ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

亀山天皇の時代

・正元1年(1260) 11.26 後深草天皇の譲位により、恒仁親王践祚した(亀山天皇)。(『百錬抄』)

・文応1年(1260) ?.? 足利(源)頼氏は、上杉(藤原)重房の娘との間に家時を儲けた。(『尊卑分脈』)

※頼氏が北条得宗家から妻をむかえられなかったのは、父,泰氏が得宗家から遠ざけられたことが理由とも考えられる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・弘長1年(1261) 1.22 北条(平)時宗は左馬権頭・従五位下に叙任された。

得宗で左馬権頭に任じられたのは、時宗が初である。かつて左馬頭には源義朝や足利(源)義氏が任じられており、武家の棟梁を再編成しようとしたとも考えられる(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・弘長1年(1261) 4.25 極楽寺邸にて、鎌倉幕府の笠懸が行われた。(『吾妻鏡』)

※射手には、北条得宗家からは時輔と宗頼、安達一門からは泰盛の弟,重景・長景兄弟が選ばれた。選ばれたのは、非嫡子であり、時頼の子息である時輔は、嫡子でないことが示された。また、笠懸の後の小笠懸で、北条(平)時宗は的に矢を命中させており、それは時頼の後継者であることを知らしめる儀式であったと考えられる(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・1261年 チャガタイ家の傍流,アルグは、オルクナから当主の座を奪い、アリク ブケから離反した。

※かつてチャガタイ家はモンケやジョチ家に弾圧されていたため、その体制を引き継ぐアリク ブケを容認していなかった。チャガタイ家の中でアリク ブケを支持していたのはオルクナだけであり、その地位をアルグが奪うことに抵抗はなく、チャガタイ家の復権の機会と考えたのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※オルクナは子息のムバーラク シャーを将来チャガタイ家の当主とするために、アルグと結婚して権力の座から完全に退くことを防いだ(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1261年 ジョチ  ウルスのカン,ベルケは、ヴォルガ河畔を出発し、カフガスを越えようとした。それに対してフレグはそれを迎え撃つために北上した。両者の勝敗は決しなかった。

※フレグは北方にジョチ ウルスの脅威を抱えることになり、仮にカアン位への野心があったとしても、望むことは出来なくなった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1261年 東ローマはコンスタンティノープルを奪還した。

※これにより、マムルーク朝からボスポラス海峡を通って、ジョチ ウルスへと続く道は開かれた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1261年 ジョチ ウルスのカン,ベルケと、マムルーク朝スルタン,バイバルスは同盟を結んだ。

マムルーク朝のキプチャク人にとっては、故郷の土地であるジョチ ウルスは親しみやすいものだった。マムルーク朝はモンゴルの影響により、チンギスの定めた法典ヤサを採用する(岡田英弘世界史の誕生』)。

イスラームの信仰を容認していたベルケとの結託は、イスラーム君主のバイバルスにとっても大義名分を得ることが出来た(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1261年 アリク ブケは、チャガタイ家の本拠地,イリ渓谷を攻め、占領した。

・弘長2年(1262) 2.27 叡尊相模国鎌倉に入った。(『関東往還記』)

※北条(平)政村、実時、長時などの鎌倉幕府の要人のほか、将軍,宗尊親王の乳母である一条局および美濃局、政村と実時の妻、重時の後家と娘などの多くの女性が檀那となった(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・1262年 アリク ブケはイリ渓谷で冬営し、その間、捕虜にしたチャガタイ家の将卒を全て処刑した。

※モンゴルのカアンは、モンゴル共同体のために存在するのであり、カアン位を争うとしても流血は当事者に限られた。しかし、モンゴル共同体の構成員である将卒を処刑したことで、アリク ブケは多くのモンゴル人から恨まれ、支持を失った。モンケに恨みがあるオゴデイ家は協力せず、ジョチ家のオルダ ウルスの当主,コニチは、戦場と所領が近いことから、保身のためにアリク ブケを支持しなかった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1262年 フレグはフランスのレックス,ルイⅨに書簡を送り、200000人以上がバグダードで殺されたと伝え、自身がシリアを出た理由を馬に与える飼料や牧草が無くなったからだと述べた。

