後花園天皇の時代
・正長1年(1428) 7.28 彦仁王は践祚した(後花園天皇)。(『満済准后日記』『椿葉記』)
・1432年 1. 明の宣宗,朱瞻基は、長い間日本より使者が来ないことを気にもんで、琉球を通してその由を日本に伝えた。(『明史』日本)
・永享4年(1432) 上杉(藤原)憲実は円覚寺より禅僧の快元を招いて庠主とし、足利学校を再興した。
※快元は易学の大家であった。講義内容は儒学が主であったが、特に『易』を学ぶ易学が重視された。合戦においては、吉凶を占うことが必要であったからである(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1432年 ヴァシーリーⅡとユーリーが、どちらがウラディーミル大公になるか、カンのウルク ムハンマドに委ねた。ユーリーはヴァシーリーⅠの遺言状を根拠としたが、ヴァシーリーⅡはツァーリーたるウルクの意志を尊重するとした。ウルクは大公位をヴァシーリーⅡに与えた。
・1433年 夏 足利(源)義教が明に使者を派遣した。明は使者に白金と模様付きの絹を贈った。(『明史』日本)
・1433年 PortugalはMadeira諸島を領有した。
・1433年 ユーリーはモスクワを陥落させ、ウラディーミル大公に即位した。
・1434年 モスクワを追われたヴァシーリーⅡは、大ムハンマドの支配するサライに向かった。
※大ムハンマドはヴァシーリーを支えていたことがわかる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1434年 ウラディーミル大公ユーリーは死去した。
・1436年2月 明の英宗,朱祁鎮が即位した際に訪れた室町幕府の使者が帰国する際、改元に合わせて再び勘合貿易を開始することが決定した。(『明史』日本)
・1437年 小ムハンマドは大ムハンマドをサライから放逐した。
・1437年 モスクワはクチュク ムハンマドをカンと認め、ウルク ムハンマドを討伐するための軍を派遣した。
・1438年 イタリアにてフェララ フィレンツェ公会議が開かれ、ローマ カトリック教会とギリシア正教会の再合同について議論された。
・永享11年(1439) 上杉(藤原)憲実は『尚書正義』、『毛詩註疏』、『礼記註疏』、『春秋左伝註疏』といった、それぞれ『尚書』『毛詩』『礼記』『春秋左氏伝』の注釈を、金沢文庫から足利学校に寄付した。
・1439年 PortugalはAzores諸島を領有した。
・1442年 ニジニ ノヴゴロド諸公に対し、ウルク ムハンマドは旧支配地域を支配する勅許を与えた。
・1444~1445年 ヴァシーリーⅡはウルク ムハンマドを討伐するために遠征を行ったが、スズダリ近郊にて敗北し、ヴァシーリーⅡは捕虜となった。
・文安2年(1445) 筑前国人の麻生(藤原)弘家は、機内に「年貢米五百斛内弍百石雑具等」を運ぶために、船で九州から兵庫まで輸送した。(「麻生文書」『九州史料叢書』17)
・1445~1446年 カン位を争っていたフダイダトの子息ベルデダトは、ヴァシーリーⅡに仕えた。
※その後、相続争いで敗れたチンギス・カン,テムジンの一族らがモスクワに亡命するようになる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1446年 2. ドミトリー シェミャカはヴァシーリーⅡの目を潰した。
・1446年 朝鮮の世宗,李裪は、ハングル文字を頒布した。
※ハングル文字は、大元ウルスのパクパ文字から作成されたものである(岡田英弘「中央ユーラシア、世界を動かす」『岡田英弘著作集 Ⅱ』)。
・文安3年(1446) 上杉(藤原)憲実は足利学校の規則「学規三条」を定め、『三注』『四書六経』『列子』『荘子』『老子』『史記』『文選』以外は講義を行わないことに決めた。
※憲実は講義内容を儒学関連に限定し、仏教色を排したのである(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1447年 ヴァシーリーⅡがウラディーミル大公に即位した。
・1447年 大ムハンマドの子息マフムドは、ムロムとウラディーミルを攻めて荒廃された。
・文安5年(1448) 1.1 権大外記,中原康富は、家中にて新年を祝った後に、上司である局務大外記,清原業忠の邸宅を訪れて挨拶をした。(『康富記』)
※清原家は、康富の出身である中原家が代々仕えていた。これは年始の挨拶であり、朝廷の官人は元旦から仕事に動いていたことが理解できる(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・文安5年(1448) 1.? 少弐(藤原)教頼は大内(多々良)教弘と争い、筑前国博多を焼き討ちした。(『宗氏世系私記』)
※大内家が筑前国守護職を奪取したことが争いの原因である(佐伯弘次「中世博多の火災と焼土層」『法哈噠』3 所収)。
・1448年 東ローマが、ローマ カトリックのもとで、コンスタンティノープル教会が再合同されることに同意し、ファララ フィレンツェ公会議は終了した。しかしこれはモスクワでは受け入れられなかった。
・1448年 全ルースィ府主教区の主教が集まり、リャザン主教ヨナを全ルースィの府主教に選出した。
※これにより全ルースィ教会は、人事などの世俗的なものを含めた、東ローマおよびコンスタンティノープル教会との繋がりを失った。そのため全ルースィ教会が頼れるのは、モスクワのウラディーミル大公ヴァシーリーⅡと、リトアニアのカジミエラスとなった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・宝徳3年(1451) 9艘の遣明船が出発した。(『笑雲入明記』) 397500斤の硫黄、157500斤の銅、106000斤の蘇芳、9500振の太刀、417振の長刀、1250本の扇、634色の蒔絵物などが輸出のために積まれていた。(『大乗院日記目録』)
※この派遣は、天龍寺の再建資金の調達を目的として企画された。しかし、幕府の財政悪化のために自前の船を造ることができず、諸勢力に勘合をばらまいて、勘合礼金を獲得しようとした。これが、これが、大内家が大明との貿易に参入する端緒であった。最大の輸出品は硫黄であり、自領に硫黄鉱山がある大友家以外は、島津家からの供給に頼っていた。大友家の優位性を物語る。(橋本雄「遣明船と遣朝鮮船の経営構造」『遥かなる中世』所収)。
※少弐家と大内家の争いで博多が焼かれていたため、博多商人にとっては復興の良い契機であった(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』)。
・1451年 サイイド アフメドはモスクワを攻めた。ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡと子息イヴァンは都から逃れ、モスクワは炎上した。その後、市民の防衛団が形成されると、モンゴル軍は撤退した。
※その後、サライ方面のモンゴル勢力からの脅威は少なくなったため、ヴァシーリーⅡはドミトリー ミェシャカへの攻勢を強めることになる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1452年 ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡは、ドミトリー ミェシャカの籠るウスチュグを攻めた。ドミトリーはノヴゴロドに逃れ、そこで受け入れられた。
※リトアニアとモスクワに挟まれたノヴゴロドは、ドミトリーを受け入れたのである(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1453年 ?.? とある日本人が貢ぎ物を持参したとして入明したが、臨清まで来たところで住民から掠奪した。それを問い詰めた隊長は殺されかけた。役人は処罰を求めたが、明の代宗,朱祁鈺は、遠い国からの信用が無くなることを恐て見逃した。(『明史』日本)
・宝徳3年(1453) 8.28 毛利(大江)熙元は、子息の豊元に全ての所領を譲った。女子には一期分を与え、熙元の男子は豊元が「扶持」するよう命じた。(「毛利家古文状」)
※兄弟は新たな家督に仕え、女性は一期分(一代限り)の所領が与えられた。他家に嫁げば化粧料として所領が与えられるのだが、本人の死後は、その女性の実家に返還される。他家に所領が流出するのを防ぐためである(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1453年 Dmitriy Shemyakaは毒殺された。
※Vladimir大公,がVasilii II殺害したという噂や、Novgorod貴族が殺害したとの噂が立った(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1453年 5.29 ʿOs̠mān君主国は東RomaのKōnstantinopolisを陥落させた。
※これにより、ʿOs̠mān君主国はRomaの後継の正統性を得たともいえる(岡本隆司『世界史序説』)。
※KōnstantinopolisのTheodosius Ⅱが建造した城壁を破るのにはUrban砲が活躍した。大砲が使用されるようになると既存の城壁での対処は不可能になった。以降、Europaでは城と要塞の役割は分離するようになった(小林登志子『文明の誕生』)。
・享徳3年(1454) 関東において、「鎌倉年中行事」が制作された。
※鎌倉公方の誕生日に、祈祷や酒宴などを行うことが記されている。また、本当の誕生日(正誕生日)と同じく、毎月の誕生した日も祝われている。これは月命日に対応しており、仏事だったという推測もある(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1456年 1. ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡは、ノヴゴロドを攻めた。ノヴゴロドは敗北し、賠償金の支払いや、ノヴゴロドがウラディーミル大公の相続地であることを定めたヤジェルヴィツィ条約が結ばれた。
※これにより、ウラディーミル大公はノヴゴロドの上級支配権を持つことになった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1457年以降 朱祁鎮が重祚した時代のはじめ、足利(源)義政は使者の非礼に関して謝罪の使者を明に派遣しようとした。ただ、直接明の皇帝に会わせるのをはばかって、朝鮮王を通して明に報告した。(『明史』日本)
・1458年 全ルースィ府主教区の内、リトアニアに属する部分には、ローマ教皇の支援を受けて、新たな府主教座が置かれた。
※これにより、モスクワの府主教はリトアニアにも頼れなくなり、モスクワの大公への依存を強めた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1458年 全ルースィ府主教区の内、リトアニアに属する部分には、ローマ教皇の支援を受けて、新たな府主教座が置かれた。
※これにより、モスクワの府主教はリトアニアにも頼れなくなり、モスクワの大公への依存を強めた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・長禄3年(1459) 雲章一慶は『勅修百丈清規』の講義をはじめた。
※ 『勅修百丈清規』とは、大元Mongγol Ulusにて定められた禅宗寺院の規則である。日本の禅宗寺院はこの規範を受容しており、禅僧の必須知識であった。彼は原文の内容だけでなく、東福寺領における荘園経営の実体験も語った。それは、荘園の実務に携わる東班衆も講義を聞いていたからであり、生活全てが修行だという禅宗の実学志向の強さを示している(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1460年 PortugalはCabo Verde諸島を領有した。
・1462年 ウラディーミル大公ヴァシーリーⅡが死去し、子息がイヴァンⅢとしてモスクワ公となった。
・1463年 モスクワ大公国はロストフ公国を併合した。
称光天皇の時代
・応永19年(1412) 8.29 後小松天皇が譲位し、躬仁親王が践祚した(称光天皇)。(『常永入道記』『山科家礼記』)
・1415年 PortugalはCeutaを占領した。
※北Africa沿岸部に拠点を得たことで、PortugalはAfricaに進出を始めることとなる(Krishan Kumar『帝国』)。
・1418年 足利(源)義持は明に帰国する呂淵に使者を随行させた。そして、倭寇に妨害されて明に使者を送れなかったことの由を奏上した。こうして以前と同じように室町幕府の使者はもてなされるようになったが、明の倭寇からの被害はその後も続いた。(『明史』日本)
※モンゴルでの内紛は拡大し、ジョチ ウルスは分裂した(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・応永25年(1418) 8.13 足利(源)義持は、後小松天皇の側近が、天皇に意見出来ないことを推し量って、彼らが言えないことは、自分から天皇に伝えようと側近たちに述べた。(『康富記』)
※彼は後小松天皇の採決には、時に問題があると理解していた。そこで採決を裏から補佐することで、天皇の体面を守りながらも、より良い政務を行おうとしたのである(髙鳥廉「四代・足利義持」『足利将軍事典』)。
・応永26年(1419) 11.3 足利(源)義持の弟、准三后,義円は天台座主となった。(『看聞日記』)
・応永27年(1420) 宋希璟(老松堂)は、日本と朝鮮の関係修復のために来日した。(『老松堂日本行録』)
※希璟は日本の僧侶の数を、非僧侶の倍はいると記す。これは誇張と思われるが、労働力が不足するのではないかと彼が思うほどの数であったことを物語る。また、遊女や男娼が盛んであることが記され、厳格な性規範を持つ朝鮮の官僚は衝撃を受けたようである(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・応永27年(1420) 宋希璟は足利(源)義持に謁見した後に、博多商人が引率する船に乗って帰還することとなった。博多商人は、瀬戸内海の蒲刈を通過する際に、東西の海賊の内、東の海賊の構成員1人に7貫文を支払った。(『老松堂日本行録』)
※当時の海賊は、自身の勢力圏を通る際の安全を保証する代わりに通行料を徴収していた。これは「上乗り」と呼ばれ、全国で見られた風習である(清水克行『室町は今日もハードボイルド』)。
・応永29年(1422) 4.13 伊勢講のために、中原康富の上司、同僚、部下にあたる外記局や弁官局の官人が、講親のもとに集まって精進潔斎を行った。(『康富記』)
※伊勢講(神明講)とは、伊勢神宮に参宮するために複数人で金を積み立て、参宮費用に充てるというものである。それを何年おきかに繰り返すことで、関東からなら往復30日かかる参宮も、参加者は生涯に一度は可能になるのである(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1422年以降 チンギス・カン,テムジンの子孫らによるサライの奪い合いは続いた。
・応永30年(1423) 足利学校に付属する療養所の入院に関する規則が定められた。(『学校省行堂日用憲章写』)
