以来の河内源氏ゆかりの地であり、頼朝の父義朝・異母兄義平が拠点とした相模国鎌倉を、頼朝も拠点とすることを進言した。 常胤はその後下総国目代を滅ぼして平家政権への敵対姿勢を明確にした。

元々反平家として活動していた上総広常は、新たに上総国の受領となった平家方の藤原忠清と異母兄常茂に対抗して、大軍を率いて頼朝に服属した。

小山政光と寒河尼の三男は頼朝に付き従い、頼朝の「朝」の字を与えられて三郎宗朝、のちに朝光と名乗り、結城氏の祖となる。朝光の異母兄朝政も遅れて頼朝に臣従する。寒河尼の弟八田宗綱も同様である。

頼朝は、千葉・上総・三浦・佐々木・八田といった父祖ゆかりの家系を再び結集させ、その軍勢は27000にも登ったとされる。

石橋山の戦いを生き延びた者たちも合流、醍醐寺にいた頼朝の異母弟全成も参陣した。

畠山重忠率いる秩父党は三浦氏と和解して頼朝に従った。

安達盛長の妻(比企尼の長女)が前夫惟宗広言との間に儲けていた惟宗忠久も配下に加わった。

こうして勢力を拡大した頼朝は鎌倉に赴いた。

武田信義甲斐国駿河国の間の鉢田山で橘遠茂を破り、遠茂は捕らえられて処刑、武田氏は駿河国を掌握した。そして武田氏は頼朝と同盟を結んだ。信義の叔父加賀美遠光は子の秋山光朝・小笠原長清南部光行とともに頼朝に仕えている。

平家は平重盛の長男維盛率いる追討軍を武田氏差し向け、頼朝勢は援軍として武田勢に付いた。

ただ、維盛の軍勢は食料不足により士気が低下、武田勢への降伏が相次いでしまい、戦わずして撤退した。この判断が平家の権威の失墜を招いた。

頼朝の異母弟で全成の同母弟の九郎義経は、奥州藤原氏より佐藤継信・忠信兄弟や軍勢を与えられて頼朝の元に参陣した。当時男児のいなかった頼朝は、義経と父子の契りを結んでいる。正確にいつごろかは不明だが、頼朝の異母弟で義経の異母兄である範頼も頼朝に従った。範頼は安達盛長比企尼の長女との間に産まれた娘と結婚している。義経秩父平氏河越重頼比企尼の次女の間に産まれた娘を妻としている。

戦後、伊東祐親は捕らえられた。娘婿である三浦義澄の嘆願により助命されたが自害した。子の祐清は自ら懇願して処刑された。伊東祐親の娘八重の夫江間次郎も討死に、その遺領である伊豆国江間は北条義時に与えられた。祐清の妻だった比企尼の三女は源義光の孫の1人で信濃国平賀邑を領有する平賀四郎源義信と再婚した。平家方にいた上総常茂も捕らえられ処刑、上総氏内において常広の家督を脅かす者が減った。

大軍勢となった頼朝に、大庭景親は降伏。上総広常に預けられた後に処刑された。

相模国に帰還した頼朝は、武田氏が河内源氏棟梁になることを警戒し、配下の武士たちとの信頼関係を強化するために新恩給与を行い、平家方の武士の所領を占領する行動を認めた。

また、頼朝は主従関係を結んだ「御家人」を統率する「侍所」を設け、その別当(長官)に和田義盛を任じた。

頼朝は自身に従わない平家方の勢力を討伐することを決め、最初の標的として、同じ河内源氏であり義光流の本流と言える常陸国の佐竹隆義を選んだ。佐竹氏と所領を巡って対立していた上総広常は積極的に討伐に動き、佐竹隆義の長男義政を誘い出して殺害した。

義政の弟秀義は金砂城に籠城して抵抗したが広常の説得によって秀義の叔父義季が裏切ったために秀義は常陸国多珂郡の花園城まで逃亡した。

佐竹氏の所領の一部を手に入れた頼朝は新恩給与を行い坂東武士に権勢を示した。

反平家勢力が都近くまで迫ると、清盛は福原の新都造営を断念して都に戻り反平家勢力の討伐を試みた。

興福寺も再び反平家として蜂起、清盛五男の重衡が率いる軍勢が討伐に向かい敵方に火を放ったが、その火が拡大し、東大寺興福寺の主要な建造物が消失した。この出来事を「南都焼き討ち」と呼ぶ。

治承5(1181)年に高倉院は崩御平清盛も頼朝との徹底抗戦を遺命として死去したことで、平家は宗盛によって主導されるようになる。宗盛は後白河院に謝罪して幽閉を解いて政権返上の意を表明した。後白河院の救出を目的とする以仁王の令旨を、大義名分として用いられないようにすることが目的だったと思われる。宗盛は父清盛の遺命と戦争継続による荒廃の拡大に反対する後白河院の意向をすり合わせるために、反乱勢力で討伐する対象を頼朝に限定し、他の反乱勢力に降伏して頼朝を討つことを促した。

梶原景時もこのころ頼朝に仕えてることとなった。

養和元(1181)年、全国的な飢饉が発生。平家政権は打撃を受けた。頼朝方は平家政権下で成立したこの養和という元号を否定し、治承を使い続けた。

頼朝とは別に反平家として尾張国で活動していた、全成の同母弟義円と、源行家平重衡に破れた。義円は討死し、行家は生き延びて木曽の源義仲の軍門に降った。平家は飢饉の影響が響いたのか、反乱勢力の討伐は継続しなかった。

反乱勢力の台頭によって弱体化していく平家政権は、松殿基房を赦免して都に戻らせた。そのような中、近衛基通後白河院と愛人関係を結ぶ。

義仲の台頭を頼朝は警戒。平家との和解を計画し、後白河院に密使を送る。その密使で、頼朝は「挙兵の理由は後白河院を不当に扱う平家を討伐するためである」ことと、「後白河院と平家が和解したのなら平家討伐に固執はしない」ことを伝え、東国を頼朝の源氏が西国を宗盛の平家が統治することを提案した。

頼朝の和解案に後白河院は肯定的であったものの、宗盛は清盛の遺命を重視して和解を拒否した。

寿永元(1182)年、北陸宮が平家の監視下から脱走して木曽の源義仲の元に逃れた。かつて自身の父以仁王が、義仲の兄で頼政の養子の兼綱とともに打倒平家として蜂起したという縁故を頼ったものと思われる。同年、頼朝と政子の間に男児万寿が産まれる。後の頼家である。

源義仲は、平家方の越後の城氏を撃破して北陸まで支配領域を拡大、寿永2(1183)年、平家は平維盛率いる追討軍を派遣したものの返り討ちにされた(倶利伽羅峠の戦い)。

平家の軍勢を破った義仲は源行家と組んで上洛、摂津源氏多田源行綱も平家と敵対して大阪湾を占領したため、東西から挟み撃ちにされることを恐れた平宗盛・知盛・重衡らは、母時子・姉妹の建礼門院・その子安徳天皇天皇の異母弟守貞親王三種の神器の内八咫鏡草薙剣、その他一族を伴って都落ちした。近衛基通から都落ちの情報を伝えられた後白河院比叡山に逃れたため、平家に連れ去られることはなかった。尊成親王も都に残った。後白河院は平家の所領を没収し、義仲と行家に与えた。

平家は後白河院と敵対する「朝敵」と位置づけられ、反平家勢力は令旨以上の大義名分を得た。

源義仲は北陸宮を次期天皇にすることを望んだ。しかし、天皇経験者である高倉院の皇子が健在でありながら、親王にすらなったこともない皇族の子北陸宮を優先することは出来ないとして、後白河院が尊成親王を即位させた(後鳥羽天皇)。安徳天皇後鳥羽天皇という2人の幼い天皇が並び立つ事態となった。三種の神器の内2つを欠いた点もまた異例である。

後白河院は厄介払いを兼ねて平家追討の命を義仲に出して西国に赴かせ、対して頼朝を信頼して従五位下に復位させ、朝廷への謀反人としての扱いが解除し東国の国衙と荘園の年貢の貢納の責任者と認めた。

頼朝の東国支配権を認めことが原因で義仲と関係が悪化。義仲は長男の義高を頼朝の元に人質として差し出し、頼朝の娘大姫と婚約させることで、直接の衝突を回避した。

義仲は後白河院のいた法住寺殿を襲撃し後白河院を幽閉した(法住寺合戦)。後白河院と近しい近衛基通大和国奈良へと都落ちした。

基通が排除されたことで松殿基房摂関家内での勢力を盛り返す兆しが見え、義仲と結託して自身の子師家を摂政にした。さらには基通から摂関家の財産の全てを奪った。

皇位継承に介入したことで後白河院の不興を買ってしまったほか、自身の軍勢が行う食料強奪やその他の乱暴狼藉を止められなかったことで、義仲は都の人々から反感を買って孤立した。

朝廷を掌握した義仲の申請によって、頼朝の追討令が出された。

この年に、強大な軍事力を警戒され、独立心が強く尊大な態度から謀反を疑われた上総広常は、頼朝の命を受けた梶原景時によって殺害された。一族の所領は没収され、子の良常は自害した。その後、広常に謀反の意思がなかったことが発覚すると、頼朝は広常の弟金田頼次・相馬常晴などに所領の一部を返還した。

後白河院より上洛の要請をされていた頼朝は、異母弟範頼・義経率いる軍勢を都に向かわせた(宇治川の戦い)。山木の平兼隆の父平信兼や、安田義定義経に合流した。

義仲は近江国粟津で討死。幾度目かの後白河院による院政が再開し、松殿基房・師家父子は失脚した。基通は邸宅の近衛殿に戻って再び摂政となる。

義仲の長男義高は頼朝の刺客藤内光澄に殺害された。許婚が殺害されたことを知った大姫は心の病となり、そのことに激怒した政子は光澄を処刑させた。

義仲を滅ぼした頼朝は、後白河院より義仲の所領を与えられ、他の源氏よりも優位に立ち、武田信義をはじめとする義光流甲斐源氏も頼朝に服属を余儀なくされた。

同年、平維盛は行方知れずとなった。平家の行く末に絶望して入水自殺を行ったとされる。

義経は平家追討を命じられ、摂津国一ノ谷・生田森で平家方と交戦(一ノ谷の戦い)、源範頼多田行綱らの活躍もあり、義経勢は勝利、平家は平清盛の異母弟忠度や知盛の子平知章らを失った。平重衡を捕虜にするなど、義経勢の大勝であった。清盛の甥平敦盛義経勢の武士熊谷次郎平直実に討たれたことは、後に舞曲幸若舞の演目の題材となった。

頼朝より派遣されていた土肥実平平重衡三種の神器を交換することを持ちかけたほか、九条兼実も和平を望んだ。平時子と、宗盛の長男清宗が上洛し、讃岐国知行国にして、平家が都に留まる話でまとまりそうにもなったが交渉は決裂した。朝廷も和解か追討かで割れていたが、後白河院はこれまでの経験から平家に対しては強硬であった。

平家追討が確定したことで、平家方の抵抗が激化し、義光流大内惟義の郎党の多数を討ち取るなどした。それに対し頼朝は大内惟義や山内須藤恒俊などを「総追捕使」に任じて警察権を与えて機内に派遣した。その後も平家方による抵抗は続き、近江国において佐々木秀義が討死するなど多くの犠牲を払った。抵抗を鎮圧した頼朝は、義経に残党の捜索を命じた。そして、平信兼が関与していたとして、その子兼衡・信衡・兼時を自害させた。信兼は義経による追討から逃亡し行方を晦ました。

寿永4/元暦元(1184)年、武田信義の長男一条次郎忠頼が、頼朝に招かれた酒宴の場で殺害された。武田氏の後継者は弟の信光となる。忠頼の家臣大中臣秋家は頼朝に招かれて家臣となった。

同年、平家の基盤でもあった四国や九州の武士も頼朝方に付いたことで、さらに平家は追い詰められ、讃岐国屋島における合戦で敗走。長門国壇ノ浦に至った。

頼朝は、安徳天皇から後鳥羽天皇に譲位がなされることで、後鳥羽天皇が正式な天皇になる手続きを踏めると考え、義経安徳天皇八咫鏡草薙剣を奪還することを命じた。対して後白河院は平家の討伐を優先することを望んだ。一応のこと、宮中にある八咫鏡草薙剣は形代(分身)であり、紛失した場合は新たな形代を献上してもらうことが可能である。

義経勢は物量で平家勢に対して有利に合戦を運んだ。敗北を悟った平家の武士は次々と海中に身を投げた。平知盛平資盛・平教経(清盛の甥)をはじめとした平家一門が命を落としただけでなく、安徳天皇までも祖母平時子に抱えられて、八咫鏡草薙剣とともに海中に没した。

義経は合戦に勝利したが、安徳天皇三種の神器のうち2つを奪還するという最重要任務を果たせなかった。

平宗盛・その子清宗・能宗は捕らえられた。建礼門院義経勢に救出されて、出家後は平家を弔う余生をおくった。

平家一門の隆盛と衰亡は、諸行無常の仏教的価値観と劇的な脚色を含んだ「平家物語」として盲目の琵琶引きの僧侶たち「琵琶法師」によって語り継がれた(平曲)。

鳥羽天皇〜六条天皇

嘉祥2(1107)年、堀河天皇が父白河院に先立って崩御し、宗仁親王が即位した(鳥羽天皇)。白河院はその後も政務を続けた。

同時期に、白河院は忠実の娘勲子を鳥羽天皇の后にする話も持ちかけているが、そのことも断っている。

同年、隠岐国にいた源義親出雲国に渡って国司目代を殺害し、官物を奪い取るなど再び狼藉をはたらいた。義親を追討したのは平正盛であり、伊勢平氏が発展する契機となった。後に忠盛は千体観音を寄進して昇殿を許される。

河内源氏の棟梁となった源義忠は、天仁2(1109)年に何者かに殺害された。源重実(満仲の弟満政の子孫)への疑いが晴れると、今度は源義綱の子義明が犯人と疑われ、白河院源為義に追討を命じた。合戦の末に義明は討死、義綱は東国に逃げようとしたが為義と摂津源氏出羽守源光国に捕らえられて佐渡国に流された。為義、時に14歳のことであった。

実のところ、義忠殺害の犯人は義光の命令によるものであった。

義家・義親・義忠などの有力者の死により河内源氏は衰退、伊勢平氏が興隆することになる。

平忠盛は父正盛同様に北面の武士となり、海賊の取り締まりも行った。宋との貿易も伊勢平氏を潤わせた。後に忠盛は、かつての源義家と同様に昇殿を許されるようになる。

鳥羽天皇の母苡子の兄藤原公実は摂政就任を望んだとされるが、藤原忠実が摂政となった。忠実が外戚でないのにも関わらず摂政になったことからも、御堂流が摂関を世襲する「イエ」となったことが理解できる。

公実の子実行が興した三条家は閑院流嫡流となる。弟の通季は西園寺家の祖に位置づけられており、実能は建立した寺の名称から徳大寺家の祖となる。

藤原公実の死後、白河院はその娘璋子を養女として藤原忠通との婚姻を白河院は勧めるが、忠実が断ったためな破談となっている。同時期に、白河院は忠実の娘勲子を鳥羽天皇の后にする話も持ちかけているが、そのことも断っている。

永久元(1113)年年、鳥羽天皇暗殺を示唆する落書が投じられ、その犯人が輔仁親王護持僧で源俊房の子である仁寛だとされ、仁寛は伊豆国に配流、俊房も失脚した。これにより輔仁親王即位の可能性は潰え、村上源氏の主流は源顕房・雅実の系統となった。

永久2(1114)年、熱田神宮宮司尾張職員は娘職子の子である藤原季範に職を譲った。以降の熱田神宮宮司は南家貞嗣流藤原氏によって継承されてゆく。

永久6(1118)年、白河院の主導により、鳥羽天皇は璋子を中宮とした(待賢門院)。白河院天皇の祖父として、また后の父(養父)として、待賢門院を通して政務に指示を出した。翌年に鳥羽天皇と待賢門院の間に産まれた顕仁親王は曽祖父白河院に寵愛された。

保安元(1120)年、忠実は勲子を鳥羽天皇の后にすることを、白河院に無断で進めたが、白河院の怒りを買って内覧を停止され、新たに子の忠通が藤氏長者となった。同年には忠通の異母弟頼長が産まれている。

保安4(1123)年、白河院の意向により、鳥羽天皇は譲位、顕仁親王が即位した(崇徳天皇)。これにより白河院天皇の外祖父にもなった。

天治2(1125)年、藤原忠通は正妻宗子(藤原頼宗曾孫)との間に中々男子が産まれず、異母弟頼長を養子とした。

大治2(1127)年、鳥羽院と待賢門院との間に雅仁親王が産まれた。雅仁親王の乳母には藤原朝子が選ばれた。その夫は藤原南家貞嗣流の学者藤原通憲である。通憲は頼長と並んで学才を讃えられた人物であり、一度高階氏の養子となったため、父祖以来の大学寮の役職に就く道が絶たれたことを嘆いて出家、法号信西とした。しかしその後も政界から退くことはなく、鳥羽院の命を受けて六国史を継いで宇多天皇以降を記す歴史書本朝世紀」の編纂に取り掛かることになる。

乱暴狼藉を繰り返し、罪人を自身の都合で庇うなどして院から忌避された源為義摂関家に接近、為義の次男で後継者の源義賢は頼長と愛人関係になった。義賢の他にも、頼長は多くの男性貴族と関係を持ち、日記である「台記」にその記録を遺している。強弓の使い手で知られる為義の八男為朝は、下向した九州において狼藉をはたらき父の検非違使解任の原因となった。為義の娘の1人は、近江国佐々木荘を拠点とする宇多源氏源雅信の子孫佐々木源秀義に嫁ぎ、長男定綱を儲けた。このことで秀義は為義の郎党となる。

義賢の異母兄義朝は廃嫡されて東国に赴き、平忠常の子孫上総権介平常澄・広常父子などを味方に付けて勢力圏を築いた。常澄は、かつて父常晴が甥の千葉介平常重に下総国相馬群を譲渡していたことに不満を持ち、義朝の武威を背景に相馬群を譲るとの証文を強引に書かせて相馬群の大部分を手に入れた。常重の子常胤は義朝に仕えた。