※死者数は、フレグによる誇張と考えられる。モンゴルは補給を重要視していたことから、撤退の理由としては不自然である。また、モンゴルにとって、馬用の飼料がないというのは、目的地に赴くことを忌避したり、撤退する場合の言い訳である。実際は、モンケの死によりモンゴルが混乱したのだと考えられる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1263年春 イリ渓谷は飢饉に見舞われた。

※イリ渓谷には死者も出て、アリク ブケ軍は壊滅的な被害を被った(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1263年 5. クビライはドロン・ノール地区に築城した開平府を上都と名づけた。

※アリク ブケの敗戦が決定的になったことで、カラ・コルムを廃都して遷都することの宣言に踏み込んだのだと考えられる(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・弘長3年(1263) 9.10 北条(平)長時と連署,北条(平)政村は政所執事,二階堂(藤原)行頼宛に御教書を送り、完全な形ではない銭の流通を停止させることを命じた。(「追加法419条」)

※『吾妻鏡』はこの御教書について「左典厩等に仰せられると云々」と説明している。左典厩とは左馬権頭であった北条(平)時宗のことである。文書の内容からし時宗は政所上首別当であったと考えられる。執権が兼ねる政所上首別当に、執権でもない時宗が就いていたならば、その地位は得宗家督と結びついており、鎌倉幕府の権力構造が変化していたことになる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・弘長3年(1263) 10.26 極楽寺流北条(平)重時は死去した。(『吾妻鏡』)

※実際のところは不明であるが、重時が制作したと伝わる家訓「極楽寺殿御消息」がある。6条では親の教訓は子供を思ってのことであるから、子供は自分を顧みることを説き、また親の教訓は間違ってはいけないことを述べている。11条では畳のへりを踏んではならないなどの行儀作法についての教えである。102条は数珠をいじること、片手を服の中に入れること、口を大きく開けて食べること、唾を遠くに飛ばすことなどを、してはならないと説いている。このようなことに言及していることからして、当時の武家社会では無作法な武士が多くいたとも考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・文永1年(1264) 4.? 引付衆,二階堂(藤原)行綱・行忠兄弟は評定衆に昇格した。(『関東評定伝』)

・文永1年(1264) 5.3 評定衆の、大仏流,北条(平)朝直は死去した。(『関東評定伝』)

・1264年 7. アリク ブケはクビライに降伏し、上都に投降した。

※こうしてクビライは唯一のカアンとなった。モンゴルの諸ウルスや勢力は、クビライをカアンと認める代わりに、既存の地位や特権の保証を求めるだろうと、クビライは考えた。クビライには兄モンケにとってのバトゥのような強大な協力者はいなかった。実弟フレグは全面的に信頼できるといえず、立場は不安定であった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1264年 7. MongγolのQaγan,Qaγanは、年号を「至元」に改元した。

※このときから、Qaγanは、Mongγolにて崇拝の対象であるテングリ=天=乾"元"を意識した国家構想を持っていたようである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1264年(元暦至元1) 8. クビライは金の都だった燕京を中都と命名した。

・文永1年(1264) 8.11 連署,北条(平)政村は執権となり、北条(平)時宗連署となった。(『関東評定伝』)

・文永1年(1264) 11.9 六波羅探題南方となった北条(平)時輔は上洛した。(『外記日記』)

・文永1年(1264) 11.15 中原師連と小田(藤原)時家は引付衆から評定衆に昇格した。(『関東評定伝』)

・文永1年(1264) ?.? 北条(平)実時と安達(藤原)泰盛は越訴奉行に補任された。(『関東評定伝』)

