ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後土御門天皇の時代

・文正1年(1466) 5.5 興福寺の経覚に仕えていた、輿舁(腰を担ぐ仕事)の小次郎は石合戦で死亡した。経覚は他の使用人を呼び、どうしてすぐに敵に矢を1本でも射なかったのか、と叱責し、全員を解雇した。(『経覚私要鈔』)

※僧侶が報復を当然だと考える時代であったことが見て取れる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1466年 カザンのカン,マフムデクは死去した。すると、カシモフ カン国のカスィムが新たなカンの候補となった。

・1466年 モスクワ公イヴァンⅢは、カスィムをカザン カン国のカンに擁立するために軍事支援を行った。

・1467年 モスクワ公イヴァンⅢは、カスィムと競合するカン候補者を降伏させた。

※大オルダのカン,アフマトは、ルースィに攻撃する余裕はないとみて、イヴァンⅢの関心は大オルダと同盟を結ぶリトアニアに向けられた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1468年11.? 室町幕府から明への清啓が入明するが、その部下が市場にて傷害事件を起こした。清啓は日本の法律で裁かせることを求め、それが許可された。それ以降、日本からの使者は今まで以上に傲慢になったという。(『明史』)

※この遣明船は足利(源)義政の名義であったが、その費用を捻出して船を出したのは大内(多々良)政弘だったという(伊藤幸司「大内教弘・政弘と東アジア」『九州史学』161号所収)。

・応仁3年(1469) 4.4 左大臣,日野(藤原)勝光は、大和国興福寺の経覚のもとに書状を送り、経覚を興福寺別当に任じるという、朝廷の決定を伝えた。経覚は、かつて万里小路(藤原)時房は、大臣になってからも手紙の文末が「恐惶謹言」であったことを引き合いに出して、勝光を含め、最近の名家出身の大臣からの書状の結びが「恐々謹言」であることへの不満を記した(『大乗院寺社雑事記』) 勝光の手紙を「家僕」の分際で無礼だと日記に書き残している。(『経覚私要鈔』)

※本来、日野家など「名家」の身分の公家は大納言以上の昇進は出来なかった。しかし、太上天皇や摂関の側近として、大臣になる者も現れた。九条摂関家の出身である経覚からすれば、名家の勝光は成り上がりであり、大臣になったからといって、手紙に用いる敬語の格を落としたことに無礼だと腹を立てたのである。返信を送らないことで不満を表明する文化もあったが、時の征夷大将軍の兄である勝光にそのようなことは出来ない。経覚は日記で憂さ晴らしをしたのだと考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1469年 アラゴン シチリア君主フェルナンドⅡと、ナバラ カスティーリャのイザベルが結婚した。

・1469年 東ローマのインペラトル家のゾエ(ソフィヤ) パレオログを、イヴァンⅢの後妻に勧める、ローマ教皇庁からの使節が到着した。

・1470年 11. ノヴゴロド大主教ヨナは死去した。

※モスクワとの対立の回避に尽力していたヨナが亡くなったことで、ノヴゴロドにおいては親リトアニア派が台頭した。また、リトアニア大公カジミエラスをノヴゴロドの公に擁立しようとする者たちもあらわれた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1470年 11. リトアニア大公カジミエラスは、ノヴゴロドとの同盟の準備を進めた。また、大オルダのカン,アフマトに使節を送り、モスクワを攻めるよう要請した。

・1470年 モスクワ大公イヴァンⅢはノヴゴロドに使者を送り、旧習からしノヴゴロドがモスクワ大公の支配下にあるべきだと主張し、ノヴゴロドリトアニアに近づかないよう交渉を行った。

・1471年 3. 府主教の呼びかけに応じず、モスクワ大公イヴァンⅢに従わなかったノヴゴロドを、イヴァンⅢは鎮定することを決めた。

・1471年 略奪集団のウシクイニクはヴォルガ川を下り、大オルダの首都サライにて略奪を行った。

※大オルダのカン,アフマトの、モスクワ攻撃が遅れた理由だと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1471年 6.24 モスクワ軍は、反抗の主犯格のノヴゴロド貴族を斬首し、また多くの貴族を投獄した。

・1471年 8. ノヴゴロドは賠償金16000ルーブリを払うことになり、ノヴゴロド人は、ノヴゴロドがモスクワ大公の相続地であることを認めた。また、ノヴゴロドリトアニアとの関係の放棄を求められた。

・1471年 申叔舟は『海東諸国紀』を著した。

※『海東諸国紀』は、朝鮮の外交官が参照したものである。神武天皇を「人皇」の始祖と記し、幼名の「狭野」についても言及されており、朝鮮の外交官は日本建国に関する知識を持ったうえで対日交渉を行っていたと考えられる(高森明勅『歴史から見た日本文明』)。