また、義朝は武蔵国知行国主であった、水無瀬流藤原信頼と協力関係を築いた。

義朝は三浦為次の子三浦義明の娘との間に長男義平を、頼義の郎党佐伯経範の子孫経波多野義道の娘との間に次男朝長を儲けるなど河内源氏に関係の深い人物の娘を妻とした。義朝の正妻は熱田神宮宮司藤原季範の娘(伝承での名前は由良御前)であり、間に産まれた三男頼朝が義朝の後継者とされた。頼朝には複数の乳母がおり、藤原掃部允(本名は遠宗か)の妻(後の比企尼か)、宇都宮の八田藤原宗綱の娘(後の寒河尼)や、相模国鎌倉郡山内荘を領する山内首藤氏の乳母もいた。頼朝は他の兄弟と違って都で養育された。また、元武蔵守の水無瀬流藤原信頼とも協力関係を築いた。足利源義康は由良御前の姪を妻として義朝に接近した。鎌倉景正の子孫大庭太郎平景義も義朝に使えている。

義平は父祖以来の土地相模国鎌倉に拠点を置き、千葉氏・上総氏・波多野氏・山内首藤氏・大庭氏・大中臣氏といった、先祖にゆかりのある氏族を従えた。さらには武蔵国足立郡の有力豪族足立遠元も臣従した。

源義賢は源備殺害への関与者として解官となり、為義の後継者は、義賢と父子の契りを結んだ弟源頼賢が立てられた。その後義賢は上野国多湖庄に移り、南に勢力を拡大しようとして、北上を目論んでいた義平と武蔵国で衝突した。

当時武蔵国秩父次郎大夫平重隆と対立していた甥の畠山庄司平重能、秀郷流足利太郎藤原俊綱、新田太郎源義重は義朝・義平父子と同盟を結び、重能の姉妹は千葉常胤の妻となって胤正と師常を産んだ。常胤は相馬群を上総氏より取り戻し、師常に継承させた。師常は平将門の末裔師国の養子となり、相馬を苗字とした。

新田義重は娘を義平に嫁がせている。対して重隆は義賢に協力した。

英治元(1141)年、躰仁親王が3歳で即位し(近衛天皇)、鳥羽院院政を続けた。近衛天皇崇徳院の養子であったのだが、「皇太弟の即位」とされたため、「天皇の父」でない崇徳院院政を行うことは出来なかった。

康治2(1143)年、藤原忠通は、源国信(源顕房の子)の娘信子との間に、跡継ぎとなりえる男子基実を儲けた。その後も忠通には基房や兼実などの男子が産まれ、実子に摂関家を継がせることを望んだ忠通は兼長の昇進を遅らせたため、忠実・頼長と不仲になってしまった。

上皇の妃である得子は皇后となり、久安5(1149)年、に美福門院の院号を賜った。

久安6(1150)年、頼長は養女多子を入内させると、忠通もまた養女呈子を入内させた。

鳥羽院は、多子を皇后、呈子を中宮として事を収めようとしたが、忠実・頼長と忠通の対立は決定的なものとなった。

同年、藤原忠実氏長者の地位を剥奪したうえで親子の縁を切り、頼長を氏長者とした。

また、平忠盛の弟忠正も頼長に仕えていた。

仁平3(1053)年、伊勢平氏を大きく飛躍させた平忠盛が死去、その権勢と日宋貿易の富は長男清盛へと引き継がれた。

清盛は高階元章の娘との間に重盛・基盛を儲けたが後に死別したらしく、新たに桓武平氏高棟流桓武平氏平時子を正妻に迎え間に宗盛・知盛・徳子・重衡を儲けた。時子の妹滋子は後白河院の寵愛を受けていた。

平清盛の長男重盛は、院近臣、魚名流藤原成親の妹を迎えた。

藤原頼長左大臣となって政治改革を断行し「悪左府(苛烈な左大臣)」と称されたが、政治の実態を無視し、あまりに性急なものであったために不満が募り、また、忠通が近衛天皇に頼長の悪い噂を伝えたことで、頼長は鳥羽院近衛天皇からも疎まれるようになった。

久寿(1155)年に近衛天皇崩御、忠通はそれを頼長が呪詛したためであるとの噂を流し、それを信じた鳥羽院は頼長を失脚させた。

天皇候補としては待賢門院の養育していた重仁親王守仁親王の2人がいたが、鳥羽院守仁親王天皇にすることを構想、守仁親王が実父雅仁親王を通さずに即位することは不都合として、忠通や通憲の推挙もあり雅仁親王が即位した(後白河天皇)。皇太子には守仁親王が立った。そのため、崇徳院院政を行うことは叶わなかった。忠実・頼長父子は崇徳院に接近することになる。

同年、義平は軍勢を率いて源義賢秩父重隆を討ち、その武威から義平は鎌倉悪源太(鎌倉の強い源氏の長男)と呼ばれた。秩父平氏の長は重隆から重能へと移った。重能は三浦義明の娘と結婚、間には重忠が産まれた。これにより、義朝の地位は坂東において磐石なものとなった。義賢の長男仲家は生き延びて、摂津源氏源頼政の養子となる。次男義仲は信濃国木曾の豪族中原兼遠の元で養育された。そして武蔵国の多くの武士が義朝の配下に吸収された。この際に武蔵国の豪族藤原北家秀郷流の藤原掃部允とその甥(養子)の比企能員も義朝に仕えたと考えられる。

保元元(1156)年に鳥羽院崩御すると、崇徳院後白河天皇の間に戦が起こった(保元の乱)。

藤原忠通・通憲は後白河方に、頼長は崇徳方についた。

為義とその子たちのほとんどは崇徳方についたが、為義の七男義隆や、義朝・佐々木秀義は後白河方についた。源頼政や足利源義康も後白河方についている。

伊勢平氏で崇徳方についたのは平忠正の系統のみであり、清盛をはじめとしたほとんどは後白河方についた。

崇徳方は興福寺の協力を取り付けたが、到着する前に後白河方が夜襲を仕掛けて勝利、頼長は矢傷が原因で死去した。大庭景義は為朝の矢によって負傷し、弟の景親が大庭氏を継いだ。

通憲は、平城上皇の変以来公式に行われていなかった死刑制度を復活させたことで、河内源氏では為義やその子頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲が処刑、為朝は伊豆国に流された。

河内源氏為義流の多くの者が処刑されたが、伊勢平氏で処刑されたのは忠正のみであり、河内源氏は更に衰退、伊勢平氏は更に興隆することになる。

崇徳院讃岐国に、頼長の子兼長は出雲国に、師長は土佐国に、隆長は伊豆国に流され、重仁親王は出家した。

忠実は完全に政界から身を引き、忠通は後白河天皇から藤氏長者宣下(任命)を受け、父から財産と権限を取り戻した。

保元の乱で活躍した足利義康は昇殿を許されるまでになったが、保元3(1157)年に死去。義康の子義清・義長そして熱田大宮司藤原氏を母とする義兼はまだ幼かったために、足利氏は足利床における立場を弱くした。義清は丹波国矢田郷を基盤とした。

保元3(1158)年に後白河天皇は譲位、守仁親王が即位した。同年忠通は関白を辞し、子の基実が新たに関白となった。同年、藤原忠通は関白の座を子の基実に譲った。16歳の関白の誕生である。

後白河院の近臣となった藤原信頼は婚姻関係を元に権勢の確立することを画策した。妹を基実に嫁がせ、跡継ぎの信親の妻には平清盛を娘を迎えたほか、自身の異母兄基成の娘を奥州藤原氏3代目の秀衡に嫁がせた。秀衡との間に産まれた泰衡が秀衡の後継者となる。

通憲は自身の子たちを要職に就け、記録所を復活させて荘園整理を行うなど積極的な改革を行ったが、院近臣などの反発を招き、通憲は信頼と対立することになる。

宮中が後白河院院政を望む者と、二条天皇による親政(天皇自身による政治)を望む者に割れるなど、政局は不穏さを増していった。二条天皇外戚に当たる大炊御門藤原経宗(経実の子)や、信頼の母方の伯父(または叔父)藤原惟方は信頼に接近した。

平清盛が熊野詣に赴いている間に、藤原信頼源義朝と組んで藤原通憲の排除を画策、平治元(1160)年、通憲を襲撃し自害させ、子を流罪に処した。通憲の編纂していた本朝世紀も未完に終わる。後白河院二条天皇は信頼の元に留め置かれた。

このことを知った平清盛は熊野詣から引き返して都に帰ると、経宗と惟方は信頼から離反して後白河院二条天皇を清盛の拠点六波羅殿に脱出させた。そのため、清盛は院と天皇を後ろ盾とする官軍となり、信頼・義朝は賊軍となった。源頼政も清盛に与した。

信頼・義朝は清盛に敗れ、信頼は捕らえられて処刑された。義朝一派の東国への逃走の途中で義朝次男朝長は重傷を負って死亡、義朝は尾張国野間で殺害された。

義朝長男義平は清盛の命を狙っていたとされており捕らえられて処刑されたが、三男で嫡男の頼朝は母方の熱田神宮宮司藤原氏後白河院とその姉姉上西門院統子、清盛の継母池禅尼宗子らの嘆願があって助命され伊豆国に流された。

頼朝の同母弟希義は土佐国に流されたほか、義朝の側室常盤御前が産んだ今若・乙若・牛若はそれぞれ醍醐寺園城寺鞍馬寺に預けられた。今若・乙若は出家させられて全成・義円を名乗ったが、牛若は出家することなく、奥州の藤原秀衡の元に移されて養育された。これにより河内源氏義家流の勢力は事実上崩壊した。佐々木秀義も敗走し、近江国を離れ相模国渋谷荘に移った。そこで現地の有力武士渋谷重国と親しくなり、娘を娶って居候することになる。対して三浦義明の一族は相模国に帰国を成功させている。

義朝の死によって坂東の秩序は崩れ、千葉氏と上総氏との間には再び抗争が発生、上総広常は家督を奪おうとする異母兄常景・常茂と争った。常茂は、新たに上総国の受領となった平家方の藤原忠清と結託して広常を圧迫した。千葉氏は相馬の地を常陸の義光流佐竹義宗(昌義の子)に奪われた。さらには平忠盛の娘婿で平資盛の外祖父に当たる藤原親盛によっても圧迫された。武蔵国畠山重能は留守所検校職を秩父重隆の子孫に奪われるなど秩父平氏の立場も逆転した。相模国では三浦氏の勢力が減退し、平家に重用された大庭景親が台頭する。

翌応保(1161)年、後白河院平時子の妹滋子との間に憲仁親王を儲けた。

藤原基実は妻の兄信頼の敗死により立場を悪くした。また、父の忠通は基実の異母弟基房を寵愛しており、自筆の日記も与えている。忠通は摂関家の後継者を基房にすることを構想していたと考えられる。

桓武平氏伊勢平氏の中で、清盛の一門は平家と呼ばれるようになった。

軍記物語「曽我物語」(真名本)によれば頼朝は当初伊豆国の豪族、藤原南家為憲流伊東氏の元に預けられていたことになる。

頼朝が流罪となる以前、伊豆国の伊東・河津・狩野を支配していた工藤(伊東)家継は長男祐家に先立たれており、次男祐継を跡継ぎに定めて伊東を譲り、三男の茂光には狩野を譲った。茂光は当時の伊豆国知行国主だった源頼政に仕えて、他の工藤一族よりも影響力が強かった。祐家の遺児祐親は河津の地を与えられた。頼朝を預かったのは祐継である。

祐継の死後、頼朝の監視役は祐親に引き継がれた。祐親は婚姻による勢力の拡大を試みて、茂光の娘を自身の跡継ぎ三郎祐泰を結婚させたほか、伊豆国田方群北条を治める北条四郎平時政に娘を嫁がせた。

頼朝は祐親の娘(名は八重とされるが確証はない)と恋仲となって、男児千鶴を儲けた。無断で娘との間に子を儲けた頼朝に、平家から目を付けられることを恐れた祐親は激怒、祐親は千鶴を殺害して八重を江間次郎という者と再婚させた。

祐親は頼朝を殺害しようと兵を差し向けたが、頼朝は北条時政の元に逃れた。以降、頼朝は時政の元に預けられることになった。

頼朝は時政の娘政子と結婚、当初反対していた時政も2人の仲を認めることとなる。頼朝と政子は間に大姫を儲けた。北条氏は平直方の子孫を称したが、それは頼朝と政子の結婚を、頼朝の先祖である源頼義平直方の娘の結婚になぞらえるためであると考えられる。

正確な時期は不明だが、時政は祐親の娘と死別後、牧宗親の娘牧の方と結婚した。牧の方は池禅尼宗子の妹という説もあり、都との接点を持った理由とも考えられている。

伊東祐親は祐継の子工藤祐経を養育し娘を嫁がせていたが、後に祐経の伊東荘に進出、自身の所領河津は祐泰に継承させた。そのため祐親と祐経の間に所領問題が生じ、結局は分割して統治することに決定した。

祐経は祐親・祐泰父子を殺害しようとしたが計画が露呈、激怒した祐親は祐経の領地を没収し、娘を離婚させて、相模国土肥郷の桓武平氏良文流土肥次郎平実平に嫁がせた。祐経は報復として祐親・祐泰父子の暗殺計画を実行に移したが、殺害出来たのは祐泰のみであった。祐泰の妻は相模国曾我荘の曾我祐信と再婚、子の十郎祐成・五郎時致は祐信の養子となって祐経を討ち取る機会を伺っていた。

罪人として伊豆国に流された頼朝であるが、多くの支援者がおり生活は安定していた。頼朝の乳母掃部允の妻は、夫とともに都から比企郡へと移住し、比企を苗字とした。比企尼の甥(養子)の比企能員武蔵国比企郡の有力豪族三尾谷氏の娘と結婚して武蔵国における勢力圏を築いて、頼朝への仕送りを行った。別の乳母の甥にあたる下級公家三善康信は都の情勢を伝え続け、母方の叔父祐範は家臣1人を頼朝の元にに送り、毎月使者を派遣していた。

また、頼朝には家臣もおり、比企尼の娘婿小野田(後に安達)九郎藤原盛長、素性不明の中原光家・ 藤原邦通がその主な構成者である。さらには佐々木秀義の子である定綱・経高・盛綱・高綱の4兄弟などが、渋谷重国の屋敷から頼朝の居住地まで通っていた。頼朝は長い間、家臣と暮らしながら経を読む生活を続けた。

平清盛は父忠盛からの日宋貿易に力を入れ、瀬戸内海航路を整備、播磨国の港大和田泊を修築した。平家の富は、宋からの織物や香料・書籍などにより一層増幅した。宋は銭の輸出を禁じていたが、モンゴルとの戦争に用いる火薬の原料となる硫黄を輸入するために宋の政府は密輸を黙認した。また、宋では紙幣が普及したこともあって銭の需要も減っていたことも要因の一つである。

貿易によってもたらされた宋銭により、日本に貨幣経済が浸透してゆく。

二条天皇は、藤原基実の姉育子を中宮として迎え、平清盛・基実と協力して親政を行い、荘園整理を進めた。政界から少し離れざるを得なくなった後白河院は、蓮華王院を造営、そこに荘園が寄進された。

長寛2(1164)年、藤原忠通が死去、これにより基実は摂関家の本流から外れる危機を免れた。そして平清盛の娘盛子を妻に迎え、信頼の妹と離婚。信頼の妹との間に儲けた長男基通を盛子の養子にすることで、異母弟基房より優位に立った。同年、二条天皇に皇子順仁親王が産まれて、中宮育子が養母となったが、二条天皇は翌(1165)年に重病を患って譲位。順仁親王が即位(六条天皇)した同年に23歳で崩御した。六条天皇は2歳(満7ヶ月と11日)という歴代最年少の即位である。

後三条天皇~堀河天皇

治暦4(1068) 年に後冷泉天皇崩御すると、異母弟で皇太子の尊仁親王が即位した(後三条天皇)。

後三条天皇藤原道長の曾孫であったが、天皇と頼通との繋がりは薄くなった。

後三条天皇中宮には、後一条天皇皇女の馨子内親王が立ったが、間に産まれた皇子と皇女は早くに薨去してしまった。他には源基平(小一条院の子)の娘基子が入内している。

延久元(1069)年、後三条天皇は荘園整理令を出し、記録荘園券契所を設置して、国司荘園領主に書類を提出させて荘園を審査した。藤原能信の養女茂子は入内、能信の養子能長の娘道子は貞仁親王の妃となった。そのことから茂子の実家である閑院流は権勢をふるうこととなった。延久3(1071)年、源基子が実仁親王を産んだことで、後三条天皇は、実仁親王を将来皇位につけることを構想したと考えられる。同年、藤原師実の養女賢子が貞仁親王の妃となり、将来外戚となる可能性が表出した。

御堂流の主流は明子所生の系統に移るかと思われた。しかしその後、後三条天皇は頼通の系統に接近、師実の協力を得て、貞仁親王から実仁親王への皇位継承を実現させようとしたことが、頼通流への接近の理由と考えられる。延久4(1072)年、後三条天皇は譲位、貞仁親王が即位した(白河天皇)。中宮には賢子が、皇太子には実仁親王が立った。延久5(1073)年、後三条院と基子との間に輔仁親王が産まれたが、同年に後三条院は崩御した。

延久6(1074)藤原頼通は83歳で死去。同年、2人の子後一条・後朱雀天皇、2人の孫後冷泉・後三条天皇を見送った上東門院彰子が、曾孫白河天皇の治世下において87歳で死去、翌年には教通が80歳死去した。藤氏長者の位は、教通から師実へと継承、以降教通の系統に渡ることはなかった。賢子は敦文親王を産んだのは翌年のことであった。

承保4(1077)年、幼くして敦文親王薨去するが、承暦3(1079)年、賢子は再び皇子善仁親王を産んだ。その後、師実は自身の別荘洛東白河を白河天皇に献上し、そこで法勝寺の建立が始まるなど、白河天皇藤原師実は関係を深めた。

善仁親王の異母兄は仁和寺において出家、覚行を名乗った。覚行は親王に列せられて「法親王」となった。親王になった後で出家した者は「入道親王」と呼ばれる。これを先例として、後継者ではない皇子の多くが出家するということは広く行われることとなる。

永保3(1083)年、清原真衡と、清衡・家衡の間に争いが起こったため、清原氏の領有する陸奥・出羽両国の馬・鉄・アザラシの皮などの富に目をつけた八幡太郎源義家は積極的に清原氏の内紛に介入した。義家は真衡に味方して清衡・家衡を降伏させた。その後、真衡は急死したため、真衡の遺領を含めた清原氏の領地陸奥国6郡は、清衡と家衡が南北に分割して相続した。