※越訴方に所属した越訴奉行は、裁判の誤りを審査して、再審するかを判断する役割があった。越訴方は、奉行人が引付頭人に加わって裁判の内容を審議したようである。実時と泰盛が引付頭人と越訴方を兼任することで、訴訟を円滑に処理することを狙ったのだと考えられる(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・文永2年(1265) 6. 21 北条(平)時広、名越流,北条(平)教時、長井(大江)時秀は引付衆から評定衆となった。北条(平)義政、名越流,北条(平)公時、北条(平)業時、北条(平)宣時、佐々木(源)氏信、二階堂(藤原)行有、二階堂(藤原)行実が引付衆となった。(『吾妻鏡』『関東評定衆伝』)

評定衆引付衆の登用は門閥が優先され、多くは北条一門が占めた(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

※有力な北条一門にとって、引付衆は出世の過程で就任する職となっていた。既に評定衆となっていた時章と新たに評定衆となった教時、引付衆となった公時により、名越流の比率が増した。名越流の勢力挽回に対抗するように、得宗家に近しい義政、業時、朝直、宣時が登用された形になる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・1265年 高麗人の趙彝は、MongγolのQaγan,Qubilaiに対し、日本と国交を結ぶことを勧めた。(『元史』日本)

・1265年 フレグは死去した。それに乗じてジョチ ウルスのカン,ベルケはフレグ ウルスに向けて南下し、フレグの子息,アバガと対峙した。

・1266年 Thomas Aquinasは、Kıbrısのrex,Hugues Ⅱに、自身の著書『De regno ad regem Cypri(君主の統治について)』を捧げた。

※Thomasは、人が自分だけでなく、他者までも導くには「徳」が必要だと主張した。彼は、「徳」は賢虚、正義、勇気、節制という要素からなるというAristotelēsの考えを受け継いでいた。Abū Ḥāmid(Ghazālī)などのIslām思想家を通してEuropaに入ったAristotelēsにはChrist教神学の要素が加わり、ThomasはAristotelēsが説いた徳の要素に信仰、希望、愛を付け加えている(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・1266年 ジョチ ウルスのカン,ベルケは死去した。

※ジョチ ウルスとフレグ ウルスの当主が相次いで死去し、それは両ウルスの抗争を拡大させ、カアン,クビライによる調停の機会も失わせた。その後も両ウルスは対立を続ける(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1266年 チャガタイ家のアルグは死去した。モンゴルのカアン,クビライは、自身が抱えていたチャガタイ家のバラクを送り込んだ。しかしチャガタイ家は、カラ フレグとオルクナの子息,ムバーラク シャーを新たな当主として選出していた。

※クビライとしては、アルグの死去による混乱を抑えるために、バラクチャガタイ家の跡を継がせ、自身の権威を背景に中央アジアを確実に掌握することを望んだのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1266年 アルグはカアン,クビライからの命であるとして、ムバーラク シャーを廃して自らがチャガタイ家の当主となった。そしてクビライに対して敵対を表明した。

チャガタイ家の人々はトルイの子孫の強権的な支配の下にあることを嫌っていた。ムバーラク シャーは鷹飼となった。以降、チャガタイ家においては嫡流といえる系統は無くなり、実力者ないしは傀儡が当主になることとなった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1266年 チャガタイの当主,アルグ、オゴデイ家のカイドゥ、ジョチ家の当主,モンケ テムルが集合した。マー ワラー アンナフルの3分の2はバラクが、残りはカイドゥとモンケ テムルが分割した(『集史』)。

※属領の処置は、カアンないしはカアンが開くクリルタイで決められるものだった。ただ、カイドゥにはクビライに対抗するだけの実力を有していなかった。彼らの集合は、クビライの思い通りに動くわけではないことの表明とも考えられる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

チャガタイ家はこうして復権を果たしたが、ジョチ家はモンケと結託して権力を握った時期からは後退したといえる。ただ、シル川下流域からホラズムに至るまでの土地を確保できれば十分と考えたようである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1266年 クビライは中都の東北に新城「大都」の建設を命令した。

