ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

平成の時代

・昭和64年(1989) 1.7 明仁親王が即位した。

・1983年 1.8 元号が昭和から平成に改められた。

・平成7年(1995) 10.4 庵野秀明が監督・脚本を務める『新世紀エヴァンゲリオン』の放送が開始した。

※厳格な規律への服属を強制するキリスト教的父性原理(:使徒)と、あるがままを肯定してくれる母性原理(:エヴァンゲリオン)に惹かれる者との戦いであるとも分析される(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・平成9年(1997) 8.30 『ウルトラマンティガ』が放送を終了した。

※最終的に女性隊員は主人公の正体を理解し、孤独に地球を守っていることに対して労りの言葉を述べている。地球人(:日本人)の立場から、ウルトラマン(:沖縄)を思いやることを暗示しているとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・平成18年(2006) 4.8 円谷プロダクションによる『ウルトラマンメビウス』の放送が開始した。

※最終回を迎える前に、主人公は他の隊員に正体を明かして、共に戦っている。沖縄の人々が、自身を日本人だと思えるようになったことを示しているとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・平成19年(2007) 3.31 『ウルトラマンメビウス』の放送が終了した。

※最終回において、防衛隊員たちが新たなウルトラマンに変身し、新兵器で敵を倒している。当時は集団的自衛権の行使容認の検討が話題となっており、在日米軍(:ウルトラマン)と対等な立場で戦いたいという日本人の深層意識が反映されたという見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・平成19年(2007) 上野千鶴子は『おひとりさまの老後』を刊行した。

※日本の既婚女性は夫や子供に束縛されており、老後は離婚して「おひとりさま」となり公的なサービスを享受し、行政もそれを支援すべきだと主張した。家族は個人の自由を奪うものであるという、家族と公共を対立させる思想と捉えられる(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

平成31年(2019) 4.30 天皇は譲位して称号が上皇となり皇后美智子は上皇后となった。

昭和天皇の時代

昭和4年(1929) 8.1  『マンガ・マン』が創刊された。

※この雑誌はUSAの最新マンガ紹介などを行い、注目を集めることになる(澤村修治『日本マンガ全史』)。

昭和4年(1929) 西田税、陸軍少尉,菅波三郎、海軍少尉,藤井斉らによって、天剣党規約が起草された。

北一輝は、西田税を通して結成を主導していた。彼は自身の革命理論の実行力は軍部であると考えており、陸海軍の尉佐官級の将校らに対して、その思想を吹き込んだのである(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。

昭和5年(1930) 9. 参謀本部ロシア班長,橋本欣五郎陸軍省調査班長,坂田義朗、東京警備司令部参謀,樋口季一郎を発起人として、桜会が結成された。結成の目的は、陸軍省参謀本部の将校を中心とした国家改造であった。(「田中清手記」)

※欣五郎は同年にTürkから帰国しており、Mustafa Kemalの行ったような革命と改革を、日本において実現させることを望んでいた。その意志が結成の原動力となっており、彼が事実上の首領として活動することとなる(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第二章)。

昭和5年(1930) 10.1(9月末、10.3とも) 桜会の第1回会合が行われた。網領として、国家改造を目的とし、その達成のためならば武力行使も辞さないことや、国軍将校に国家改造のための意識を注入することなどが採択された。

昭和6年(1931) 1. 『少年倶楽部』新年号にて、田河水泡(本名:高見澤仲太郎)による「のらくろ」の連載が開始した。

※子どもは犬が好きということで、主人公は犬の野良犬黒吉となった。略して「のらくろ」である。最初は「のらくろ二兵卒」として開始した。野良犬黒吉が、親兄弟もおらず宿もないような境遇を逞しく生きる姿や、よかれと思って行動した結果失敗する愉快さが受け入れられ、人気を博した。のらくろが連隊の中で階級を上げる姿も、人気の理由であった。当時の講談社が、立身出世を称揚する色調であったことも関連していると思われる(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1933年 Aldous Huxleyは『Brave New World(すばらしい新世界)』を刊行した。

※この小説の設定では、人間は工場で産まれ、精神状態は薬物で管理可能になっている。また、性的快楽の追及は推奨されるが、それは出産や家族とは切り離されてある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

昭和8年(1933)3. 中村書店から、大城のぼるによる「愉快な探検隊」が刊行された。

※この作品の出版が、「ナカムラマンガ・ライブラリー」シリーズのはじまりであった。中村書店はその後も、個性的な若手のマンガ家を見出し、育てていった(澤村修治『日本マンガ全史』)。