応徳2(1085)年、皇太子実仁親王薨去輔仁親王を推す意見を退け、善仁親王を皇太子として、早くも翌日に譲位、善仁親王は即位し(堀河天皇)、天皇の外祖父師実は摂政となった。

家衡は、清衡が地理的に利点の大きい南3郡を相続することに不満を持ち、応徳3(1086)年に家衡は清衡の妻子を殺害するなどして、今度は清衡と家衡が対立するようになった。清衡の要請を受けて義家は再び出兵、忠通流桓武平氏鎌倉権五郎平景正やその従兄弟三浦平為次(為継)が従軍したほか、義家同母弟の新羅三郎源義光も義家からの報酬を求めて協力した。

翌年、義家は家衡が立て篭もる金沢柵を包囲し食糧が尽きるのを待つ兵糧攻めを行った。冬になり凍死する兵もいた苦しい戦であり、食糧が尽きるのが遅くなることを理由に家衡軍からの非戦闘員の投降者など多くの者が殺戮されることになった。

逃亡した家衡は捕らえられ処刑された。

安倍氏清原氏の領地である陸奥国6郡・出羽国3郡を継承した清衡は、実父藤原経清と同じ藤原姓に戻り、奥州藤原氏の祖となり、奥州の富を活用し一大勢力を築いた。

藤原清衡は、浄土教に基づいた寺院である中尊寺金色堂を建立した。名前の通り、奥州で多く産出した金を用いた仕様となっている。

清衡の死後、子の基衡は異母兄惟常を滅ぼして奥州藤原氏を継承、無位無官であったものの、遠く離れた朝廷からは注視されていた。

源頼義安倍氏の争いは「前九年の役」、源義家清原家衡の争いは「後三年の役」と呼ばれ、後に軍記物語「陸奥話記」として記された。

義家は後三年の役において武威を示したが、この合戦は完全な私闘でありどこからも恩賞を貰うことが出来ず、朝廷からも多くの投稿者を殺害したことと、陸奥守として納めるべき砂金の貢納を怠ったことを批判され、陸奥守を解任されるなど、結果として損失が大きかった。

義光は一度都に帰還したが、その後常陸国に土着した。義家の四男義国は、下野国足利荘に拠点を構えた。義光は桓武常陸平氏の豪族平重幹(貞盛の弟繁盛の曾孫)と組んで義国と対立した。

兄義家が陸奥にいる間に、賀茂次郎義綱は摂関家に接近して勢力を強め、盗賊の捕縛などの功績を都の人々から讃えられたが、義家と対立し、合戦にまで発展しかけることがあった。

寛治5(1091)年、藤原師実は、後三条天皇皇女の篤子内親王を養女として堀河天皇後宮に入内させ、同年に中宮とした。

寛治8(1094)年、師実は関白の地位を子の師通にゆずった。師通は漢籍に精通し、大江匡房などを登用して政務を行った。師通の異母弟家忠は花山院家の、経実は大炊御門家の祖となる。同年、源顕房が死去、その後を子の雅実が後を継いだ。雅実は、輔仁親王を後見する伯父俊房と対立した。

師通は最初、藤原頼宗の孫娘全子を妻として間に忠実を儲けたがその後離婚、新しい妻に藤原教通の子信長の娘信子を迎え、教通の邸宅二条殿に住んだ。師通と全子の離婚後、忠実は祖父師実の養子となって養育された。

承徳2(1098)年、閑院流藤原実季の娘苡子(茂子の姪)が入内した。

藤原師通主導で独自の政治が進められている最中、承徳3(1099)年、師通は父に先立って38歳の若さで死去。忠実は、まだ22歳の権大納言であり摂関就任の資格を得る大臣にもなっていなかったため、内覧となった。そのため、道長以来の摂関の地位が空位となった。

その後師実も康和3(1101)年に死去した。

権勢を振るった白河院ですらもどうにも出来なかったものとして、「サイコロの目」「賀茂川の氾濫」とともに「延暦寺の僧兵」が挙げられている。当時、延暦寺興福寺・円城寺といった寺院は多くの荘園を領有し、地方の寺院を支配し、僧兵と呼ばれる武装した僧侶が所属していたほか、神社は神人という者たちを抱えていた。僧兵や神人は神木や神輿を持ち出して朝廷などに押しかけて強訴を行い、神仏の権威を元に寺社の要求を通すことが多くあった。

院政期には、式家の学者藤原明衡が、様々な階級の人々の有様を描く「新猿楽記」を記したほか、大江匡房は、「傀儡子記」「永長田楽記」、他に年中行事や公事について記した「江家次第」や説話を記した「江談抄」を遺している。

天竺・日本・震旦(支那/中国)についての説話を集めた今昔物語集、軍記物語「将門記」「陸奥話記」が著されたほか、異常に長寿な老人が過去の朝廷のありようを語り合う歴史物語「大鏡」がかつての貴族の隆盛をなつかしむ心情から製作された。

都と地方の文化の接点となったのが、寺院に所属せずに民間に布教を行う僧侶「聖」であり、その姿は「信貴山縁起絵巻」に描かれている。「源氏物語絵巻」など、既存の作品も絵巻に描かれることとなった。

四天王寺の「扇面古写経」の下地には庶民の生活が描かれている。

このころ、白河院は自身の乳母の子である魚名流藤原顕季、勧修寺流藤原為房・為隆父子、大江匡衡の曾孫大江匡房や、荘園を寄進してきた者などを院近臣として取り立てたほか、輔仁親王を担ぐ勢力を警戒し、源義家・義綱兄弟や、伊勢平氏平正盛(惟衡の曾孫)などの武士を「北面の武士」として登用した。そのような武士たちは、寺社勢力の強訴への対処に活躍した。

当時は乳母の身内は、頼りにされる存在であり、為隆はその権力から「夜の関白」とまで称された。

白河院は頻繁に熊野三山に詣でたが、それがその後の院にも受け継がれてゆくことになる。

義家は院の昇殿が許可されるなどしたが、後三年の役での出費や、次男対馬守義親が九州で乱暴狼藉を殺害して隠岐国流罪となったそと、義家の四男義国と、弟義光の争いなどにより、河内源氏義家流の勢力に陰りが見えはじめていた。

義家の後継者となった三男源義忠は、新たに都で台頭した平正盛と関係を深め、正盛の娘を妻とした。正盛の子は、義忠より「忠」の字を与えられ(偏諱)、忠盛と名乗った。義忠と伊勢平氏との接近は一部の河内源氏の反感を買った。

次代の河内源氏棟梁は、義忠の弟為義と決定した。

義光の子源義業は、平重幹の子共幹の娘や、藤原清衡未亡人(惟常の母)を妻として、惟常の持っていた勢力を継承できる立場となった。清幹の娘との間に儲けた昌義は常陸国久慈郡佐竹郷を拠点として佐竹氏の祖となる。義光自身も別の清幹の娘を妻として、間に義清を儲けた。義清は常陸国吉田郡武田郷を苗字の地として武田氏の祖となり、常陸国の豪族と衝突して甲斐国に流され、甲斐源氏と呼ばれるようになり甲斐国に勢力を築いた。御旗・楯無は武田氏の継承物となり、甲斐武田氏の惣領の象徴となった。

義国の次男義康は足利氏の祖として下野国足利に地盤を持ち、義康の異母兄義重は上野国八幡荘を地盤を持った。新田氏は足利一門と位置づけられるが、当初からそうだったのかは見解が別れる。

相次ぐ摂関家の有力者の死後、堀河天皇白河院の御所鳥羽殿への行幸を月1回ごとに行うなど、実父を頼りにするようになる。

堀河天皇と篤子内親王との間には皇子女が産まれることはなく、堀河天皇と苡子との間に産まれた宗仁親王が皇太子となる。

白河院藤原忠実儀礼作法を教えるなどして、将来の摂政・関白としての必要な知識をさずけた。忠実が関白となるのは長治2(1105)年のことである。

この時点で、摂関家(藤原北家御堂流)は天皇外戚としてではなく、儀礼作法の知識を持って天皇を支える家系へと変化していった。

白河院を先例として、その後の天皇は早くに次期天皇を定めて譲位することで、自身の子孫へと確実に皇位を伝えようとするようになった。そして院は世を治める「治天の君」として、その命令(院宣)は天皇のものより優先された。

天皇の代わりに政務を行うのが母方の身内(藤原摂関家)から父方の身内(院)へと変化したのである。

忠実は源顕房の娘師子との間に勲子(後の泰子)・忠通などを儲けている。

嘉祥元(1106)年源義家は死去した。

嘉祥2(1107)年、堀河天皇が父白河院に先立って崩御し、宗仁親王が即位した(鳥羽天皇)。白河院はその後も政務を続けた。

参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508

文徳天皇~後冷泉天皇

嘉祥3(850)年、仁明天皇崩御。道康親王が即位した(文徳天皇)。そしてその同年、明子は惟仁親王を産んだ。

文徳天皇は、紀名虎の娘静子との間に惟喬親王・惟条親王、滋野奧子との間に惟彦親王を儲けており、惟仁親王が最も皇子の中で身分が高く天皇に近しいとはいえ良房は油断出来なかった。ただ、惟喬親王の外祖父名虎は既に死去しており、文徳天皇の寵愛以外に後ろ盾はなかった。

最終的には良房の意向の通りに惟仁親王が皇太子となった。斉衡3(856)年には、桓武天皇以来の郊祀祭天を行っている。これは、惟仁親王の正当性を示すために良房が強く推したとの意見もある。

天安元(857)年、藤原良房太政大臣に任じられた。大宝律令成立以来、「太政大臣」という官職名で任じられた皇族以外の人物は良房が初である(藤原恵美押勝 は太師として任じられた)。それに伴い嵯峨天皇元皇子の源信左大臣となった。右大臣は良房の弟良相となった。

翌天安2(858)年、文徳天皇崩御し、惟仁親王が9歳で即位した(清和天皇)。異例の若さである。この幼い天皇を外祖父として補佐した良房は絶大な権力を握ることになった。 良房の子は娘の明子のみであり、兄長良の三男である藤原基経を養子にした。

貞観4(863)年、瀬戸内海における海賊による船舶物資の略奪対策のため、山陽道南海道の諸国に、海賊の取り締まりが命じられた。その後も幾度か追捕の命が出されるようになった。

貞観5(864)年、大納言源定・大原皇女(平城天皇皇女)・統忠子(淳和天皇皇女)・棟氏王(桓武天皇皇子)・藤原興邦(葛野麻呂の孫)・清原瀧雄(舎人親王曾孫)・滋善宗人が死去した。インフルエンザの流行が原因であると考えられる。さらに良岑清風(桓武天皇孫・遍照の兄)・参議正躬王(桓武天皇孫)・菅野人数、さらには源定・源弘兄弟も死去した。そのため、霊の祟りを鎮めるために御霊会が行われた。その際に祀られた霊は、崇道天皇(早良)・藤原吉子伊予親王藤原仲成橘逸勢・文屋宮田麻呂といった、政争に敗れた者たちであった。非業の死を遂げた人々が祟りを成して疫病を流行らせるといった思想は強く存在していた。しかし、同年越中や越後などで地震が起き、多数の死者が出るなど、民政は安定しなかった。

貞観6(864)年、清和天皇元服、藤原順子が太皇太后、藤原明子が皇太后となった。また、中納言平高棟伴善男が大納言、藤原氏宗(興邦の叔父)を権大納言、参議の源融中納言、源生・南淵年名・大江音人・藤原常行(良相の子)・藤原基経が参議となった。藤原基経は7人を超越して参議に任じられたことで、異母兄国経・遠経よりも大幅に出世したことになる。 貞観8(866)年、応天門が出火、大納言伴善男は、犯人は源信であると右大臣藤原良相に告発したことで、源信の邸宅が近衛兵に包囲された。しかし、藤原良房の奏上により嫌疑が晴れ、逆に大宅鷹取という者からの密告があり、父伴善男・中庸父子が放火の犯人であるとの疑いがかけられ、父子は流罪となり、伴氏・紀氏などの多くの者が処罰された。「日本三代実録」には源信に掛けられた嫌疑の詳細は述べられていないが、「大鏡」「伴大納言絵巻」などに記されている、伴善男源信との間に対立があり、火災を利用して失脚させようとしたということは、事実に即したものであると考えられている。応天門炎上の事件の中、藤原良房は「摂政」に任じられており、幼少の天皇の政務代行者となった。ただし、この時点で摂政は一時的な職であると考えられている。

同年、基経は中納言に任じられたほか、基経の妹高子が清和天皇後宮に入内した。翌貞観9(867)年、藤原良相は死去した。また、藤原氏宗が大納言となり、空いた伴善男の地位を埋めた。

貞観10(868)年、高子は清和天皇の皇子貞明親王を産んだ。対して、同じく入内していた、良相の娘多美子は皇子を産むことはなかった。同年に源信は死去、翌年には貞明親王は皇太子となった。異例の早さである。また、元号の名を冠した日本初の通貨である承和昌宝も発行された。貞観11(869)年には貞観格と、仁明天皇一代の国史の「続日本後紀」も完成している。良房とともに続日本後紀を編纂した春澄善縄は陰陽道に強い影響を受けており、貴族間に陰陽道を広めた。

貞観14(872)年、源融左大臣藤原基経が右大臣、源多(仁明天皇皇子)と藤原常行が中納言菅原是善(清公の子)が大納言となった。同年、藤原良房は死去した。

貞観16年、藤原基経の娘佳珠子は清和天皇の皇子貞辰親王を産んだ。

貞観18(876)年、大極殿が焼失、同年に清和天皇は譲位、貞明親王が即位した(陽成天皇)。2代続けての幼帝の即位となった。清和上皇は出家、仏教に傾倒し、修行を行うようになる。そして、基経は幼い天皇を補佐する摂政となった。

元慶3(879)年、藤原基経菅原是善らにより、「続日本後紀」に次ぐ国史である「日本文徳天皇実録」が完成した。名前の通り文徳天皇一代の間の歴史を記している。

清和上皇は基経に対して何度も太政大臣になることを求めたが、基経は辞退を続け、任官したのは清和上皇崩御した元慶4(880)年のことであった。 しかし、このころから基経は何度も辞表を提出するなどした。陽成天皇への不満の表明と見られている。元慶6(882)年に陽成天皇元服すると、基経は摂政の辞表を提出した。

元慶8(884)年、陽成天皇は退位することとなる。退位の理由は、陽成天皇の奇行や犯人不明の源益殺人事件(または過失致死)への関与の疑いとされているが、陽成天皇自身による政治の断行を恐れた基経による廃位とも考えられている。陽成上皇の皇子女は退位後に産まれており、子孫は源氏として臣籍降下する。

陽成天皇の退位後、基経は恒貞親王に即位を要請したが恒貞親王は辞退したため、文徳天皇異母弟の時康親王が即位した(光孝天皇)。55歳という当時としては高齢の即位である。

光孝天皇は自身で政務を行うことはなく、基経が政務を主導した。

光孝天皇の母の藤原沢子(魚名の曾孫)は、藤原基経の母乙春の姉妹であるため、基経と光孝天皇は母方の従兄弟同士であった。

基経は、光孝天皇同母弟の人康親王の娘や、嵯峨天皇の孫の操子女王を妻としたことからも、その権勢が伺える。人康親王の娘との間には時平・仲平・忠平・穏子などが、操子女王との間には温子などが産まれた。

基経は、自身の孫であり、陽成上皇異母弟の貞辰親王光孝天皇の後継者に考えていた。そのため、光孝天皇も自身の系統を一代限りと考えており、全ての皇子女に源姓を与えて臣籍降下させていた。

しかし、仁和3(887)年、光孝天皇が危篤となった際に、基経は、貞辰親王が即位した場合に高子・陽成上皇母子が復権することを防ぐため、光孝天皇元第七皇子の源定省を定省親王として皇族に復帰させた。そのため、基経は「天皇の外祖父」となることは出来なかった。

同年、光孝天皇崩御し定省親王が即位した(宇多天皇)。ちなみに宇多天皇の母班子女王の父仲野親王桓武天皇と藤原河子(浜成の孫)である。しかし、藤原京家が隆盛することはなかった。

宇多天皇後宮には、学者の橘広相(奈良麻呂の玄孫)の娘、義子などがいた。 藤原基経を「阿衡」に任じ、政務を「関(あづか)り白(もう)す」という文書が橘広相によって作成されたが、「阿衡」というのは実体を伴わない名誉職に過ぎないとして、基経は職務を一時的に放棄して、宇多天皇を牽制した。橘広相に不満を持つ者も基経に同調したことで政務が滞った。このことを阿衡の紛議と呼ぶ。 翌仁和4(888)年、基経は正式に、天皇の政務を「関(あづか)り白(もう)す」関白となった。また、橘広相を断罪した。しかし、菅原是善の子、道真が基経を説得したことで、広相が処罰を受けることはなかった。結果として、基経が自身の娘藤原温子を後宮に入内させることで紛議が終息した。しかし、温子は皇子女を産むことはなかった。そのため、宇多天皇の後継者は、藤原胤子(基経の従兄弟高藤の娘)の産んだ敦仁親王となった。寛平3(891)年、基経は死去した。

このころ、唐は安史の乱などの戦乱で衰退していた。そして、それまで国内の商人が国外に出ることを禁止していたものの、国外に出る海賊や商人を制御出来なった。海賊の増加により遣唐使の旅路が以前より危険なものになり、商人の来日で国を介さずとも唐物を手に入れることが出来るようになった。危険を冒す割には得るものがもはや少ないことを理由に、寛平6(894)年、菅原道真の進言によって遣唐使の派遣が中止された。このことは、国際交流の中心が国家から民間へと転換したことを物語っている。

そのような外国との関わりの変化の中で、貴族は檜皮葺の寝殿造と呼ばれる様式の住宅に住むようになった。また、唐風の装束が独自に変化して、男性天皇・貴族の正装の束帯、貴族女性の正装の女房装束(十二単)、男性天皇・皇族の平服の直衣、男性貴族の平服狩衣、女性貴族の平服袿などが生まれた。庶民男性は直垂、庶民女性は小袖などを着用した。当時の出家していない男性にとって、頭頂部を公の場で晒されることは恥ずべきことであった。また、漢字を簡略化させた表音文字が生まれ、漢字を男手と呼んだのに対し女手と呼ばれた。後の平仮名である。日常的な生活に関する知恵を大和魂として、漢学の才能を才(漢心)とする対比も芽生えた。