※足利学校の創設者としては、小野篁や足利(源)義兼なども一説として上げられるが、後世の伝説と考えられる。ただ少なくとも応永30年時点では足利学校は存在していたようである。ただ、どのような内容を教えていたかは不明である(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・応永32年(1425) 2.27 将軍,足利(源)義量は死去した。(『看聞日記』) 死因は「内損(内臓疾患)」とも考えられた。(『薩戒記』)
〔参考〕『日本国語大辞典』によれば、「内損」とは、主に飲酒などにより、胃腸を悪くすることである。
※彼の死因が、アルコールの過剰摂取であった可能性は捨てきれない(髙鳥廉「五代・足利義量」『足利将軍事典』)。
・正長1年(1428) 朴瑞生は朝鮮通信使の正使として来日した。かれは日本の市場において、商人は屋根の下に棚を作り、その上に商品を置いていることを報告した。また、商品の食物を地べたに置く朝鮮は不衛生だとして日本の市場を参考にすることを提案した。また、日本人が入浴好きであることや、農村に水車があることにも着目している。(『朝鮮王朝実録』)
・正長2年(1429) 3.15 足利(源)義宣は、諱の音が「世を偲ぶ」に通じるのが不快だとして、義教に改名した。(『看聞日記』)
後円融天皇・長慶天皇の時代
・応安4年(1371) 3.23 後光厳天皇は譲位し、緒仁親王が践祚した(後円融天皇)。(『後愚昧記』)
・1371年 10.? 懐良親王の使者、僧侶の祖来が明朝の都に到着した。この際、馬や地方の物産が献上され、明州・台州から誘拐された70数人の民が送還された。祖来の帰国の際には僧侶の祖闡、克勤ら8人が随行し、懐良親王に対しては大統暦、綾模様の絹、沙羅が贈られた。(『明史』日本)
1373年 祖闡は日本に到着して、仏教を説いて信望を集めるが、懐良親王は祖闡を軟禁した。(『明史』)
1374年 5.祖闡は軟禁を解かれ、明に帰国した。(『明史』)
1374年7月 日本の「大臣」が僧侶の宣聞渓らに書状を持たせて入明した。馬や地方の産物を献上したものの、上表文を持参していなかったため、明の洪武帝,朱元璋への謁見は叶わなかった。ただ、それまでの慣習の通り、使者には贈り物を与えた。(『明史』日本)
・応安7年(1374) 4.28or29 小嶋法師という人物が死去した。(『洞院公定日記』)
〔参考〕『洞院公定日記』応安7年5月3日条によれば、小嶋法師は『太平記』の作者であるという。
・応安7年(1374) 10.24 足利(源)氏満は、義堂周信と政治について語り合い、『孝経』と『貞観政要』を儒学者から学ぶことを勧められた。(『空華日用工夫略集』)
※この時点で、『貞観政要』は上級武士の必読書になっていたと推測される。また氏満は『吾妻鏡』を所有しており、儒教の経典である『孝経』を学ぶことを勧められたことを含め、帝王学としての高度な勉強をしていたようである(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1374年? 氏久(島津氏久か)の使者が上表文を伴って入明する。しかし、その使者の派遣は日本国王の命令でもなく明の年号や暦を用いていなかったため、追い返された。その使者には贈り物とともに、立場を弁えない氏久の非礼を咎める持たせる文書を持たせた。(『明史』日本)
・1374年?日 明においては呉禎が倭寇の取り締まりを命じられ、各地の重要地点の官軍を統制下に置いた。(『皇明馭倭録』)
・永和2年(1376) 冬 後円融天皇は喉に痺れを感じ、丹波篤直や和気繁成ら官医が治療したが、効果がなかった。そこで民間医の坂士仏が呼ばれ、鍼を使って治療を行い、成功させた。その功績により、坂士仏は法印に叙せられた。(『後愚昧記』)
※民間医であろうとも、功績があれば僧位や朝官の職を得ることが出来た。民間医を公認していたことになる(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・永和3年(1377) 義堂周信は弟子に対して、起床を促す鐘がなっても朝起きて顔を洗わず、朝粥の時間が知らされて、やっと手と口を洗うという怠け具合について説教を述べ、気を引き締めるよう伝えた。(『空華日用工夫略集』)
※禅寺における、規則正しい生活というのは、現実と乖離した部分があったようである(呉座勇一『日本中世への招待』)。
1380年 日本より使者が入明する。上表文は届かなかったものの、足利義満から明の丞相あての書状を伴っていた。しかしその文面が傲慢であったことを理由に、貢ぎ物は拒絶され、来日した使者により義満の非礼が咎められた。(『明史』)
・1380年 〔参考〕モスクワ大公ドミトリーはママイを破ったという。
※同時代の記録には残されていないため、事実ではないとも考えられる(岡田英弘『世界史の誕生』)。
・1380年 トクタミシュはカンとして、ジョチ ウルスを統一。モスクワに使節を派遣して自身がツァーリーであると伝えた。
・1380年 DenmarkのRex,Oluf II Håkonsenは、NorgeのRex位を兼ねた(Olav IV)。
※同君連合としてDenmarkに下ったことで、Norge語は書き言葉としては衰えた。しかし、山岳や峡江の中で方言が多様化することとなった(清水誠『ゲルマン諸語のしくみ』)。
・1381年 シャルル6世はアラゴンのペドロ4世に謝辞を送った。
※「マパ・ムンディ」はヴァロワ家のもとで制作され、直接制作を命令したのはペドロ4世だったとも考えられる(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。
・1381年冬 ルーシィから、ジョチ ウルスのカン,トクタミシュに贈り物があった。
※モスクワ公ドミトリーらが、トクタミシュを宗主と認めていたことを意味する。モンゴルからの解放を望んだわけではなかった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1381年 日本より使者が入明した。明の洪武帝,朱元璋はその使者を追い返し、使者を通して日本国王である懐良親王と足利(源)義満を咎め、場合によっては日本に侵攻すると伝えた。懐良親王は、「一度戦争をしても構わないが、戦を止めて民を苦しみから解放することが強者のすることである」といった文面の書状を奏上した。明洪武帝朱元璋は内容に激怒したが、かつて大元が遠征に失敗した例もあることから、日本を攻めることはしなかった。(『明史』日本)
仁徳天皇から宣化天皇の時代
・?年 雄略天皇の崩御後、その王子である白髪王が即位した(清寧天皇)。(『日本書紀』)
※『日本書紀』には清寧天皇が生まれつき白髪であったことが述べられるが、実際には「シラカ」とは長谷にある地名と考えられる(古市晃『倭国』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、清寧天皇は大伴室屋を諸国派遣して、白髪部舎人、白髪部膳手、白髪部靫負を設置したという。
〔参考〕『古事記』には、雄略天皇が自身の王子である白髪王の名代として白髪部を定めたとある。
〔参考〕『日本霊異記』には、武蔵国多摩郡小河の郷の人である正六位上,大真山継の妻は白髪部の氏の出身とある。
※雄略天皇から清寧天皇の時代にかけて、武蔵国を含む諸国に白髪部が設置されていったものと考えられる(田中卓『古代天皇の謎』)。
※部民には、地域から中央に「トモ(伴)」を派遣する集団と、「モノ」を貢納する集団がおり、それぞれの役割によってヤマト王権に奉仕していた。前者の代表的氏族として「トモ」の名を冠する大伴氏が、後者の代表的氏族として「モノ」の名を冠する物部氏がいる。ことででヤマト王権への奉仕を行った部民は大伴氏が代表的なものである。トモの生活物資は部から送られた。部には天皇や王族に仕える名代と子代(白髪部など)と、ヤマト王権維持のための職能に従事する職業部(山部、海部、忌部など)、豪族が私有する部曲(巨勢部、中臣部など)に分けられる。部の管理者はその名称を名乗るようになったことで、「氏」が成立した。そして氏間の序列を表すために、旧来の尊称を用いた「姓(カバネ)」が成立した。天皇は氏を与える権限を持ったことで、氏姓制度を超越する地位となった(吉村武彦「ヤマト王権の成立と展開」『日本古代国家形成史の研究』)。
※姓は稲荷山古墳から出土した鉄剣に見える「乎獲居臣」の「臣」のような称号から発展したものと考えられる(篠川賢『大王と地方豪族』)。
※『日本書紀』には、垂仁天皇の王子,五十瓊敷命が和泉国の菟砥川上宮に居したとある。垂仁天皇の実在性は疑われることが多いものの、『古事記』には允恭天皇が河部という名代を置いたとおることや、川上舎人という名代・子代は確認されているため(『日本三代実録』貞観4.7.28)、川上宮は実在したとも考えられる(古市晃『倭国』)。
・?年〔参考〕清寧天皇には王子がいなかったため大王位継承候補者を探させた。その結果、履中天皇の孫で市辺押磐王の子息,億計王・弘計王兄弟が発見されたという。(『日本書紀』)
※允恭天皇が即位してから清寧天皇まで、履中天皇の子孫からは大王位継承候補者は現れなかった。そのため、王統は履中天皇系と允恭天皇系に分裂したのではなく、允恭天皇の子孫の男子が不在になったことで系統が転換したとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。
・?年 〔参考〕清寧天皇の崩御後、履中天皇の王女もしくは市辺押磐王の娘である飯豊青王が政務を行った。(『日本書紀』)
※事実上の君主であったとも考えられる。女性君主は卑弥呼や台与以来のことであり、継承が危機的状況であったことを示唆するとも考えられる(古市晃『倭国』)。
・?年 弘計王が即位した(顕宗天皇)。(『古事記』『日本書紀』)
※顕宗天皇の母,荑媛は葛城葦田宿禰の孫とされていることから、玉田宿禰の系統は雄略天皇に滅ぼされたものの、葛城氏の全ては没落していないとも考えられる(佐藤長門『蘇我大臣家』)。
・?年 顕宗天皇の崩御後、兄の億計王が即位した(仁賢天皇)。(『日本書紀』)
・?年 仁賢天皇は、雄略天皇の王女,春日大娘王をキサキに迎えた。(『日本書紀』)
※雄略天皇の王統が断絶したことにより、雄略天皇の娘である春日大娘王の血統は重要性を増したとも考えられる。仁賢天皇は、雄略天皇の血統を非父系によって継続させる役割も担っていたとも推測される(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。
・?年 12.? 〔参考〕仁賢天皇が春日大娘王との間に儲けた王子,小泊瀬若鷦鷯王が即位したとされる(武烈天皇)。(『日本書紀』)
※鷦鷯(ササギ)とはミソサザイのことであり、民話などにおいては鳥の王として捉えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。
※実際は雄略天皇(=武)の王子だという説もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。
・?年 3.2 武烈天皇は雄略天皇の王女春日娘子をキサキに迎えたとされる。(『日本書紀』)
・?年 『日本書紀』には、「妊婦の腹を裂く」「爪を剥いだ人に芋を掘らせる」などの、武烈天皇の暴虐さを示す行動が記されている。しかし、『古事記』にはそのような記述はない。
垂仁天皇から応神天皇までの時代
・?年 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇88年7月10日条」によれば、垂仁天皇は、天日槍(日桙)の曾孫,但馬清彦に宝物を献上させたという。
※ 清彦は伊都国王と共通祖先を持つ、但馬国に移り住んだ一族とも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇11年3月11日条」によれば、垂仁天皇は天照大御神を豊鍬入姫命から離して倭姫命に託したという。倭姫命は天照大御神を鎮めるための場所を探し、最終的に伊勢国に至り、天照大御神の意志に従ってそこに祠と斎宮を興てたのだという。(『日本書紀』)
〔異伝〕『日本書紀』の引用する「一書」によれば、天照大御神は大水口宿禰に憑依して、先代の崇神天皇は天照大御神を祀ることに不備があったことを伝え、それを悔いて正しく祀れば、天皇の寿命は長く世の中も平和になると伝えたのだという。そこで長尾市宿禰に天照大御神を祀らせたのが、伊勢神宮の創始であるのだという。
※伊勢神宮創始の異伝は、崇神天皇と垂仁天皇の物語が不可分で神話的であることを示す。また、斎宮に関する記録も長くないことから、垂仁天皇の時代に伊勢神宮が成立したという記述は事実ではないと考えられる(新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇33年7月己卯条」によれば、墳墓を造営する際、野見宿禰は生贄を埋める代わりに出雲国から土部100人を呼んで人や馬の形をした埴輪を埋めさせるようにしたという。
※箸墓古墳のような、吉備から貢納させた製品を用いる方法から、出雲から呼んだ技術者に製品を制作させる方法に転換したとも考えられる。制服池から人的資源を収奪したことで、ヤマト王権は勢力を拡大したとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。
・289年 5.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅に侵攻するとの情報があったため、甲兵を配備したという。
・292年 6.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵は新羅の沙道城を陥落させたという。
・294年 夏〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵は新羅の長峯城を攻めたという。
・295年 春〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅王,昔儒礼は百済と結託して倭国を攻めようとしたが、臣下が反対したため中止したという。
・300年 1.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅と倭国は友好関係を結んだという。
※『日本書紀』には該当記事がないことから、この「倭国」はヤマト王権ではなく九州の王権であるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
・311年? 〔参考〕辛未の年、垂仁天皇は崩御した。(『住吉大社神代記』)
※『住吉大社神代記』は、崇神天皇の崩御年を「戌寅」、垂仁天皇の崩御年を「辛未」と記す。「戌寅」が318年だとすると、垂仁天皇との崩御年が逆転してしまう。そのため、垂仁天皇の崩御年は311年、崇神天皇の崩御年はそれより前の258年だと推測される。『古事記』は垂仁天皇の崩御年を153歳、『日本書紀』は140歳とする。これは古くから垂仁天皇が長寿であると伝承されてきたことを示しており、『住吉大社神代記』から考証される53年という在位もありうるという見解もある(田中卓「八代系譜の信憑性」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。
