ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後陽成天皇の時代

天正14年(1586) 11.7 正親町天皇の譲位により、和仁親王践祚した(後陽成天皇)。(『兼見卿記』)

・文禄2年(1592) ?.? 肥後国天草のIesu会学林は、『Doctrina Christã(ドチリナ キリシタン)』を刊行した。(東洋文庫所蔵刊記)

・文禄2年(1592) ?.? 肥後国天草のIesu会学林は、『平家ノ物語』を刊行した。(British Museum所蔵刊記)

・文禄3年(1593) ?.? 『伊曽保物語』が刊行された。

※『伊曽保物語』には、「持ってこい」という文章があり、カ行変格活用の命令形に「い」がついた形が成立していたことが理解できる。また、「有徳な」というように、ナリ活用では連体形の「る」が削られた「~な」という用法が使用されていたことがわかる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・慶長1年(1596) ?.? 肥後国天草にて、『Contemptvs mundi(コンテンツス ムンヂ)』が刊行された。(Herzog August 図書館所蔵刊記)

キリシタン資料からは、オ段の長音には、開音(ɔ:か)と合音(o:か)の2つがあったことが理解できる。開音は「au(抝音ではjau)」という母音の連続が変化したものである。合音は、エ段とオ段の音節に母音「u」が付くという母音の連続から転じたものである(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

キリシタン資料において、サ行は「sa(xa),xi,su(xu),se,so(xo)」ザ行は「za(ja),ji,zu(ju),ze,zo(jo)」と書かれており、シ・セ・ジ・ゼがそれぞれ「∫i,∫e,ʒi,ʒe」であったことが理解できる。また、タ行は「ta,chi,tçu,te,to」ダ行は「da,gi,dzu(zuu),de,do」とあり、ジ(ji)とヂ(gi)、zu(ズ)とzzu(ヅ)の発音が区別されていたことが理解できる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・1598年 Scotlandのrex,James Ⅵは『自由なる君主国の真の法』を著した。

※君主の権限は神に由来するため、君主の権力は法律よりも上位にあり、法律に制限されないと述べてある(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・慶長8年(1603) Iesu会は『Vocabulario da Lingoa de Iapam com a declaração em Portugues(日葡辞書)』を刊行した。

※烏帽子のことを「Yeboxi」と表記していることから、「エ」と「オ」が単独で音節を形成する場合、発音は「je」「wo」であったと考えられる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

※収録されている罵倒語には、「アハゥ(阿呆)」「アンカゥ/アンガゥ(アンコウ)」「アヤカリ(馬鹿者)」「アヤカシ(馬鹿者)」「バカ(馬鹿)」「バカモノ(馬鹿者)」「ホレモノ(耄れ者)」「タワケモノ(戯け者)」「オドケモノ(おどけ者)」「オロカナヒト(愚かな人)」がある。宣教師たちは布教を行うに際して、それらの罵倒語を知っておかなければ社会に適応できなかったのだと考えられる。また、当時のアンコウというのは足のある魚と説明されており、サンショウウオを意味するものであり、そこから転じて口を開けて呆けているような愚鈍な人物を差す罵倒語になっていた。また、「アヤカリ」とは船を沈没させる怪物のことである(清水克行『室町は今日もハードボイルド』)。

・慶長9年(1604) João Rodriguesは『Arte da Lingoa de Iapam(日本大文典)』を刊行した。

※関東では、命令形の語尾に「ろ」を付ける特徴があったが、『日本大文典』によって、当時の肥前国肥後国の人々も「見ろ」「着ろ」のように命令形の語尾に「ろ」を付けていたことが理解できる。また、Joãoは関東の言葉に感じて、関東の人々は多くの音節を呑み込んで発音しないことや、その言葉が粗野であることを述べている。また関東では、「Yomubei(読むべい)」などの「べい」を付けることや、打ち消しに「ぬ」の代わりに「ない」を使用していることを述べている。また、サ行の「セ」とザ行の「ゼ」は、京都では「ʃe」「ʒe」であったが、関東では「se」「ze」であったことがわかる(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・慶長15年(1610) 鷹取秀次は『外療細塹』を刊行した。

※秀次は南蛮の医療技術を吸収していた(呉座勇一『日本中世への招待』)。