宇多天皇は道真を重用し、道真は蔵人頭、参議を歴任した。道真は自身の娘寧子を宇多天皇皇子の斉世親王に嫁がせている。斉世親王の母は橘義子である。

寛平9(897)年、宇多天皇は譲位して敦仁親王が即位した(醍醐天皇)。譲位に際して宇多上皇は公事儀式・任官叙位に関する心構えや人物表を記した「寛平御遺誠」を授けている。その2年後の昌泰2(899)年に宇多上皇は出家、初の太上法皇(略して法皇)となる。なお、上皇法皇の御所は院と呼ばれるため、上皇法皇自身も院と呼ばれるようになった。以降、便宜上、上皇法皇は院と表記する。

昌泰2(899)年、醍醐天皇は、左大臣藤原時平と右大臣菅原道真に政治を行わせることにした。また、仁明天皇元皇子の源光が大納言となった。醍醐天皇外戚藤原高藤の子定国は中納言となった。後に定国は大納言まで出世する。

律令制下では、庸・調・雑徭といった成人男性に課せられた税金によって朝廷の財政が賄われていたが、このころ、男性であっても戸籍に女性として登録されることで課税を免れることが横行し、人頭税が減少して財政危機に陥った。そこで道真は課税対象を人から土地へと転換するなどの改革を行った。同年、南家出身で、藤原良尚の子菅根が文章博士となっている。

醍醐天皇の思惑とは別に、宇多院と班子女王は、腹心の菅原道真を通して政治に関与しており、班子女王は時平の同母妹穏子が醍醐天皇後宮に入ることを拒否していた。そのため、時平は醍醐天皇と近しい身内となることができなかった。また、時平の同母弟忠平も宇多院や道真と親しかった。

昌泰3(900)年には醍醐天皇の外祖父藤原高藤内大臣となったが、同年に死去した。高藤の子孫は勧修寺流と呼ばれるようになる。また、班子女王も薨去したことで穏子の入内が叶った。同年、学者で政治家の三善清行は、道真が学者でありながら大臣にまで昇ったことが分不相応だとして辞職を求めるなど、他の学閥からの攻撃を受けることがあった。

昌泰4(901)年、「醍醐天皇を廃位し、斉世親王皇位に就けることを計画し、天皇親王の兄弟の仲を引き裂こうとした。」という理由により、菅原道真大宰権帥として大宰府に左遷された。道真の子たちも同様に左遷されている。時平と光によって貶められたとも考えられるほか、他の学閥による嫉妬が原因とも考えられている。宇多院は道真を弁護しようとしたが、藤原菅根によって内裏に行くことを阻まれ、醍醐天皇も父院に会おうとしなかった。父の影響を削ごうとした意図もあったと思われる。同年、清和・陽成・光孝の3天皇の時代の歴史を記す「日本三代実録」が完成した。これが朝廷が編纂した最後の国史となる。道真の追放によって空いた右大臣のポストには源光が就いた。

藤原時平律令国家の立て直しに尽力した。延喜2(902)年には荘園整理令が出され、強制的な農民の動員による荘園開発や、有力農民が田地を貴族の荘園として寄進することを禁じた。強制動員によって開発された田地を農民に分配することと、借金のかたに没収した田地も返却することを命じた。醍醐天皇の治世は後に「延喜の治」として天皇親政の例として理想化されることになるが、実際は時平の協力があって政権が運営されていた。翌年菅原道真大宰府において死去する。後に道真の子たちは帰京を許された。

律令制の変遷の中で、藤原氏の数が多くなり、出自の判別が困難となった。しかし姓を変えることは出来ないため、新たに「苗字」を名乗りに加える者が現れた。自身が建立した寺の名称から名乗る者や、所領をそのまま名乗る者がいた。また、藤原姓の「藤」と所領の1字を組み合わせた苗字も誕生した。例を挙げるならば、伊勢国に所領を持つ藤原氏の者は「伊藤」を名乗り、佐渡国に所領を持つ藤原氏の者は「佐藤」を名乗るというものである。

醍醐天皇は初の勅撰和歌集である古今和歌集の編纂を命じた。編者の1人である紀貫之は、土佐守の任期を終えて都に帰るまでの出来事を、女手を用いて「土佐日記」として記した。漢文では表すことの出来ない細やかな心のありようを表現することを狙ったものである。和歌にも平仮名が用いられるようになった。

9世紀の末には、税の未進(未納)の責任は全て守が負い、介・掾・目の処遇に関する権限を得て受領と呼びれるようになる。受領は、受領以外の国司(任用国司)を伴って任国に赴いて経営を行った。受領国司は税の納入を怠らないならば任国経営や徴税方法に中央政府からの干渉を受けないようになるなど、徴税請負人化して権限が強化された。そのため、受領は大きな収入を得ることのできる官職となった。国司は荘園を認可することが可能であり、そのようにして認可された荘園を国免荘と呼ぶ。太政官民部省から所有権と減免が決定された荘園は官省符荘といって、国免荘よりも権利が大きかった。官省符荘の減免は指定の免田に限定されており、検田の際に免田は把握されていたが、特別な理由で検田が免除される「不入の権」が発生することもあった。国司は減免を行うことで私領の開発を促進させた。

前に述べたように、課税対象は人から土地に変化したため、受領国司は耕地を「名」という単位に分割して、名を耕作し税を納めることを農民に課した。名を耕作し納税する農民を負名と呼び、この仕組みを負名制という。負名の中での有力者は、経営者としては「田堵」と呼ばれ、大きな土地の耕作を行う田堵は大名田堵と称された。後の大きな領地を納める有力者を表す大名の由来となる名称である。

班田として与えられた口分田は名に吸収されるなどして、律令制の形骸化は進んでいった。

免田型荘園は、税の減免を認められた私領(免田)が集まったものであり、荘園領主に招かれた田堵は領主と国司のどちらにも納税した。

貴族の家・大寺院・大神社などの権門勢家と呼ばれた組織が強い力を持ち、普段は農村を耕作し権門勢家に物品を納める奇人と呼ばれる人々が仕えていた。奇人は税の免減を要求する権利を持っていた。

権門は奇人を呼び込むために国司に圧力をかけて減免を強いることもあったほか、権門に忖度した国司が奇人の要求を承認することもあった。

延喜6(906)年には藤原定国は死去、高藤の系統の中心は弟の定方に移り、最終的に右大臣に昇る。定方は山科に勧修寺を建立して氏寺としたため、勧修寺流の祖となる。子孫の嫡流は勧修寺家を称し、吉田家・甘露寺家・坊城家・万里小路家などの分流が生じた。

延喜7(907)年には延喜通宝が発行された。

時平の同母妹穏子と醍醐天皇の間には保明親王・康子内親王・寛明親王・成明親王が産まれた。保明親王は皇太子となり、妻に時平の娘仁善子を迎えた。間には慶頼王が産まれた。また、娘の1人は醍醐天皇同母弟敦実親王に嫁ぎ、源雅信・重信などが産まれている。

しかし、延喜9(909)年に藤原時平が39歳で死去。延喜13(913)年に源光が溺死。延長元(923)年には保明親王薨去、変わって皇太子となった慶頼王も延長3(925)年に薨去する事態となり、保明親王同母弟寛明親王が皇太子となった。 時平の死後は同母弟忠平が藤氏長者(藤原氏の当主)となった。時平の男子は短命なものが多く、高い位に昇る者はいなかった。宇多院は親しい忠平を通して朝廷の政務に介入することになる。

延長5(927)年、延喜格式が完成した。それまでの弘仁格式貞観格式と合わせて、三代格式と称されるものである。

延長8(930)年には天皇の御殿の清涼殿に落雷があり、大納言藤原清貫(藤原継縄子孫・在原業平孫)などが死亡した。そして同年に醍醐天皇は体調を崩して譲位。寛明親王が即位した(朱雀天皇)後にほどなくして崩御した。相次ぐ朝廷の人々の死去は、菅原道真の祟りであると噂された。後に道真は北野天満宮を中心として祀られ、学問の神天神として信仰された。また、宇多院も翌承平元(931)年に崩御し、天皇家内で最年長となった穏子の発言権が強まった。

朱雀天皇慶頼王の同母妹煕子を後宮に迎え、藤原忠平は関白となった。承平6(936)年には太政大臣に任じられた。 忠平が建立した法性寺では、天皇・后妃の仏事が行われた。

このころ、後に武士と呼ばれる者たちが台頭しはじめていた。

兵役を停止したことで治安維持に影響が現れ、坂東(東国)の国々では「僦馬の党」と呼ばれる盗賊団が調・庸を運んでいるところを襲うなどして暴れるようになり、その有様は群盗蜂起と呼ばれた。

盗賊団の鎮圧に向けて、坂東の国司たちは蝦夷から乗馬の技術を学んで武装を強化、群盗の一部を説得して軍団に組み込むこともあった。それらの国司の一部は任期が終えても都に帰還することなく、坂東の田畑を開発して土着した。 桓武天皇の曾孫(または孫)で平高棟の甥にあたる高望王は伯父と同様に臣籍降下して平高望となり、上総介に任じられて国司として関東に赴いた。高望もまた、国司の任期が過ぎても都にもどることなくそのまま土着した貴族の代表的な存在である。

高望の子には国香・良兼・良将・良文などがおり、それぞれが所領を持った。平国香は源護の娘を妻として、護の領地を受け継いで勢力を拡大した。また、国香は藤原村雄(魚名の子孫)の娘も妻にしており間には貞盛が産まれた。良将は下総国に拠点を築き、子の将門は藤原忠平に仕えた。良文は武蔵国常陸国に拠点を持った。国香の次男繁盛は、良文の子忠頼・忠光兄弟と対立するようになった。また、良文の子平忠道は源頼光に仕えていたと「今昔物語集」にはあり、子孫は相模三浦氏となる。

承平5(935)年、自身の領地に帰った将門は、源護の子源扶・隆・繁の3兄弟と争ってこれを討ち取り、伯父の国香・良兼兄弟とも対立、国香と源護を攻撃し、国香は戦死した。これにより将門は一族の多くと対立することになる。将門は尋問を受けたが、朱雀天皇元服(成人の儀式)に伴い赦された。

天慶2(939)年、清和天皇の孫(または陽成天皇の孫)の武蔵介源経基興世王の部下として武蔵にいた。しかし、興世王・将門・武芝の3人が結託して自身を殺害しようとしていると疑い、都に戻って太政官に将門らが謀反を企んでいると密告した。これに対し将門が忠平に事実無根と釈明したことで、経基の密告は虚偽であると朝廷は判断し、経基は左衛門府に拘束された。 同年、将門は常陸国府軍と交戦し降伏させ、続いて下野・上野を手中に収め、関東一帯を支配、新皇を名乗った。

このことは、朝廷から反逆行為とみなされ、源経基の密告も事実であったとして解放された。上総国に基盤を持っていた藤原菅根の子藤原元方を大将軍として、平国香の長男貞盛、藤原村雄の子秀郷、平高望の娘婿木工助藤原為憲(乙麻呂の子孫)、源経基が将門を追討。矢が命中して将門は死亡した。平貞盛の子の中で、平惟将は相模介となり、相模国鎌倉に勢力圏を築いた。貞盛自身は活動拠点を都に移し、軍事貴族として鎮守府将軍などを歴任した。平将門の娘春姫は従姉弟忠頼に嫁ぎ、忠常や将恒などを産んでいる。

平将門の乱の顛末は後に「将門記」に記され、合戦を中心として、時に創作を織り交ぜた歴史叙述である「軍記物語」のさきがけとなった。

藤原基経の異母兄遠経の孫にあたる純友は、伊予掾として伊予国に赴き海賊を平定したが、その後も都に戻ることなく土着、従わせた海賊を率いて瀬戸内海で反乱を起こした。

朝廷は小野好古(篁の孫)、源経基などを派遣して純友を追討した。鎮圧されたのは2年後の の天慶4(941)年であった。純友は捕らえられて殺害されたとも、獄中で没したとも、行方不明になったともいわれる。将門と純友の反乱を合わせて承平・天慶の乱という。

源経基の子満仲と、藤原秀郷の子千晴は、武蔵において勢力争いを行うなど、対立するようになった。

藤原為憲は官職木工助の「工」と姓の藤原の「藤」を組み合わせえ「工藤大夫」を称しており、子孫が苗字とした。孫の惟景は伊豆国に移り、本流は伊東荘に住んで伊東を苗字とする。

また、地震や洪水も頻繁に発生、菅原道真の祟りと恐れられた。そのため、道真の怨霊を学問の神として北野天満宮に祀ることで怒りを沈めることを試みた。これにより、道真の名誉が完全に回復された。

朱雀天皇は煕子女王との間に昌子内親王を儲けたが、跡継ぎとなりうる皇子が産まれることはなく、実母穏子の意向で24歳にして譲位、同母弟成明親王が即位した(村上天皇)。

藤原忠平が天暦3(949)年に死去すると、村上天皇は関白を置くことはなかった。国司や官人の勤務を厳正に評価、財政の安定のために倹約に努めたことで、村上天皇の治世も「天暦の治」と呼ばれ、父帝の治世とともに後世に理想化された。

以降、摂政・関白の地位は忠平の子孫によって継承され、藤原摂関家と呼ばれるようになる。 忠平の死後は長男の実頼が左大臣に、次男の師輔が右大臣として政務を行った。実頼の家系は小野宮流、師輔の家系は九条流と呼ばれるようになる。

実頼は藤原時平の娘を妻として、間に敦敏・頼忠・斉敏・述子が産まれた。頼忠は母方の伯父保忠(時平の子)の養子となっていたが、兄敦忠・養父保忠の早世により、小野宮流の嫡流を継承することになる。藤原敦敏の子佐理は父の早世により出世が遅れたが、能書家として草書体の書画を讃えられた。斉敏の子実資は、忠平・実頼と伝えられた口伝を継承、清慎公記を記して小野宮流故実を創始した。また、日記として「小右記」を遺している。

師輔は藤原盛子(巨勢麻呂子孫)や、醍醐天皇皇女の勤子内親王・雅子内親王・康子内親王姉妹を妻とした。盛子の間には伊尹・兼通・兼家・安子などを、雅子内親王との間には高光・為光などを、康子内親王との間には公季などを儲けた。

藤原元方は娘の祐姫を、実頼は娘の述子を、師輔は娘の安子を後宮に入内させた。祐子は第一皇子広平親王を、安子は憲平親王為平親王・守平親王などを儲けた。しかし、述子は皇子を儲けることはなかったため、実頼は天皇外戚となることは出来なかった。村上天皇は他にも、異母弟代明親王の娘荘子女王との間に具平親王などを儲けている。具平親王は伯父為平親王の娘を妻としている。

師輔の地位の高さから憲平親王が皇太子となり、外戚となる望みを絶たれた元方は、天暦7(953)年、怒りの中で死去した。

天徳2(958)年に発行された乾元大宝を最後に、朝廷は銭貨の発行を停止する。和同開珎から乾元大宝までの12の銭を皇朝十二銭と呼ぶ。その後、既存の銭貨の材料の金属の価値が下落したことで銭貨が使用されなくなり、米や布などが通貨として使用されるようになった。

天徳4(960)年、師輔は兄実頼に先立って死去した。

康保6(967)年に村上天皇崩御、憲平親王が即位し(冷泉天皇)、従姉弟昌子内親王が皇后となった。実頼が関白となり、醍醐天皇元皇子で師輔の娘婿の源高明左大臣に、師輔の同母弟藤原師尹が右大臣となった。実頼は外戚でないため、揚名関白(名ばかりの関白)と称された。高明は自身の娘を冷泉天皇の同母弟為平親王に嫁がせた。

冷泉天皇の皇太子には為平親王がなると思われたが、高明が外戚となって権力を握ることを警戒され、同じく同母弟の守平親王が皇太子となった。師輔が既に世を去っていたため、高明は後ろ盾がなく孤立した。

安和2(969)年、源満仲が、「源高明が謀反を企てている」という内容を密告したことで、高明は大宰府に左遷された。高明に仕えていた藤原千晴もまた失脚し、満仲は競争相手を減らすことに成功した。

秀郷の子孫は都を離れ、武士として地方に土着するようになる。秀郷の武名から、多くの家系が子孫を自称した。

為平親王具平親王の子孫の多くは臣籍降下して、村上源氏として栄えた。

満仲は摂関家に仕えてその地位を安定させた。また、嵯峨源氏源俊の娘との間に長男頼光を、藤原元方の子致忠の娘との間に次男頼親・三男頼信などを儲けた。その任地から、頼光の家系は摂津源氏多田源氏、頼親の家系は大和源氏、頼信の子孫は河内源氏と呼ばれるようになる。

師輔の長男伊尹は娘の懐子を、兼家は娘の超子を冷泉天皇後宮に入内させた。懐子は師貞親王などを、超子は居貞親王・為尊親王敦道親王などを産んだ。兼家は孫の居貞親王を寵愛したという。

安和2(969)年、冷泉天皇は20歳で譲位、守平親王が即位した(円融天皇)。皇太子には師貞親王が立った。

実頼は摂政となったが翌天禄元(970)年に死去、伊尹が摂政となった。容貌優れ学才豊かで将来を期待されていたが、同年、伊尹は孫の師貞親王の即位を見ることなく死去した。贅沢が糖尿病を誘発したことが原因と考えられている。

その後は伊尹の同母弟兼通と兼家が関白の座を争ったが、兼通は、亡き姉安子の遺した「関白は次第のままに(関白は兄弟の順序で就任すること)」という文書を持ち出して、内覧(奏上と宣下の文書の確認を行う、関白に准じ、政務代行を行う)に任じられ、内大臣も兼任、天延2(974)年には太政大臣・関白となり、兼家を出し抜いた。兼通は娘の媓子 を円融天皇後宮に入れ皇后に立てるが間に子を儲けることはなかった。 翌年、兼通は最期を悟り、兼家を治部卿に左遷したうえで実頼の子頼忠に関白の座を譲った後に死去した。

兼通の死後、天元元(978)年に兼家は

娘の詮子を入内させ、右大臣に任じられるなど、かつての権力を取り戻した。同年、関白頼忠も娘の遵子を入内させている。円融天皇は遵子を皇后にするなど、兼家とは不仲であった。しかし、詮子は懐仁親王を産んだが、遵子は皇子を産むことがなかった。最終的に兼家の圧力に屈して円融天皇は譲位、師貞親王が即位し(花山天皇)、懐仁親王が皇太子になった。花山天皇の皇后には兼家の異母弟為光の娘忯子が立った。