・311年?〔参考〕垂仁天皇の崩御後、その子息が即位した(景行天皇)。(『古事記』『住吉大社神代記』)
※景行天皇の和風諡号は「大足彦忍代別(オオタラシヒコオシロワケ)」という。「大足彦」は尊称「別」は追号であり、実名は「忍代」とも考えられる。「ワケ」という名号は後代にもあるため、信頼性が置けるという見解もある(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※景行天皇の兄弟には「五十日足彦(イカタラシリコ)」や「胆香足姫(イカタラシヒメ)」がいることや、自身も「オオタラシヒコ」という尊称を持っていることなどから、当時は「タラシヒコ」という呼称が流行していたとも考えられる(田中卓「古代天皇の実在」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。
・312年 3.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、「倭国王」が使者を派遣し、自身の子息の婚姻を望んだという。そこで新羅から阿飡,急利の娘が倭国に送られたという。
※『日本書紀』には記述がないため、「倭国王」は九州の君主であったとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇12年9月5日条」によれば、景行天皇は周防に至り、九州に偵察を派遣したという。
・?年 〔参考〕『日本書紀』によれば、豊前国の神夏磯媛はヤマト王権に恭順し、敵対する鼻垂、耳垂、麻剥、土折猪折を討伐することを頼んだという。
※ヤマト王権の協力によって、敵対勢力の討伐を願っていることから、九州の王権は分裂状態にあったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇18年4月3日」によれば、景行天皇は熊県に到着したという。兄熊はヤマト王権に恭順し、反抗する弟熊を滅ぼしたという。
※熊県は陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」の記す狗奴国のことだとも推測される。狗奴国はヤマト王権への恭順を望む派閥と抵抗を望む派閥がおり、『日本書紀』は兄弟の対立として描いているものと考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇19年9月20日条」によれば、景行天皇は日向国から帰還したという。
〔参考〕『肥前国風土記』によれば、基肆郡の神の要求に応えて、景行天皇は自身の甲冑を長岡神社に奉納したという。
※地方の神が神宝を要求していることからして、天皇の屈服の暗示とも考えられる。平塚川添古墳と関係する勢力にヤマト王権軍は敗れて帰還したとも推測される。『三国史記』の記述からして、当時の九州の王権は新羅と友好関係にあり、そうした背景から勝利できたとも推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇40年条」によれば、景行天皇は自身の王子,大碓命を美濃国に封じたという。
※美濃国は、ヤマト王権の支配下になったとも考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。
・?年 〔参考〕『日本書紀』「景行天皇紀51年8月4日条」には、景行天皇は、自身の王子である稚足彦尊・五百城入彦兄弟およびその異母兄,小碓命を「太子」にしたとある。
※皇太子は1人であるはずであり、そもそも当時の日本に皇太子制は成立していない。そのことから、河内を中心とした政権が成立するうえで複数の血縁集団が関わったことを、3人の太子として伝承したのだと考えられる(原田実『異説・逸話の天皇列伝』)。
・?年 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、景行天皇の崩御後、その王子で、日本武尊の弟が即位したという(成務天皇)。
※成務天皇の和風諡号は「稚足彦」である。これは追号であり、実名は伝わっていないと考えられる。これは実名で呼ぶことを忌避する風潮から実名が忘れられたのであり、実在性の有無とは無関係であるとも考えられる。あえて実名を創作しなかったことからも、実在する天皇として伝承されてきたことの証左とも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
?年 〔参考〕『日本書紀』「成務天皇4年2月1日条」によれば、地方に天皇の命令に従わない者がいるのは、国郡の長と県邑の首がいないからだとして、国の長を国郡の首長に取り立てるように定めようとしたという。
※当時の倭国に国郡制はなかったが、地方行政の整備を推進していったことを伺わせる記述である(米田雄介『歴代天皇の皇位継承事情』)。
弥生時代(史書登場以後)
・紀元前219年 〔参考〕『史記』「秦始皇本紀」によれば、秦の始皇帝,趙正は徐市(福)に命じて、不老長寿の薬を探させたという。
〔参考〕『史記』「淮南衡 山王列伝」よれば、徐福は正を欺いて蓬莱山の大神に献上するとして貢物を受け取り、海を渡った先の島で王となって帰ってこなかったという。
※正は生前から陵墓を建設させている。そのため不老不死を求めていたというのは不自然であり、徐福伝説は虚構という説もある(落合淳思『古代中国の虚像と実像』)。
・紀元前108年 漢の武帝,劉徹は、衛氏朝鮮を滅ぼした。その後、倭の内の30国程が漢に使者と通訳を遣わした。倭の首長は各々「王」を名乗り、世襲制であった。(『後漢書』東夷伝 倭伝)
〔参考〕『説文解字』によれば、「倭」は柔順という意味を持つ。
※「倭」とは、「中国」から見て朝鮮半島の南の、海を隔てた地域(ないしは国)を差して、従順の意で呼んだと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
〔参考〕昔、「倭傀」という名の醜女がいたとして、「倭」は醜いという意味だという説もある。しかし、『文選』巻51「漢・王襃「四子講徳論」」の李善の注には、所見が明らかでないとして、疑義を呈する。
〔参考〕『釈日本紀』と『日本書紀纂疏』は、「倭」は「吾」「我」が転じたものと考証する。
〔参考〕『異称日本伝』は、「倭」は人・女性に従うという意味を持っており、女性が統治するという伝聞から用いられたと考証する。
※「吾」「我」が転じたという説や、女性に従うという意味という説は、全くの憶測とされる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※弥生時代中期末のものとして、須玖岡本遺跡がある。墳丘には、甕棺に1人か2人といった少人数か埋葬されていた。漢の青銅鏡やガラス製の碧が副葬されていたことから、楽浪郡を介して漢と交渉していたようである(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)
※須玖岡本遺跡の位置にあった王権は、早良国(吉武高木遺跡)などを吸収し、部族連合の盟主、奴国として君主を束ねる君主になったと考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
・紀元前57年頃 クスの木が伐採され、環濠集落の建物の柱に使用された。(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)
※池上曽根遺跡の柱の年代は、年輪から紀元前57年のものと判明した。弥生時代中期より集落の人口が増えたことで、巨大な環濠集落が形成されたと考えられる。畿内では周辺には2~3ha程の集落が約5km間隔で分布しており、池上曽根遺跡のような更に巨大な集落が総括していたと推測される。建物の軸線は南北に設定されており、「中国」の建築思想に基づく建築がなされていたと推測される。渡来人が城郭都市の知識を伝えたのかもしれない(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)。
・紀元前50年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が兵を率いて秦韓に侵攻したが、赫居世の徳に感化されたのだという。
※この時期に関する『三国史記』の倭人の記述が、どれだけ事実を反映しているかは不明である(若井敏明『謎の九州王権』)。
〔参考〕『三国遺事』「塔事 皇竜寺条」には、新羅は北方で靺鞨に繋がり、南方で「倭人」に繋がるとある。
〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」は、濊国の1つに「倭人国」があるとする。
※『三国史記』に登場する「倭人」の全てが、日本列島内にいる人々とは限らない(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
・紀元前6年(漢暦建平1) 4.丙戌 劉歆は自身が校訂した『山海経』を漢の哀帝,劉欣に献上した。(『山海経』款識)
・〔参考〕『山海経』「海内北経」には、倭は蓋国の南にあり、燕に属するという記述がある。
※「海内北経」の部分は、劉歆が校訂した際に加えられた記述と考えられ、『山海経』が「中国」における倭(=日本)の最も古い記述だという説には疑問符が付く。『山海経』は神話集であり、実際の地域名を記したわけではないが、朝鮮半島の南にあるという認識を示している(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※「蓋国」は朝鮮半島南部の「濊」であり、「海内北経」の「倭」は燕の東北にあるという見解など、様々な解釈がある(上田正昭『私の日本古代史』)。
※燕に属するというのは天空の区画のことであり、倭が燕の支配下にあったというわけではない(若井敏明『謎の九州王権』)。
・紀元前? 〔参考〕『日本書紀』には、饒速日命という神が、高天原より畿内に入ったとある。
※北九州の立屋敷遺跡からは、遠賀川式土器が出土している。遠賀川式土器は尾張西部にまで伝わっていることから、『日本書紀』の記述は、稲作文化を持った集団が尾張や大和に土着し、氏族集団を形成したことを反映しているとも考えられる(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。
・紀元後 日本列島の北部九州においては、階級の違いによって、副葬される中国鏡の大きさや数が異なっていた。集落の長に相当する者の墓には分割鏡が副葬された。倭国王やその傘下の君主から分割されて分け与えられたものだと考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
・8年 王莽は劉嬰(孺子)からの禅譲を受け、新たな国を建国し国号を「新」とした。その際、「東夷」の王が朝貢を行った。(『漢書』王莽伝)
※新に朝貢を行ったのは、伊都国か奴国の王と推測される(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※新において発行された貨幣,貨泉は日本列島から出土していることから、倭人は「中国」との交渉を続けていたようである(若井敏明『謎の九州王権』)。
・14年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」倭人は兵船100以上を派遣して、秦韓の海辺の民戸を略奪したという。新羅は勁兵を派遣して防衛したという。
・57年(漢暦建武中元2) 春 倭の奴国(もしくは倭奴国)が後漢に朝賀使を送った。倭人の使者は自らを大夫と名乗った。奴国は漢光武帝,劉秀より印綬を賜った。(『後漢書』光武帝紀,東夷伝 倭)
※水田耕作の発展によって農耕共同体は拡大したことで、集団内外の利害関係が生じ、それらの調停を行ったのが、奴国の王である大首長と首長集団であったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※朝貢関係の構築は、「中華」の支配下に入ってその支配を承認されることである。このような関係を築くことで、競合する他国に対して国力を誇示することが可能であった(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※劉秀は漢帝国の継続を喧伝する立場であり、「漢」の字を刻んだ金印を与えることは、その正当性を喧伝するうえで意味があった。「漢の国」と表記された印は、匈奴や倭などに限って贈られた金印は、最上位の官位と爵位の格に相当する者に贈られた(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。
※印は皇帝の中央集権の支配秩序の下で、官人や官署が職務を遂行するために必要なものであり、役人は職位相当の印を与えられた。皇帝から授かった印は、封緘の役割を持っていた。封検という木の札の窪みに粘土を敷き詰め、その上から刻印の形で印を押すのである。ただ、当時の倭が、上表文を漢字で書くほどの識字環境が整っていたとは思えず、印文の意味や、正確な用途を理解出来なかったとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※後漢としては、新が滅亡した後の国家再編のために、他国を繋ぎとめる方策として「国王」の地位をばらまいたとも考えられる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
※どの地域から来たか尋ねられた使者が「私は」という意味で「ワ(倭)」と答えたとすれば、日本語の祖先は既に存在していたかもしれない(沖森卓也『日本語全史』)。
〔要参考〕天明7年(1784)3月16日付の口上書によれば、志賀島の百姓,甚兵衛が「漢委奴国王」と刻まれた金印を発見したのだという。
※「漢委奴国王印」は109g、金95%と銀4.5%、その他銅が含まれている。(鶴間和幸『ファーストエンペラーの遺産』)。
※それこそが奴国王に贈られた金印だと考えられる。偽造説も唱えられたが、「廣陵王璽」と刻まれた金印や「滇王之印」と刻まれた金印などの兄弟印が発見されたことや、金属組成の分析、後漢時代当時の篆刻技術の研究により、偽造説は否定的な見解が強い(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※異民族に与えた印でありながら、蛇を象ったものであることも贋物説の根拠とされたが、「滇王之印」も蛇を象っていることから実際に後漢から与えられたものだと考えられている(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※上奏文や朝貢品の封泥に用いられたとも考えられるが、文字の内容の理解や、上表文を書くほどの識字環境が整っているとは考えられないとの疑問が呈されている。そのため、金印は後漢の支配下に組み込まれることを認めるものであり、威信の象徴であるとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※三宅米吉は、「漢委奴国王」の読み方を「かんのわのなのこくおう」という読み方の推測を発表した(『史学雑誌』1892年)。