※造営に携わった工人や技術者は、ムスリム、モンゴル人、漢人など、様々な者たちがいた。大都の設計は、『周礼』「考工記 匠人営国」に描かれる理想の都城を忠実に再現した(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・文永3年(1266) 3. 6 鎌倉幕府の引付は廃止された。評定衆は、名越流,北条(平)時章、長井時秀、小田(藤原)時家、二階堂(藤原)行方からなる一番、北条実時、名越流,北条(平)教時、二階堂(藤原)行義・行忠兄弟、三善倫長からなる二番、安達(藤原)泰盛、中原師連、武藤景頼、二階堂(藤原)行綱からなる三番に編成しなおされた。毎月2回、6回の決裁を行うこととした。(『吾妻鏡』) 重要事項は執権と連署が直接裁断し、小事は問注所が裁定することが決められた。(『鎌倉年代記』)

※引付を廃止したのは、人員を急に入れ替えたことで、何らかの機能不全があったからだと考えられる。旧評定衆で、編成から外れた問注所執事,三善康有は、問注所で審理した裁判の結果を、是非を判断して評定衆に渡す役割を担った。同じく旧評定衆の佐々木(源)氏信は、評定の内容を執権と連署に伝える役割を担った。また、政所と問注所の実務が重視され、評定衆の合議内容は重んじられなかった(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

※構成員の合議という原則が変更され、評定衆は執権と連署の補佐役へと地位を低下させた(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・文永3年(1266) 7.4 宗尊親王は北条(平)時宗によって征夷大将軍職を解任された。(『吾妻鏡』)

※前得宗,時頼の死によって、得宗派と宗尊親王派の均衡が崩れていた。そのことに危機感を抱いた時宗は、自身への権力集中を図り、宗尊親王を追放するという強硬手段を実行したのだと考えられる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・文永3年(1266) 7.4 名越流,北条(平)教時は軍兵数人を率いて示威行為を行い、連署,北条(平)時宗に制止されて撤退した。(『吾妻鏡』)

宗尊親王に近しい教時が示威行動を起こしたことは、宝治合戦以降は縮小したものの、将軍の勢力は、得宗に対抗するものとして存続し続けたことの証左である。こうした背景もまた、時宗宗尊親王を排除した理由と考えられる。(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・文永3年(1266) 7.8 宗尊親王相模国鎌倉を離れて山城国京都へ帰国に赴いた。(『吾妻鏡』)

・文永3年(1266) 7.24 鎌倉幕府からの要請に従い、朝廷は宗尊親王の子息,惟康王を征夷大将軍に任じた。(『外記日記』)

※当時惟康王は3歳であり、得宗,北条(平)時宗への権力集中を狙った要請であった(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・1266年.8 MongγolのQaγan,Qaγanは兵部侍郎の黒的を国使、礼部侍郎の殷弘を副使として、国書を持たせて日本に派遣した。その国書には、大元ウルスが高麗と円満であることと、それまでの「中国」王朝と同様に、Mongγolと日本が国交を結ぶことを求める内容であった。そして、武力は用いたくないと記されていた。しかし彼らは途中で引き返した。(『元史』日本)

・文永4年(1267) 4.? 鎌倉幕府の越訴奉行が廃止され、重要事項は執権と連署が、他の細部は問注所が処理することになった。(『吾妻鏡』)

※裁定を再審によって覆すことができる越訴制度は、得宗にとっては自身の採決の絶対的地位を脅かす存在であったために、廃止されたと考えられる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・1267年6月 MongγolのQaγan,Qubilaiは、黒的と殷弘が引き返したのは高麗王,王稙のせいだと考えた。そして再び黒的と殷弘に対し、日本から良い返事を貰うように伝えた。(『元史』日本)

1267年9.? 高麗王,王稙は、元皇帝の使者が直接行く必要はないと考え、部下の潘阜に書状を持たせ日本に派遣した。しかし特に進展もないまま、9ヶ月の滞在の後に帰国する。(『元史』日本)

・文永4年(1267) 11.? 塩田流,北条(平)義政(重時子息)と、安達(藤原)時盛(泰盛弟)が評定衆となった。(『関東評定衆伝』)