円融院は引き続き頼忠が関白であり続けることを望んだが、頼忠は影響力が低下、伊尹の子藤原義懐が政治を主導した。しかし、義懐はすでに父伊尹、兄拳賢・義孝を亡くしており、近しい身内のいない不安定な地盤であった。

花山天皇は忯子を寵愛したが、花山天皇の即位の翌年に薨去花山天皇は出家して譲位、懐仁親王が即位した(一条天皇)。「大鏡」によれば、兼家は自身の三男道兼を花山天皇の元に遣わして出家をそそのかしたという。皇太子には従兄居貞親王が立った。そのため、皇太子が天皇よりも年長という事態となった。

花山院が出家後に儲けた2人の皇子昭登親王・清仁親王は、祖父冷泉院の子として扱われた。清仁親王と、源頼親の娘を妻として産まれた延信は源氏となった。源延信の曾孫の顕仁は神祇伯となり、白川伯王家の祖となる。白川伯王家は、神祇伯に任じられた当主だけが源氏でなくなり、王を名乗るという他の源氏とは一線を画した家系である。

花山天皇の退位により義懐は外戚の地位を失い、兼家は孫の一条天皇の即位によって外戚としての地位を確立し摂政となった。即位に際して高階成忠従三位となり、高階氏で始めて公卿に列した。

兼家の子には、時姫(魚名子孫)との間に道隆(長男)・道兼(三男)・超子・詮子・道長(五男)、藤原倫寧の娘(基経同母弟高経曾孫)の間に道綱(次男)などがいる。時姫は葛野王の血を引いており、称徳天皇以来268年ぶりに天武天皇の子孫が天皇になったことになる。

兼家は後に藤原倫寧の娘(藤原道綱母)と不仲になって合わなくなり、道綱は母の元で養育された。道綱母は「蜻蛉日記」を記した。兼家の自身への態度に対する怒りや、兼家の他の妻への対抗心、道綱への愛情が感じられるものになっている。子の道綱は他の兄弟よりも出世は遅れた。また、道綱は源頼光の娘や、源重信の娘を妻としている。後に道綱母の妹は、菅原道真の子孫である菅原孝標と結婚、間に産まれた娘は「更級日記」を記す。無常観を感じられる日記文学となっている。

道隆は高階成忠の娘貴子を妻として、間には伊周・定子・隆家などが産まれた。道隆の家系は中関白家と呼ばれることになる。

正暦元(990)年、道隆は娘の定子を入内させ、一条天皇の皇后にした。同年兼家は死去し、道隆は内大臣から関白となる。清原元輔の娘清少納言は定子に仕え、随筆「枕草子」を記した。清少納言の兄清原致信は大和源氏源頼親の従者当麻為頼を殺害したために頼親の従者秦氏元に殺害されている。道長は、頼親が対立者を度々殺害していたことを日記に記している。定子は一条天皇との間に敦康親王を儲けた。

円融院が翌年に崩御すると、道隆は妹の詮子を上皇に准じる女院とした(東三条院)。 以降、故人となった太皇太后・皇太后・皇后、及びそれに準じる女性に院号が贈られることとなった。

正暦5(994)年、道隆は伊周を21歳の若さで内大臣に任じた。これは道隆の弟権大納言道長らを超えての昇進であり、反感を集めた。

長徳元(995)年は疫病が流行したほか、道隆も持病の糖尿病が悪化、伊周は道隆が病の間という期限付きで内覧となった。道隆は娘の原子を皇太子居貞親王に嫁がせたものの、伊周が関白になることを望んだが認められぬまま死去、伊周は内覧ではなくなり、同母弟道兼が関白となる。

しかし、道兼は関白となって11日で死去し、七日関白と称された。道兼に仕えていた源満仲の三男頼信は、兄頼光・頼親とともに道長に仕えるようになる。頼光は酒呑童子退治などの伝説が有名な軍事貴族であるが、武官としてよりも文官としての活動が多い。 一条天皇は、母東三条院の推薦で道長を内覧に任じ、翌年には左大臣を兼任、太政官の一上(首班)となり、公卿を決定する陣定を指揮下に置いて人事権を掌握した。 伊周・隆家兄弟は道長と強く対立することとなり、道長と伊周が激しい口論に及んだほか、道長と隆家の従者が乱闘になって死者が出るなどがあった。

長徳2(996)年、藤原伊周・隆家兄弟の従者は、花山院の従者と藤原為光(既に故人)の屋敷で乱闘し、花山院の従者の童子2人が殺害された。隆家の従者が射た矢は花山院の袖を貫通したという。また、伊周の祖父高階成忠道長を呪詛したことが発覚、伊周・隆家兄弟はそれぞれ大宰権帥・出雲権帥に左遷された。

長徳5(999)年、東三条院が病となり、道長の勧めで病気回復のための大赦が行われ、伊周・隆家兄弟は罪を赦された。同年、藤原元方の子致忠は前相模守橘輔政の子と家臣2人を殺害し、佐渡流罪となった。

致忠の子には、文章博士であった大江匡衡を襲撃して検非違使に捕縛され、後に海賊となった斉明や、武勇に名を馳せた保昌、他にも強盗障害事件を起こし捕縛され、裁きが下る前に腹を切って死亡した保輔などがいる。保輔は日本の記録上始めて切腹によって死んだ人物である。このように、藤原菅根の子孫は学者としてよりも武士として独自の基盤を築いた者が多い。致忠の娘を母とする源頼信は、その地盤を受け継ぎ関東に勢力圏を築くことになる。

その後長らく左大臣道長、右大臣藤原顕光(兼通の子)、内大臣藤原公季という序列は動かなかった。また、藤原頼忠の子公任や、藤原伊尹の孫で義孝の子である行成などの、藤原北家本流から外れた者たちも道長の政務を支えた。行成は書道の一流派世尊寺流を興し、藤原佐理小野好古の弟道風とともに三跡と称された。また、行成は日記として「権記」を遺している。

外出などの際に悪い方角であれば一旦別の方角に向かう方違えといった風習が存在するなど、このころの貴族間で陰陽道は重宝され、安倍晴明などの陰陽師が活躍した。出産の際の母子の健康のために、また、病を治すために、医者が呼ばれるより前に密教僧や陰陽師による加持祈祷が行なわれた。

また、阿弥陀如来に導かれて来世に極楽浄土に生まれ変わること(往生極楽)を勧める浄土教が、「往生要集」を著した恵心僧都源信などにより広まった。このことは、もうじきブッダの教えが失われ仏道修行が意味をなさなくなる、末法の世が到来するという末法思想の浸透が理由に挙げられる。源信は、阿弥陀如来の世界を観想する「念仏」を帰依すべき教えとした。源信道長などの宮廷貴族の帰依を受け、浄土教はさらに広まっていった。

道長源雅信(宇多天皇の孫・藤原時平孫)の娘倫子や安和の変で失脚した源高明の娘明子などを妻として、倫子との間には彰子・頼通・姸子・教通・威子を明子との間に頼宗・顕信・寛子・尊子・長家が産まれた。源雅信源公忠(光孝天皇孫)の娘との間に儲けた時中は大納言となり、蹴鞠の名手であったため、後に子孫の家業となる。

長保2(999)道長は彰子を後宮入内させた。そして、彰子の称号を皇后の別称である中宮として(上東門院)、事実上2人の皇后が存在するという一帝二后という特異な状況となった。

ほどなくして定子は薨去、遺児敦康親王は上東門院が引き取って養育した。清少納言は宮中を退去している。 寛弘5(1008)年、一条天皇は上東門院との間に敦成親王を儲け、翌年には敦良親王が産まれた。

寛弘7(1010)年には道長は娘の姸子を皇太子居貞親王の妃とした。同年、藤原伊周は死去した。 藤原為時(高藤の兄利基の曾孫)の娘紫式部は女房として彰子に仕え、恋多き貴公子光源氏を主人公とした「源氏物語」を書いたほか、「紫式部日記」は「蜻蛉日記」や「更級日記」と並ぶ平安期の女流日記文学である。また、為尊親王敦道親王兄弟との熱愛で知られる和泉式部も彰子に仕える女房であった。和泉式部橘道貞と結婚して間に小式部内侍を儲けたが、後に離別し、そのころ道長に仕えていた藤原保昌と再婚した。「和泉式部日記」も今日に伝わっている。大江匡衡の妻赤染衛門も彰子に仕え、道長を肯定的に評価する歴史物語である「栄花物語」を著したとされる。

寛弘8(1011)年、一条天皇は譲位して崩御。居貞親王が即位し(三条天皇)、道長の孫敦成親王が皇太子となった。道長は、娘姸子を中宮に、姸子より先に嫁いでおり敦明親王などを産んでいた娍子(師尹の孫娘)を皇后とした。姸子は禎子内親王を産んだ。

三条天皇は兼家からは寵愛されていたが、道長との関係は微妙になっており人事を巡って度々対立した。長和3(1014)年に三条天皇が眼病を患い政務に支障が出ると、それを理由に敦成親王に譲位するよう圧力をかけた。同年、隆家は大宰権帥として任地に赴いた。

長和5(1016)年に三条天皇は譲位、道長の孫敦成親王が即位した(後一条天皇)。それに伴い道長は摂政となった。翌年には摂政を辞して長男頼通に譲り、摂政・関白を引退した者の称号である「太閤」や「大殿」という呼び名で呼ばれた。

後一条天皇中宮には道長の娘威子が立った。道長は3代の天皇に、続けて娘を中宮として嫁がせたことになる。

道長が法成寺を建立して以降、天皇・后妃に関する仏事は法成寺で行われることとなった。道長は関白になることはなかったが、その権勢と、道長が建立した法成寺の通称である「御堂」から御堂関白と呼ばれ、日記も「御堂関白記」と称される。子孫の家系は御堂流と呼ばれた。

三条院の意向により、後一条天皇の皇太子には三条天皇皇子敦明親王が立った。しかし、頼通の関白就任の同年に三条院は崩御敦明親王は皇太子位を降りた。そのため道長後一条天皇同母弟敦良親王を皇太子にした。敦良親王の妃として、また娘の嬉子を嫁がせた。間には親仁王が産まれた。敦成親王東宮学士となった、藤原真夏の子孫資業は、建立した法界寺の別名日野薬師から家名を日野家とする。以降も日野家は一定の家格を保ち続けた。

敦明親王は皇太子位を辞することと引き換えに上皇に准ずる地位を得て(小一条院)、道長の娘寬子を妻とした。他にも道長の子頼宗の娘を妻として、間に生まれた子は源基平として臣籍降下した。

寛仁2(1018)年、道長は望月の歌と呼ばれる和歌を読んだと実資の「小右記」にある。「この世をば 我が世とぞ思う 望月の かけたる事も なしと思へば」 というものであり、自身の思い通りにならないものは何もなく、今宵の満月のように欠けたところがないという意味である。しかし、そのころの道長はかつての兄道隆と同様に糖尿病が進行し白内障となって、近くのものしか判別出来なくなっており、満月の姿もはっきりと見ることは出来なかったと思われる。道長は栄華を極めたが、その職務は激務であった。

寛仁3(1019)年、刀伊とよばれる大陸の女真族の海賊が壱岐対馬を襲撃し、筑前にまで進行したが、大宰権帥藤原隆家の指揮により撃退に成功、捕虜を奪還した。兄伊周の子藤原道雅は和歌に優れていたものの乱闘事件を頻繁に起こした後に失脚、伊周の子孫の多くは出家してしまう。そのため隆家の家系が中関白家の本流となり、水無瀬家などの祖先となった。

寛仁5(1021)年、左大臣藤原顕光が引退したことで政権に変化が生じたことに伴い、人事異動が行なわれ、道長の叔父藤原公季太政大臣となった。公季の子孫は閑院流と呼ばれるようになる。公季は孫の公成を養子とした。

藤原能信は伊周の娘を妻としたが子女に恵まれず、公成の娘茂子を養女としたほか、同母兄頼宗の子能長を養子とした。

藤原頼通は、具平親王の娘である隆姫女王(母は為平親王娘)のみを妻としており、間に子が産まれなかった。その状況を父道長は憂慮し、既に父具平親王と祖父為平親王を失っていた資定王を猶子(相続関係のない養子)として頼通と隆姫女王に養育させた。

仮に頼通に子が産まれなければ資定王が頼通の後継者となったとも考えられている。結局は、頼通が同母弟教通の子信家を猶子にしたことや、頼通が隆姫女王の従姉妹と通じて間に通房を儲けたことで、資定王が摂関家を継ぐことはなかった。

その後、資定王は臣籍降下して源師房となり、頼通の異母妹尊子を妻に迎えて摂関家の一門となった。源師房などの村上源氏は以降も有力貴族であり続けた。頼通は師房の姪祇子との間に定綱・忠綱・俊綱・寬子などを儲けたが、摂関家を信家、後に通房という流れで継承させるために、定綱は藤原経家(公任の孫)、忠綱は信家、俊綱は橘俊遠の養子とし、三男は出家し覚円と名乗った。頼通は道房を異例の早さで出世させたため、道房と教通の嫡子信長の位階には大きな差が生まれた。

道長は出家した後も政治を主導したが、糖尿病に悩まされ続けた。その後、道長は寛子・嬉子・顕信・姸子といった子たちに相次いで先立たれた。姸子の死後、その子禎子内親王は彰子に後見された。

万寿4(1027)年、法成寺阿弥陀堂の9体の阿弥陀像から伸ばされた糸を手に握りながら道長は死去した。

同年、平忠常上総国国衙(国司の役所)と敵対、翌年に安房守平惟忠を殺害した。朝廷は平惟時の子直方と中原成道を追討使に任じた。しかし中々追討は進まず、忠常の上司であった源頼信が追討を命じられて赴くと、忠常は戦うことなく降伏した。

頼信は忠常を連行して都に向かったが、途中で忠常は病死した。忠常の子常昌と常親は処罰されることはなかった。忠常の子孫は千葉氏や上総氏などとなり、忠常の弟将恒の子孫は秩父氏・江戸氏を称し、関東に勢力圏を持った。以降、千葉氏は河内源氏と主従関係を結ぶようになる。頼信の長男頼義は平直方の娘を妻として直方の根拠地である相模国の鎌倉を継承した。それに対し、平貞盛の子で平惟将の弟の惟衡は関東を離れて伊勢国に勢力圏を築いた。

頼義と直方の娘との間には義家・義綱・義光の3人の男児が産まれた。石清水八幡宮元服した義家は八幡太郎、加茂神社で元服した義綱は賀茂二郎、新羅明神元服した義光は新羅三郎と呼ばれた。

このころ、軍事貴族国司を棟梁とした「武士」の台頭が顕著となり、家子と呼ばれる一門や郎党と呼ばれる従者を率いた。武士には、源満仲の子孫のように貴族に仕える者たちや、平高望の子孫のように都に帰ることなく土着した者たちがいた。また、「滝口の武士」として宮中の警備や貴族の身辺・市中の警護を行う者たちもいた。

後一条天皇は威子との間に章子内親王と馨子内親王を儲けたが、皇子が産まれることはなく、長元9(1036)年に崩御し、敦良親王が即位した(後朱雀天皇)。皇太子には、親仁親王が立った。皇后は三条天皇皇女禎子内親王が(陽明門院)、中宮には敦康親王娘の嫄子が立った。寛子は入内出来る年齢に達していなかったため、頼通は嫄子を養女として入内させている。実の娘ではなくとも嫄子が皇子を産めば頼通は外戚となりえた。しかし長暦10(1037)年、頼通養女嫄子は2人の皇女祐子内親王・禖子内親王を遺して24歳で死去した。そのため頼通は外戚となることが出来なかった。頼通同母弟教通の娘生子や異母弟頼宗の娘延子が後宮に迎えられた。このことで頼通と教通の関係は悪化した。

長久3(1042)年、51歳の頼通は祗子との間に藤原師実を儲けた。師実長男通房は寛徳元(1044)年に20歳で死去した際に、他の男兄弟は他家に養子に行っているか出家していたために、頼通の後継者は幼年の師実となった。その後も頼通は寬子以外の娘を儲けることはなかった。幼年の師実が跡継ぎという事態に頼通は危機感を覚え、師実を道房以上の早さで出世させた。師実は源師房の娘麗子を妻とすることになる。師房の子俊房・顕房もまた昇進は早かった。

禎子内親王尊仁親王を産んだが、嫄子と同様に生子・延子が将来天皇となり得る皇子を儲けることはなかった。

後朱雀天皇の時代には京で放火が頻発したほか、天然痘も流行するなどした。

寛徳2(1045)年、後朱雀天皇は譲位、親仁親王が即位した(後冷泉天皇)。皇太子には異母弟尊仁親王が立ち、中宮には後一条天皇皇女章子が(二条院)、皇后には頼通の娘寬子が立った。史上始めて3人の后が並び立った。しかし、後冷泉天皇は病弱なうえに、全ての后が皇子女を産むことはなく、またも頼通は外戚になることが叶わなかった。藤原北家御堂流は、倫子所生の頼通・教通の系統と、明子所生の頼宗・能信の系統に大まかに分かれた(頼宗の同母弟顕信は若くして出家した)。

道長の五男長家は、明子を母としていたが倫子の養子になった。しかし、頼通や教通のように大いに出世することはなかった。長家は歌人として活動、子孫の家系は御子左流となる。

永承16(1051)年、衣川の関所を南下して所領の外に侵攻して勢力を広げようとしたことや、税を納めようとしなかったことを理由に、陸奥国に勢力圏を持っていた安倍頼良に対して追討が命じられ、源頼義鎮守府将軍としてその任を負った。この一件は、藤原彰子の病気の回復を願って大赦が出されたことで、頼良は赦され、頼良は源頼義と名が同じであることに遠慮して、安倍頼時に改名した。しかし天喜4(1056)年、頼義の部下を襲撃した嫌疑が頼時の子貞任に掛かる。頼義は貞任の身柄の引き渡しを要求するが頼時は拒否、再び追討令が出されたことで、頼時・貞任父子や、頼時の娘婿藤原経清(秀郷の子孫)は再び源頼義と交戦した。

翌年に頼時は、頼義に寝返った安倍富忠を説得しようとするも富忠に襲撃され、そのときの傷が原因で死去、貞任が後を継いで抵抗を続けた。頼義は苦戦するものの、出羽国の豪族清原武貞の協力を得て勝利、貞任は戦死し、その首は丸太に釘で打ち付けられて朝廷に送られた。藤原経清は処刑されたが、その妻有加一乃末陪は清原武貞の妻となり、経清の遺児清衡は武貞の養子となった。武貞と有加一乃末陪の間には家衡が産まれた。