昭和8年(1933) 5. 『少年倶楽部』6月号にて、島田啓三による「冒険ダン吉」の連載が開始した。

※連載のタイトルページでは「痛快漫画物語」と銘打っているが、実際は挿絵を多く付けた物語(絵物語)であった。南洋と島に漂流したダン吉が、島の王になる物語である。人気を博した理由の1つとして、南進論が盛んになった時代背景が考えられている(澤村修治『日本マンガ全史』)。

昭和11年(1936) 1.25 『東京朝日新聞』にて横山隆一による「江戸ッ子健ちゃん」の連載が開始した。

※『東京朝日新聞』から、世の中を明るくするような連載マンガを求められてのものである。当初は1ヶ月の間連載するとの約束であった(澤村修治『日本マンガ全史』)。

昭和17年(1942)年 3.15 横山隆一の「フクちゃん」はアニメ化され、「フクちゃん奇襲」が発表された。

※キャラクターが戦争キャンペーンに使われるのは、国民感情の反映である(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・昭和20年(1945) 4.12 長編アニメ「桃太郎 海の神兵」が発表された。作画者は瀬尾光世である。

※手塚治はこの映画を見て、日本において高技術のアニメが作られたことに感動したのだという(NHK『ぼくはアニメの虫』)。

・1945年 Karl Popperは『The open society and its enemies』を刊行した。

呪術的、部族的、もしくは集団主義的な社会を「閉ざされた社会」と位置づけ、「開かれた社会」と対立するものだと述べる。「開かれた社会」というのは、個人が個人的な決定を行える世界であり、その誕生の契機はSōkrátēsであるとする。そしてPlátōnは師を裏切り、個人を社会の一部でしかないと考える全体主義的な「閉ざされた社会」に回帰させたのだと説いている(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・昭和21年(1946) 1.4 『少国民新聞』において、手塚治虫(本名治)は「マアチャンの日記帳」を掲載した。デビュー作である。

※一度治は持ち込みに失敗しており、掲載に関して、本人は幸運だったと回想している(手塚治虫『ぼくはマンガ家』)。

・昭和21年(1946) 4.22 『夕刊フクニチ』が創刊され、そこで長谷川町子による「サザエさん」の連載が開始した。

※一般的なサラリーマン家庭の日常生活を捉えた作品で、戦後の日本の世相に、ほのぼのとした笑いをもたらすことになる(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1949年 George Orwellは、小説『Nineteen Eighty-Four(1984)』を刊行した。

※この小説の舞台は、全体主義的な監視社会であり、家の中まで監視され、国家に報告されるといったものである。『すばらしい新世界』と同様に、近代の思想が進む先は、公的な空間が私的な空間にまで及び、家族の親愛は否定されるという観点のうえにあり、ディストピアの抵抗の起点として性愛を描く点が共通している(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1953年 Ludwig Wittgensteinの遺作『Philosophische Untersuchungen(哲学探求)』が刊行された。

※「後期」に位置づけられるこの書物は、「言語ゲーム」という概念が用いられる。「石版!」という発話は、「石版をもってこい」かもしれないし、石版に対する感嘆の意味かもしれない。発話内容は、発話外の状況によって定まるのであり、発話そのものを分析しても無意味というのがそれである。発話内容を知るのは、「言語ゲーム」を行い、規則を試行錯誤を学ぶほかないというのである(東浩紀『哲学可能性の哲学』)。

言語ゲームにおいては、明確な規則は定められておらず、規定の内容も変容する。自分が何のゲームを行っているか分からないまま、ただゲームを続けているとされる(東浩紀『哲学可能性の哲学』)。

・昭和30年(1955) 1.22 総理大臣,鳩山一郎は、施政方針演説において、「不良出版物」が青少年に悪影響を与えていると述べた。

※ 「青少年に有害な文化財に関する決議」を受けての発言である。新聞が発言を取り上げたことで、非難が拡大し、小学校の校庭でマンガが燃やされる事件も発生した(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1958年 Hannah Arendtは『Vita activa oder vom tätigen Leben(人間の条件)』を刊行した。

※私的な欲望を満たす人間は動物と変わらず、公的な領域に関わってこそ人間は人間でいられるとハンナは説いた(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・昭和41年(1966) 7.17 円谷プロダクションによる『ウルトラマン』の放送が開始した。

※主人公は宇宙人(ウルトラマン)でありながら地球人(防衛隊員)という立場にあり葛藤し、隊員に対しても宇宙人という姿を隠している。そうした描写には、脚本を担当した金城哲夫が沖縄出身であり、沖縄と日本という2つのアイデンティティの間で葛藤していたことが理由にあるとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1969年 Hannah Arendtは『On Violence(暴力について)』を刊行した。