・文永4年(1267) 12.26 鎌倉幕府は追加法334条を定め、御家人の所領の質入れ、売買および他人への譲渡を禁止した。(近衛家本「追加法334条」)。

・文永5年(1268) 1.? MongγolのQaγan,Qubilaiの使者として、黒的が筑前国大宰府を訪れた。黒的は筑前国守護,少弐(藤原)資能に国書を渡した。(『一代要記』) 国書には大元と高麗が親密であるという内容が記されており、国書に対して返答をしないことを詰り、国交を結ぶことを求めるものであった。また、武力は使うようなことはしたくないため、よくよく考えるようにと記されていた。(『元文類』『調伏異朝怨敵抄』『元史』日本)

※国書の文章は、「上天」「大蒙古国」「祖宗」の後に続く行は改行され、行頭が低くなっている。これは擡頭という様式で強い尊重を示す。対して宛先の「日本国王」に対しては、単に改行のみで敬意を示している(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

※国書の冒頭にある「上天眷命」は、日本ではそれまで知られていない文言であった(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

※「上天眷命」とは、これはMongγolにおいて使用された定型句「とこしえの天(Ténggélǐ)の力にて」を漢訳したものである。発語自体に意味のない置き字であったと考えられる(杉山正明モンゴル帝国の興亡〈下〉』)。

※Mongγolからの国書は丁寧なものであり、戦争は望まないとの文言は本心であるとの見解もある(杉山正明『モンゴルが世界史を覆す』)。

※『元史』が収録する国書は省略しているものの『元文類』が収録する国書から、文末には「不宣白(宣白せず)」とあったことが理解できる。これは日本を臣下と見てはいないことを示す結語表現とも考えられることや、「書を日本国王に奉る」といった表現から、その低姿勢さを読み取る見解もある(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

※Mongγolを「君」日本国王を「臣」とする関係を求めていながら、私的な様式の文書である。対等な友人に用いる「不宣」の文末であることから一応は通好のための使者を求める文言であった。しかし、武力行使不本意であるという表現は、鎌倉幕府にとって深刻に受け止められたと考えられる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

※高麗がMongγolに服属する過程を説明していることから、臣従を求めたことは確実とも考えられる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・文永5年(1268) 閏1.18 筑前国守護,少弐(藤原)資能は、大元と高麗からの国書を、鎌倉幕府に渡した。(『師守記』)

・文永5年(1268) 2.7 鎌倉幕府は前太政大臣,西園寺(藤原)実氏を通して、大元と高麗からの国書を朝廷に渡した。後嵯峨院は関白,近衛(藤原)基平と前関白,二条良実などを呼び、国書の対応を論議させた。(『深心院関白記』)

※このことから、鎌倉幕府は国際的な外交に関する決定権を持っていなかったことが理解できる(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

※外交は朝廷に任せて、鎌倉幕府は自身の専門である軍事において対策を進めたのだと考えられる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・文永5年(1268) 2.19 朝廷は、公卿たちの協議の末、大元と高麗からの国書に対する返答を、拒否することを決定した。使者の黒的は帰国させた。(『深心院関白記』)

※公家たちはMongγolを「蒙古国賊徒」と蔑視していたため、正式な国交を結ぼうとは考えていなかった。しかし、拒否の態度を示すと角が立つと考え、黙殺したのだと思われる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・文永5年(1268) 2.25 朝廷は、異国(Mongγol、高麗)降伏の祈祷を22社に命じた。(『深心院関東記』)

・文永5年(1268) 2.27 鎌倉幕府讃岐国守護,北条(平)有時に御教書を送り、Mongγolからの侵略に備えるよう御家人たちへ通達させ、九州に所領を持つ御家人には、守りを固めるために代官に下向させることを促した。(『新式目』)