頼義による安倍氏討伐の際に、祈祷を行ったことを認められたことで、藤原道兼の子孫を称する僧侶宗円は下野国を賜り宇都宮座主となった。その後、在地豪族と婚姻関係を結ぶなどして勢力下に組み込んだ。宗円の子八田権守藤原宗綱の娘は下野国の有力者小山政光(秀郷子孫)の妻となった、

有加一乃末陪を娶る前に産まれていた清原真衡が武貞の跡継ぎとなった。

頼義と安倍氏の抗争は、欧州の富に目を付けた頼義が、安倍氏を叛逆者に仕立て上げて討伐したものであると考えられている。

頼義は後冷泉天皇より頼時・貞任父子の追討を讃えられて御旗(日の丸の描かれた旗)と楯無(盾もいらないの意を持つ鎧)を与えられたという。御旗・楯無はともに三男義光に継承された。

永承7(1052)年、藤原頼通は父道長から譲られた別荘の宇治殿を改装し寺院に改めて平等院鳳凰堂を建立した。本尊の阿弥陀如来坐像は仏師定朝の作であり、複数の部品を合わせて制作する「寄木作り」で作られている。

治暦3(1067)年、頼通の関白辞任後、教通は関白になると娘の歓子を中宮に立てた。

一方師実は娘は1人も授からなかったため、源師房の子源顕房の娘賢子を養女としている。 参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508

桓武天皇~仁明天皇

天応元(781)年、即位時より62歳と高齢であった光仁天皇は73歳で山部親王に譲位し(桓武天皇)、同年に崩御した。皇太子には桓武天皇同母弟の早良親王が立てられた。同年、参議藤原乙縄が死去、右大臣大中臣清麻呂が引退、大納言石上宅嗣が死去したことにより、抜けた穴を埋めるため、藤原魚名左大臣、藤原田麻呂を大納言、藤原是公中納言、大中臣子老・紀船守を参議を参議に任じた。

また、桓武天皇の母方の祖母真妹は土師氏の出身であったために土師氏は台頭、天皇に願い出て、菅原氏への改姓が認められた。これ以降、菅原氏は学者を排出する家系となる。翌年、氷上塩焼と不破内親王の子である氷上川継が朝廷転覆を計画するが失敗、母親とともに淡路に流罪となり、川継の妻、法壱の父であった藤原浜成連座して参議を解任された。藤原京家は権力の座から遠ざかり、歌人や学者を排出するようになる。

これ以降、桓武天皇は、自身が正統であることを天下に示す郊祀祭天を挙行し、新たに刷新された皇統であることを強調するなどして、天皇持統天皇の直系子孫かその配偶者であることの重要性が薄れたと考えられる。ただ、安殿親王の妻には持統天皇の血を引く自身の娘朝原内親王を嫁がせている。また、藤原真楯の子、藤原内麻呂に嫁いで真夏・冬嗣兄弟を産んだ百済永継は、内麻呂との婚姻関係を終了させたあとに桓武天皇女孺(雑事を行う女官)となって、皇子を儲けた。姓の通り、永継は百済帰化氏族である。永継の産んだ皇子は後に臣籍降下し、良岑安世を名乗る。そして、安世の子の1人宗貞は出家後遍照を名乗り、僧正として、また歌人として名をあげる。また、藤原魚名左大臣を罷免され、遠地に赴かされそうになりそうになったため、病と称して摂津に留まったが、復権は叶わなかった。

延暦2(783)年に藤原乙牟漏が皇后に立てられた。桓武天皇は、自身の母方のルーツである百済帰化氏族出身の菅野真道・百済王氏の人物などのほかに、藤原百川の子の緒嗣、百川の甥(藤原清成の子)の種継といった藤原式家の人物を重用した。再び藤原式家は勢力を伸ばすこととなる。同年、藤原是公の娘吉子と桓武天皇との間に伊予親王が産まれた。

造都、造寺による森林伐採や瓦用粘土の採掘の影響で土砂が大阪湾に流れ込んだことで、難波宮の維持が困難になり、複都制が廃止された。他にも、奈良仏教勢力による政治介入が強くなっているという問題を抱えていた。そこで、木津川・宇治川桂川が合流する淀川が近くにある長岡への遷都を計画、奈良の寺院が新たな都の近くに移築することも禁じた。

延暦3(784)年、藤原葛野麻呂(小黒麻呂の子)を大使として、橘逸勢(奈良麻呂の孫)、僧侶の最澄空海、菅原清公らが遣唐使として派遣された。

 難波宮の資材も再利用して進められていた長岡京の造営だが、延暦4(785)年、責任者の種継が何者かに暗殺された。この事件の黒幕が早良親王であると疑われ、皇太子を廃され、淡路へと流罪となった。しかし、淡路に赴く途中で無実を主張して絶食、そのまま餓死した。

新たな皇太子には安殿親王が立てられが、安殿親王の発病、夫人旅子・皇后乙牟漏・宮人坂上又子(坂上苅田麻呂の娘)、皇太夫高野新笠の相次ぐ病死、疫病の流行や洪水の多発により、早良親王の祟りと恐れられた。

そこで、崇道天皇の尊号が贈られ、鎮魂が行われた。 しかし、怨霊の仕業と噂される事象が続いたので、延暦14(794)年に平安京に遷都した。平安京の外観は唐の長安平城京を模して碁盤の目状に造られ、市街の中心には朱雀大路が設けられ、その北に大内裏を置くといったものだった。

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平安京復元模型

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また、桓武天皇は皇太子安殿親王との関係に悩まされた。安殿親王の宮女には藤原縄主(蔵下麻呂の子)と藤原薬子(藤原種継の娘)の娘がいたが、薬子は自身の娘を差し置いて安殿親王と愛人関係になったことで、桓武天皇が怒り薬子を追放した。

延暦16(796)年、桓武天皇は隆平通宝を発行した。

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 隆平通宝1文で和同開珎・万年通宝・神功通宝10文の価値とし、その後和同開珎などの旧銭の使用を停止して銭の供給量が過剰になったことに対する対策を行った。米と交換するという形で旧銭の回収を図ったが、それでも旧銭は使用され続け、後に旧銭使用禁止を撤回した。

桓武天皇は長く左大臣を置かず、自身の弱い政治基盤の強化に努めたほか、定員外の国司や郡司を廃止して、国司交代の事務手続きを監視し、徴税や官有物管理に問題がない場合に与えられる、解由状の授与を審査する勘解由使を設置するなど、地方政治に力を入れた。また、外国の驚異の弱まりや徴兵された兵士の質の低下により、健児の制を設け、郡司の子弟や有力農民から志願で健児を募り、20〜200人までの人数を定めて国府の警備や国内の治安の維持を60日交代で行わせた。

また、伊治呰麻呂の乱後に活発化した蝦夷の反乱を平定するために、坂上苅田麻呂の子、田村麻呂を征夷大将軍に任じ、大墓公阿弖流為盤具公母礼を降伏させた。田村麻呂は助命を求めたが、公卿の反対にあって2人は処刑された。

延暦16(796)年には、菅野真道らにより、日本書紀に続く国史続日本紀が完成した。

藤原緒嗣と菅野真道に桓武天皇は天下の徳政について議論させ、平安京増築と蝦夷平定という政権の2大事業について、緒嗣は継続に反対、真道は賛成した。結果として、民衆の負担が大きいことから緒嗣の意見が採用された。

また、桓武天皇は奈良仏教とは別の仏教を保護し、唐より帰国した、最澄天台宗空海真言宗が隆盛、そのような仏教界の変化の中で、日本霊異記が記された。

真言宗は、ブッダが明らかに説いた教えとされる顕教よりも、宇宙の中心の仏、大日如来が説いた秘密にされて容易に理解出来ない教えとされる密教を重視した。空海は秘密曼荼羅十住心論を記し、人の心の実相が下層の異生羝羊住心から、密教の悟りの心の秘密曼荼羅荘厳住心に至るまでの10段階を説いた。密教の仏教世界は、大日如来の知恵の世界である金剛界と、大日如来の慈悲の世界である胎蔵界を合わせた両界曼荼羅として視覚情報として表される。空海の他の著書には、自身の修行時代を振り返り、仏教・儒教道教の中で仏教の優越性を説いた三教指帰や、漢詩集の遍照発揮性霊集がある。また、満濃池を開削、初の庶民の教育機関である綜芸種智院を開設した。真言宗は、高野山金剛峯寺に加えて教王護国寺(東寺)を根本道場とした。

最澄は、大乗・小乗の戒律とともに、僧になるための二百五十戒を受ける必要があるとした奈良仏教を批判し、大乗戒の受戒のみで十分であるとした。また、一乗思想を基盤として、万物が成仏できる可能性があると説いて、先天的に成仏の可能性には差別があるという五性各別性を説いた法相宗の徳一と論争を行った。

天台宗法華経ブッダの真実の教えと考え、本来衆生は仏であるという思想を発展させて、凡夫の心の一瞬一瞬(一念)が全宇宙(三千世界)と繋がっているという一念三千、現象(事)と本体(理)の関係の議論である事理論へと昇華させた。最澄は弟子を派遣して空海から密教を学んで教えに取り入れ、大乗戒・密教・禅を包摂したものとなった。根本道場は比叡山延暦寺である。

真言宗天台宗も山岳を修行の場としており、元々存在していた山岳信仰と結びつくことで、山伏に代表される、山岳で修行して呪力を得るという後の修験道の礎となった。修験道は、山岳信仰の対象であった大和国吉野の大峯山や北陸の白山などで行われ、特に熊野三山(熊野の本宮・新宮・那智)は多くの信仰を集めた。

最澄空海は元々は親しく、後に風信帖と呼ばれるようになる手紙も残っているが、空海から求められた理趣釈経を貸さなかったことや、最澄の弟子の泰範が空海の元から帰って来なかったことで、両者は不仲となり絶縁した。

 f:id:Usokusai:20220304110154j:image風信帖

真言宗天台宗の隆盛に伴い、新たな仏教芸術である密教芸術が発展、伽藍配置の密教寺院や檜皮葺の屋根が用いられることになり、室生寺の金堂や五重塔などが建てられた。彫刻としては、1つの木から彫像を掘り出す一木造の仏像が多く、如意輪観音像や不動明王像などが制作された。絵画も、円城寺の不動明王像(黄不動)などの密教に由来する仏画が描かれた。

延暦25(806)年、桓武天皇崩御し安殿親王が即位し(平城天皇)、皇太弟には同母弟の神野親王が立てられた。平城天皇はかつての愛人薬子と、その兄藤原仲成といった、藤原種継の遺児を重用した。薬子は天皇の命令を太政官に伝え(伝宣)、天皇に情報を伝える(奏請)内侍尚侍となった。また、北家の藤原内麻呂(真楯の子)を大納言次いで右大臣、南家の藤原雄友(是公の子)を大納言、藤原葛野麻呂藤原園人(藤原楓麻呂藤原良継の娘の子)を権参議次いで参議に任じた。

平城天皇は皇后を立てることなく、異母妹の朝原内親王(母は坂人内親王)・大宅内親王(母は橘奈良麻呂の孫、常子)などを妃として妻に迎えたが、間に皇子女が産まれることはなかった。そのため、持統天皇聖武天皇の血を引く人物を将来の天皇とするという構想は潰えた。阿保親王高岳親王などの平城天皇の皇子女の母のほとんどは宮人である。また、平城天皇の同母妹は平城天皇異母弟で従兄弟の大伴親王に嫁ぎ、間には恒世王が産まれた。

平城天皇は六道観察使を設置し、参議に1つずつ六道を担当させ、地方の実情の把握を行わせた。また、大同元(806)年には参議を廃止して観察使のみとした。宮司・官人を整理統合し、給与体制の見直しや待遇改善などが行われ、官僚組織の無駄を省き、効率化した。

大同2(807)年、伊予親王が謀反を企てているとして、母吉子とともに幽閉され、食を絶たれて2人は自害した。それに連座して吉子の兄の大納言藤原雄友は伊予に流罪中納言藤原乙叡も解任された。これにより藤原南家は再び衰退し、議政官は北家と式家によって構成されることとなる。同じく南家の藤原巨勢麻呂の子黒麻呂は上総国茂原牧を私領とし、その子春継は在地豪族常陸大目坂上氏の娘を妻とした。さらにその子良尚は武官として右兵衛督となった。

大同4(809)年、平城天皇は病を患い平城京に移って譲位、皇太弟神野親王が即位した(嵯峨天皇)。皇太子には平城上皇の皇子高岳親王が立った。同年、嵯峨天皇も体調を悪くし、早良親王・藤原乙牟漏・伊予親王の鎮魂が行われた。

大同5(810)年、嵯峨天皇は病から回復、内侍尚侍の薬子の介入を受けずに政務を行うため、直接天皇の命令を太政官に伝える蔵人所を設置、長官の蔵人頭には巨勢野足と、藤原内麻呂の次男冬嗣を任じた。内麻呂の長男藤原真夏平城上皇の側近となっている。同年病が回復した平城上皇嵯峨天皇から再び皇位に就くことを勧められる。しかし平城上皇は自身が住む平城京への遷都を宣言したことで平城上皇嵯峨天皇の対立は深まり、二所朝廷と呼ばれる異様な事態となった。

嵯峨天皇は、逢坂関・不破関鈴鹿関の3つの関所を閉ざす固関を行い、藤原黒麻呂の弟貞嗣が主導で平城上皇方が東国に逃れて勢力を拡大する可能性を断ち、藤原仲成を逮捕・拘束。後に坂上田村麻呂に射殺させた。薬子は服毒自殺し、平城上皇嵯峨天皇に申し開きをして平城京で出家・隠遁したことで事態は収束した。そして、平安京は朝廷の中心として、遷都することのない「万代宮」となった。

その後、高岳親王は皇太子を廃され、嵯峨天皇異母弟で従兄弟の大伴親王が皇太弟となった。高岳親王とその異母兄阿保親王は左遷されるが後に復権、兄弟の子孫の多くは在原氏を名乗った。高岳親王は出家して真如という法号を名乗り、天竺を目指して航海に出で消息を絶った。阿保親王の子では、皇子・元皇子のための大学別曹、奨学院を創設した在原行平と、伊勢物語の主人公として知られる在原業平が有名である。行平・業平兄弟は歌の名手でもある。

また、藤原真夏は備中権守に左遷された。復権後は朝廷と平城上皇の仲を取り持った。子孫からは日野家・柳原家・烏丸家などが成立し、一定の家格を保った。これ以降、藤原氏では、藤原冬嗣の子孫が発展することとなる。

弘仁6(815)年、嵯峨天皇の皇后には橘奈良麻呂の孫、嘉智子が立った(檀林皇后)。間には正良親王・正子内親王などが産まれた。檀林皇后の立后により橘氏復権した。檀林皇后の従姉弟橘逸勢は琴と唐風の書の名人であり、嵯峨天皇空海と並んで天下の三筆と讃えられた。冬嗣の妹である緒夏も嵯峨天皇の妻であったが、皇子女を儲けることはなかった。また、嵯峨天皇には多くの皇子女が産まれて朝廷の財政を圧迫したことを理由に、皇子17人・皇女15人が臣籍降下して源姓を与えられた。(嵯峨源氏)。源信・弘・常・明などがいる。皇女の1人は臣籍降下して源潔姫となり、藤原冬嗣の次男良房に嫁いだ。多くの皇子女を源氏として臣籍降下させたことは、皇位継承候補者を削減する目的があったからとも考えられている。

嵯峨天皇は朝廷の唐風化を進め、編纂した弘仁格式において儀礼も唐を模範にした。また、大学別曹においても儒教を学ぶ明経道や、中国の歴史と文学を学ぶ紀伝道が重視された。勅撰儀礼書の内裏式によって、儀礼平安京の建物の名称も唐風に定められた。この政策を推進させたのは菅原清公である。また、嵯峨天皇の命により凌雲集文華秀麗集といった漢詩集が編まれた。それらの公的編纂物にもまた、菅原清公が携わった。が貴族・官人も漢文学儒教の教養が求められ、このような情勢が唐風文化の隆盛を産んだ。嵯峨天皇の時代には、小野妹子の子孫とされ、漢詩・書・和歌・弓の達人である小野篁が出世した。

弘仁9(818)年、新たな通貨富寿神宝が発行された。

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弘仁14(823)年、嵯峨天皇は譲位し、大伴親王が即位した(淳和天皇)。二所朝廷の前例を繰り返さないために、太上上皇は政治に関わらないことが決定した。天皇の本名と同じになることを防ぐため、大伴氏は伴氏に氏を改めた。また、妃であった高志内親王は既に薨去していたため、嵯峨上皇の皇女正子内親王が皇后として立ち、間には恒貞親王が産まれた。恒世親王は皇太子になることを辞退したことで、嵯峨上皇皇子正良親王が皇太子となった。

天長2(825)年、藤原冬嗣左大臣藤原緒嗣が右大臣となった。冬嗣は娘の順子を正良親王に嫁がせ、冬嗣の異母弟愛発は娘を恒貞親王に嫁がせている。天長3(826)年、恒世親王薨去した。

淳和天皇の治世は比較的安定し、検非違使庁が設置され、天長4(827)には、勅撰の漢詩文集の経国集が編集された。経国集という名の文集が存在したように、文章によって国を治めるという文章経国思想が強まった。天長8(831)年、源信は参議となり、翌天長9(832)年には藤原緒嗣左大臣清原夏野(舎人親王の子孫)が右大臣となった。天長10(833)年、清原夏野文章博士菅原清公らによって、養老律令の注釈書の令義解が編纂された。序文は小野篁が記した。同年、桓武天皇の皇子葛原親王の子高棟王臣籍降下平高棟を名乗った。桓武平氏の一流となる。

同年、淳和天皇は譲位、正良親王が即位した(仁明天皇)。皇太子には恒貞親王が立った。また、藤原良房は左近権少将に任じられ、承和元(834)年に参議、その翌年に権中納言に昇進した。兄の長良を越えて昇進を続け、嵯峨天皇元皇女の源潔姫を妻にしていることも、その権勢を物語っている。承和7(840)年には、続日本後紀に続く国史である「日本後紀」が完成した。同年淳和上皇が、承和9(842)年に嵯峨上皇崩御すると、嵯峨天皇系・淳和天皇系それぞれの皇族を支持する者同士の対立が激化、橘逸勢伴健岑恒貞親王を担いで謀反を企てたとして、その関係者として、大納言藤原愛発・中納言藤原吉野(蔵下麻呂の孫)・参議文室秋津(文室浄三の孫)が左遷され、恒貞親王も皇太子を解任され、新たに藤原順子を母とする仁明天皇皇子道康親王が皇太子となった。競争者を排斥して大納言となった良房の権勢はさらに増大した。橘逸勢は後に怨霊になったと噂されることになる。恒貞親王はその後出家、法号を恒寂として大覚寺の開山となった。