※Hannahは、評議会は、革命の伝統や理論の結果としてではなく、まったくなかったものであるかのように出現すると説いた。これは評議会コミュニズムが、「贈与―返礼」という交換様式Aを高次元で回復するものであることを示すとも解釈される(柄谷行人『世界史の構造』)。

・昭和47年(1972) 3.31 『帰ってきたウルトラマン』が放送を終了した。

※最終回に主人公は故郷であるM78星雲に帰還する。それを沖縄の本土復帰への動きを連想させるという見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・昭和47年(1972) 5.15 沖縄は再び日本国に帰属した。

・昭和48年(1974) 4.5 『ウルトラマンタロウ』が放送を終了した。

※主人公は最終回で地球に残る道を選択する。地球は日本自体の暗示であるとして、沖縄の本土復帰に連動していると考える見解もある(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1982年(和暦昭和57) Saul Kripkeは『Wittgenstein on Rules and Private Language』が刊行した。

※1982年の講義をもとにした著作である。この著作においては、思考実験が述べられる。足し算をして、125という答えが出たと思ったら、懐疑論者が現れ、実は計算していた記号「+」はプラスではなく「クワス」であり、125ではなく答えは5になるというのである。ソールはこの懐疑論者の主張は、反論できないものだと述べる。しかし、この懐疑論者のような人は、価値観を共有できず、共同体の「ゲーム」から放逐される。ソールは、先にゲームの規則があって共同体が作られるのではなく、共同体を作った人々が、68+57の答えを125と答えられるような、価値観を共有する者を選別することでゲームの規則が確定すると考えた(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※68+57を5と答えるような人は、共同体から排除される。しかし共同体の構成員から、その答えは125であると告げられ、誤りを訂正できる人は、共同体に受け入れられる可能性がある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

大正天皇の時代

大正3年(1914) は、高野辰之作詞・岡野貞一作曲による文部省唱歌『故郷』が発表された。

※リズムパターンは賛美歌『風はげしく』に由来する、三拍子の「欧米風」楽曲である。ただ、二拍子のリズムでも歌うことが可能になっていた。二拍子は鍬を用いるリズムに近く農耕民族の感性に親和的であることから、日本の故郷を思わせる歌として定着したとも考えられる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

大正4年(1915) 12.13 Cecil DeMille監督による映画『The Cheat』が上映された。 

※出演した早川雪洲が演じたのは東洋人富豪のCheat(卑劣漢)であった。黄禍論の広まりから、日本人が経済力を強めてAmericaに挑戦しようとしているという風潮が社会にあり、映画にも反映されている(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

大正8年(1919) 8.1 北一輝らは、猶存社を結成した。

・1922年(和暦大正11) Ludwig Wittgenstein『Logisch-Philosophische Abhandlung(論理哲学論考)』が刊行された。

※言葉は世界を記述するための道具であると彼は考えた。命題(詩などを除いた全ての文)の構造を分析し、世界との対応関係を定め、言葉を適切に使用すれば、世界の謎のほとんどは解消されると彼は主張した(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・大正13(1924) 4. 大川周明らは行地社を創立した。

※行地社は猶存社の後継とも見なされる。北一輝や周明による運動は、満蒙問題を巡るナショナリストとしての危機意識が背景にあった。彼らは腐敗した政党政治に対する中間層の反発をもとに、富の再分配の実現を企図した。こうした周明らによる国家社会主義的な発想は、中間層や下層出身者の多い、陸軍・海軍尉佐官級将校の精神に対して影響を与えうるものだった(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。

明治天皇の時代

・1867年 9.14 Karl Marxは『Das Kapital』1巻を刊行した。

※4篇13章においては、資本主義農業の進歩は、一定期間の土地の豊度を高めるものであるが、永続的土地豊度を失わせると主張される(柄谷行人『世界史の構造』)。

・1867年(和暦慶応3) James Hepbornによる和英辞典『和英語林集成』が横浜にて刊行された。

※当時の日本では、英文と日本語文を組み合わせた活字の組版を作ることができなかったため、上海で組版と印刷が行われた。英語で説明された国語辞典といえるものであり、外国人のために作成されたが、日本人にも使用する者は多かった(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

1871年(和暦明治4) 10.12 日本政府は「姓尸不称令」を公布した。

※これにより、公文書には姓ではなく苗字を用いることが定められた(岡野友彦『源氏長者』)。

・1872年(和暦明治5) 日本の太政官は「学制」を公布した。

※立身出世のために学問が必要であることが説かれており、功利主義的であった。それまで武士と平民は、別々の教育組織で学んでいたが、それが一元化される形となった。均等化という点で、その進歩性が指摘される。(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