※「かんのわのなのこくおう」という読み方については、「漢に服属する、倭に属する奴国の王」という回りくどい読みであることや、当時「奴」という国が存在していたのか、また、「国王」という称号があるのかという疑問が呈されている(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※「倭奴国王」の「倭奴」は、『北史』や『旧唐書』および『新唐書』にも見られる表記である。また、『後漢書』では「倭奴国」と「倭国」の両方が使われており、表記揺れと見られる。これらのことから、「倭奴」の「奴」とは「匈奴」のように卑下の接尾辞とも考えられる。また、当時の「中国」の皇帝が民族の首長に与えた称号は「国王」ではなく「王」であることから、「漢委奴国王」は「漢の倭奴国(の)王」と読むのが適切だという説もある(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※陳寿の『魏志』「東夷伝 倭人条」には「奴国」という国名が見えることから、「倭奴国」、つまり倭国全体の王ではなく倭の中の1つの国「奴国」の王が正しいという見解もある(若井敏明『謎の九州王権』)。
※極東の島国を漢が認知したとしても、「奴国」が倭国を構成する1つの国家であるであると、理解できたかは疑わしいとも考えられている(遠山美都男『新版 大化改新』)。
・59年 5.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅は倭と通好したという。
・73年 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人は木出島に侵攻したという。新羅王,昔脱解(脱解尼師今)は角干羽烏を派遣して防衛にあたらせたが、角干羽烏は戦死したという。
・97年(漢暦永元9) 70歳となった漢の王充は、本を書くことにした。(『後漢書』王充伝)
・〔参考〕『論衡』「儒増篇」には、周が成立していた時代に、倭人が𣈱草を貢いだという記述がある。
・〔参考〕『論衡』「恢国篇」には、周の成王,姫誦の時代、倭人は鬯草を貢したとある。
※実際に日本列島の人々が周を訪れたかは不明である。ただ、『論衡』が書かれた時代には楽浪郡を通して倭人の情報は伝わっていたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
※鬯草は香草のことである。鬯草の産地は粤地であり、倭人は南方の種族であるような筆致である(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
・107年(漢暦永初1年) 倭国王,帥升らが、後漢に使者を派遣した。生口160人を献上し謁見を願った(『後漢書』「孝安帝紀 」「東夷伝 倭伝」)
〔参考〕『翰苑』や『日本書紀纂疏』の引用する『後漢書』には「倭面上国王師升」とある。
〔参考〕『釈日本紀』は『後漢書』を引用して、使者を派遣した国を「倭面国」とする。
〔参考〕『通典』には「倭面土国王師升」とある。
〔参考〕『唐類函』には「倭国土地王師升」とある。
※『後漢書』を引用する文献から、『後漢書』には帥升のことを「倭面土王」や「倭国土地王」と表記する写本があったようである。しかし、それらの文献は正確に引用しているか疑問が呈されることや、「倭面土」は「ヤマト(=倭)」の音写とも考えられる(西嶋定生『倭国の出現』)。
※「倭面土国王」や「倭国上国王」といった表記は、「倭国王」を「倭国王国王」と重複して誤記し、さらに「王」を「上」や「土」などと誤った可能性も指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。
※『後漢書』には、「倭国主帥升等」と表記する写本(紹興本)もある。そのため、「帥升」という王がいたのではなく、「主帥」という官名を持つ倭国からの使者が、漢を訪れたという説もある(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※『漢書』『三国志』『後漢書』には、「師」を姓とする人物か見られる。そのため「帥」は「師」の誤写の可能性がある。「升」という名も「中国」名として不自然ではない。当時は「中国」の姓制度を受容した国はなく、新しい姓が創始されることもなかった。そのため帥升には朝鮮半島に移住した渡来人、もしくは漢人を模倣して姓を名乗った朝鮮半島の人の子孫の可能性が指摘される。帥升が古くから日本列島に住んでいた者の子孫であるならば、当時の倭国内において、漢人のような姓を名乗ることに政治的な意味があったとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。
※帥升とは、漢語に翻訳された名前であり、帥升が漢人であったわけではないという見解もある(遠山美都男『新版 大化改新』)。
※伊都(イト)国の王であった帥升が盟主となり、連合国家としての「倭国」を形成していたとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
〔参考〕『筑前国風土記』には、筑紫国の伊覩県主の祖,五十迹手は、天から「高麗の国の意呂山」に降りた日桙(ヒボコ)の末裔とある。
※『筑前国風土記』の記述から、伊都国王(伊都県主)は朝鮮半島から渡来した者の子孫とも推測される(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。
※伊都国は福岡平野の三雲・井原を中心としており、連合の盟主になっていたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※米三雲・井原遺跡からは硯片が発見されており、楽浪郡と文書外交を行っていたことが窺える(石野博信「倭人は文字を使っていた」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
〔参考〕『後漢書』「鮮卑条」には、「生口・牛羊・財物」とある。
※遺跡などから当時の日本列島には階級社会が形成されていたことが窺われ、「生口」とは、牛馬や財産などと同じ扱いを受ける奴隷的身分であったと考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※帥升としては、多くの生口を献上することで、多くの共同体を服属させていることを示そうとしたのだと考えられる。またそれは、戦争に勝利し、捕虜を獲得できるような、軍事的資質が倭国王に必要とされたのだと推測できる(遠山美都男『新版 大化改新』)。
※生口が朝貢の品として用いられたのは、珍しい特産品がなかったため、奴隷の価値が相対的に高かったからだと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。
※北部九州の倭国連合は、漢を中心とした政治秩序に参入することと引き換えに、鉄資源のほか鏡や剣などの威信を示す物を下賜され、それを倭国内の「国」に与えることで、国内を支配していたと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※『後漢書』の原文に「帥升等」とあることから、後漢に朝貢を行ったのは帥升だけでなく、160という生口の数も倭の諸国から集められて送られたと思われる。また、このことから帥升は倭にある複数の国の君主として上に立っていたとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)
※建武中元2年と永初元年という、2度に渡って朝貢した記述が残されていることから、「東夷」の中でも倭は特別な存在だったと理解されていたことが伺える(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
※井原鑓溝遺跡の甕棺の年代を2世紀第1四半期と推定し、被葬者を帥升に比定する説もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
・121年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が秦韓の東辺に侵攻したという。
・122年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅に台風が来て、木々を倒して瓦を飛ばしたという。都人は倭の兵が来るのではないかと考えて山谷に逃げたが、新羅王,朴祇摩は諭して止めさせたのだという。
※これは噂が広まったのであり、実際に倭人が来襲したわけではない。しかし、倭人の侵攻が新羅の人々にとって脅威であったことを示すとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
・123年 3.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅は倭国と講和したという。
※「倭国」という形で、政治組織が形成されていたこととの関連性が指摘される(若井敏明『謎の九州王権』)。
・127年 クシャーン朝君主,カニシュカⅠは、この年を紀元1年と定めた。(「ラバータク碑文」)
※カニシュカⅠの即位年は、紀元の創始年と混合されることがあるが、不明である(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。
※クシャーン朝はアラビア海に面するグジャラート地方にまで進出した。こうして、クシャーナ朝とローマはパルティアを経由せずして海路にて繋がった。インドとローマの間にあるアラビア海を越えなければならないという問題は、季節風航海術により克服された。こうして、ローマからインドへは金貨、ガラス製品、金属細工、ワインなどがもたらされた。そのため、クシャーン朝ではローマを参考にして、君主の肖像が刻まれた金貨が作られるようになる。また、イラン、ギリシア、インドなどの文字や神々が刻まれる場合もあった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
カニシュカⅠは仏教を保護したこともあり、ギリシア系のバクトリアの影響を受けた仏像が制作されるようになった。(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
※クシャーン朝においてはブッダの姿が刻まれた貨幣が発行されたことから、仏教との関わりはあったと思われる。しかし、クシャーン朝君主の崇拝対処は神格化された自然現象であり、ザラシュストラ教とは異なるイラン的な信仰を持っていた。カニシュカⅠについて、仏教的な逸話を伝えるのは、『大唐西域記』のような後世の漢文仏教文献である。クシャーン朝は宗教的に寛容であり、仏教教団にとっても良い時代であったことから、カニシュカⅠと仏教が結びついたとも考えられる(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。
※既に北西インドでは神や王の像はつくられており、仏教もその影響を受けた形であった。それ以来、仏像は仏塔と共にブッダの象徴として扱われるようになった(馬場紀寿『初期仏教』)。
※仏像のようなガンダーラ美術は中央アジアさらに東アジアへと伝えられていった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
・137年クシャーン朝君主,カニシュカⅠはインドからトハーリスターンに移動した。(「ラバータク碑文」)
〔参考〕玄奘の『大唐西域記』によれば、カニシュカⅠは周辺諸国から差し出された人質の居場所を季節ごとに移動させたという。
※移動の記録や、貨幣や彫像におけるクシャーン朝君主の風貌から、その出自は遊牧民であり、漢文史料に現れる大月氏とも考えられる。しかし大月氏についての文献は、カニシュカⅠの時代と離れており、不明瞭な部分が多い(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。
・150年頃 象鼻山の山頂に方壇が築かれた(象鼻山三号墳)。(石野博信「二世紀の東海の祭祀」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
・158年 3.?〔参考〕 『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の竹嶺が開かれると倭人が訪れたという。
※竹嶺が開かれたことで、倭人が陸路で楽浪郡に至ることが可能になったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
・166年以前? 鄭玄は儒学者,馬融に学問を学んでいた。(『後漢書』鄭玄伝)
・〔参考〕何晏の『論語集解』が引用する馬融の『論語』「子罕篇」の注釈では、「九夷」の1つは倭とされる。
・〔参考〕『論語』「子罕篇」によれば、孔丘(孔子)が乱世となった「中国」を嘆いて「九夷」に移り住むことを願ったという。
・〔参考〕『論語』「公治長篇」には、孔丘が海の向こうに行くことを望み、自分に着いてきてくれるのは仲由(字は子路)だろうかと言い、それに仲由は喜んで応答したとある。
※『漢書』は『論語』の「子罕篇」と「公治長篇」を組み合わせて、「孔丘は道理に合わない政治が行われることを嘆いて、海を越えて「九夷」の地に移ろうとした」と記した。当時の「中国」において、「海」は「晦(暗黒)」に通じ、未知の世界を意味する。つまり、「公治長篇」において、孔丘の言った「海」とは「中華」の外にある未知の領域を差す。つまりは軽い願望の吐露であり、「九夷」とは無関係の文脈であると考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※当初、丘の憧れた理想郷である「夷」の地は朝鮮半島あたりと捉えられてきたが、秦や漢の時代、圧政や戦乱を逃れて「中国」から朝鮮半島に移り住む人が増えると、理想郷は海のむこうの土地に仮託されたのだと考えられる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
・175年頃? 3.? 〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇3年3月条」によれば、新羅の王子,天日槍(日桙)が播磨国に渡来したという。
※『日本書紀』の年代は讖緯説に基づいて編纂されているため、垂仁天皇即位3年という年代は実際のものとは異なると思われる。ただ、『日本書紀』の編纂者は、垂仁天皇の治世の初期にあった出来事だと考えていたようである(田中卓「邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。
〔参考〕『筑前国風土記』によれば、日桙は「高麗の国」より降ったのだという。
※高麗は当時はないものの、『古事記』『日本書紀』は新羅の王子と説明しているため、朝鮮半島の出身なのは確かと思われる(田中卓「邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。
※倭国の盟主的な地位にいた伊都国王の勢力が、筑後平野の他国の台頭に伴って衰退し、東方に逃れたとも推測される(若井敏明『「神話」から読み直す古代天皇史』)。
〔参考〕垂仁天皇は大友主と長尾市を播磨国にいた新羅の王子,天日槍(日桙)のもとに派遣したという。垂仁天皇は、播磨国の宍粟邑と淡路島の出浅邑を与えようとしたが、天日槍は自身が欲する土地を貰うことを望み、近江国吾名邑に進んだ後、若狭国に至り、最終的に但馬国に居住したという。(『日本書紀』)