承和10(843)年、良房の弟の藤原助が参議に任じられ、同年に藤原緒嗣が死去した。承和11(844)年源常が左大臣となりとなった。また、良房の兄長良、承和14(847)年に弟の良相が参議に任じられたことで、藤原氏議政官は北家が独占することとなった。

良房は甥の道康親王に自身の娘明子を嫁がせた。

参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508

天智天皇~光仁天皇

661年に斉明天皇崩御し、間人皇女による政務代行を挟んで、葛城皇子が即位した(天智天皇)。皇后には倭姫王を立てた。しかし、間に子はいない。そのため、石川麻呂の娘の、遠智娘との間に産まれた大田皇女・鸕野讚良皇女姉妹、姪娘との間に産まれた御名部皇女・阿閉皇女姉妹が最も身分が高い子となる。蘇我赤兄は自身の娘のうち、常陸娘を天智天皇に、大蕤娘は大海人皇子に嫁がせている。常陸娘は山辺皇女を、大蕤娘は穂積王・紀女王・田形女王を産んだ。

天智天皇は、大田皇女・鸕野讚良皇女や、大江皇女・新田部皇女という自身の皇女4人を嫁がせている。また、中臣鎌足の2人の娘、氷上娘と五百重娘を嫁がせている。天智天皇大海人皇子皇子の子女同士の婚姻も何度も行われている。大田皇女と大海人皇子の間に産まれた大津王を天智天皇は寵愛したという所伝があり、大王家の血の濃い王族への優先的継承を構想していたと考えられる。しかし、大海人皇子はある酒宴で突如、槍を床に突き立てて天智天皇に反抗心を示したことが「藤氏家伝」に記されているように、一定の緊張感が存在していた。

669年、中臣鎌足は危篤となった。そのため、鎌足の妻鏡王女は夫の病気の回復を願って山階寺を建立した。同年、天智天皇鎌足に藤原姓と大織冠を授けた。このことで、鎌足藤原氏の祖となった。しかし病が回復することはなく、姓と冠の授与の翌日に鎌足は死去し、中臣氏の氏上(当主の意味、後の氏長者)は鎌足の従兄弟の中臣金が継承した。

天智天皇近江令と総称されることになる法令を出し、670年には初の全国的戸籍の庚午年籍を作成し、徴税と徴兵を行いやすくした。翌年には百済からの亡命貴族の多くを登用した。

672年、天智天皇崩御すると、天智天皇と伊賀宅子娘の間の子である大友皇子が即位したとされる(弘文天皇)が、即位したとの確証はなく論争が続いている。大海人皇子の娘の十市皇女を妻に迎え、間には葛野王が産まれている。大海人皇子大友皇子の補佐役を期待されたが、出家、吉野に隠遁した。しかしそのことは「(大友皇子が)虎に翼を付けて野に放ったようなものだ」と言われた。

蘇我倉家のうち、蘇我赤兄・果安兄弟は大友皇子に接近したが、赤兄・果安兄弟の甥(蘇我連子の子)の安麻呂は大海人皇子に接近した。

大友皇子は、左大臣に赤兄、右大臣に中臣金を任じ、果安・巨勢人・紀大人を重用した。

672年、吉野に出家して隠遁していた大海人皇子と、大友皇子との間の皇位継承戦争(壬申の乱)が起こり、大友皇子・果安は自害、中臣金は処刑、赤兄と人は子とともに流罪となった。

大海人皇子は即位し(天武天皇)、唐の高宗李治と同じように「天皇」を名乗った。これは、道教の影響であったと思われる。他に、推古天皇を初の天皇号の使用例とする説もある。

また、大友皇子の正当性を否定する根拠とするためか、「卑母」を敬うことを禁じ、異母兄弟姉妹間の身分の差を明確にさせた。

天武天皇飛鳥浄御原宮に遷都し、皇后に鸕野讃良皇女を立てた(既に異母姉大田皇女は薨去)。

天智天皇の皇女で天武天皇に嫁した人物

大田皇女

母:蘇我倉山田石川麻呂の娘、遠智娘

子:大来皇女大津皇子

鸕野讃良皇女

母:蘇我倉山田石川麻呂の娘の、遠智娘

子:草壁皇子

大江皇女

母:忍海色夫古娘

子:長皇子、弓削皇子

新田部皇女

母:阿倍内麻呂娘の娘、橘娘

子:舎人親王

天智天皇天武天皇の皇子女同士のいとこ婚

大友皇子十市皇女

:間に葛野王

川嶋皇子と泊瀬部皇女

志貴皇子と託基皇女

:間に春日王

阿倍皇女と草壁皇子

:叔母と甥、従叔母と従姪の関係でもある。間に

珂瑠王と吉備女王

山辺皇女と大津皇子

:再従叔母と再従甥の関係でもある。間に粟津王

御名部皇女(阿倍皇女の同母姉)と武市皇子

:間に長屋王鈴鹿王など

天武天皇は、藤原鎌足の2人の娘、氷上娘と五百重娘も妻に迎え、氷上娘との間には但馬皇女五百重娘との間には新田部皇子が産まれている。

草壁皇子大津皇子・刑部皇子・川嶋皇子・志貴皇子らに、皇位を争わないよう吉野で盟約を結ばせた。

671年には、律令の制定を始めた。その2年後、大来皇女伊勢国へと出発、伊勢神宮において天皇の祖先に位置づけられる太陽の女神アマテラス(天照大御神)に仕える「斎王」となった。それが斎王の確実な記録の初めである。

斎王は皇女の中から独身の者が選ばれ、斎王である期間は男性と通じることを禁じられた。

伊勢神宮天皇の祖先神を祀っているため、最も重要な神社となった。伊勢神宮と同じく重要視される神社として出雲国出雲大社があり、こちらはアマテラスに国を譲った神であるオオクニヌシ(大国主神)が祀られている。

天皇の証として「三種の神器」と呼ばれる草薙剣八咫鏡八尺瓊勾玉があり、即位の際に受け継がれてきた。八尺瓊勾玉のみが本体を朝廷が所有しており、草薙剣八咫鏡はそれぞれ本体が熱田神宮伊勢神宮にあり、天皇が所持するのはその分身である。熱田神宮尾張氏が大宮司を務めた。

f:id:Usokusai:20220304103520j:image伊勢神宮

f:id:Usokusai:20220304103628j:image熱田神宮

中小豪族に対しては、連を授けるなどして、豪族としてではなく、個人としての「官僚」候補者の数を広げるためである。そして、684年には真人・朝臣宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置という八色の姓を定め、真人から忌寸までは五位を授かることができるとされた。

伊勢神宮を中心とした神祇制度も整えられ、大嘗会の制を確立するほかに、仏教を保護した。鸕野讃良皇女が病になったとき回復を願って建てられた薬師寺や大宮大寺の建立や、金光明経のなどを説く法会も行われた。天武天皇は他にも陰陽寮を設置し、中国の陰陽五行説を発展させた陰陽道が教えられた。陰陽道に携わる者は陰陽師と呼ばれ、天文や方角を占い、暦を制作するなどした。

この時代の建造物には、再建された、法隆寺金堂および五重塔、中門・歩廊のほかに、後にアーネスト・フェロノサが「凍れる音楽」と称した薬師寺東塔がある。

f:id:Usokusai:20220304103801j:image薬師寺(手前が東塔)

仏像では、柔らかさを持った南陵様式の薬師寺金堂薬師三尊像(薬師如来日光菩薩月光菩薩像)・同寺東院堂聖観音像、興福寺仏頭がある。

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絵画では、アジェンダー壁画の影響を受けた法隆寺金堂壁画、高塚古墳壁画がある。

f:id:Usokusai:20220304104121j:image法隆寺金堂壁画

f:id:Usokusai:20220304104139j:image高松塚古墳壁画

また、日本最古の貨幣である富本銭も鋳造されたが、あまり流通しなかった。

f:id:Usokusai:20220304104212j:image富本銭

天武天皇は、藤原京の造営や国史編纂にも着手していたが、完成を見ないまま、朱鳥元(686年)年に崩御した。

同年には、蘇我安麻呂の子、蘇我石足が石川姓を与えられ、石川石足と改名した。

 その後、大津皇子が、川嶋皇子の密告によって謀反の疑いがかかり、処刑された。このことは、鸕野讃良皇女が亡き同母姉の子という草壁皇子の継承に関する不安材料を取り除いたという説も根強い。しかし、草壁皇子は早世し、鸕野讃良皇女が690年に即位した(持統天皇)。また、高市皇子太政大臣となっている。

 

この時代には、唐へ遣唐使を派遣し、新羅には朝貢を行わせた。

 

持統天皇飛鳥浄御原令の戸令に基づき、庚午年籍を作成した。このときに、国・評(郡)・里・戸の制が確立された。

 

律令制においては公地公民制が基本とされ、班田は開墾者の死により戸籍の調査の際に国に返還されることとなった。

 

694年には飛鳥の藤原京に遷都している。

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藤原京復元模型

同年、山階寺は都に移され厩坂寺と改名した。そして、696年、高市皇子薨去後、群臣によって、持統天皇の後継者を誰にするかが議論された。結果として、天智・天武両天皇の孫にあたる葛野王の「皇位は直系で継承されるべき」との意見が採用された。その後長い間、皇位継承の有力候補は持統天皇の直系子孫かその配偶者が多くなる。

697年、持統天皇は孫の珂瑠皇子に譲位し、歴代天皇で始めて「太上天皇(略して上皇)」を名乗った。文武天皇の夫人には、不比等の娘宮子が立てられた。皇后が立ったとの記録はない。

この時代には藤原鎌足の次男、不比等が重用された。

698年、藤原不比等とその子孫以外の、中臣氏出身の人物が藤原姓を名乗ることが禁じられ、藤原氏が政治、中臣氏が以前と同様に神事を司ることとなった。

不比等蘇我安麻呂の娘、娼子(媼子)と婚姻、間には武智麻呂・房前・馬養(後に宇合)が産まれている。他にも、未亡人となった異母妹五百重娘との間に四男の麻呂、賀茂比売との間に宮子、美努王の元妻橘養三千代との間に安宿媛が産まれている。後に、美努王と美千代の2人の男児臣籍降下、母の橘姓を名乗り、橘諸兄橘佐為となる。諸兄は不比等の娘多比能(母は三千代)を妻として、間に橘奈良麻呂が産まれる。不比等の次男房前は諸兄の同父母妹、牟漏女王を妻に迎えることとなる。

持統上皇・刑部皇子・不比等の下で、大宝元(701)年に大宝律令が完成した。このときに日本という国号、天皇という君主号、天皇の後継者の皇太子号、皇子女の親王内親王号、天皇の祖母の大皇太后号、天皇の母の皇太后号、が明文化された(親王内親王ではない皇族は王と女王である)。旧唐書には倭という国号が「雅ならざるを悪み」日本に変え、唐にも承認されたとある。

律(刑罰)には、苔(鞭で打つ)・杖(杖で打つ)・徒(懲役)・流(島流し)・死(死罪)の五刑が定められた。

 

人々は良民と賤民(陵戸・官戸・家人・公奴婢・私奴婢)に分けられた。

 

良民は男女ともに、6歳になると男子が2反、女子はその3分の2、奴婢は良民の3分の1を与えられた。そして、次の班田の年に死者の田を国に返還するという班田収授法が定められた。

 

また、租・庸・調・雑徭・兵士役の義務があり、公出挙といって、春に租稲の一部を貸付け、5割の利息をつけて返させたこともあった。

 

律令の政治機関は、中央に神祇祭祀を束ねる神祇官と、行政を束ねる太政官が設置された。 太政大臣(常設ではない太政官の最高首脳)を中心に、左大臣・右大臣・大納言らの公卿(後にそれに加え中納言・参議)の合議の結果を天皇が裁可することで国政が運営された。

公卿の下位には中務省式部省治部省民部省を総括する右弁官、宮中の事務を行う少納言が置かれた。

また、官吏を監察する弾正台、軍事組織の衛門府が置かれた。

地方は大和・山背・河内・摂津を畿内東海道東山道山陰道山陽道南海道西海道を七道と定めた。 都には左京・右京職を置き、摂津には摂津職、西海道には外交と国防の要地として大宰府が置かれた。

諸官庁には長官(かみ/伯/卿/大夫/督/守)、次官(すけ/副/輔/助/亮/佐/介)、判官(じょう/祐/丞/允/進/尉/掾)、主典(さかん/史/寮/属/志/目)の四等官が定められた。ただ、親王任国と呼ばれた常陸・上総・上野の三国は、「守」を名乗ることが出来るのは親王のみであり、次官に用いられる「介」が他国の「守」と同格とされた。「すけ」や「じょう」などは、後の時代には、人々が任じられなくとも名乗るようになった。また、通称として用いるようにもなり、庶民の本名にもなった。

部と屯倉は廃止され、豪族によって世襲の仕事がなされることもなくなった。

官人は出自によって位階を授けられた(官位相当の制)。

位階は親王内親王が一品(正一位従一位)から四品(正四位上正四位下)、王・女王は正一位から従五位下まで、臣下は正一位から少初位までと定められていた。 三位以上(貴)の者の子と孫、五位以上(通貴)の者の子には一定の位階が将来授与されることが確定していた(蔭位の制)。

また、人民の戸籍への登録と、公地・公民制も明文化されることとなった。戸籍は6年ごとに更新され、課役や身元を把握し、計帳によって人数の推移を把握した。

租を収める義務のある輸租田には位田・功田・賜田、義務のない不輸租田には寺田・神田・職田があった。

備荒貯蓄として義倉が収められたほかに、調や庸は納税者の中から運客が選ばれ、都まで運ぶ義務を負った。

備荒貯蓄として義倉が収められたほかに、調や庸は納税者の中から運客が選ばれ、都まで運ぶ義務を負った。

雑徭の中には仕丁と雇役、兵役には衛士として宮城や京内の警備を行うものや、大宰府を防人として警護するのいうものがあった。

大宝2(701)年、持統上皇崩御し、天皇としては始めて火葬された。このことは、仏教や薄葬令が影響していると思われる。遺骨は天武天皇と同じ陵墓(野口王古墳)に葬られた。

慶雲4(707)年には文武天皇崩御し、文武天皇の母で、持統上皇の異母妹で従姉妹にあたる阿閉皇女が即位した(元明天皇)。皇太子には文武天皇と宮子の皇子、首親王が立てられた。首親王の妻には不比等の娘安宿媛が迎えられた。両者は甥と叔母の関係ではあったが、同年の産まれである。

慶雲5(708)年には武蔵の秩父より、還元の必要のない銅(和銅)が献上されたことで、和銅改元され、和同開珎が発行された。しかし、富本銭と同様に流通は滞った。

f:id:Usokusai:20220304104419j:image和同開珎

 そこで和銅4(711)年、一定数の銭を蓄えた者に位階を授けるという蓄銭叙位令が出されたが、人々は銭を貯めるだけ貯めこんで、更に流通は滞った。

また、出羽には秋田城、日向には多賀城を築いて防衛力を高め、朝廷に反抗していた東北の蝦夷や九州の隼人に帰属を求めた。

和銅3(710)年には藤原京から平城京へと遷都している。この際、藤原不比等厩坂寺平城京の左京に移し、名称を興福寺とした。興福寺藤原氏の氏寺として、藤原氏に強い影響を持つことになる。

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平城京復元模型

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平城京大極殿復元   

 

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朱雀門復元

和銅6(713)年には太安万侶稗田阿礼による現存最古の歴史書古事記が完成した。古事記には、天皇の祖先イザナキ・イザナミ夫妻による国づくりなどの神話から、推古天皇に至るまでを記している。同年、地方の風土や歴史を記した風土記も編纂が命じられた(現存する完本は出雲国風土記のみである)。

和銅8(715)年、元明天皇は自身の娘で文武天皇の姉にあたる氷高内親王に譲位した(元正天皇)。

養老元(717)年からは不比等を中心として養老律令の編纂が始まった。同年、首親王は側室の県犬養広刀自との間に、井上内親王を儲けた。県犬養広刀自は橘三千代(元の姓は県犬養)の同族である。

養老2(718)年、式部卿であった長屋王は大納言へと出世した。この出世は、藤原不比等の次女長俄子を妻の1人に迎え、間に黄文王安宿王・山背王などを儲けたことが理由であると考えられる。同年、首親王安宿媛は阿部内親王を儲けた。

養老4(720)年には舎人親王らによる正史、日本書紀が完成した。神代から持統天皇までが記録されたが、内容は古事記と細部が異なる。古事記日本書紀はともに、編年体であり、中国王朝の正史が紀伝体であることと趣を異にする。

同年には藤原不比等が死去し、長屋王が右大臣となった。長屋王高市皇子御名部皇女(元明天皇同母姉)を両親に持ち、草壁皇子の娘吉備内親王を妻としており、高市皇子と違い身分は高かった。

また、長屋王の主導により、農民に食料と農具を与えて10日間開墾作業を行わせ、3000石以上の収穫をあげた者に勲六等を与えるという百万町歩開墾計画が出されたが、当時の日本の耕地面積よりも開墾しなければならない非現実的な計画であり、頓挫した。翌養老7(723)年、三世一身法が出され、開墾した田畑がその後3代まで私有することが認められた。また、元明天皇の治世下では、和同開珎銅銭が法定価値以下で流通していることを追認、朝廷が銀地金と和同開珎銀銭の使用を解禁し、和同開珎銅銭の価値を低下させた。、

神亀元(724)年、元正天皇は、皇太子で甥(文武天皇と宮子の皇子)の首親王に譲位した(聖武天皇)。聖武天皇の妻安宿媛(不比等の娘)は夫人となった。

長屋王の妻の一人は、不比等の娘の長俄子であったが、宮子の尊号を大夫人であったところを皇太夫人にすべきと長屋王が主張したことをきっかけに、不比等の子の藤原四兄弟(藤原武智麻呂・房前・宇合・麻呂)や、蘇我連子の孫、石川石足らとの対立が激化した。