1873年(和暦明治6) 3.14 政府は「内外人民婚姻条規」を発布した。(『太上典類』)

※別々の国籍を持った人物同士が結婚した場合、妻が夫に合わせて国籍を変更するという「父系血統主義」的な法律である。これは欧米諸国に追いつこうとする意図を持って制定されたのであるが、外国人男性が「婿養子」として結婚した場合は、その男性は妻に合わせて日本国籍になることが規定されていた。国際法に日本の「家制度」を組み込んだものであり、父親が誰かよりも入った家がどこかを重視する傾向が窺える(與那覇潤『日本人はなぜ存在するか』)。

1873年(和暦明治6) 3. 文部省は国語教科書『小学読本』を編纂した。

※これはMarcius Willsonの『First reader』の翻訳である。「上の絵の林檎は幾個ありや。今一つを増せば幾個となるや。猶一つを増せば幾個となるや」というように林檎を例に出すなど、直接的に翻訳したことが理解できる。外国のものを取り入れようとする精神の現れとも考えられる。外来文化を過剰なまでに取り入れる性質は、日本の特性とも考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

・1874年(和暦明治7) 劇作者の仮名垣魯文と、浮世絵師の河鍋暁斎は、横浜にて『繪新聞日本地』を発行した。

※「日本地」とは「日本」と「ポンチ」に由来し、ポンチ絵を売り物にした雑誌であった。(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1875年(和暦明治8) 2.13 日本政府は「平民苗字必称義務令」を公布した。(太政官布告第22)

※政府は既に、公文書には姓を除いて苗字を使用することを定めていた。そのため、戸籍に登録した時点で、大江、菅原、藤原といった姓に由来する名乗りであっても苗字になったのである(岡野友彦『源氏長者』)。

・1877年(和暦明治10)3.14or24 野村文夫によって、『團團珍聞』が創刊された。

※この雑誌は政治風刺を得意としていた。また、UKの『Punch』紙から表紙やマンガ表現において強い影響を受けていた。その紙面場において活躍した本多錦吉郎は、『Punch』や『Puck』を参考にして、細密な絵を発表した。その画風は以前にはないものであり、マンガ表現の幅を広げた(清水勲『日本近代漫画の誕生』)。

・1879(和暦明治12) 植木枝盛は『民権自由論』を刊行した。(刊記)

※「自由の権」という概念を日本の人々に伝えることを目的としていた。彼は冒頭において「御百姓様」「御商売人様」「御細工職人様」「士族様」「御医者様」「船頭様」「馬かた様」「猟師様」「飴売様」「お乳母様」「新平民御一統」といった、その概念が最も役に立つ市井の人々に対して呼びかけている(戸田山和久『教養の書』)。

1881年(和暦明治14)頃 唱歌蛍の光」が作詞された。

※Scotland民謡に、故事「蛍雪の功」を元に歌詞が付けられている。「あけてぞけさは、別れゆく」という歌詞の「ぞ」は係助詞であり、「ゆく」と、連体形の係り結びとなっている。当時、実際に日常で係り結びが使われていたわけではない(山口仲美『日本語の歴史』)。

1884年(和暦明治17)頃 唱歌あおげば尊し」が作られた。

※歌詞の最後あたりの、「今こそ別れめ(山口仲美訳:今こそお別れしよう)」の「め」は意志を表す助動詞「む」の已然形であり、「別れめ」に呼応して係り結びを作っている。書き言葉として残っていた古語によって作詞されており、当時、日常で使っていたわけではない(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1887年(和暦明治20) 2.15 Georges Bigotは『トバエ』を創刊した。

※雑誌名は「鳥羽絵」に由来する(澤村修治『日本マンガ全史』)。

・1887年(和暦明治20) 5.? 中江篤介(兆民)は集成者より『三酔人経綸問答』を出版した。(刊記)

※最初は立憲君主制の実現が必要であり、その過程で与えられた「恩寵の民権」を「回復の民権」へと変え、自由、平等、博愛に基づく民主共和制に至るための努力が必要である説かれている(清水正之『日本思想全史』)。

・1887年(和暦明治20) 11. 自由民権運動の呼びかけの後、政府が言論人への弾圧を行ったことに対し、Georges Bigotは風刺画を発表した。

1888年(和暦明治21) 4. 政教社は機関紙『日本人』を創刊した。

※紙上において政教社の人々は「日本民族(大和民族)」という自認を表明した。それは、政府は特定の藩閥ではなく日本人全体のための政治を行うべきであるという意志表明であった(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1889年(和暦明治22) 2.11 「大日本帝国憲法」が公布された。

