ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後奈良天皇の時代

・大永8年(1528) 阿佐井野宗瑞は、大明の医学書医書大全』を日本にて刊行した。

※これは民間に向けて刊行された、日本最初の医学書である。薬の分量を示すなどして、日本の漢方医学を発展させた(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1532年 Niccolò Machiavelliは『Il Principe(君主論)』を著した。

※Niccolòは、人間は危険があればすぐに逃げ出す恩知らずでありながら、儲けに関しては貪欲であるという性質を持つと説いた。そのため君主に必要なのは慈悲深さや信義、温情などを備えることではなく、それらの徳を備えているように見せかけることであると主張している(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・天文8年(1539) 4.19 湖心碩鼎を正使、策彦周良を副使とする、大内(多々良)義隆の手による遣明船3艘が奈留島を出帆した。(『策彦入明記』)

※1号船には博多商人の神屋主計が船頭として乗り、3号船には堺の商人も乗っていた。つまり、大内家の遣明船の利益は、大内家、および同家と結託した博多商人によって、独占されていたわけではない。(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』)。

・天文8年(1539) 8.16 大内家の遣明船に、北京入貢許可の文書が届いた。この時点で、米は古く、酒は濁り、酢や醤油は腐っていた。また、疫病による死者も出ていた。(『策彦入明記』)

・1540年 Roma教皇の認可により、Iesu会が創立された。

・1540年(和暦天文9) 3.2 大内家の遣明使一行は、北京に入城した。(『策彦入明記』)

※船には、五山関係の僧侶や、大内家家臣、博多商人などもいて、それを迎える大明側には負担になった。そのため北京への進貢は50人に限定された(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』)。

・1542年(和暦天文11) 閏5.26 琉球の外交僧全叢は、相良(藤原)義滋宛に書状を送り、相良家からの贈り物に礼を述べ、相良家の使者の「船頭」に150斤の砂糖を送ることを伝えた。(『相良家文書』350)

※書状に「国料之商船」とあることから、相良家の船は大明の船を借りたものではなく、自前であり、市木丸だった可能性も指摘される。「船頭」は、外交使節として琉球との贈答品の交換なども担っていたようである(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』)。

・天文15年(1546) 2.18 市木丸の船頭である兵部左衛門は筑前国博多に向けて出航した。(『八代日記』)

※この活動は、肥後相良家の使者としての活動だと考えられる(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』)。

・天文15年(1546) 7.12 相良(相良)義滋は晴広宛に書状を送り、肥後国宮原の山から銀鉱石の鉱脈が

見つかり、それが但馬国生野の銀鉱石以上に良質であるらしいとの、大工洞雲の見立てを報告した。(『相良家文書』417)

・天文16年(1547) 大内(多々良)義隆は遣明船を出した。その際、大友家臣の上野鑑稔はその船に乗っていた。(『上野家譜』)

※こうした大内家外部の武士が紛れ込んだことによって、大明との交渉を有利に進める方法が、周辺の大名に伝わったのである(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』)。

・1549年 Iesu会宣教師,Francisco de Xavierが薩摩国鹿児島に上陸した。

・天文23年(1554) 2.23 相良(藤原)晴広は、新しく造られた市木丸の船おろし(進水式)のために、徳渕に赴いた。(『八代日記』)

※先代義滋が市木丸を造ったのは天文7年であり、当時の大名船の寿命は15年程だったことが読み取れる(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』所収)。

・天文23年(1554) 3.2 相良(藤原)晴広は市木丸を大明に派遣した。(『八代日記』)

※完成から大明への派遣までの期間が短いことから、新しい市木丸は当初から大明への派遣を想定していたものと考えられる。銀鉱脈を発見したことで、食料などの、使者の物資に必要な費用の捻出が可能となり、遣明船の派遣を決めたとも考えられる(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』所収)。

・弘治2年(1556) 11. 倭寇禁圧宣諭のために、大友家に滞在していた大明人,蔣洲が、周防国山口にも禁令を伝えると、大内(多々良)義長は「日本国王之印」と捺した上表文を携えて入貢し、捕らえた倭寇(大明人)を大明に送還した。

・1557年 8. 蔣洲の帰国に際して、その護送として、大友(源)義鎮は貢物を献上し、新たな勘合を与えてくれるよう求めた。(『明世宗実録』)

※大内家出身者の義長が大内家当主となったことで、大友家には、正式な形で遣明船を派遣する好機が訪れた(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名と海外貿易』)。

・1557年 大明は王直に対して、大明は貿易規制の緩和をすることと、直の罪を許すことを伝えた。(『明世宗実録』)

※これは直を首領とするような、倭寇に対する懐柔政策であった(鹿毛敏夫「戦国大名の海洋活動と東南アジア交易」『戦国大名の海外貿易』)。

・1557年 10.初 王直は大明に帰国した。それに随伴して大友(源)義鎮の派遣した巨船が寧波の岑港に着岸した。(『明世宗実録』)

※大明は大友家の船を倭寇船と見なし、後に軍事攻撃を行って破壊した(鹿毛敏夫「戦国大名の海洋活動と東南アジア交易」『戦国大名の海外貿易』)。