※本来、鎌倉幕府は東国政権であり、異国警固などの西国の諸問題は無関係のはずであった。しかし、承久の乱以降、朝廷の西国を統治する能力は低下し、その役割は朝廷側から幕府に委ねられることになった。鎌倉幕府は自らを軍事権門と規定してしまったため、実力が伴わないながらも国家全体の治安維持を引き受けざるを得なくなったのである(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・文永5年(1268) 3.5 北条(平)時宗は執権となり、北条(平)政村は連署となった。(『帝王編年記』『関東評定衆伝』)

※18歳の青年得宗を、64歳の長老連署が支える体制となった(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

※幕府の首脳陣としては、時宗の成長を待ちたかったのかもしれないが、Mongγolからの使者が執権就任を早まらせたのだと思われる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・文永5年(1268) 8.25 亀山天皇の皇子,世仁親王立太子した。(『吉統記』)

〔参考〕『増鏡』によれば、西園寺(藤原)実氏は立太子をめざましく(気に食わなく)思ったのだという。

※世仁親王の外祖父である洞院(藤原)実雄に対して、その兄,実氏は対抗意識を持っていたことを表している(森茂暁『後醍醐天皇』)。

・文永5年(1268) 11.19 御子左流,藤原為家は、妻の1人,阿仏尼に対して、所領を譲るとの譲状を送った。(『冷泉家古文書』)

※この譲状には、「古典かなづかい」との文字の相違が散見される。「まゐる(参る)」は「まいらせ」となっているほか、「さてをきて」「はしめおき候ぬる」「申おき候」「をのつから」などと、「オ」と表記するところが「ヲ」になっている。また、「をとこ(男)」「をよぶ(及ぶ)」「をのつから(自ずから)」というように、「オ」が「ヲ」になっている部分もある。「古典かなづかい」と異なる平仮名の表記は、繰り返し書かれており、そのような表記は定着していたと考えられる(今野真二『かなづかいの歴史』)。

・1269年 3. 大元ウルスにて、モンゴル語を表記するための、パクパ文字が広布された。

※ティベット文字を参考にして作成された文字である。ま、ウイグル文字を参考にしてモンゴル文字も作られた(鈴木薫『文字と組織の世界史』)。

・文永6年(1269) 3.7 Mongγolの使者は対馬に到着し、返事を求めてた後、島民の塔二郎と弥次郎を拉致して帰国した。(『帝王編年記』)

・文永6年(1269) 4.27 鎌倉幕府問注所を廃止し、引付方を置いた。頭人は名越流,北条(平)時章、北条(平)実時、塩田流,北条(平)義政、北条(平)時広、安達(藤原)泰盛となった。(『関東評定伝』)

引付衆には、北条一門から時村、公時、業時、宣時、顕時の5人、そして宇都宮(藤原)景綱、伊賀(藤原)光政、安達(藤原)顕盛、後藤基頼が選ばれた。評定衆引付衆を合わせた30人の内、北条一門が10人、安達一門が10人、二階堂一門が4人となり、北条門閥による支配の傾向が強まった(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・文永6年(1269) 9.17 大元のQaγan,Qubilaiは高麗人の金有成を、使者として日本に派遣した。その際塔二郎と弥次郎の2人を送還した。(『元史』日本)

・文永6年(1269) 6.24 大宰府は大元と高麗からの国書を朝廷に伝達した。(『本朝文集』) 大元の国書の文面には、Qaγanは寛大であるから、来年春までに日本から使者を派遣してくれれば、高麗と同等の待遇を保証するとあった。そして、さもなくば、軍を派遣して首都を制圧すると述べられていた。(『異国出契』)

※前年の国書と異なって脅迫的な文章であることから、『異国出契』所収の国書写に見られる、従わなければ征服するというのが、大元の本心であったと考えられる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・1269年(咸淳5) 宋の志磐による『仏祖統記』が成立した。

※この書物にある地図の「東震旦地理図」「漢西域諸国図」「西土五印之図」は「中華」とその周辺、中央アジア以西、インドの3つの文明圏の世界を示している(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・文永7年(1270) 1.27 六波羅探題北方,北条(平)時茂は死去した。(『帝王編年記』)