※『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」の記す、「女王国」を中心とした連合が解体するに伴い、伊都国の首長か首長に近しい集団が九州から東に逃れたとも推測される。そしてその東進を危険と考えたヤマト王権は、防衛のために播磨国に大友主と長尾市を派遣したとも考えられる(田中卓「邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。
・170~180年頃? 〔參考〕『太平御覧』の引用する『魏志』によれば、光和年間の間(178~183)、倭では各國が爭っており君主がいなかったという。
〔參考〕『後漢書』は、倭國內の戦亂の時期を桓帝,劉志から霊帝,劉宏の時代(146~189)の間とする。
〔参考〕『梁書』は、倭国内の戦乱の時期を霊帝,劉宏の光和年間(168年~184年)とする。
※漢の衰退により、鉄資源や威信を示す下賜品を供給するため交通網が混乱した。そのため政治秩序が崩壊し、倭国王の権威が弱まって戦乱が発生したと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※『後漢書』における「桓霊の間」という言葉は、不徳の皇帝を引き合いに出して暗い時代を表現するための常套句的なものであり、実際の志と宏の統治期間を意味するものではないという説もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
・177~180年頃? 倭の王が男性であった約70~80年の間は争いが続いていたため、そこで、1人の女性を「共立」し王とした。卑弥呼(ひみこ?/ひめこ?)という。(陳寿『魏志』東夷伝 倭人条)
※男王である帥升の朝貢が108年であることから、それを起点として70年~80年後のことだと推測される(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※卑弥呼が王となるまで、70~80年程は男性首長であったことから、女性首長は一般的に受容されているものではなかったとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。
※『三国志』における「名づけて卑弥呼といふ」という記述からして、卑弥呼とは「日の御子」もしくは「ひめみこ(皇女・王女)」のことであり、実名ではなく特定の女性の身分を表す呼称とも考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。
※「卑弥呼」は当時の魏の洛陽音では「ヒムカ」と読まれたという見解もある(長田夏樹『新稿 邪馬台国の言語』)。
※「卑弥呼」を「ヒムカ」と読む見解から、「日の巫女」という意味を含んでいたという説もある(新谷尚紀『伊勢神宮と出雲大社』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「東夷伝 夫余条」には、王の簡位居の死後、嫡子がいなかったので、馬加・牛加・豬加の官人は庶子の麻余を「共立」したとある。
〔参考〕陳寿『魏志』「東夷伝 高句麗条」には、王の伯固の死後、その長子,抜奇は「不肖」であったために小子,伊夷模が「共立」されたとある。
※陳寿は『魏志』において、嫡子でない者が王になる場合に「共立」という言葉を用いている。麻余は官人に、伊夷模は国人(王の宗族)に「共立」されている。そのため卑弥呼を「共立」したのは周辺の支配層とも考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※後漢が衰退したことで、それを後ろ盾として政治・外交を牽引してきた伊都国が力を失って倭国内は混乱し、その状況を打開するために卑弥呼は「共立」されたとの見解もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※倭国を構成する諸国の合意によって王が擁立されていることから、倭国王の地位は安定したものではなかったとも考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。
※儒教世界において、王は自ら即位するものであり、他者から「共立」つまりは奉戴されることは好まれない。倭に好意的な陳寿がこのように記したのは、卑弥呼即位の実態を反映しているからだと考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※卑弥呼の王都を纒向遺跡とする見解からは、伊都国を中心とする北部九州から、奈良盆地東南部へと本拠地を移転したとも考えられている(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
・卑弥呼は鬼道(呪術)を用いて人々を指導したという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※倭の有力者たちが、武力以外で倭の混乱を収める方法として呪術的権威を求めたため、「鬼道」を行う卑弥呼が王に選ばれたとも考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
〔参考〕『漢書』「郊祀志 下」には、成帝劉驁が「鬼道」を好んでおり、儒教官僚の谷永から諌められた、とある。
※基本的に倭に好意的な記述でありながら、倭の君主が儒教的価値観のうえで忌避される「鬼道」を用いたことを記すのは、使者の報告に準拠した卑弥呼の実際の姿だったからだと考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「張魯伝」には、五斗米道という教団を主宰する張魯が、「鬼道」を用いたとある。
※陳寿は、卑弥呼の巫術を、張魯が用いる「鬼道」と類似したものと考え、多少の蔑視を込めて記したという仮説もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「韓伝」には、韓の地域では5月の種下しの後や10月の収穫の後には鬼神を祭ったとある。また、国邑では「天君」という名の天神を祀ったという。
〔参考〕『礼記』「祭法」には、「鬼神」の「鬼」とは人の死霊・死魂のことだと説明する。
※韓と同じく農業社会の倭国でも、鬼神信仰があったと考えられる。卑弥呼は葬送儀礼などの死者に関する祭祀のほかに、祖霊や穀霊の祭祀を司っていたとも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「東夷伝 倭人条」によれば、倭国では年中行事や遠出の際には骨を焼いて、その割れ目を見て吉凶を占ったという。
※毘沙門洞窟からは鹿の骨を用いた占いの痕跡が発見されており、弥生時代前期には骨卜が行われていたことが理解できる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
・女王の都がある邪馬台(やまたい/やまと)国は、官を伊支馬、弥馬弁、弥馬獲支、奴佳鞮と呼んだ。人家の数は7万戸であった。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※卑弥呼は「邪馬台国の女王」なのではなく、邪馬台国とは、倭国を構成する1国であり、卑弥呼が居住している都がある場所だと考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※奈良県、福岡県、熊本県などに、「やまと」と読む地名(大和、山門、山戸、山都)があることから「邪馬台」も普通名詞として「やまと」と呼んだと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
※九州の「山門(ヤマト)」の「ト」は甲類である。対して畿内の「ヤマト」は「山跡(『古事記』)」「夜麻登(『日本書紀』)」「椰麼等(『日本書紀』)」「椰磨苔(『日本書紀』)」「山常(『万葉集』)」という漢字が宛てられるが、それらの「ト」の発音は乙類である。奈良盆地には三輪山をはじめとする多くの山があることから、畿内の「ヤマト」は山の麓に由来するとも推測される(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
※弥馬弁は『魏志』には伊支馬の「次」とあるが、これは次官という意味ではなく、4人の「官」の立場は同格であったと推測される(村井康彦『出雲と大和』)。
※「伊支馬」は「イコマ」に通じることから、奈良盆地の北から西北の「生駒」であると推測される。「弥馬弁」を「ミマス」と読むなら、孝昭天皇(ミマツヒコカエシネ)の御陵の所在地から葛城一帯に由来するとも考証される。「弥馬獲支」を「ミマキ」と読むなら、崇神天皇(ミマキイリビコイニエ)の御陵の所在地から天理から桜井にかけての土地に由来するとも考証される。「奴佳鞮」は「ナカト」と読むなら「中処」に通じ、地名ではなく、他の官の治める地域に囲まれた中央部であるとも推測される。奈良盆地の田原本町中央部一帯は大字がなく、古くから重要な土地と見なされていたと思われる。そのため、奴佳鞮を田原本町中央部と考え、唐古・鍵遺跡を卑弥呼の宮殿に比定する見解もある(村井康彦『出雲と大和』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」によれば、帯方郡の7000里強先に狗邪韓国があり、狗邪韓国から1000里強先に対馬国があるという。対馬国から海を渡って1000里強先に一支国があり、そこから海を渡って1000里強先に末盧国があり、そこから南東方面に陸路を500里行くと伊都国があったという。
〔参考〕『翰苑』の引用する『広志』には、伊都国の南に邪馬台国があったとある。
〔参考〕陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」によれば、伊都国から東南に100里先に奴国があり、奴国から東に100里先に不弥国があり、不弥国から南に海路を20日進んだ先に投馬国があり、そこから南に海路で10日と陸路で1ヶ月進んだ先に邪馬台国があるという。
〔参考〕陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には帯方郡から「女王国」に至るまで22000里強とある。
※不弥国が北九州にあったとすれば、投馬国から南に進んだ先に邪馬台国があるという記述は不自然である。北でも西でも不自然であるため、南は東の誤記とも考えられる。また、当時の船は動力を持たなかったため、用いた海路は各所で激しい渦潮の生じる瀬戸内海ではなく、対馬海流によって容易に沿岸を東に進める日本海だったと推測される。海路で10日進んだ後に久美浜湾という良港のある丹後付近で船を降り、投馬国(出雲か)から1ヶ月後に邪馬台国に到着したとも考えられる。その場合、邪馬台国は大和となる(村井康彦『出雲と大和』)。
※奴国を博多付近、不弥国を糟屋郡宇美町ないしは宗像郡津屋崎だと考え、奴国から不弥国を経由して投馬国から至るという邪馬台国は、畿内のヤマトであるという見解もある(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※伊都国が糸島半島であった場合、伊都国の南にあるという、卑弥呼のいた「邪馬台国」は、筑後国山門(ヤマト)であり、畿内の大和(ヤマト)とは別の勢力であるという見解もある。陳寿は畿内のヤマト国と、卑弥呼の治める九州の女王国を混合してしまったとも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
・女王の宮殿には、「楼観」や城柵があり、武器を持った守衛に守られていた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『説文解字』は「觀(観)」を「諦視也(諦視するなり)」と説明する。
〔参考〕白川静『字通』によれば、雚は鳥の形状であり、觀(観)は鳥占によって神の意志を伺うという意味があるとされる。
※「楼観」とは、祭祀において神が来るための塔であり、唐古・鍵遺跡から出土した、大形壺に描かれた建物こそがそれであるとの見解もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
・卑弥呼には「男弟」がおり政治を佐治(補佐)していたという。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※この体制を、祭祀は卑弥呼、政治は「男弟」が行うという、一種の政教分離と考える見解もある(末木文美士『日本思想史』)。
※役割分担を行い、双方の顔を立てるという政治の傾向性も指摘される(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。
※本来は「男弟」こそが王となる立場の人であり、その姉である卑弥呼は、弟の立場を保証する最高位の祭司だった可能性も指摘されている。そして、倭王権の再編に際して男性の即位を禁じ、祭司を行う女性を王として奉戴したと推測される(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
・卑弥呼には侍女1000人が仕えており、歳を重ねても夫を持たず、1人の男性が奥部屋に出入りして、卑弥呼の食事を手配をし、言葉を伝えていたという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※夫を持たなかったのは、巫女王としての神聖さを示すために性交・妊娠を避けたほかに、卑弥呼の夫と子が後の王位に関わる事態を防ぐためだという説とある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※この男性は、卑弥呼を補佐したという「男弟」と同一人物か否かについては諸説ある。卑弥呼の言葉を伝えるような政治的権限を持っていることや、宮廷に出入りできる立場から、公的ではないにしろ、卑弥呼の夫ではないかという仮説もある(義江明子『つくられた卑弥呼』)。
・邪馬台国にいる女王が支配するのは他に、斯馬(しま)国、已百支(いはき)国、伊邪(いや)国、都支(つき)国、弥奴(みな)国、好古都(こくつ)国、不呼(ふこ)国、姐奴(しゃな)国、対蘇(とさ)国、蘇奴(さな)国、呼邑(こお)国、華奴蘇奴(げなさな)国、鬼(き)国、為吾(いが)国、鬼奴(きな)国、邪馬(やま)国、躬臣(くじ)国、巴利(はり)国、支惟(きい)国、烏奴(おな)国、奴(な)国である。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※斯馬国を筑前国嶋郡、弥奴国を肥前国神崎郡・三根郡に比定する見解もある(若井敏明『謎の九州王権』)。
・180年頃 吉備に墳丘墓が築かれた(楯築遺跡)。(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。
※円丘部の両側に方形突出部があり、円丘部には葬儀用器台(特殊器台)が約30個散在していた。木槨と木棺に収められた遺体は、水銀朱に包まれていた(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。
