ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

持統天皇の時代

天武天皇崩御後、皇太后,鸕野讃良皇女は「称制」を行った。(『日本書紀』)

※「称制」をしていた際の鸕野讃良皇女には、前皇后としての権限に、大王不在という状況下において権限が更に付与されていたと考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

※鸕野讃良皇女の子息,草壁皇子は、天皇に即位するために必要と見なされた30歳に達していなかった。女性天皇の実子は即位できなかったという見解からは、草壁皇子が適齢になるまで、即位をしないままに政務を担ったという説もある。こうした称制が可能だったのは、天武天皇から生前に政務の代執行を委ねられていたことが理由とも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・赤鳥1年(686) 10.2 大津皇子は謀反の疑いがかかり、捕らえられた。

〔参考〕『日本書紀』によれば、新羅の僧侶,行心に謀反を勧められて決断したという。

〔参考〕『懐風藻』「川島皇子伝」によれば、川嶋皇子が謀反を密告したという。

・朱鳥1年(686) 10.3 大津皇子は処刑された。(『日本書紀』)

 辞世歌

ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ(『万葉集』巻3 416番歌)

 

・688年 故天武天皇の発願(壬申の乱の神助に応えるため)により、伊勢神宮の行事である「式年遷宮」が立制された。(『二所太神宮例文』)

・689年 6.2 皇太后,鸕野讃良皇女は、施基皇子・直広肆佐味朝臣宿那麻呂・羽田朝臣斎・勤広肆伊豫部連馬飼・調忌寸老人・務大参大伴宿禰手拍・巨勢朝臣多益須らを撰善言司に任じた。

※「撰善言司」は史書編纂のための部署であり、説話を集成して皇族や貴族の子弟らの教育に役立てようとしたのだとも考えられている。後にこの部所は史料編集を終える以前に解散するが、集められた史料は後の史書編纂に活用されたとも考えられている(坂本太郎ほか 校注『日本書紀』下 補注)。

※馬飼や老人といった、律令選定にも携わる者が任命されていることから、教育に役立てるよりも、当初から史書のうち、「中国」の正史の「伝」に対応する部分の編纂のために設置されたとも考えられる(三浦佑之『神話と歴史叙述』)。

・689年 2.? 藤原鎌足の子息、不比等は判事に任じられた。(『日本書紀』)

※『懐風藻』によれば、鎌足はかつて、自身の娘を大友王に妾として送り込んだようである。『日本書紀』において天武天皇の時代に不比等の記録がみえないのは、天武天皇が、自分と大友王のどちらにも接近した鎌足の、その子供をよほど忌避したとも考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

 ・689年 新羅より天武天皇の弔問使が派遣されたが、鸕野讃良皇女は弔問使の位が低いことに対して不満を抱き、弔問品としてもたらされた仏像3体を返却した。(『日本書紀』)

※この行為は、百済を併合した新羅に対する譴責であったと考えられる。ただ、新羅使とともに帰国した留学僧明聡・観智に、恩を受けた師に贈るよう大量の真綿を下賜するなど、新羅との関係が緊張しすぎないような配慮が見られる(河上真由子『古代日中関係史』)。

・689年 4.13 草壁皇子薨去した。(『日本書紀』)

草壁皇子の殯宮につけて、柿本人麻呂は挽歌を詠んだ。(『万葉集』巻2 167番歌)

※その歌は、草壁皇子が即位することなく薨去したことを嘆くものである。また、天武天皇が天より下って統治し、崩御すると再び天に登ったと詠む解釈がある(神野志隆光古事記日本書紀』)。

※土着の儀礼世界における、和歌の呪術的側面を伺わせる(末木文美士『日本思想史』)。

 ・690年 1.1 鸕野讃良皇女が即位した(持統天皇)。(『日本書紀』)

天武天皇の存命の皇子が皇位を継承することを防ぎ、草壁皇子と阿倍皇女との間に産まれた珂瑠王の成人を待つためとも考えられる。法制化された最初の天皇であった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

推古天皇や皇極・斉明天皇と同様に先代の配偶者としての実績が評価されたから即位出来たとも考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)

大津皇子を退けるだけの実力を有していたために、群臣からの承認を得て天皇になれたとも考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。

 ※持統天皇即位式は、浄御原令の規定に従い、物部麻呂が大盾を樹て、中臣大嶋によって「天神寿詞(天皇の祖先神の言挙げ)」がなされ、中臣氏と忌部氏によって八咫鏡草薙剣が奏上される形で行われている。(『日本書紀』)

※天神からの委任と神器によって、持統天皇の統治の正統性は保証された。群臣は天皇を承認するのではなく、天皇を神として礼拝する立場にある。天武天皇の神性はその人格と結びついていたが、持統天皇は神からの委任という神話に神性を求めている(義江明子『日本古代女帝論』)。