※こうして六波羅探題は、しばらく北条(平)時輔のみとなる(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・文永7年(1270) 1.? 朝廷はMongγolへの返書を作成し(『本朝文集』)、鎌倉幕府に送付した。(『五代帝王物語』)

※Mongγolに返書を送った形跡はないことから、鎌倉幕府の反対によって取り止めになったと推測される(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・1270年 12. MongγolのQaγan,Qubilaiは、高麗王,王禃に対して、趙良弼を国使として必ず日本に至らせ、日本と国交を結ぶよう命じた。(『元史』日本)

・1270年 チャガタイ家当主,バラクは、フレグ ウルスを攻めた。(『集史』)

※バラクはフレグ ウルスを打倒ないしは吸収し、版図を拡大することを狙ったと考えられる。バラクの軍は、イランの富を求めた人々を吸収して、大軍勢となってアム川を渡った(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1270年 フレグ ウルスのカン,アバガは、バラク軍を迎撃することにした。アバガ軍は天幕を破壊して、金品、物資を撒き散らしてバラク軍を油断させた。結束の強いアバガ軍は、烏合の衆であるバラク軍に勝利した。(『集史』)

・1271年 チャガタイ家当主,バラクは、オゴデイ家のカイドゥに助けを求めた。カイドゥは救援するように見せかけて、バラクの天幕を包囲した。バラクはその後死亡した。『ヴァッサーフ史』はカイドゥによる暗殺とする。

チャガタイ家は、バラクの遺児,ベク テムル・ドゥア・ブズマ・フラダイ兄弟、アルグの遺児,カバン・チュベイ兄弟、ムバーラク シャーによる3つの勢力に別れた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1271年 アルグの子息,カバン・チュベイ兄弟と、ムバーラク シャーは、オゴデイ家のカイドゥより庇護を受け、彼を「アカ」と呼んで奉じることを表明した。

※「アカ」とはモンゴル語で兄を意味する言葉であり、敬称としても用いられた。彼らはチャガタイ家を代表して、カイドゥを長に奉じると言明したのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。 

・1271年 オゴデイ家のカイドゥは、ネグベイをチャガタイ家の当主に据えた。(『集史』)

※その後カイドゥは、トカ テムルをチャガタイ家の当主としている。傍系のネグベイやトカ テムルを当主とすることで、カイドゥはチャガタイ家を掌握しようとしたのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1271年 カバン・チュベイ兄弟およびバラクの遺児らは、オゴデイ家のカイドゥから離反した。

※父親同士が対立していたチャガタイ家の面々は、乗っ取りを企てるカイドゥに、結託して反抗したのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1271年 オゴデイ家のカイドゥと、チャガタイ家の連合軍との間で、マー・ワラー・アンナフルにて戦争があり、オゴデイ軍が勝利した。

・文永8年(1271) 9.13 鎌倉幕府は、鎮西に地頭職を持つ者に下向を命じ、異国からの攻撃への備えと、「悪党」の排除を行わせることにした。(『小代文書』)

※西国に対する支配の強化を望んでいたことが伺える。「悪党」というのは幕府、朝廷および荘園領主と利害関係から対立する者のことであり、公権力側からの呼称である(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・1271年 9. 高麗王,王禃は、趙良弼の通訳として、高麗人徐称を日本に派遣させる。すると日本は弥四郎という人物をMongγolに派遣した。(『元史』日本)

・1271年 11. クビライは国号を「大元」と定めた。クビライのウルスの正式名称は、大元 大(イェケ) モンゴル ウルスとなった。

※国号の由来は、『易』の「大いなる哉、乾元」に由来する。「乾元」は宇宙ないしは天、モンゴル人にとっての崇拝の対象「テングリ」であった。それに尊称として「大」を付けることで、クビライは「大いなるテングリの国」と命名したのである。大元という「天」が覆う「地」を大都、そして「時」を至元と名付け、その3つを体現しているという主張が見てとれる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