・後漢の元号、中平(184~189年)が刻まれた鉄刀が、東大寺山古墳で発見されている(『卑弥呼とヤマト王権』)。
※鉄刀には5月丙午とあることから、中平4年か5年であるとも考えられる。しかし『論衡』は金属の鋳造に適した好日を5月丙午を記すことから、あくまで常套句であり、中平のいつであるかは特定は困難とされる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※鉄刀に刻まれた文字は、結体や布置、象嵌からして、後漢の官営工房における象嵌技術とは水準と隔たりがあることから、中平年間に後漢政権の中央から離れた場所で制作されたか、もしくは中平年間に作られた鉄刀に、三国時代に文字が刻まれた可能性が指摘されている(鈴木勉『百練鉄刀の使命-東大寺山古墳出土中平銘鉄刀論』)。
・193年 6.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、1000人以上の飢えた倭人が食糧を求めて新羅に渡ったという。
・2世紀末 出雲西部に墳丘墓が営まれた(西谷三号墳)。(石野博信「三世紀の三角関係」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
※西谷三号墳には、吉備の古墳に見られるような葬儀用器台(特殊器台)が発見されている。出雲には吉備と共通の葬送儀礼を行う君主がいたと考えられる(石野博信「三世紀の三角関係」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
・推定204年以降 公孫康は、楽浪郡南部に帯方郡を設置した。康は漢人を集めて、韓と濊を征討した。以来、倭と韓は帯方郡に所属したのだという。(陳寿『魏志』韓伝) 後漢の皇帝は公孫氏に「海外」に関する事案を委任した。
※卑弥呼は、後漢の代理としての公孫氏に対して朝貢していた可能性がある(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※魏と呉と対峙するうえでも、公孫氏は倭との協力関係を欲しており、倭側は列島内の混乱を収束させるためにも公孫氏を頼った可能性もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※東大寺山古墳出土の、中平年銘の鉄刀は、綾東太守に任じられた公孫氏に下賜され、その後朝貢を行ってきた倭に贈られたという仮説がある(金関恕「卑弥呼と帯方郡」『弥生人の見た楽浪文化』)。
※中平年銘の鉄刀を、後漢からの下賜品ではなく在地勢力から公孫氏への献上品とすれば、銘文が後漢官営工房の水準と乖離していても問題はないという指摘もある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※元号からして、倭国の混乱が収まった後に、後漢ないしは公孫氏から倭にもたらされたものだと思われる。奉戴されて王になって間もない卑弥呼が朝貢を行い、地位の承認の意味を込めて贈られたものとも推測は可能である(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
・対馬国は、長官を卑狗、副官を卑奴母離という。山が険しく、深い林多く、道は細かったという。千余戸が住み、海産物を食べていた。船で南北に移動し、米を買うなどしていた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※「卑狗」は「ヒコ(日子,彦)」「卑奴母離」は「ヒナモリ(鄙守り,夷守)」であると解釈され、日本語の古例と考えられる。ただ、『古事記』においては「母」の「モ」はモ乙類であるが、「守る」の「モ」は「モ甲類」である(沖森卓也『日本語全史』)。
※卑奴母離が夷守であるとすれば、記録された最古の日本語である(今野真二『図説 日本語の歴史』)。
※卑狗が彦、卑奴母離が夷守に通じるとすれば、卑弥呼を王とする倭中央政権から派遣されたとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※「ヒナモリ」の「ヒナ」とは「辺境」のことであり、辺境防衛の役割を担っていたとも考えられる(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。
〔参考〕『先代旧事本紀』「天神本紀」には、対馬県主の祖先は天日神命とある。
〔参考〕『延喜式』「神名帳」には、対馬下県群の神社として阿麻氐留神社の名を記す。
※対馬国の王は、祖先神として太陽神を祀っていたと推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。
・対馬国より南に海を千里渡ると、一支国があった。対馬国と同様に長官を卑狗(ヒコ)、副官を卑奴母離(ヒナモリ)といった。竹や木の茂み多く、3000軒程の人家があった。そこにある畑だけでは生活できず、南北で米を買っていた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『万葉集』巻4 566番歌は、筑前国糟屋郡の夷守駅で詠まれた歌である。
※夷守(ヒナモリ)という地名は卑奴母離(ヒナモリ)が置かれていたことに由来するとも考えられている。また、原の辻遺跡は、船着き場の遺構があることから、一支国が交易で食物を入手していたことを裏付けるとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
〔参考〕『先代旧事本紀』には、一岐県主の祖先は月神命とある。
〔参考〕『延喜式』「神名帳」は、一岐の神社として月読神社の名を記す。
※一支国では月の神の祭祀を行っていたと推測される(若井敏明『謎の九州王権』)。
・一支国より海を渡って1000里程を行ったところに末盧国があった。山と海が近く、沿岸すれすれの家に住んでいた。家の数4000戸余り。人々は魚やアワビを好み、海に潜って取っていた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※末盧国は発音から松浦に相当すると推測される。遺跡が分布していることから唐津湾周辺であったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
・伊都国は、女王に服属する王が代々治めており、長官を爾支、副官を泄謨觚、柄渠觚といった。1000戸余りの人家があった。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※伊都国王のような、卑弥呼以外の倭国の王は、僭称したのでもない限りは「中国」の王朝に朝貢して地位を承認してもらったのではないかと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※爾支は「ニキ」から「県主」の「ヌシ」に通じるという見解もある(小林敏男『邪馬台国再考』)。
〔参考〕『翰苑』の引用する『広志』には、伊都国の南に邪馬台国があったとある。
・女王の国より以北には「一大率」が設置され、諸国を検察していた。対馬国、一支国、末盧国、伊都国は、女王の国によって統治されていた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝倭人条)
〔参考〕『日本書紀』「垂仁天皇2年是年条」の引用する「一書」によれば、穴門の伊都都比古という人物は王を称したという。
※伊都都比古とは伊都国王のことであり、一大率穴門(長門国西南部)に任じられて玄界灘沿岸の一帯を支配していたとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
〔参考〕『墨子』巻15「迎的祠」第68は、城を守る際に四面からの攻撃を防ぐ将軍のことを「大率」と呼んでいる。
※「一大率」とは「1人の大率」のことであり、畿内のヤマトが派遣した、九州諸国との交易を監察する軍将とも考えられる。帯方郡や朝鮮半島諸国との外交拠点として伊都国は強い影響力と一定の自立性を持っており、卑弥呼を中心とする連合の一部でありながら、外部勢力の畿内ヤマトと関わりを持ち一大率を置くことを容認されていたとも推測される(小林敏男『邪馬台国再考』)。
・伊都国より東南に100里のところには、奴国があった。長官を兕馬觚、副官を卑奴母離といった。人家は2万戸あった。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※奴国と不弥国の長官は、「ヒコ」ではない独自の呼称であることから、部族的な政体における君主かその側近であり、旧来の体制を維持しながら卑弥呼の王権に地位を認められて地方を統治していたと考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※兕馬觚が「シマコ」と読むのであれば、「島子」の意であったとも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※「卑奴母離」は副官として複数の国に名が見えるが、長官は国ごとに独自の名称の場合が多い。邪馬台国、伊都国、狗奴国の存在を目立たせるために、他の国の首長は『魏志』に「王」ではなく「官」として記されているとも考えられる(村井康彦『出雲と大和』)。
・奴国の東100里には不弥国があり、長官を多模(たま)、副官を卑奴母離といい、千余戸の人家があった。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『日本書紀』『万葉集』は「海」を「宇弥」と表記することがある。
※『古事記』『日本書紀』『万葉集』の表記から、「不弥」は「海」の転訛であるとも推測される。海の神,ワタツミを祀る志賀海神社のある志賀島こそが、不弥国(=海国)であるとも推測される。志賀島から漢委奴国王印が出土したのは、神を祀る島に保存したからとも推測される(田中卓「不弥国は金印出土の志賀島か」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。
※志賀島は奴国と近すぎるとして、海神との関連性がある宗像を不弥国に比定する見解もある(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。
※「卑奴母離」は辺境防衛を担っていたと思われることから、不弥国は九州東北部の沿岸部、北九州市あたりにあったとも推測される(村井康彦『出雲と大和』)。
・南には投馬国があり、長官を弥弥(みみ)、副官を弥弥那利(みみなり)といった。人家は5万戸。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕帯方郡より邪馬台国へは12000里とある。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『太平御覧』の引用する『魏志』には、「於投馬国」とある。
※「於」は助詞ではなく、国名の一部であるという見解もある。「於」の古音には「wu」「iwo」「 ̌o」があり、「於投馬」は「エトモ」「イヅモ」に近い発音となるため、投馬国を出雲に比定する見解もある(末松保和『上代史管見』)。
〔参考〕『日本書紀』には、「耳垂」という土蜘蛛の記事がある。
〔参考〕『肥前国風土記』には、「大耳」「垂耳」という土蜘蛛の名前が見える。
※「耳垂」と「弥弥那利」は音が近いことから、豊前国上毛郡・下毛郡あたりを投馬国の所在とする見解もある(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。
・208年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人は新羅に侵攻したという。
※この時期、倭国と新羅は関係が良好でなかったとも考えられる(若井敏明『謎の九州王権』)。
・210年頃 大和に突出部付円丘墓が営まれた(纒向石塚古墳)。(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。
※突出部は1つだけであり、同じく1つの突出部を持つ、立坂古墳や宮山古墳といった吉備の墳丘墓の情報が伝わっていたのかもしれない(石野博信「三世紀の大和と吉備の関係は?」『邪馬台国時代の王国群と纏向王宮』)。
・220年 魏王,曹丕は、漢の献帝,劉協からの禅譲を受けて即位し(文帝)、魏を建てた。これにより漢は終焉した。
※なるべく社会を動揺させない形での皇帝即位を望んだため、禅譲という形で即位した(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。
・226年 アルシャク朝パルティアは、サーサーン朝によって滅ぼされた。
※サーサーン朝ではパフレヴィー語(いわば中世ペルシア語)が話され、アラム文字を元にするパフレヴィー文字で綴られた(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。
・230年 呉の皇帝を称する孫権は、不老不死の仙薬を求めて、将軍と10000の兵を夷州と亶州に遣わした。
※呉としては、倭を海上のユートピア的地域と認識していたようである(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
・230年 大月氏王の波調は、魏から親魏大月氏王と認められた。
※この波調は、クシャーン朝君主,ヴァースデーヴァことだと考えられる。インドの神格を名前としていることから、このころにはインドに溶け込んだようである。ヴァースデーヴァ以降、ブラーフミー文字が記されるようになった(宮本亮一「カニシュカ一世」『アジア人物史 1』)。
・232年 4.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭人が新羅に侵攻して金城を包囲したという。新羅王,昔助賁が自ら兵を率いて交戦すると、倭人は逃げたという。
・233年 5.?〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、倭兵が新羅の東辺に侵攻したという。
・233年 7.? 〔参考〕『三国史記』「新羅本紀」によれば、新羅の王族,昔于老は沙道において倭人と交戦したという。
・235年(魏暦青龍3) ?.? とある鏡に銘文が刻まれた(西谷大田南五号墳紀年銘鏡,安満宮山古墳紀年銘鏡)。
※青龍は魏の年号である。しかし、公孫氏は倭との外交を行っており、魏の年号を鏡に記して倭との交渉に用いた可能性も指摘される(石野博信「丹・但・摂の紀年銘鏡」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
・238年(魏暦景初2) 3.? 公孫氏の勢力は魏に滅ぼされ、その勢力圏には帯方郡とその太守が置かれた。(『三国志』)
・239年(魏暦景初3) 6.? 卑弥呼は魏に使者を遣わし、男性奴隷4人と女性奴隷6人斑織りの布2匹2丈を献上した。倭の使者難升米(なしめ/なとめ)は魏の皇帝に謁見し、朝貢することを望んだ。(陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」)
〔要参考〕南宋版以降の『三国志』は倭の朝貢を景初2年6月と記す。対して『日本書紀』が引用する倭人条は景初3年とする。