・1889年(和暦明治22) 2.11 「皇室典範」が制定された。

〔要参考〕『皇室典範義解』は、皇室の「家法」を条定したものであるため、臣民に公布するものではないと述べる。

帝国議会が触れることのできない法律である。何らかの理由で改正する必要があったとしても、帝国議会の審議や協賛は必要ないものであった(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

皇位は皇統に属する男系男子が継承することが定められた。また、18歳以下である場合は皇族が摂政を担うことが定められた。このことから、天皇は成年であることを原則として定めたことが理解できる(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

天皇太皇太后、皇太后、皇后の敬称は「陛下」と定められた。太皇太后を最初に、皇后を最後に記すのは、年齢・世代による長幼の序の序列に従ったからである(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※複数の君主が存在することは政治的な混乱を生じさせると考え、譲位の規定は記されなかった。こうして天皇譲位という制度は否定されることになった(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・1889年(和暦明治22) 11.29 「大日本帝国憲法」が施行された。

・1890年(和暦明治23) 4.21 日本政府は『民法財産編・財産取得編・債権担保編・証拠編』を公布した。(法律第28号)

※苗字のことは法律上「氏」と呼ばれることとなった。政府は苗字と姓を混同していたようである(岡野友彦『源氏長者』)。

・1890年(和暦明治23) 10.7 日本政府は『民法財産取得編・人事編』を公布した。(法律第90号)

・1890年(和暦明治23) 10.30 「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が下された。

※明治政府は、精神・倫理における天皇の伝統的権威を復活させ、国民統合の象徴として、欧州の先進国から植民地にされることを防ごうとした。「大日本帝国憲法」と「教育勅語」によって、その支配体制の内実が規定され、国家・国民の活動は天皇の権威に統合され、同質化が強制された。しかし実際に統治機構を運営したのは各担当者であり、当の天皇は煩雑な手続きと儀式に拘束される機械的で無力な存在であった(秦郁彦『軍ファシズム運動史』第一章)。

・1899年(和暦明治32) 3.16 国籍法が制定された。(法律第66号)

※この法律による外国人の日本国籍取得は、日本人の妻になった場合と、日本人父母に認知された場合、そして日本人女性戸主と結婚して家に入った場合と、日本人の養子になった場合、内務大臣の許可によって帰化した場合である。「国際法」「血統主義」「家制度」を混合して運営していたことが理解できる(與那覇潤『日本人はなぜ存在するのか』)。

・1901年(和暦明治34) 9.3 中江篤介(兆民)は東京博文館から『一年有半』を出版した。(刊記)

※「我日本古より今に至る迄哲学無し」と述べて、それまでの日本には「哲学」がなかったことを説いている。彼は、世界把握の認識論と、政治変革のための実践的哲学こそが哲学だと考えていた。そのため彼にとって伊藤仁斎荻生徂徠は古典学者であり、本居宣長平田篤胤は考古学であった。そのため彼の考える「哲学」は日本になかったのである(清水正之『日本思想全史』)。

・1097年(和暦明治40) 1.31 『皇室典範』が公布された。(「勅令六号」)

※『皇室典範義解』が「皇室自ら其の家法を条定する者なり。故に、公式に依り、之を臣民に公布する者に非ず」と述べるように、本来は公布する予定はなかった(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

・1909年(和暦明治42) 5.19 夏目漱石(金之助)の『三四郎』が春陽堂から刊行された。(刊記)

※主人公の三四郎と、汽車で隣に乗り合わせた「紳士」は、日本が世界に自慢できるものが富士山しかないと嘆く。三四郎日露戦争に勝った日本を「段々発展するでしょう」と予想したが、それに対して「紳士」は「亡びるね」と答えている。漱石日露戦争の勝利に沸き立つ当時の風潮に、日本人の驕りを見ていた(水谷千秋『教養の人類史』)。

 

孝明天皇の時代

・弘化3年(1846) 3.10 統仁親王践祚した(孝明天皇)。

1850年 Arthur Schopenhauerは『余録と補遺』を刊行した。

※これは主著『意志と表象としての世界』の付属品であったが、彼の著書ではじめてのベストセラーとなった。

・1851年 Friedrich NietzscheはNaumburgの私塾に通うこととなった。

※NaumburgにてFriedrichはWilhelm Pinderと友人になった。Wilhelmの父はJohann Goetheに詳しく、Friedrichに文学的な影響を与えた(西尾幹二ニーチェ 第一部』)。

1860年(和暦安政7) 3.3 井伊(藤原)直弼は水戸脱藩浪士と薩摩藩士に襲撃され、駕籠の外から拳銃で撃たれて死亡した。(『安達清一郎日記』)

