ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後柏原天皇の時代

・明応9年(1500) 11.16 勝仁親王践祚した。

・1501年 春 リトアニアの求めに応じて、リヴォニア騎士団はモスクワを攻めた。

・1502年 クリミアのカン,メングリ ギレイは、大オルダを滅ぼした。

・1502年 8. クリミアのカンの子息は、リトアニアに侵攻するも、モスクワ軍とは合流できなかった。

・1502年 9. このころ、モスクワ軍はスモレンスクを攻めていたが、奪取できなかった。

※このころ、オスマンに対抗するために、教皇アレクサンデルはキリスト教国の同盟を画策しており、マジャルロサーク君主ラースローらも加わり、モスクワとリトアニアの休戦を促した(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1503年 3.15 モスクワ側は、マジャルロサークからの、リトアニア占領地の返還の提案には応じず、ドニエプル川までの領域を獲得する形でリトアニアと6年の休戦協定を結んだ。

・文亀4年(1504) 3.末 和泉国日根野荘にて、粉にするために、川にさらしていたワラビの地下茎が盗まれることがあった。この日、百姓たちは川に見張りを置き、夜にワラビを盗んだ者を追わせた。犯人の2人は瀧宮神社の巫女の家に入っていった。百姓は犯人の2人と、その母である巫女を殺害した。それを聞いた元関白,九条(藤原)政基は、関与したかも不明な母親まで殺されたことを不快に感じながらも、物を盗んで殺されたことは自業自得と日記に記して南無阿弥陀仏と〆た。(『政基公旅引付』)

※元関白で領主であろうも、その地の掟に順応しなければ、生きることは出来ない時代であった(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1505年 1or2. ? バーブルはヒンドゥスターンを目指して出馬した。そして草木や住む動物、人々の風習の違いに衝撃を受けている。(『バーブル ナーマ』)

・永正13年(1516) 知仁親王により、謎々集『後奈良院御撰何曽』が編纂された。(『後奈良院御撰何曽』)

※収録されている謎々に、「母には二たび会ひたれども、父には一たびも会はず」というものがある。答えは「くちびる」である。当時のハ行の発音が、それぞれɸα φi φu φe φoであるならば、「母」の発音は「φaφa」となり上下の唇が2回会うことになる(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1516年 Erasmus は『Institutio pricipis Christiani(キリスト者の君主の教育)』を著した。

※当時Nederlandを支配していた、Españaのrex,Carlos Ⅰ(Bourgogne公,Charles Ⅱ)のために書かれた本であり、君主は私情を捨てて公共の福祉を心がけるべきことが説かれている。また、Aristotelēsが引き合いに出され、善良な君主は全国民の得を考えるものであり、栄誉を得るとした。対して愚劣な僭主は自身の利益のみを考えて富を得るという。そして優れた君主が優れた法を制定することで、国家と国民は豊かになれると主張した。「君主の鑑」の伝統を受け継ぐ著作である(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・1516年 Thomas Moreは『Utopia』を著した。

※「Utopia島」という架空の島に訪問したという体裁で、理想の社会像を述べる書物である。CatholicusであるThomasは、結婚を神聖なもとだと考え、Plátōnのように否定することはなかった。『Utopia』の家族は、住居の占有が禁じられ、食事は他の家族と食べなくてはならない。重視されたのは職業の継承であり、親の職を継ぎたくない子供は、別の家族の養子になることが求められる。また、家族の人数は規定され、それ以上に増えれば分割される(東浩紀『訂正可能性の哲学』)。