・1472年夏 大オルダのカン,アフマトは、リトアニア大公カジミエラスとの援軍についての約束を結び、モスクワに遠征を行った。

※カジミエラスはマジャルロサーク君主位を巡る争いに巻き込まれ、アフマトに援軍を送れなかった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1472年 7. 大オルダ軍は、 アレクシンを攻めるが、モスクワから敵の援軍が来ると、一部はオカ川を渡ったものの、本隊を撤退させた。

※これをルースィにおけるモンゴル勢力の弱体化を意味するのか、敵軍に守られた川を渡るのが困難であったかは、判断は困難である(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1474年 モスクワ大公国はヤロスラヴリ公国を併合した。その後代官が派遣され、行政機構もモスクワに吸収されたを

・1474年 モスクワより、クリミア カン国に使節が到着し、同盟を勧められた。

※モスクワとしては、リトアニアの南を支配するクリミアとの同盟を欲していた。クリミアは大オルダと対立していたが、リトアニアとの対立には躊躇した(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1475年 クリミアのカン, メングリ ギレイは失脚して逃亡。アフマトが傀儡のカンを立てた。

※これにより、モスクワとクリミアの交渉は途絶した(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1475年 オスマンはクリミア カン国を攻めた。

・文明8年(1476) 12.2 幕府奉行人は大友(源)政親に対して、大内家から幕府に返還される、幕府船の積荷を、瀬戸内海にて護送するよう命じた。(「大友家文書録」『大分県史料』31)

※政弘は幕府との和平交渉に際して、捕獲していた幕府船の、積荷を返還することを約束していた。大明が受け入れる船団を制限していたこともあって、大友家は直接的な遣明船経営への関与を行えなくなっていた。大友家は私的、つまりは密貿易も行うようになっていく(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名と海外貿易』)。

・1477年 10. モスクワ大公イヴァンⅢは、反モスクワの動きが強まったノヴゴロドに遠征を行った。

・1478年 1. モスクワはノヴゴロドの民会を解体し、ノヴゴロドを併合した。

ノヴゴロドの土地はモスクワの軍事士族に保有地として分配されていった。士族軍は、モスクワの領土を拡大する原動力となった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1479年 メングリ ギレイは、再びクリミアのカンに返り咲いた。

・1479年 1. リヴォニア騎士団は征服と改宗を目的として、ノヴゴロドの西のプスコフに侵攻した。

・1479年 2. モスクワ大公イヴァンⅢは、相続問題により、弟のアンドレイ、ボリスと不仲になった。アンドレイとボリスは、リトアニアに近いルジェフにて軍を集め、リトアニア大公カジミエラスに援助を求めた。

アンドレイとボリスがカジミエラスに求めたのは、介入ではなく配慮であると考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1480年 3or4. 大オルダのカン,アフマトが、モスクワに進軍するとの噂があった。

〔参考〕教会や正教を破壊し、モスクワ大公イヴァンⅢを捕虜にすることが目的だったと述べる年代記もある。また、別の年代記では、イヴァンⅢから弟が離反したのを好機として侵攻を決定したとする。

・1480年 4. モスクワ大公イヴァンⅢは、復権したメングリ ギレイと同盟を結んだ。

・1480年 7.23 大オルダ軍がドン川上流域に向かっているとの情報が、モスクワにもたらされた。

・1480年 8. 大オルダ軍はオカ川上流域に移った。

・1480年 9. モスクワ大公イヴァンⅢは、母マルファや府主教ゲロンチーを通して説得を行い、弟たちと和解。2人は戦線に加わった。

・1480年 10.8 大オルダ軍はウグラを渡河しようとするが、モスクワ軍の騎兵と歩兵、そして火砲によって撃退した。

・1480年 モスクワは大オルダに対して停戦を求め、使者を派遣した。大オルダのカン,アフマトは、イヴァンⅢに対してサライまで赴いて臣下の礼を取ることと、タタール税の納入を求めた。モスクワ側がタタール税の納入を拒否したため、交渉は決裂した。

・1480年 11.8頃 大オルダ軍はモスクワ方面から撤退をはじめた。その後大オルダ軍はリトアニアに進軍し、12の都市と周辺域を攻撃し荒廃させた。

〔参考〕ある年代記によれば、大オルダのカン,アフマトは、同盟国リトアニアの裏切りに怒ったから進軍したのだという。

・1482年 正教徒ベリスキー公は、リトアニアよ。モスクワへの亡命を図った。

※これはリトアニアにおいて正教徒の迫害が強まり、モスクワの強大化を見てのことだと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1485年 トヴェリ公ミハイルは、リトアニア大公カジミエラスの孫との結婚を決めた。しかしこれはモスクワとの協定違反であった。、