文久2年(1862) Charles Wirgmanが横浜にて『Japan Punch』を創刊した。

※この雑誌は時事的な出来事を題材として、風刺画を掲載して話題となり、マンガ的表現を表す「ポンチ絵」という言葉も生まれた(澤村修治『日本マンガ全史』)。

仁孝天皇の時代

・1819年 アルトゥール ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』を刊行した。

※生物学に関する例証も述べられており、ベルリン大学における、生物に関する講義の影響が見て取れる(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・文政2年(1819) 平田篤胤は『神字日文伝』を著した。

卜部兼方の『釈日本紀』において「於和字者、其起可在神代歟(日本の文字の起こりは神代にあるべきか)」という主張の通りに、漢字渡来以前より、日本固有の文字があると説いたものである。篤胤が提示する文字は、Han-geulに似た形状をしている。そもそも固有の文字があれば漢字を借用する必要性はなく、江戸時代以前の文献には見られない。Han-geulを参考にして作成された、後世の文字であり、篤胤の主張は、国粋主義的な願望に由来すると考えられる(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1819年 アルトゥール ショーペンハウアーは、『意志と表象としての世界』を刊行した。

※生物学に関する例証も述べられており、ベルリン大学における、生物に関する講義の影響が見て取れる(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

1820年 アルトゥール ショーペンハウアーベルリン大学の教授資格を得た。

※アルトゥールは講義の時間を、ゲオルク ヘーゲルの「論理学と形而上学」と同じ時間に設定した。アルトゥールの一方的な対抗意識からのものであったが、当時のアルトゥールはほぼ無名であり、ゲオルクの講義が満員だったのに対し、アルトゥールの講義にいたのは8人であった(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1821年 ゲオルク ヘーゲルは『法の哲学』を刊行した。

※人間は国家の一員となって、はじめて、責任ある主体として完成すると説かれている。国家に所属しない人間は、責任がないため契約が出来ない。そのため社会契約論は認められないことになる。彼は国家が個人より前に存在すると考えていたのである(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※カール ポパーは『開かれた社会とその敵』第2部において、ゲオルクの国家観は、部族主義的な「閉ざされた社会」であり、全体主義を準備したと批判する(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

※カールが言う「開かれた社会」である家族と、「閉ざされた社会」である市民社会止揚した結果、「国家」が生まれると、ゲオルクは主張したのであり、「閉ざされた社会」の外に出ようとしたという見解もある(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。

・1823年 5. アルトゥール ショーペンハウアーはイタリア旅行からドイチュに戻ったが、鬱病となった。

※このころから、非社交的になり、孤独を見据えるようになったと彼は述懐している(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

1831年 PreußenのBerlinにコレラが流行した。Arthur SchopenhauerはBerlinを離れてFrankfurtに移住した。

・1836年 Arthur Schopenhauerは『Arthur Schopenhauer』を刊行した。

※「中国学」の章では、道教儒教、仏教についても言及されており、それらが一神教でも多神教でもないことを指摘している。また、「中国」においては仏教の影響で、世界は苦悩に満ちているとの考えがあることも述べている。また、朱熹の「天の精神は人類の意志であるところのものから導きださらる」という学説を引用して、意志が全自然のなかに出現するという自身の学説が証明されたとする。また、自身の倫理学がupaniṣad思想や仏教に通じ、真正なChrist教とも矛盾しないと述べている(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1837年 OstpreußenのKönigsberg大学は、Immanuel Kantの新しい全集の編集を開始した。Arthur Schopenhauerは、編集者のJohann  Rosencrantz宛に手紙を送り、『純粋理性批判』は第二版ではなく第一版を収録することを提案した。その意見は受け入れられることになる。

※Arthurとしては、外界の対象は表象に過ぎないという立場が、第二版で不明瞭にされたと考えていたのである(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

天保13年(1842) 『永代大雑書万暦大成』が刊行された。

※暦、年月日、方位の吉凶や年表、衛生救急法などの知識を収録したものである。「本朝年代紀」の部には神武天皇をはじめとした歴代天皇の年齢や在位年が記されており、そうした知識が一般に広まっていたことを窺わせる(高森明勅『歴史から見た日本文明』)。

・1844年 Arthur Schopenhauerは『Die Welt als Wille und Vorstellung』第2巻(続編)を刊行した。

・1844年 Moses Hessは「貨幣体論」を発表した。

※商品取引という形態は、暴力による生産物の奪取や奴隷制が生れるとする。そうした掠奪と奴隷制という形態は、貨幣によって人に強制されるという形に変化すると説かれる(柄谷行人『世界史の構造』)。