〔要参考〕『三国志集解』は景初2年6月当時には使者を仲介する帯方太守がいなかったため誤りであるとする。
※卑弥呼が公孫氏との交流を持っていたのだとすれば、公孫氏に代わる魏という帯方郡の支配者に、一刻も早く庇護を求める必要に迫られていたとも考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※使者の派遣が景初3年であれば、魏の先代の皇帝曹叡(明帝)は崩御しており、時の皇帝は曹芳(少帝)である。そのため、先帝崩御への弔意と新帝即位および改元への祝意を伝える意図があったと考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※使者の派遣には、航路権を掌握し、鉄資源と先進的な文物を手に入れる意図があったとも推測される(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
〔要参考〕『晋書』「四夷伝 倭人条」は、倭からの使者の派遣の理由を、司馬懿が魏の将として公孫氏を平定したことに求めている。
※『晋書』の原史料である晋代の記録は、倭の朝貢をもたらした功績を、晋の初代皇帝,司馬炎の祖父である司馬懿に求めている(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕倭より「中国」に使節を送る際には、その内の1人を「持衰」として、身なりが汚いようにして肉を食べさせず女性も近づけさせない。その使節が無事であれば、持衰に生口や金品を与え、途中使節間に病気が流行ったり暴風雨に逢えば、その者を殺したという。(陳寿『魏志』東夷伝 倭人条)
※「持衰」とは、航海が良好に行われることを願う呪術者であったとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「東夷伝 倭人条」は、倭からは真珠、青玉が産出し、山には丹砂、赤砂があった。木の種類にはクスノキ、ボケ、クヌギ、スギ、カシ、ヤマグワ、カエデがあり、竹には篠竹、箭竹、桃支竹があったとする。
※倭は特産物が豊富で、朝貢に適した地であるとしているのである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕倭は気候温暖で、イネやカラムシを植え、カイコを飼育し、麻糸や綿織物も作っていたとされる。また、冬も夏も生野菜を食べていたとある。ただ、ショウガ、タチバナ、サンショウ、ミョウガの調理法を知らなかった。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※陳寿は倭の位置を会稽郡東治県の東方だと勘違いしていたため、倭が温暖な気候であると考えた可能性がある(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※卑弥呼が倭国の王に擁立されたのは180年頃だとすると、当時の卑弥呼は老齢であったと推測される。そのため、卑弥呼を見る者が少なかったというのは、高齢であることが原因とも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」によれば、倭人の男性は木綿の鉢巻をしており、服は布を結んで繋げていたものだった。針で縫わなかったようである。女性は髪を束ね、服は布の中心に穴を開けてそこから頭を通すものであった。また、皆裸足であったという。
〔参考〕『漢書』「地理志 下 粤地条」には、そこに住む人々の衣服は、布の中央に穴を開けて頭を通すものとしている。
※『魏志』の記す倭人の装束は、実際の倭の風習であったかもしれないが、陳寿は「中国」の「南方」にある粤地の記述を参考にして、「東南」にあると考えた倭の服装を描いたとも推測される(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」には、倭人の男性は大人も子供も、顔と体に入れ墨をしていたという。入れ墨は位によって違いがあったという。
〔参考〕『礼記』「王制篇」には、東方の「夷」は体に入れ墨をしており、南方の「蛮」は顔に入れ墨をしている、とある。
※『魏略』にも同じような入れ墨に関する記述が見られる。『魏略』を著した魚豢は、倭を「中国」の東南にあると考えていたため、「東南」に住む人々を、東方と南方の習俗を持ち合わせた異民族として描いたと考えられる。『魏略』を参考にして『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を著した陳寿は、推敲の結果その記述をそのまま採用したと思われる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※日本列島で出土した土器には入れ墨を表現すると考えられる絵画が描かれていることや、『日本書紀』には顔面に入れ墨を施す刑罰(黥刑)が記されていることから、実際に倭人が入れ墨を行っていた可能性が排除されるわけではない(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕中国での白粉の化粧のように、倭人は赤い顔料を用いていたという。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
・239年?(魏暦景初3?)12.? 魏の皇帝は詔書を下し、卑弥呼に金印と紫綬を授けて正式に倭王(親魏倭王)と認め、黄金、白絹、鏡100枚などを与えるとし、種人(自国民)を綏撫(撫で慈しむ)ように命じた。また、遠方より来訪した難升米と都市牛利を労い、難升米を率善中郎将とし、都市牛利を率善校尉とし、銀印青綬を与えた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※魏の皇帝から、公や侯でなく「親魏〇王」の称号を与えられたのは、卑弥呼の他には親魏大月氏王となったヴァースデーヴァ(波調)のみである。(西嶋定生『邪馬台国と倭国』)
※魏は東西の絶域の首長に「親魏〇王」の称号を与えることで、異民族の首長が「中華」としての魏に帰属していることを宣伝し、後漢の後継者であることを宣伝しようとしたとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。
※倭は中国の遠く東方海上、つまりは呉の背後にあると考えられていたため、魏は呉を牽制するために卑弥呼を倭王と認めて厚遇したのだと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※金印紫綬を与えることは「仮す」と表現されている。これは授ける資格があるか分からない者に仮に与えることだと推測される。卑弥呼が信頼に足るか否か、不安であったことが窺える(吉田孝『日本の誕生』)。
※『魏略』が記す、倭人が太伯の子孫を自称したという記述を採用すれば、太伯の子孫を称する呉人と近しいように思われてしまう。そうすれば、倭が呉にとっての脅威という設定が崩れてしまうため、陳寿は『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」を著すにあたって『魏略』における、倭は太伯の子孫を自称したという記述を省いたとも考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※鏡が贈られたことから、卑弥呼の行う「鬼道」というものは、鏡を用いた呪術ではないかとも推測される(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※「種人」を「綏撫」するようにとの命令は、倭国王に任じたため、国外の倭人の領域まで勢力を伸ばし、倭人を統一せよとの意味合いが込められていたと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※黄金や絹などは、当時の倭国にはなかった。鏡などとともに、国内の人々に見せたり分け与えることによって権威を高めたとも推測される(吉田孝『日本の誕生』)。
※呉の元号が刻まれた鏡が日本から出土していることからも、呉は倭人の一部と接触していたと考えられる。呉人と倭人の祖先が共通という説を採用した場合、倭が呉の一部と認めてしまう恐れがあったことも、『魏略』をそのまま採用しなかった理由であると考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※卑弥呼に与えられた銅鏡は、倭のために制作された特別な品とも考えられている(岡村秀典『三角縁神獣鏡の時代』)。
※『魏志』において、魏への朝貢以前の卑弥呼は「女王」、朝貢以後は「倭王」と表記が変化する。邪馬台国を中心とする倭の連合政権の君主であった卑弥呼が、倭国と倭人を統べる王として承認されたことを意味する(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
※近畿各地から出土する景初3年銘の三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏より与えられたものだという説もあるが、日本列島で作られたものだという説もあり見解は別れる(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
※卑弥呼に贈られた銅鏡は帯方郡太守の弓遵が派遣した梯儁からの手渡しであることから、帯方郡で製造されたものだという説もある (宮崎市定『古代大和朝廷』)。
※三角縁神獣鏡は中国から出土しておらず、また古墳に副葬された状況からして権威の象徴ではなく儀礼のための呪器と思われることから、三角縁神獣鏡は倭で製造されたものであり、魏から贈られた銅鏡は連弧文鏡、方格規矩鏡、画文帯神獣鏡などに近い形をしているのではないかという説がある(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※平原遺跡からは女性が頭部を飾ったと考えられる管玉などが出土している。伊都国の首長は卑弥呼の代役としての役割を持っており、管玉のような当時最新の装飾は、伊都国を起点として他地域に広まったと推測される(村井康彦『出雲と大和』)。
〔参考〕『十鐘山房印挙』には「都市」と刻まれた印鑑がある。
※「都市牛利」という名の「都市」は、市を総括する大官「都市」を意味すると考えられる。倭国内の市を監督するという「大倭」を漢訳したと推測される(吉田孝『日本の誕生』)。
※纒向遺跡からは「市」と墨で書かれた土器が出土している。また『和名類聚抄』が大市郷として示す範囲内にある。「大市」に葬られた倭迹迹日百襲媛命の墳墓とされる箸墓古墳は、纒向遺跡の南方にある。内陸部である纒向遺跡からは、海水魚が見つかっており、海に面する地域から献上されたと推測される。纒向遺跡の場所は物流の盛んな地域であったことを窺わせる。その地域が「大市」と呼ばれていたことから、邪馬台国は交易によって経済が支えられており、市の監督者である牛利が外交副使になったとも推測される(上田正昭『私の日本古代史(上)』)。
〔参考〕女王になって以降の卑弥呼は、直接人に会うことが少なかったという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※卑弥呼の居館は城柵や楼観で守られ、民衆とは別に住んでいたとも考えられる(都出比呂志『古代国家はいつ成立したか』)。
※卑弥呼が直接会わなかった人というのは魏からの使節に対してであり、自国民に対しては姿を見せていた可能性も指摘されている。後の時代の倭=日本の君主も、長らく外国からの使節に直接姿を見せなかった(義江明子『つくられた卑弥呼』)。
・240年(魏暦正始1) ?.? 帯方太守の弓遵の命により、建忠校尉の梯儁らは魏の詔書と印綬を伴って倭に至り、卑弥呼を親魏倭王に拝仮し、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、菜物を贈った。(『三国志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」)
・230年頃? 〔参考〕『古事記』『日本書紀』によれば、開化天皇の崩御後、その子息が即位したという(崇神天皇)。
※崇神天皇の和風諡号は「御間城入彦五十瓊殖(ミマキイリヒコイニエ)」という。「入彦」は「彦」を更に尊厳的に呼んだものであると考えられる。また、『日本書紀』「継体天皇24年2月条」から崇神天皇の実名はイニエであると伝承されてきたと推測される(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※事代主神の別名として「玉櫛入彦(タマクシイリヒコ)」があることから(『日本書紀』神功皇后紀)「イリ」とは、穀霊に由来するとも考えられる(上田正昭『私の日本古代史』)。
・240年? 「景初4年」という年号の刻まれた鏡が製作された。(広峯十五号墳出土鏡銘,辰馬考古資料館所蔵鏡銘)
※魏は240年に景初から正始に改元している。そのため景初4年という年号は存在しない。だが、帳天錫のように改元を知らずに「升平」の年号を使い続けた者もいる。そのため、魏の臣下が倭に至り、帰国することなく死去して埋葬されたとも推測される(石野博信「丹・但・摂の紀年銘鏡」『邪馬台国時代の王国群と纒向王宮』)。
・243年(魏暦正始4) 倭は使者として伊声耆、掖邪狗ら8人を魏に派遣し、生口、倭錦、玉虫織の絹織物、真綿の服、白絹の織物、赤い木で作った弓、矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎将の印綬を賜った。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『冊府元亀』巻968「外臣部 朝貢1」には、正始4年12月に倭国の女王,俾弥呼(卑弥呼か)が朝貢を行ったとある。
・245年(魏暦正始6) 魏は難升米に与えるための黄幢(黄色の旗)を帯方郡に預からせた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※世界を支配する「中国」の皇帝は、朝貢をしてきた「夷狄」を王と認めることで形成した秩序を、守る義務があった。そのため魏は倭を支援しようとしたと考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※黄色は陰陽五行説に基づく、魏を象徴する色であり、魏の支援を受けていることを誇示することが可能である。しかし、黄幢は中国文化を知っている勢力との戦いでしか効力を示さない(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※魏が黄幢を贈ろうとしたのは、倭が狗奴国との戦いを有利に進めさせるためでなく、中国文化を十分に知っている高句麗ほか朝鮮半島の国々との戦いに協力させるためという説がある。(武田幸男「三韓社会における辰王と臣智」)。
・246年(魏暦正始7) 5.?頃 辰韓を楽浪郡に編入するという方針に反対した韓人は、帯方郡の崎離宮を攻撃した。帯方郡太守,弓遵と楽浪郡太守,劉茂は韓人を攻撃した。遵は戦死した。(陳寿『魏志』韓伝)
※帯方郡太守が戦死したことで、難升米に与えられるはずであった黄幢は倭国に渡らなかったとも考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
