・1352年(和暦観応3) 8.17 弥仁王は践祚した(後光厳天皇)。(『後光厳院践祚記』)
※後光厳天皇の践祚に際して、北朝における先帝,崇光院は「旧主」「新院」と呼ばれた。北朝側としては、崇光院は後村上天皇によって退位させられ尊号を贈られたという認識を覆そうとはしなかった。結果として、崇光院は北朝側からも「廃位」させられたような形となった(遠藤珠紀 水野智之「八代の「北朝天皇」、知られざる事績」『北朝天皇研究の最前線』)。
・1354年(和暦文和3) 8.8 光明院は南朝から解放され、帰京した。(『園太暦』)
※光厳院、崇光院、直仁親王よりも先に解放されたのは、その繊細な人柄から同情されたことが理由とも考えられる(飯倉晴武『地獄を二度も見た天皇 光厳院』)。
※光明院は政治的な活動をしていなかったため、解放したとしても南朝が不利にはならないと判断されたことが理由とも考えられる(石原比伊呂「光明天皇に関する基礎的考察」『聖心女子大学論叢』134)。
・1354年 ウラディーミル大公セミョンはペストにより死去。その後を弟のイヴァンが継いだ(イヴァン2世)。
・文和4年(1355) 5.5 山城国京都にて、端午の節句の風習として、子供たちが菖蒲の葉で作った兜を被り、石合戦を行った。子供の親など大人たちも刀を持ち出して加勢するなどして、死傷者が出た。(『園太暦』)
※菖蒲は爽やかな香りを出し、剣に似た形から、邪気を払うとして重宝された。菖蒲湯なども、このころから風習としてある(呉座勇一『日本中世への招待』)。
・1357年(和暦延文2) 2.18 光厳院、崇光院、直仁親王は南朝から解放されて帰京した。(『園太暦』『椿葉記』)
・延文4年(1359) 8.24 足利(源)義詮は大友(源)氏時宛に御判御教書を送り、氏時を肥後国守護職に任じるとした。(「大友書簡第二号」)
・1359年 Ivan Ⅱの世子,Dmitryは、Moskva公となった。Jöči-ulusのQan,Nawrūzは、Vladimir大公位をSuzdal′公に与えた。
※Vladimir大公位を継承できなかったことで、Dmitryはその位の持つ権限と所領を相続できなかった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1360年 Jöči-ulusのQan,Nawrūzは、Qan位を狙うkhiḍrによって殺害された。(『Никоновская летопись(Nnikon年代記)』)
・康安1年(1361) 9.3 〔参考〕『太平記』によれば、細川(源)清氏は足利(源)義詮を呪詛する願文を書いたという。
※『難太平記』にも同じような記述があるが、願文が佐々木京極(源)高氏の偽造であることが褒めのかされている。清氏が願文を書いたというのは疑わしいが、そのような噂は流れていたとは確かと考えられる(亀田俊和『太平記』解説)。
※肥前国守護職は、鎮西管領一色家のものになっており、大友惣領家は豊後国1国の守護であった。そこで、肥前国守護職の代わりとして、肥後国守護職に補任されたのである(村井章介「具書案と文書偽作」『豊後大友氏』所収)。
・1361年 ジョチ ウルスのカン,ヒズルは子息のテムルによって殺害された。
・1362年 ジョチ ウルスのカン,ムリードはモスクワ公ドミトリーにウラディーミル大公位を与えた。
・1363年 ジョチ ウルスのカン,ムリードは、ウラディーミル大公位をスズダリ公に与え直した。
・1367年 ウラディーミル大公ドミトリーは、スズダリ公の娘と結婚した。
・1368年 朱元璋は即位して皇帝となり(洪武帝)、国号を大明とした。
※モンゴル人は明をイルゲン ウルス(領民のウルス)と呼び、正統な王朝と認めることはかった(岡田英弘『世界史の誕生』)。
・1369年 8.? 大明にて、テムジンの時代からドゴン テムルが死去するまでの歴史書である『元史』が完成した。(『明史』明太宗実録)
※この史書は、「モンゴルは滅んだ」と喧伝したい大明の立場から、大元ウルスの実録や『経世大典』を粗雑に写すなどして、短時間で編纂された(杉山正明『モンゴル帝国の興亡』)。
※『元史』の原資料は大都に残された中国統治関連の公文書であった。そのため叙述されるのは専ら大元ウルスの歴史が中心であり、クビライ即位以前についての記述は乏しい(岡田英弘『世界史の誕生』)。
・1370年 モスクワはチェルニゴフなどの、リトアニア勢力圏に手を伸ばした。
※モスクワは、リトアニアとトヴェリとの関係が悪化した。(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1370年 トヴェリ公ミハイルはリトアニアに逃げ込んだ。ママイはミハイルをウラディーミル大公と認める勅許を出したが、モスクワ公は容認しなかった。