光格天皇の時代

・1781年 イマヌエル カントは『純粋理性批判』を刊行した。

※批判(kritik)とはギリシア語の「分ける」を意味する言葉に由来する。この著書の目的は、人間の理性が何を知ることができるか、その限界を明らかにする(「批判」する)ことである(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

※人間の認識は、全てが経験に由来する(ア ポステリオリ)のではなく、経験を可能にするア プリオリ(より先なる)形式が設定されているとイマヌエルは考えた(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

・1782年  『ゲッティンゲン学報付録』にて、『純粋理性批判』の書評が掲載された。

・1783年 イマヌエル カントは『学問として登場することのできるあらゆる形而上学のためのプロレゴーメナ』を刊行した。

・1784年 イマヌエル カントは論文「啓蒙とは何か」を発表した。

※この論文において、彼は啓蒙運動のモットーを「自分自身の悟性を使用する勇気をもて」だと述べた。また、人間の未熟さを「未成年状態」と表現し、それは自分自身に責任があるのだと説いた(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

天明7年(1787) 12.? 本居宣長は『玉くしげ』を著した。

宣長は外国の教えが流入する前の時代を理想的に捉えている。しかしながら、世の中の変遷は善き神と悪き神によるもので、理由があるとも説いている。外国の悪い風俗に影響されていたとしても、古い時代のように戻そうとする行為は神の意志に逆らうものであるとして否定的であり、現状の追認と肯定が特徴として指摘される(水谷千秋『教養の人類史』)。

・1788年 イマヌエル カントは『実践理性批判』を刊行した。

※この著書は、人間は何をすべきであり、何をすべきでないかという、善悪を明らかにすることを目的としている(御子柴義之『自分で考える勇気』)。

・1789年 7.14 バスティーユ牢獄が破壊された。

・1789年 11.? メッツ県知事の子息のシャルル ドゥポンは、エドマンド バークに手紙を送り、フランス人が革命によって祖国のために働いていることを述べ、賛意を求めた。

※かつてシャルルはエドマンドのもとを訪問した際、エドマンドを自由の闘志と見なして敬意を抱き、革命に協力する自分の行動の是認を望んだのである(半澤孝麿『フランス革命省察』解説)。

・1790年 11.4 ユニテリアン牧師のリチャード プライスは、説教『祖国愛について』を発表した。

※これを読んだエドマンド バークは憤慨し、シャルル ドゥポンへの私的書簡という予定は残しながらも、自身が刊行する予定の著書の、批判の対象はリチャードに定められた(半澤孝麿『フランス革命省察』解説)。

・1790年イマヌエル カントは『判断力批判』を刊行した。

・1790年 11.1 エドマンド バークによる『フランス革命省察』初版が刊行された。

・1793年 イマヌエル カントは『たんなる理性の限界内の宗教』を刊行した。

・1793年 プロイセン自由都市ダンツィヒ支配下に置いた。

・1793年 プロイセンの支配を嫌った商人,ハインリヒ ショーペンハウアーは、妻ヨハンナ、子息アルトゥールを連れて、財産没収をされながらもダンツィヒを離れてハンザ自由都市ハンブルクに移ったを

※ハインリヒは、「自由のないところに幸福はない」という家訓を実行したのであり、アルトゥールは少年時代を商都ハンブルクで過ごすことになった(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1794年 10. フリードリヒ ヴィルヘルムⅡにより、イマヌエル カントに宗教や神学に関する執筆を禁じる勅令が出された。

・1795年  イマヌエル カントは『永遠平和のために』を刊行した。

・1797年 イマヌエル カントは『人倫(道徳)の形而上学』を刊行した。

・1797年 7.9 エドマンド バークは死去した。

・享和2年(1802) 十返舎一九(重田貞一)による滑稽本東海道中膝栗毛』が刊行された。

※人気となり続編が望まれたことから、当時の庶民が江戸語を誇りに思ってたとも考えられる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・1804年 Heinrich Schopenhauerは妻,Johanna、子息,Arthurと共にFranceの旅行をしていた。Arthurは後に、「生・老・病・死を目撃したのbuddhaように」生の苦悩についての関心を持つようになったと回想している。

・1805年 Heinrich Schopenhauerは倉庫から河に転落して死亡した。

※自殺といわれるが、不明である。父の死に対してArthurは衝撃を受け、精神的に消耗したという(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1806年 Johannaは子息,ArthurをHamburgに残して、娘,Adeleと共にWeimarに移住した。