・690年 6. 天武天皇の代より進められた律令制定の「律」と「令」の内「令」に当たる「飛鳥浄御原令」が頒布された。この令では冠位は諸王が十二階、諸臣が四十八階にまで拡大された。(『日本書紀』)

※これは近江令に大幅な改訂を加えたものであり、編纂には、唐より帰国した留学生の協力があったものと考えられている(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

※官位相当制の施行により、官人の地位は天皇の代替わりに関わらず保証されることになった。そのため、これまでの、群臣が大王(=天皇)を選定し、大王(=天皇)が群臣を任命するという関係が不要となったのである(遠藤みどり「七、八世紀皇位継承における譲位の意義」)。

※飛鳥浄御原における「律」は体系化されていなかったため、唐の律をそのまま用いていたと考えられる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

「五罪」「八虐」「六議」といった律の根本規定は浄御原律に制定されたと考えられる(吉田孝説)。

律が規定する刑罰は、軽いものから順に

笞(鞭で打つ)・杖(杖で打つ)・徒(強制的な労働)・流(島流し)・死(死刑)

の「五罪」であった。また、重大な犯罪として、

謀反(皇帝/天皇殺害および未遂・予備)・謀大逆(皇居・陵墓の破壊)

謀叛(国家への反乱・外敵を引き入れる・外国への亡命)

悪逆(尊属殺人・祖父母・父母・夫・夫の父母の殺害およびその計画・暴行)・不道(大量殺人・呪詛)・大不敬(皇帝/天皇・神社への不敬)・不孝(殺人を除く尊属への犯罪、祖父母・父母の告訴、父母の喪に服さない)・不義(主君の殺害、無礼)

の「八虐」が定められた。罪を減じられる資格としては、

議親(天皇・皇后の親族)・議故(天皇から特別の待遇で扱われている者)・議賢(賢く、徳のある行いをした者)・議能(優れた才能がある者)・議功(大きな功績を持つ者)・議貴(官位が三位以上の者)

の「六議」があった。

・690年 戸令に基づき、戸籍の『庚寅年籍』が作成された。(『日本書紀』)

※50戸を1里として、国・郡・里・戸という制度が確立したのはこのときであると考えられる。領域を編成して支配するという体制が完成した(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・690年 7.5 高市皇子太政大臣に任じられた。

太政大臣とは、唐令における名誉職的な最高官,「三公」を参考にしたものである。適任者がいなければ欠番となる「則闕の官」であり、その地位は皇后・皇太后太皇太后三后に準じるものとされた(所功天皇の歴史と法制を見直す』)。

※かつての大友王が任じられた太政大臣は、立太子が叶わなかったために天智天皇によって創出された地位であるという見解がある。その観点からは、高市皇子が任じられた太政大臣は、令制における最高官であるため性格が違うことが指摘される。そのため、高市皇子太政大臣になったのは、後継者として扱ったのではなく、臣下としての厚遇とも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・691年 8.13 持統天皇は、大三輪氏、雀部氏、石上氏、藤原氏、石川氏、巨勢氏、膳部、春日氏、上毛野氏、大伴氏、紀伊氏、平群氏、羽田氏、阿倍氏、佐伯氏、采女氏、穂積氏、阿曇氏に対して、「墓記」の進上を命じた。(『日本書紀』)

※修史事業に関連するものと考えられる(森博達『日本書紀の謎を解く』)。

・692年 このころ、柿本人麻呂の歌(『万葉集』巻1 49番歌)が詠まれたとされる(神野志隆光「〈日雙斯皇子命〉をめぐって」『論集上代文学』所収)。

※そこでは、草壁皇子を「日があいならぶような」存在として、草壁皇子を称揚する文言が見える。宮廷歌人であった人麻呂によって、草壁皇子の子息である文武天皇の権威を高めるために、草壁皇子の称揚が行われたのだと考えられる(神野志隆光「〈日雙斯皇子命〉をめぐって」『論集上代文学』所収)。

694年には飛鳥の藤原京に遷都している。(『日本書紀』)

※『日本書紀』に見られる「新益京」という呼称は当時のものと考えられ、左右京域を有する点で、「新たに益す」すなわち「本来のものに付加する」という意味を持っていたとも考えられる。また、宮城には国家儀礼を行う場として朝堂院が設けられた(瀧浪貞子女性天皇』)。

藤原京は『周礼』が語る理想の都城を再現した形態となった。唐との外交を行わずに、古典に基づいた建設を行ったため、宮は正方形の都城の中心にあるなど、唐の都とは異なる形態となった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※碁盤の目状に区切られた初の本格的な都城である。ただ、宮は中心にあり北側にも都市が広がっているために、「天子は北方に座して南方に面する」という「天子南面」を反映していなかった(佐藤信『古代史講義【宮都篇】』)。