・1485年 8. モスクワはトヴェリに軍を送った。

・1485年 9. トヴェリ公ミハイルはリトアニアに亡命した。トヴェリは開城し、イヴァンⅢの子息イヴァン が代官となった。

※こうしてトヴェリは独立を失った(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1486年夏 カザンにて相続争いが起こった。カザンの相続候補者の1人、ムハマド エミンはモスクワを頼った。

・1486年 アンドレイとボリスは兄モスクワ大公イヴァンⅢを「最年長の兄」であり「主人」であると認めた。

※分領制度は残ったものの、モスクワ大公の弟は、親族から臣下に近い存在に変質したといえる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1486年 ミハイル公ヴェレヤ ベロオゼロは、所領をモスクワ大公イヴァンⅢに寄贈した。

※イヴァンⅢとしては、国内の自立勢力はないほうが良かったのである(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1487年 ムハマド エミンの要請に応えて、ラスィーヤはカザンに軍を派遣、占領した。

・1489年 ラスィーヤは半自立都市ヴャドカを併合した。

※ヴャドカの有力者にはボロフスクやアレクシンなどの南方の土地が与えられ、自発的か強制かは不明であるが、ヴャドカ商人はドミトロフに移住した。こうして共同体が解体され、新国家として一体化が進んだ(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1489年 オカ川上流域の諸公は、モスクワ大公への奉仕を願った。彼らはリトアニアを攻撃した。

・明応2年(1493) 2.16 大友義右は田北六郎宛に書状を送り、船の建造に必要な材木を領国内の家臣から徴収することを伝えた。(「田北十六文書」『大分県史料』)

※幕府から命じられた遣明船の警固を起点として、海洋政策を進めながら家臣団を組織化したのである(鹿毛敏夫「遣明船と相良・大内・大友氏」『戦国大名の海外貿易』所収)。

・1493年 5.4 Roma教皇,Alexander Ⅵは教皇勅書を発して、Españaの領土を定めた。

※大西洋の中央あたりの子午線を基準として、その西側はEspañaの領土とされた。この境界線は教皇子午線と呼ばれる。EspañaとPortugalが外国の支配権を争っていた中、Alexander Ⅵは、出身国であるEspañaの権益を守ろうとしたとも考えられる(平川新『大航海時代と戦国日本』)。

・1494年 2. Lietuvos大公,Aleksandras からの求めで、MoscovaiとLietuvosは和平を結んだ。

※交渉において、Muscovia大公Ivan Ⅲは、「全Rus'の君主」と呼ばれた。これはLietuvos領内の、正教徒が住む「全Rus'の府主教区」の理念的な支配権を認めることである(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1494年 6.7 EspañaとPortugalはTordesilhas条約(葡:Tratado de Tordesilhas西:Tratado de Tordesillas)を締結した。

※この条約により、西経46°37分37分にあたるCabo Verde諸島の西の子午線を基準とし、その東側の領土はPortugal、西側はEspañaが領有すると決定された。この境界線は、España側が有利であった教皇子午線を、Portugalが交渉の結果変更させたものである。PortugalはAfricaとAsiaにおいてEspañaから干渉を受けることはなく、EspañaはBrasil以外のAmericaに進出が可能となった(平川新『大航海時代と戦国日本』)。

・1496年3月 足利(源)義高(後の義澄)が使者を派遣した。その使者の部下は、帰国前に済寧にて傷害事件を起こした。そこで明の弘治帝,朱祐樘 は、明の都に入れる日本からの使者を50人に限定することにして、残りの者は船着場に留め置かせて監禁するよう命じた。(『明史』日本)

・1497年 モスクワ全土に適用される裁判法典が交付された。

※モスクワでは一律に代官制度が適用され、重要な案件はモスクワ大公の裁きに持ち込まれた。また、中央の裁判においては書記官、地方では地元住民の代表が立ち会いが義務付けられた。また、裁判官の貴族への贈賄は禁止され、モスクワ大公に裁判の権限が集約された(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。 

・1500年 4. リトアニア大公アレクサンドラスは、モスクワ大公イヴァンⅢに対して、ドミトリー ミェシャカの孫や、ベリスキー公などの引渡しを求めた。イヴァンⅢはそれを拒否し、リトアニアに宣戦布告を行った。

1500年 7.14 モスクワ軍はヴェノロシャ川の東岸にてリトアニア軍を破った。