・1806年 10. George Hegelは『Phänomenologie des Geistes(精神現象学)』を脱稿した。

・1806年 10. France軍はJenaにてPreußenを破った。

・1806年 10. Jena会戦に際して、Arthur Schopenhauerは母,Johannaに手紙を送り、戦争の悲惨さと、絶望も時が去れば忘れてしまうことを述べた。(『芸術についての創造的構想』所収)

※Arthurは高揚するものを押しつぶす「日常」ついて恐れを持ち、日常の対局として芸術を見出した。芸術、特に音楽には人々の心を慰め、鎮静させるものと考えたのである(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1808年 Johann Fichteは『Reden an die deutsche Nation(deutsch国民に告ぐ)』を刊行した。

※はNapoléon Ⅰの占領以後のdeutsch国民の外国崇拝と道徳的な退廃を問題視し、新たな国民教育の必要性を訴えたのである。この講演録は、分立国家の集合体であったdeutschに共同体意識を芽生えさせたとも評価される(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・文化6年(1809) 式亭三馬による『浮世風呂』が刊行された。

※作中の台詞に、比丘尼が連れの比丘尼,西光に対して「おまへ(お前)」と呼びかけるものがある。対等関係の者に対する人称代名詞として用いられており、「お前」という言葉の含む敬意の程度が下がり、対等ないしは目下の者に使用する語となっていたのである(山口仲美『日本語の歴史』)。

※上方の女性が、江戸の女性に対して『百人一首』の「百」は「しゃく」ではなく「ひゃく」と発音するのだと訂正していることから、「ひ」を「し」と読むことが江戸訛の特徴であったことが理解できる。また、「うなぎ」「にんげん」といった言葉の濁点が白抜きされており(白圏)、それは「g」ではなく「ng」という発音であったことを表現しているのだと考えられる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・1809年 Arthur Schopenhauerは成人となり、母,Johannaから、残っていた父親の財産の3分の1を与えられた。また、家の山林田畑の管理代として毎年収入が保証された。彼は金銭的な困難がなく、研究や瞑想に専念できたと述懐している。

1810年 Arthur SchopenhauerはGöttingen大学における専攻を、医学科から哲学科に変えた。

※ゴッドリープ シュルツェはアルトゥールに対して、最初の勉強はプラトンとイマヌエル カントに注力するよう助言した。アルトゥールはその助言を受け入れ、プラトンイデア論、およびイマヌエルによる物自体と現象の区別を学んだ。彼の後の哲学体系において、契機になったといえる(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1811年秋 アルトゥール ショーペンハウアーベルリン大学に移り、そこで鳥類学、両棲生物学、魚類学、動物学、地学、天文学、生理学、詩学などの講義を受けた。

※彼はフリードリヒ シュライエルマッハーの「キリスト教時代の哲学の歴史について」という講義を受けたことは分かるが、ゴットリープ フィヒテについては具体的に何の講義を受けたかは不明である。アルトゥールはフリードリヒとゴットリープについてはあまり満足をしなかった。アルトゥールが傾倒したのは、フリードリヒ アウグスト=ヴォルフによるギリシア古代史、文学史詩学の講義であった(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・1813年 10.18 アルトゥール ショーペンハウアーは「充足理由律の四根について」という論文をイェーナ大学に提出し、哲学博士の学位を取得した。

・1813年 ヨハン ゲーテは「充足理由律の四根について」を読んで才能を感じ、アルトゥール ショーペンハウアーに対して、「色彩論」に関する研究を勧め、必要な道具を貸し与えた。

・1813年冬 アルトゥール ショーペンハウアーは、アンティケティル デュペロンがペルシア語から訳した『ウパニシャッド』に出会った。

※あらゆる本質が同一であることや、現象界の悲惨さ、そして瞑想によって解脱の平和が得られると、彼は読み取り、受容した(遠山義孝ショーペンハウアー』)。

・文化10年(1813) 平田篤胤は『霊の御柱』を著した。

※篤胤はこの著書において、『bereshit(創世記)』に登場するAdamとḤawwāhは、日本神話の伊弉諾伊弉冉が西洋に伝わったものだと主張している。彼は『古事記』の世界と儒教の世界を連続させようともしており、海外から流入した神話体系を排除せず、日本神話を更新しようとしたとも評される(東浩紀『訂正する力』)。

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・1816年 5.4 アルトゥール ショーペンハウアーは論文『視覚と色彩について』をヨハン ゲーテに送った。

※アルトゥールの色彩論は、ヨハンと同じくアイザック ニュートンとは対立するものであったが、ヨハンとも違った。白色に関して、アルトゥールは色にまつわる感情を分析し、網膜の活動の中に白色を見出した(遠山義孝ショーペンハウアー』)。