神亀4(727)年、聖武天皇安宿媛との間に基親王が産まれ、生後32日で皇太子となった。そしておそらく同年、県犬養広刀自が安積親王を産んだ。このことは、藤原四兄弟に危機感を抱かせたと思われる。さらに翌神亀5(728)年、基親王薨去したことも藤原氏に追い討ちをかけた。

藤原四兄弟は異母妹の安宿媛立后を願ったが、皇族ではない者の立后長屋王は反対した。しかし基親王が夭折は長屋王による呪詛であるとの噂が立ち、藤原宇合によって攻められ、妻の吉備内親王と、その間に産まれていた膳夫王鉤取王・葛木王・桑田王とともに自害し(桑田王は石川夫人との間の子であるとも)、立后そのものが目的ではなかったが、安宿媛は皇后となった(光明皇后)。

その後、長屋王と長俄子の間の子(安宿王黄文王・山背王)をはじめとした長屋王の子孫や弟の鈴鹿王などのほとんどの子孫は赦免された。この一件は、吉備内親王を妻として、皇統に近しい脅威的存在となった長屋王の排除のための策謀であり、聖武天皇藤原四兄弟の利害が一致していたための行動であるとも考えられている。

持統天皇の直系との血縁を失ったためか、長屋王の家系は皇位継承からは遠のいてゆく。後に長屋王鈴鹿王の子孫の多くは高階姓を与えられ、臣籍降下する。

藤原四兄弟の子孫はそれぞれ南家・北家・式家・京家と呼ばれることとなる。武智麻呂は変後すぐに大納言となった。天平2(730)年に武智麻呂と並んで大納言であった多治比池守が、翌年に後任の大伴旅人が死去、議政官が不足したため、藤原宇合・麻呂兄弟・鈴鹿王・多治比県守葛城王・大伴道足という6人が参議となり、四兄弟による新政権が完成した。しかし天平4(732)年にの旱魃天然痘の流行により、政局の乱れは著しかった。

天平5(733)年、橘三千代が死去し、追善のために、翌年光明皇后によって興福寺に西金堂が建立された。阿修羅像(乾湿像)をはじめとする八部衆像は西金堂に安置されていた。、天平9(737)年四兄弟は相次いで天然痘で死去、その後も天然痘が猛威をふるった。四位以上の高官33人のうち3分の1が亡くなり、民衆も多く亡くなったと思われる。

その後、鈴鹿王を知太政官事、光明皇后の異父兄で不比等の娘婿の元皇族橘諸兄を大納言、多治比広成を中納言藤原武智麻呂の長男豊成を参議とした政権が発足した。藤原房前の長男鳥養は早世したと思われる。房前が牟漏女王との間に産まれた次男永手が北家の長になるが、伯父である諸兄から疎まれたのか、しばらくは従五位下に留まった。

諸兄は唐より帰還した玄昉や吉備真備を登用したが、宇合の長男藤原広嗣は反発し、天平12(740)年、玄昉と真備の解任を求めて反乱を起こした。しかし、朝廷の敵として討伐されることが伝わると味方が次々と離反し、鎮圧され、広嗣は弟の綱手・清成・菅成らとともに処刑された。広嗣のすぐ下の弟、宿奈麻呂は乱に関与しておらず、連座して伊豆に流されたものの、2年後に赦免された。

政情が不安定な中で、聖武天皇は恭仁宮・難波宮紫香楽宮というように、壬申の乱の際の天武天皇の進軍ルートを辿るよるに都を転々とした。その後、また都が平城京に戻るまでの間、藤原豊成平城京に留守として留められたが、豊成の異母弟仲麻呂聖武天皇光明皇后夫妻に同行したことで地位を高めることとなった。

天平15(743)年、口分田の不足と人口の減少による荒廃した土地の再開発の必要性に伴い、墾田永年私財法が発布され、墾田は開墾者の子孫による永久的な所有が認められた。しかし、墾田の私有には太政官民部省の許可が必要であった。墾田永年私財法の発布を契機として作られた荘園を初期荘園と呼び、多くの荘園が設けられた。国司に命じて開発、皇室に献上された荘園を勅旨田、臣下に与えられた勅旨田を賜田と呼ぶ。墾田永年私財法発布の翌年、安積親王薨去藤原氏にとっての不安材料にもなりえた皇子が世を去った。

唐が国際都市となったことで、唐・インド・ペルシア・アラブ・東南アジアとの交易が活発になり、日本にも白瑠璃碗・紺瑠璃杯・銀薫炉・緑地狩猟文錦・漆胡瓶・螺鈿紫檀五弦琵琶などがシルクロードよりもたらされ、正倉院に収められた。

唐をはじめとした外国との交流は、天然痘流行の1つの要因と考えられる。このような疫病の流行は、長屋王などの政争に敗れた者の祟りとされ、仏教によって国を治める鎮護国家思想が生まれた。そのため、当時は僧侶は国家の安寧のために活動するものであり、寺の外での活動は禁じられていた。そのため、道昭の弟子で、民間に布教をしたほか、支持者を動員した道路の整備や狭山池の改修を行っていた行基もその行動を咎められた。天平13(741)年の国分寺国分尼寺建立の勅や、天平15(743)年の毘盧遮那仏建立の勅の発布にも鎮護国家思想を見ることができる。しかし、後に朝廷は行基に接近、毘盧遮那仏は、民衆の支持を集めていた行基を責任者として、民衆の労働により建立が進められた。

東大寺を中心に国分寺国分尼寺が配されたほか、光明皇后によって施薬院興福寺に設けられ、病人を療養させた。

聖武天皇は皇女の阿部内親王を女性皇族で初の皇太子として(律令制の下では2人目の皇太子)、天平勝宝元(749)年に譲位した(孝謙天皇)。聖武天皇自身は史上2人目(男性として初)の太上天皇となり、出家後には沙弥勝満と号した。同年に東大寺において毘盧遮那仏の鋳造が完了した。また、寺院墾田許可令が出され、寺院による墾田の私有が赦された。

天平勝宝3(751)年には、現存する最古の漢詩集である懐風藻が編まれた。葛野王の孫、淡海三船の編と考えられる。三船は初代天皇とされる神武天皇から元正天皇までの歴代天皇に漢風諡号を贈っている。

天平勝宝4(752)年、毘盧遮那仏の鍍金が終わらない内に、インドの僧侶ボーディセーナ(菩提遷那)を開眼導師として開眼供養が行われた。ボーディセーナの持つ筆には糸が繋がれ、その糸は聖武上皇光明皇太后孝謙天皇をはじめとした多くの人々に握られた。そして、既に故人となっていた行基には大僧正の位が贈られた。同年、長親王の2人の皇子が臣籍降下文室浄三文室大市となった。このことは、流血さえ起こる皇位継承争いから先に身を引くためと考えられる。

仏像としては金銅像・塑像・乾漆像が発達し、東大寺日光・月光菩薩像、東大寺戒壇院四天王像・興福寺八部衆像といった乾漆像が伝わっている。

鑑真は、唐より5度の失敗を経て、視力を失いながらも伝戒師(仏教の戒律を授ける者)として来日、聖武上皇光明皇太后孝謙天皇に受戒、宗派としては律宗を伝えた。ほかに、「空」の思想を説く三論(中論・十二論・百論)を研究する三論宗、その付宗として「成実論」を学ぶ成実宗、「成唯識論」を学ぶ法相宗、その付宗としてヴァスバンドゥ(世親)の「俱舍論」によりアビダルマ(ブッダの教えの真理の研究)を行う俱舍宗、「大方広仏華厳経」を経典とし、毘盧遮那仏を教主とする華厳宗の6つが、奈良仏教として主流となったほか、護国のために法華経・最勝王経・仁王経が重要視された。日本の神と仏は同一であるとする神仏習合の芽生えもこのころである。

天平勝宝8(756)年、橘諸兄は官を辞し、同年、聖武上皇道祖王(天武天皇の孫、母は藤原鎌足の娘)を皇太子とすることを遺言として崩御した。諸兄の引退後は、藤原武智麻呂の次男で、道祖王の姉妹を妻の1人にしていた、仲麻呂が勢力を拡大する。

天平勝宝9(757)年、道祖王は喪中の行動を問題視されて皇太子を廃され、舎人親王の子で仲麻呂の長男真従(故人)の妻であった粟田諸姉を妻にしていた大炊王が皇太子となる。同年には養老律令も発布されている。

仲麻呂は大臣に準じる紫微内相に任じられ、石川石足の子、年足を重用した。年足の死後はその弟石川豊成を取り立てている。しかし、橘諸兄の子、奈良麻呂仲麻呂の台頭に不満を覚えて、道祖王安宿王黄文王とともに謀議して仲麻呂の殺害と黄文王を新帝として擁立することを画策した。この計画は藤原豊成の耳にも入ったが、「仲麻呂を殺すことはやめるように言って聞かせる」と言うのみで、計画を阻止には消極的であった。ところが、安宿王黄文王兄弟の弟山背王と、巨勢堺麻呂の密告などにより事前に発覚、奈良麻呂道祖王黄文王は杖刑により拷問死、安宿王流罪となったほか、多治比氏・大伴氏・佐伯氏出身の関与者も処罰された。

道祖王の兄、塩焼王は関与の証拠がなかったことで不問とされ、臣籍降下して氷上塩焼となった。 山背王は昇進し、臣籍降下後は藤原弟貞を名乗った。 藤原豊成の三男、乙縄は以前奈良麻呂と親しかったことや、藤原豊成仲麻呂暗殺計画の阻止に消極的であったことで、どちらも左遷された。

この一件で、仲麻呂の対立者の勢力は大いに減退した。

天平宝字2(758)年、孝謙天皇が譲位して、大炊王が即位した(淳仁天皇)すると、仲麻呂は藤原性に恵美の2文字を加えられ、押勝の名前を与えられ、藤原恵美押勝を名乗った。また、草壁皇子には岡宮御宇天皇諡号が与えられた。

押勝が行った政策の1つは、官職名を唐風に改めたことで、自身の任じられた太政大臣の職名も太師となっている。また、東国からの防人の派遣停止、雑徭の負担軽減、民衆の訴えを取り上げるための問民苦使を設置するなどの改革を行った。押勝の政策には儒教的な影響が見られる。

また、押勝の三男訓儒麻呂の妻には淳仁天皇の姪山縵女王を迎えた。

天平宝字3(760)年、朝廷は万年通宝(銅銭)・開基勝宝(金銭)・太平元宝(銀銭)を、流通させるためというよりは、押勝の権勢を記念するものとして発行された。他にも、私鋳銭の増加によって銭の供給が過剰になり、和同開珎の価値がさらに下がってしまったことも理由にある。万年通宝には和同開珎の10倍の価値が与えられ、平城京の工事費用の支払いや、新羅出兵の軍事費の調達のためという目的があった。押勝は、安禄山の乱による大陸の混乱を利用して新羅に遠征することを考えていたが、結局立ち消えとなった。 また、万年通宝自体も、それまで持っていた和同開珎の価値が下がってしまうため、敬遠され、市場価値はさがってしまった。

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 同年、淳仁天皇の父舎人親王崇道尽敬皇帝諡号が贈られた。

天平宝字3(760)年までの和歌を集めた万葉集は、現存する最古の和歌集であり、天皇・貴族から庶民まで約4500首を収録している。防人歌・東歌、山上憶良が貧民に同情して詠んだとされる貧窮問答歌が有名である。大伴家持の編とされる。

天平宝字4(761)年、藤原鎌足・真人(定恵)・不比等・武智麻呂の生涯を記した藤氏家伝がこのころ成立した。鎌足から不比等までは押勝の編、武智麻呂伝は僧侶延慶の編である。しかし、不比等伝は散逸した。同年、光明皇太后崩御したことにより、孝謙上皇と、淳仁天皇・藤原恵美押勝の関係が悪化した。同年に押勝の弟乙麻呂も死去した。さらに、天平宝字6(763)年には押勝の妻の1人袁比良(藤原房前娘)と石川年足が死去、光明皇太后に続いて押勝孝謙上皇の仲を取り持っていた者や補佐していた者たちがこの世をさった。氷上塩焼・白壁王(志貴親王と紀橡姫の子)を中納言に、参議には藤原弟貞の他に、自身の子真先・訓儒麻呂・朝獦兄弟・腹心の中臣清麻呂・石川豊成を任じたが、自身の身内や腹心に偏った人事が批判を集め、儒教的政策に対する僧侶からの反発もあり、押勝は孤立した。

同年、孝謙上皇は自らの病を治癒した、弓削氏出身の僧侶、道鏡を重用するようになった。このことを淳仁天皇が批判すると、孝謙上皇は反発、国家運営と裁判を自らの権限で行い、淳仁天皇は祭祀のみを行うという勅を出したことで、上皇天皇は完全に決別した。

天平宝字8(764)年、押勝は巨勢麻呂とともに挙兵、淳仁天皇を連れ出すことは叶わず、塩焼を「今帝」として新天皇に擁立し、真先と朝獦を親王のみに許されている三品に叙した。

押勝は勅の発布に必要な御璽と馬鈴を手に入れようとしたが、孝謙上皇側が先に回収、藤原恵美訓儒麻呂が奪うものの、坂上苅田麻呂(東漢氏分流)に殺害され、奪い返された。また、押勝一家は藤原姓を剥奪された。

朝廷側の吉備真備の作戦により追い詰められ、押勝の八男辛加知も殺害され、最終的に押勝は妻子や巨勢麻呂、塩焼らとともに処刑された。

760年代には飢饉があり、押勝の反乱もあって、商品の供給が不足、物価の上昇を招いた。 幼年であった押勝の遺児、刷雄は助命されたが、以降藤原恵美氏を名乗ることはなく、その後名乗る藤原氏の一族もいなかった。

巨勢麻呂の子孫は中流・下級貴族として続き、後に多くの学者や武官を排出する。乙麻呂の家系も同じく中流・下級貴族として続き、中には地方に土着して武家の祖になるものもいた。

反乱に際して藤原豊成・乙縄父子は復権、豊成は右大臣となる。しかし、藤原南家そのものの権勢は衰えてしまった。また、藤原永手は大納言に任じられ、永手の甥(藤原鳥養の子)の小黒麻呂が従五位下・伊勢守、後に大納言となった。

官職名こそ和風に戻ったものの、押勝の進めた革新的政策はその後も引き継がれることとなった。 淳仁天皇は廃位、淡路に流された。兄弟の子孫の多くは臣籍降下、兄の1人三原王の子孫は清原氏となる。 乱の同年、孝謙上皇重祚して称徳天皇となり、鎮護国家の理念と乱の死者の弔いのために百万塔陀羅尼を10万基ずつ、法隆寺東大寺西大寺興福寺薬師寺などに奉納した。

 天平神護元(765)年、淳仁廃帝は淡路からの逃亡を図ったが、捕縛され翌日に崩御した。殺害されたと思われる。同年、新政権発足を示すことと、西大寺建設費用を得ることを目的として、神功開宝が発行された。 翌天平神護2(766)年に道鏡は法王となり、仏教政治の下で権力を増大させた。 神護景雲3(769)年、「道鏡天皇とすれば天下が安定する」との宇佐八幡宮の神託があった、との奏上があった。

f:id:Usokusai:20220304105538j:image宇佐神宮

称徳天皇は真偽を確かめるために和気広虫(法均尼)を遣わそうとしたが、虚弱を理由に、弟の和気清麻呂が代理として派遣された。

清麻呂は以前の神託は虚偽の報告であると奏上したことで天皇の怒りを買い、別部穢麻呂と改名のうえで、狭虫と改名させられた姉とともに流罪となった。しかし、称徳天皇道鏡皇位に就かせることはないと明言することとなった。この事件の詳細は不明である。

称徳天皇崩御後、吉備真備の、文室浄三・大市兄弟のどちらかを次期天皇にするという意見を退け、藤原北家の永手と、藤原式家の宿奈麻呂・雄田麻呂兄弟(広嗣の弟)が推した、称徳天皇の異母妹井上内親王の夫で、天智天皇の孫の白壁王が即位した(光仁天皇)。称徳天皇の遺言により光仁天皇が即位したとされるが、偽作であるともされる。光仁天皇は父の志貴皇子に春日宮御宇天皇諡号を贈った。

宿奈麻呂・雄田麻呂兄弟は出世に伴いそれぞれ良継・百川と改名している。また、式家と親しかった広虫清麻呂姉弟も元の名前に戻って京への帰還を許される。また、道鏡は造下野国薬師寺別当として都から追放された。藤原永手の死去により、中臣清麻呂が右大臣、良継が内臣、文室大市藤原魚名(藤原永手の異母弟)が参議、石川豊成・藤原縄麻呂(藤原豊成藤原房前娘の子)が中納言となった。式家はさらに発展することとなる。 井上内親王は皇后、間に産まれていた他戸親王が皇太子であった。ところが宝亀3(772)年、井上内親王光仁天皇同母姉の難波内親王を呪詛して殺害したとして、母子は廃位され幽閉された。同年、藤原京家藤原浜成(麻呂の子)が公卿となり、光仁天皇に歌学書の歌経標式を撰上した。

その後、他戸親王の異母兄で、百済帰化氏族の高野新笠を母とする山部親王が皇太子となった。 山部親王は、良継の娘の乙牟漏と、百川の娘の旅子、他戸親王の同母姉(つまりは異母妹)の酒人内親王などを妻とした。

乙牟漏との間には小殿(後に安殿)王・神野王・高志女王、旅子との間には大伴王、酒人内親王との間には朝原女王が産まれた。

宝亀5(774)年、藤原蔵下麻呂(良継・百川の弟)・藤原是公(乙麻呂の子)が参議となったことで、藤原氏議政官は14人中11人、その中でも藤原式家出身の者は4人となった。宝亀6(775)年、井上内親王他戸親王はどちらも薨去した。暗殺を疑われている。政争の中で藤原式家の権力は増大したかに見えたが、同年、蔵下麻呂は死去、宝亀8(777)年には内大臣になったばかりの良継が死去、百川は参議に留まり、明白に衰退しはじめた。式家の衰退後には、北家の藤原魚名(房前の子)が内臣となり太政官を主導し、忠臣という前例のない地位に就いた。

宝亀10(779)年、藤原百川が死去し、式家の権勢は以前にも増して衰退、百川の後任として、南家の藤原乙縄・北家の藤原小黒麻呂が参議となった。翌年には南家の藤原継縄(乙縄の兄)・式家の田麻呂(百川の兄)が任じられるなど、人事は藤原四家のバランスが考慮された。

参考文献はこちらhttps://usokusai.hatenadiary.com/entry/2021/12/31/170508