ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後小松天皇・長慶天皇~後亀山天皇の時代

・永徳2年(1382) 4.11 後円融天皇は譲位し、幹仁親王践祚した(後小松天皇)。(『後円融院御記』)

・1382年 8.23 トクタミシュ率いるジョチ ウルス軍はモスクワを包囲した。

※遠征の理由は、モスクワ公ドミトリーが臣下の礼を取らなかったからだと思われる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1382年 8.26 ジョチ ウルス軍はモスクワ市内に雪崩込み、大公国の諸地域を荒廃させた。

・1382年 モスクワ公ドミトリーは、トクタミシュよりウラディーミル大公位承認の勅許を得た。

・1386年 日本より使者が来るが、明はそれを追い返した。(『明史』日本)

・1389年 ウラディーミル大公ドミトリーは遺言状にて、大公位を長男ヴァシーリーに贈るとした。

・1391年 テムル(ティムール)がジョチ ウルスに侵攻した。

・1391年 テムル(ティムール)がジョチ ウルスに侵攻してトクタミシュを破り、傀儡のカンを立てた。

・1392年 モスクワ公ヴァシーリーⅠは、ニジニ ノヴゴロド大公国を併合した。

※おそらくトクタミシュの許可を得たものと考えれる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1402年 朱棣は即位し明の皇帝となった(永楽帝)。そして日本に使者を派遣し、そのことを伝えた。(『明史』日本)

・1402年 朝鮮において、『混一疆理歴代国都之図』が成立した。

※この地図は、金士衛という官僚が、大明から持ち帰った、『声教広被図』と『混一疆理図』を参考にして仕立て直したものである。『混一疆理図』は大元ウルスにて作られ、民間にも流布していたものと思われる(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

※この地図には、大元ウルス以前の歴代の「中華」の都の全てが記されており、歴史地図の様態を成している(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

1403年 明より日本への使者が出発しようとした矢先、日本より使者が到着した。明においては、道中で品物を売ることは禁じられていたが、遠方の日本は出費も多いだろうとして、明永楽帝朱棣はそれを許可した。(『明史』)

永楽帝朱楨の時代、日本からの貢ぎ物である折りたたみ式の扇子がもたらされた。朝廷は群臣たちに贈り、また模造品も作らせた。折りたたむと小さくなり、軽く、風も起こしやすいことから、日本風の扇子は世間においても流行し、古扇(団扇)は江南の婦人以外は用いなくなったのだという。(『両山墨談』)

中歴12明からは蒔絵を学ぶために扇職人が日本に派遣された。

1403年10月 足利義満からの上表文と貢ぎ物を伴って、日本より使者が入明した。明永楽帝朱棣はそれをもてなし、義満のための衣冠と亀鈕の金印、錦の織物と沙羅を贈った。(『明史』)

?年 明永楽帝朱棣の時代、日本に対して朝貢の回数は10年に1回、使節団は200人以内、船は2艘、武器を携帯してはならないことを通告した。それを破れば処罰するとのことだったが、日本側はそれを守ることはなかったようである。

1404年11月 立太子の儀の慶賀のために、足利義満の使者が入明した。明永楽帝朱棣は足利義満に対し、対馬壱岐を拠点として明沿岸で掠奪を行う倭寇の取り締まりをするよう伝えた。(『明史』)

1405年11月 足利義満からの使者は、貢ぎ物と共に捕らえた倭寇頭目20人を明朝に渡した。明永楽帝朱棣はそれに満足し、義満に対して九章の礼服と錦の織物、貨幣を与え、位階を昇らせた。また、捕らえた倭寇頭目は日本の判断で対処することが許可され、彼らは寧波にて甑で蒸し殺さた。(『明史』)

・1406年 1. 倭寇の処刑という室町幕府の対処を評価し、明は日本に遣わした使者を通して室町幕府に贈り物を与えた。明永楽帝朱棣は日本のある山を「寿安鎮国之山」と命名し明永楽帝朱棣のつくった石碑を立てさせた。(『明史』)

・1408年 12.? 足利義持は使者を明に派遣し、父義満の訃報を伝えた。明も使者を派遣し、義満に「恭献」の諡を与え、義持を日本国王に封じた。(『明史』)

・1410年 4.? 義持は明に使者を派遣し、捕らえた倭寇を引き渡した。(『明史』)

・1410年 ニジニ ノヴゴロドの旧支配者たちは、エディゲが擁立した傀儡のカンの軍を率いて、ニジニ ノヴゴロドとウラディーミルに侵攻した。

・1411年 2.? 明は使者として王進を派遣した。しかし、室町幕府は王進を日本に留まらせようと考えていた。王進は密かに船で帰還した。それ以来、しばらく日本からの使者は来なくなる。(『明史』)

応永19年(1412) 6.9 豊後国守護大友親世は、「春日丸」という船に1500石の積荷を乗せ、幕府の公用物資として九州から播磨国兵庫まで運んだ。(「大友文書」『大分県史料』26)

※積荷からして、これは遣明船に匹敵する規模であり、外洋の航海も可能な大型船だったと考えられる。『戌子入明記』によれば、幕府は遣明船の護衛を西国の守護たちに命じていた。西国の守護たちは、その職責を果たすために、領国に近い海域まで含めた支配体制の構築が求められた(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」)。

・1412年 ニジニ ノヴゴロドの諸公は、トクタミシュの子息ジェラルアッディンから、ニジニ ノヴゴロドの支配を承認されていたようである(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。