・1371年 トヴェリ公ミハイルは、ママイより再びウラディーミル大公位を認める勅許を得た。それを認めないモスクワ大公ドミトリーはジョチ ウルスのカンの使節を招いて交渉を行った。ドミトリーは自らママイのもとに向かい、贈り物をしねウラディーミル大公位を認める勅許を得た。
・1372年春 トヴェリ公ミハイルは、アルギルダスを頼ってモスクワに進軍した。リトアニアとモスクワは和約を結び、ウラディーミル大公位はモスクワが有することと、リトアニアはトヴェリ公ミハイルのウラディーミル大公位請求を支持しないことが定められた。
※大公位の取り決めは、ルースィ諸公によって行われ、ママイなどは関わらなかった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1373年 ママイはリャザンを攻撃した。リャザンと同盟していたモスクワのドミトリーは、オカ川に布陣した。
・〔参考〕「年代記」によれば、モスクワはママイと不和になったという。
※タタール税の支払いや、その増額を、ドミトリーが拒否したからだと考えられている(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。
・1374年 ペレヤスラヴリにて、北東ルースィ諸公が会議を行い、軍事同盟が結ばれた。そこではモンゴルからの侵攻には同盟諸公が協力して対応することや、タタール税を支払わない選択肢も有り得ると書き込まれた。
・1374年 モスクワ市の千人長職は廃止された。
・1375年 カタルーニャにおいて、ユダヤ人のアブラハム クレスケスとその子息ジェフダ・クレスケスの手によって「マパ・ムンディ(カタルーニャ地図)」が制作された。
※マパはマッパの異形であり、布を意味する(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。
※小アジアの位置にはオスマン朝のスルタンと思われる人物、アフリカにはマンサ・ムーサも描かれている。イスラーム君主を描く姿勢からは、対立や否定の感情は見られない(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。
・1375年 最後の千人長の子息と一派は、トヴェリに逃亡した。トヴェリ公ミハイルはそれを受け入れ、ママイのもとに送った。また、ミハイルはママイよりウラディーミル大公位承認の勅許を与えられた。
・1375年末 ママイはモスクワと同盟していたノヴォシリ公国に攻め込み、荒廃させた。
・1377年 モスクワとその他の同盟軍は、ママイの属国ヴォルガ ブルガールに攻め入った。
・1377年夏 ママイの派遣した軍は、ニジウ ノヴゴロドの南のピヤナ川にて、モスクワとニジニ ノヴゴロドの軍を破った。
・1378年 ママイはリャザン地方に軍を派遣するが、モスクワ公ドミトリーが率いるモスクワ・リャザン連合軍に敗れた。
・延文4年(1389) 10.23 足利(源)義詮は大友(源)氏時宛に御判御教書を送り、大友家の庶子家は大友苗字を名乗ることを禁じるとした。(「大友家文書録」1)
※庶子家が自立志向を強めていたため、庶子家に大友苗字を名乗ることを禁じ、惣領家を優遇した形になる。九州においては南朝勢力が盛んであり、義詮は惣領家の氏時を頼りにしたことが理由であった。こうした背景から、氏時は新たな守護職を獲得出来たのである(村井章介「具書案と文書偽作」『豊後大友氏』所収)。
・貞治6年(1367) 5.23 三条(藤原)公忠はこの日、「当時本朝の為体、鎮西九国ことごとく管領にあらず」と日記に書いた。(『後愚昧記』)
※九州が半独立常態であったことを伝えており、本来九州が統一支配に適していないことを示す言葉とも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。
・1367年以降 明朝が成立し、方国珍と張士誠が滅ぼされて以降、その支配を嫌った有力者たちは日本に亡命し、日本の島民らを集めて山東の海岸地帯にしばしば侵入した。(『明史』日本)
1369年3月 明洪武帝朱元璋は楊載を使者として日本に派遣した。彼が持参した勅書は、朝貢をしたいなら挨拶に来るよう述べ、倭寇が明朝に侵入して荒らしていることを批判し、それを止めないならば日本を征伐するといった内容であった。しかし懐良親王は倭寇の取り締まりをすることはなかった。(『明史』)
1370年3月 倭寇が山東や温州・台州・明州一帯を掠奪し、福建沿岸に侵入したことについて、明洪武帝朱元璋は萊州府同知の趙秩を派遣し日本の責任を問い詰めた。また、日本が明の臣下にならないことを責めるものであった。懐良親王は当初、趙秩をモンゴル人の子孫であると考え、侵略の手先だと疑っていたが、その後誤解が解けると丁重にもてなした。その後、懐良親王は明朝の臣下を名乗る。(『明史』)
1371年 日本人が温州にて掠奪をした。(『明史』)