※各々の地盤を持っていた豪族は、都城の中に住まわされることになった。こうして豪族は都市官僚の貴族として国家機構の中に組み込まれた(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

藤原京内には、忍壁皇子、長皇子、志貴皇子らが居住した形跡がない。飛鳥に対して愛着を持つ者も多く、かつ移住する理由もなかったため、集住は不徹底だったと考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

藤原京跡地から出土した木簡には、「中国」において楷書体が確立する以前の、隷書体から楷書体への過渡期のような漢字が書かれている。木簡に文字を書く際には、それに適した鹿毛の筆を用いていた(今野真二『かなづかいの歴史』)。

・朱鳥9年(694) 故天智天皇のキサキで、新田部親王の母である五百重姫は、異母兄,藤原不比等との間に麻呂を儲けた。(『尊卑分脈』)

※一度キサキになった者でも、天皇の許可があれば臣下の妻となれたことが伺える(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

・694年 山階寺は都に移され厩坂寺と改名した。

・696年7.10 高市皇子薨去した。(『日本書紀』)

柿本人麻呂は、高市皇子に対する挽歌を詠んだ。(『万葉集』199番歌)

※挽歌にある「我が大君の 万代と 思ほしめして 作らしし 香具山宮」という部分から、香具山の周辺に高市皇子の皇子宮(ミコノミヤ)があったと推測される(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

高市皇子薨去後、皇族や官人たちが集まって、持統天皇の後継者を決める議論を行った。群臣たちの各々が皇族を推薦して議論は紛糾したが、葛野王は「兄弟間の継承は争いの元であり、親子間による直系継承にすべき」と主張した。弓削皇子は異議を唱えようとしたが葛野王に一喝されて引き下がった。最終的に、葛野王の提案が受容されたという。(『懐風藻葛野王伝)

高市皇子太政大臣としての実績を積み、君臣層には次期天皇に推す声も多かったと思われる。それが理由で天皇の後継者の選定は高市皇子薨去後に始まったのであり、世を去った後であっても、珂瑠王を後継者にすることは困難であったことを窺わせる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

天智天皇天武天皇の皇子女は多数生存しており、天智天皇の皇女,新田部を母に、天武天皇を父に持つ舎人親王は成人していた。天皇を父に持たない軽皇子が後継者に指名されたのは異例の措置であった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

持統天皇の権威があっても、群臣の同意が必要だったことと、幼少の軽皇子を後継者に選んだのは、旧来の世代原理を否定して実現したことを意味している(義江明子「王権史の中の古代女帝」『日本古代女帝論』所収)。

葛野王の言説は、代々の嫡系継承を継続すべきことが主張されていることから、珂瑠王を皇太子にすることだけでなく、今後の継承方針も決定されたとも考えられる。また、以前より嫡系継承が行われていたという葛野王の主張は事実に反することながら、合議が成され、実行されたとして、王権が嫡系継承を志向していたという見解もある(桜田真理絵「未婚の女帝と皇位継承」)。

※珂瑠王は当時15歳であり、中継ぎとして傍系皇親の即位が考えられたが、葛野王は傍系を退けて、直系である珂瑠王を後継者に推したとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※『懐風藻葛野王伝は、葛野王を「淡海帝(天智天皇)の孫、浄御原帝(天武天皇)の嫡孫」と記す。天武天皇葛野王の母十市皇女の父であり、 葛野王は父系の「嫡孫」ではない。『懐風藻』の編纂時期は、父系と母系が同等の重みを持つ社会であったことを意味している(義江明子元明天皇と奈良初期の皇位継承」『日本古代女帝論』所収)。

※『懐風藻』は既に即位している持統天皇を「皇后」と記していることから、持統天皇の即位をあくまで天武天皇の皇后としてのものと見なしている(義江明子『日本古代女帝論』)。

・697年 2.16 珂瑠王は皇太子となった。(『続日本紀』)

※当時の珂瑠王は15歳であった。皇太子という地位は、年齢や執政経験とは無関係のものとなった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※『日本書紀』には立太子の日付が明確になっていないことから、皇太子にはなっていたとしても、整った儀式のうえで明確に「立太子」したのではないとも考えられる(義江明子元明天皇と奈良初期の皇位継承」『日本古代女帝論』所収)。

・697年 2.28 「東宮大伝」と「春宮大夫」「春宮亮」が任じられた。(『日本書紀』)

※「東宮(春宮)」という文言から、既に珂瑠王が皇太子が立てられたと考えられるが、推定にすぎない(義江明子元明天皇と奈良初期の皇位継承」『日本古代女帝論』所収)。