・247年(魏暦正始8) 王頎が新たな楽浪郡太守となった。倭王,卑弥呼は、魏に使いを遣わし、狗奴国の王,卑弥弓呼と争っていることを伝えさせた。魏は卑弥呼を支援するために、張政に詔書と黄幢を持たせて難升米に授けた。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕狗奴国は、男王が治め、狗古智卑狗がおり、女王に服属してはいなかったという。(陳寿『魏志』東夷伝 倭人条)
※『魏志』に立てられた項目が「倭国」ではなく「倭人」なのは、狗奴国が独自に成立していたように、卑弥呼が全ての倭人を支配できていなかったからだと考えられる(仁藤敦史『卑弥呼と台与』)。
〔参考〕『翰苑』が引用する『魏略』の逸文は、狗奴国の男性は顔と体に入れ墨をしており、太伯の後裔を名乗っていたと語る。
※陳寿は『魏略』のこの記述を参考にして倭人が顔と体に入れ墨をしていると『三国志』に記したと考えられる。なお、太伯の後裔だという記述は採用していない(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※狗奴国の「狗奴(クナ)」が「球磨(クマ)」に通じるとすれば、狗奴国は球磨川流域から北に進出した連合勢力であり、菊池郡の首,狗古智卑狗(菊池彦)が王になっていたとも推測される(謎の九州王権)。
※球磨郡と菊池郡には距離があることや、女王国の支配下の諸国において「卑狗」は官職名である。そのため「狗古智卑狗」は「卑狗」の上に「狗古智」を冠した特殊な官職名であり、人名ではないという説もある。また、菊池郡には「山門(ヤマト)」という地名があることから、菊池郡は狗奴国の領土ではなく女王国(筑後国山門郷)の領域内であるとの見解もある(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※朝鮮半島における戦争に際して使用されるはずであった黄幢は、狗奴国との戦争のために転用されたと考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※『魏志』には記されないものの、日本では呉の元号が刻まれた鏡が発見されている。そのため、狗奴国は呉の援護を受けていた可能性も指定されている(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※狗奴国に呉の後ろ盾があったとすれば、狗奴国との戦いにおいても、倭の後ろ盾として魏がいることを敵に知らしめるうえで黄幢には効果があることになる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※倭国王にではなく難升米に詔書と黄幢が授けられていることから、当時の難升米は帯方郡にいたと推測される。そのため、政は倭国には派遣されていないとも考えられる(村井康彦『出雲と大和』)。
・?年 卑弥呼は死後、直径100余歩(約145m)の墓に埋葬され、100人ほどの奴隷が共に埋葬された。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※『魏志』には「大いに冢を作る」とある。これは大きな冢を造営したのではなく、壮大な葬送儀礼を行ったとも解釈される(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※『魏志』によれば卑弥呼が埋葬された墓の直系は約145mである。対して箸墓古墳は前方部124m、後円部156mである。箸墓古墳が前方後円墳であるのに対して、『魏志』からは円墳であると考えられる。また、箸墓古墳には殉葬者が発見されていないことから、卑弥呼の墓を箸墓古墳とする見解には疑問も呈される(小林敏男『邪馬台国再考』)。
〔参考〕人が死ぬと10日間ほど遺体を家に置き、その間肉食を断った。喪主は泣くが、その他の人々は踊り飲酒する。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕死者を埋葬する際には棺に入れるが槨を作らず、墓は土を盛り上げて作ったという。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『論語』先進篇に、孔丘(孔子)の子息,鯉が死去した際に、棺があったがそれを保護する外側の槨が無かったとある。
※『魏志』は、倭人が『論語』が記す通りの埋葬を行っていたと記すことで、倭人を中国の風習を継承した、礼が備わった人々として描いているのである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※吉野ヶ里遺跡の甕棺墓の周辺には、赤く塗った土器を埋められている。そのことから、拝殿を作って墳丘墓を祀るといった葬送儀礼があったとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。
〔参考〕死者を埋葬し終えると、その一家は沐浴を行った。その様は中国の練沐に似ているという。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※この部分もまた、倭は中国の礼を継承している国であることを主張する記述である(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕倭人は正月と四季の概念を知らず、春の耕作と秋の収穫によって年の経過を理解していたという(『魏略』,陳寿『魏志』「烏丸鮮卑東夷伝 倭人条」裴松之注)
〔参考〕身分の低い者(下戸)が身分の高い者(大人)に道で会えば、後ずさりして茂みに避けたという。また、下戸が大人に物を言う際にはうずくまるか膝をつくたりして、両手を地面につけて敬意を表したという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※物を言う際に関しては、大人と下戸の厳格な身分的な差異があったようである(義江明子『つくられた卑弥呼』)。
〔参考〕倭人の会同(集会)には男女の座る場所や立ち振る舞いに区別がなかった。会同の場においては、大人(身分が高い者)に対して、拝礼するのではなく、手を打ち合わせて膝をつくことで敬意の態度を示したという。また、酒を好んだという。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※集会の際に男女の座る場所や立ち振る舞いに区別がないという記述は、特に儒教的価値観と共通するものではない。そのため、実際に倭に赴いた中国の者の証言を参照したという考えがある(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※『三国志』において、「会同」は政治的な会合や皇帝と臣下の宴会の意味合いで用いられている。酒と「会同」はひと続きの文である。古代において酒は祭祀と政治における神聖な飲料である。『三国志』での用例からも、「会同」とは単なる集会ではなく政治的な集まりであったと考えられる(義江明子『つくられた卑弥呼』)。
※手を打ち合わせて膝をつくことで敬意を示すという記述は、中国の礼法である「跪拝の礼」が倭人に備わっていないことに対する、蔑視を含んだ表現であるとの説もある(新川登亀男「小墾田宮の匍匐礼」)。
※倭人の礼法は「跪拝の礼」よりも軽い所作であるため、「大人」は他の身分からそれほど乖離した存在ではなかったという説もある(佐伯有清『魏志倭人伝を読む』)。
※「会同」で「大人」に対して敬意を示すと書かれているため、「下戸」も参加していたと考えられる。しかし「下戸」の字が見えないのは、ただ「大人」のみがその他から区別されており、「会同」の場においては厳格な身分序列を必要としない共同体的性格が残っていたのだと思われる(義江明子『つくられた卑弥呼』)。
〔参考〕男性は、「大人」は4~5人、「下戸」でも2人か3人ほどの妻を持つ者がいたという。しかし女性は嫉妬しなかったという。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※中国文化圏において女性の嫉妬が忌避されるのは、妻の嫉妬を恐れて妾がいなければ、子孫が絶えてしまう可能性があるからである。子孫がいなければ、家と祖先の祭祀が絶えてしまう。つまり、この記述は倭への高い評価を示す(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕『周礼』「夏官 職方氏」には、「中国」の東南にあたる揚州に住む人の男女比を2:5としている。
※『周礼』などに見られる儒教的な女性蔑視の価値観では、文化的な土地から離れるほど人口に女性の比率が高くなると考えられていた。そのため倭にも女性が多く、男性は複数の妻を娶るのだろうという先入観に基づく記述であると考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
※『古事記』『日本書紀』『風土記』『万葉集』などの記述から、当時の倭において婚姻は互いの合意で契約が結ばれるものであり、家に通わないようになれば解消できるという、流動的なものであったとも考えられている。(義江明子『つくられた卑弥呼』)。
※女性が嫉妬しなかった理由として、多夫多妻が一般的であったことも想定できる。「中国」においては女性に複数の夫がいることはない。そのため、「中国」の人が倭を訪れて風習を尋ねるとしても、女性に対して何人の夫がいるかという質問は思い浮かばなかったため、男性に複数の妻がいるという記録だけが残ったという説もある(義江明子『つくられた卑弥呼』)。
※倭人は長生きで、80、100歳以上の長寿の者が多くいたという。(『後漢書』東夷列伝 倭伝)
※この記述は、『説文解字』によって解説される、「夷」の人々が長寿で君子は不死であるという考えが反映されている(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
※東方海上にいるとされる神仙の観念が、倭人の寿命の記述に作用したとも考えられる(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕倭には、窃盗はなかったという。軽い罪を犯した者は妻子を没収され、重罪の場合は一族まで殺された。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『後漢書』「東夷列伝 倭伝」にも、窃盗はなく、訴訟は少なく、女性は不倫をしなかったという記述がある。
※窃盗がなく訴訟が少なく女性が嫉妬しないという記述は、『漢書』において叙述される理想化された朝鮮半島と似通っている。これもまた漢代の、理想的な「夷」の地が倭であるという考えから生まれた記述と考えられる(尾形勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。
※罰則に妻子の没収や宗族の族滅があっても財産刑が見られないことから、貧富の差はあっても上位層はそこまで豊かでもなかったかもしれない(若井敏明『謎の九州王権』)。
・?年 「其の国」(邪馬台国?)は、また男性王が立てられたが、国中が従わず争いが勃発し1000人ほどが亡くなった。そこで卑弥呼の一族である13歳の女性,台与(壱与)が女王となると、再び倭は安定したという。(『三国志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
※この男性王というのは、卑弥呼の「男弟」であるという仮説も立てられる。ただ、その後国中が従わなかったということから、服属していた諸国の首長は男性王の即位を容認しなかったとも考えられる(寺沢薫『卑弥呼とヤマト王権』)。
※卑弥呼の死後、「男弟」が残されたと推測されるが、国中が従わなかったとすると、宗教的な背景がなければ到着が不可能であったことが窺える(若井敏明『謎の九州王権』)。
※当時の倭国では、女性優位の伝統が強かったとも考えられる(水谷千秋『教養の人類史』)。
・?年 台与/壱与は、張政の帰国に随行させる形で魏に使者20人を派遣し、男女の生口30人、白珠5000、青い大勾玉2個、雑錦20匹を献上した。(陳寿『魏志』烏丸鮮卑東夷伝 倭人条)
〔参考〕『冊府元亀』「巻968 外臣部 朝貢1」は、247年(魏暦正始8)とする。
※このようにして、倭は秩序を回復させたことを魏に伝えたのである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
・258年? 〔参考〕崇神天皇は崩御した。(『古事記』『住吉大社神代記』)
※『古事記』と『住吉大社神代記』の崩年干支からの推定である(田中卓「邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。
※箸墓古墳の造作跡から出土した甕(布留0式)に付着した煤や焦げを対象にAMS放射線年代測定を行ったところ、古墳の造営は240~260年頃と想定された。その年代は崇神天皇の崩年と考えられる258年と矛盾しない。そのため、纒向遺跡の建物群を崇神天皇の磯城瑞垣宮に比定する見解もある(岡田登「神武天皇とその御代」『神武天皇論』)。
・258年? 〔参考〕崇神天皇の崩御後、その子息が垂仁天皇として即位したという。(『古事記』)
・266年(晋暦泰始2)11. 乙卯 倭人が晋を訪れて朝貢を行って貢物を献上した。また、それぞれ天地を祀る場所であった圜丘・方丘を、南郊・北郊に変更したことを伝えている。(『晋書』武帝紀)
※天地を祀る場所を南郊・北郊だと定めたのは、時の晋の皇帝、武帝司馬炎の母方の祖父、王粛である。晋が祭祀を改革したという記述の後に倭からの朝貢を記すのは、祭祀を改めた判断が正しかったという主張を裏付けるためである(渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く』)。
〔参考〕『日本書紀』の引用する晋の起居注によれば、泰始2年の10月、倭の女王が晋に朝貢をおこなったのだという。
※『魏志』には台与の最初の朝貢の年次が記されていないため、張政が魏に帰国したのは、この年であったとも考えられる。政は、倭国からの使者を引率する立場にあると考えられる。しかし『魏志』の記述は倭国から送られたような筆致である。自身の仕える魏が滅んで晋が建国されたことにより、政は困難な立場となったと推測される。そのような状況下で倭国から亡国,魏への朝貢のために帯方郡を訪れた使者がいたので、政は倭国からの使者に晋への朝貢を行わせ、それまでの立場を維持できたとも推測される(村井康彦『出雲と大和』)。
※倭国内において、魏の滅亡を最も早く知ったのは伊都国であると思われる。台与(トヨ)もしくは壱与(イヨ)という倭国王の名前から、実際は台与/壱与は伊都国王であり、「中国」の新王朝に朝貢したという見解もある(村井康彦『出雲と大和』)。
・313年(晋暦永嘉7) 高句麗は楽浪郡を陥落させた。(『三国史記』高句麗本紀)
・314年(晋暦建興2) 高句麗は帯方郡を陥落させた。(『三国史記』高句麗本紀)
※楽浪郡と帯方郡の陥落により、女王国は「中国」に朝貢することが不可能になったと考えられる(小林敏男『邪馬台国再考』)。
※その後、邪馬台国の記録は途絶える。魏からの後援を失った後、敵対する狗奴国に滅ぼされたとも推測される(田中卓「邪馬台国とヤマト朝廷との関係」『邪馬台国と稲荷山刀銘』)。