※大元の成立後、大モンゴルのカアンは、非漢人漢人のどちらをも支配すべきという天命を受けた存在として捉えられた(岡田英弘「中央ユーラシア、世界を動かす」『岡田英弘著作集Ⅱ』)。

・文永8年(1271) 12.? 北条(平)義宗は六波羅探題北方に赴任した。(『五代帝王物語』『関東評定伝』)

・文永8年(1271) 12.12 北条(平)時宗と、安達(藤原)泰盛の妹,堀内殿との間に、幸寿丸(後の貞時)が産まれた。

※泰盛は妹,堀内殿を養女にしており、幸寿丸の外祖父として権力を増大させた(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・文永9年(1272) 2.11 名越流,北条(平)時章・教時兄弟は殺害された。(『関東評定伝』『北条九代記』) 

・文永9年(1272) 2.15 北条(平)時宗は、六波羅探題北方,赤橋流,北条(平)義宗に命じて、六波羅探題南方,異母兄,時輔を殺害させた。(『一代要略』)

※時章と時輔の殺害は、二月騒動と呼ばれる。時宗潜在的な敵対勢力を排除して、それまで父,時頼らによって演出されていた権威を、自らの手で獲得し、鎌倉幕府の全権を掌握したのだと考えられる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・文永9年(1272) 4.9 薩摩国御家人,成岡(平)忠俊は、子息,熊寿丸に対して譲状を送り、自身の身に何かあれば田畑・山野・狩猟場は熊寿丸に譲ることを伝えた。(「延時文書」)

※これは大元・高麗との戦争において、大宰府の警固を務める自身が戦死する可能性を考慮し、財産相続が円滑に進むよう行った手配である。対外戦争によって、御家人たちは戦死する恐れを思い出したのである(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・1272年 5. 高麗王,王禃は使者を日本に派遣し、大元と国交を結ぶことを勧めるが、効果はなかった。(『元史』日本)

・文永9年(1272) 10.20 大田文が失われた国が多かったため、鎌倉幕府は、安芸国駿河国伊豆国武蔵国若狭国美作国の守護に対して、大田文の作成を命じた。(『萩藩閥閲録』「東寺文書」「高野山文書」)

※大田文がなければ、御家人が所有する所領の規模を把握できず、適切に軍役を課すこともできない。対外戦争の可能性が浮上したため、油断していた鎌倉幕府は、速急の大田文の作成に迫られたのである(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・1272or1273年 フレグ ウルスのカン,アバガは、ブハラとホラズムに出兵した。

※オゴデイ家とチャガタイ家の争いが、自領のホラーサーンにまで及ぶことを恐れ、争いの元であるマー・ワラー・アンナフルの破壊を決定したのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1273年 ジョチ ウルスよりノヴゴロドに兵が送られた。

※ウラディーミル大公の権力が弱体化したことで、ルースィ内の反モンゴル蜂起を自力で鎮圧出来なくなっていたとも考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1273年 6. 趙良弼は使者として日本に赴くが、大宰府で引き返した。(『元史』日本)

・文永10年(1273) 7.12 鎌倉幕府は徳政令を発布した。(「関東評定事書」『新編追加』『鎌倉遺文』11362号)

御家人が売ってしまった所領を元に戻し、軍役を担わせることを狙ったものである。鎌倉幕府御家人の所領売買に制限をかけており、困窮する御家人を救うというよりは、対外戦争への準備を目的としていた(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・1273年10. 趙良弼は帰国後、日本の人々は「狼勇嗜殺」であって上下関係における礼儀を知らないと報告した。(『元史』趙良弼伝) 趙良弼は、日本は民を動員してまで征服する価値はないと言ったが、MongγolのQa'an,Qubilaiはその意見を却下した。(『元史』世祖本紀)

・1274年 3. Mongγol・高麗連合軍は、高麗軍民総管の洪茶丘に率いられ、200人乗りの船、戦闘用の快速艇と給水用の小舟をそれぞれ300艘、それに15000の兵を率いて日本に赴いた。(『元史』日本)