ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

四条天皇の時代( 貞永、天福、文暦、嘉禎、暦仁、延応 仁治)

・貞永1年(1232) 11.17 後堀河天皇は譲位し、秀仁親王践祚した。(『民経記』『百錬抄』)

・天福1年(1233) 5.? 佐原(平)盛連は、制止を聞かずに上洛しようとした途中、北条(平)泰時の支持で殺害された。(『明月記』)

※三浦(平)義村の娘(後の法号を矢部禅尼)の元夫が、現夫の殺害を支持したことになる。理由は不明である(細川重男『宝治合戦』)。

・天福1年(1233) 大江広元の子息である、毛利(大江)季光が評定衆となった。(『吾妻鏡』)

・天福1年(1233) ?.? 前大納言藤原教家と、尼正覚らは、山城国宇治に興聖宝林禅寺(興聖寺)を建て、道元を招いて開山とした。(『初祖道元禅師和尚行録』)

※興聖宝林禅寺で道元が語った法話は、後に纏められる『正法眼蔵』の最初「現成公按」と「摩訶般若波羅蜜」の2巻となった。「現成公按」は、仏祖が迷悟を脱して自在に遊んだことを持って悟りと考え、「仏道を習ふといふは自己を習ふなり、自己を習ふといふは自己を忘るるなり」と表現した。「摩訶般若波羅蜜」においては、『摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)』の「色即是空・空即是色」を解体し、「色是色なり、空是空なり」と再編集した(松岡正剛『千夜百冊』第988夜)。

・天福1年(1234) 7.27 御台所,竹御所は、藤原頼経の子を死産し、自身も死去した。(『吾妻鏡』)

・天福1年(1234) 8.1 六波羅北方探題,北条(平)重時は相模国鎌倉に帰還した。(『明月記』)

※この帰還は竹御所の知らせを聞いてのものである。竹御所の死により、源頼朝と政子の血統が絶えたことが、鎌倉幕府に衝撃を与えたことを物語る(細川重男『宝治合戦』)。

・天福2年(1234) 10.21 烟田(平)秀幹は子息,朝秀に烟田・安傍・富田・鳥栖の村を譲った。(「烟田文書」『鎌倉遺文』4693)

※『常陸国風土記』の夜刀神伝承の舞台設定は、烟田地方と隣接する行方郡であり、神の住む台地と人の住む土地が分けられていることを示すものである。しかし、秀幹の譲状からは、かつて神の住む場所とされた台地までも、支配領域に含んでいたことを理解できる。彼らのような武士には、開拓者としての側面があったことを物語る(関幸彦『武士の誕生』)。

・1234年 モンゴルと宋の連合軍は金を滅ぼした。

※金の攻略は、チンギス カン,テムジンが世を去った後も、モンゴルの政権と軍事力が健在であることを知らしめることとなった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・嘉禄1年(1235) 4. 九条(藤原)道家鎌倉幕府に対して、後鳥羽院・順徳院父子の帰京を持ちかけた。しかし幕府はそれに反対していた。(『明月記』)

※この一件で、幕府と道家の関係には微妙な空気が流れ、それを周囲も感じとっていた(細川重男『宝治合戦』)。

・1235年 オゴデイの政策により、カラ コルムの造営が開始された。

※カラ コル厶とは、「黒い砂礫」という意味である。それまでモンゴル・ウルスには首都がなかったが、オルホン河とトーラ河の上流にある、肥沃な土地に建設することにした。匈奴単于の庭、テュルク カガン国の本営、ウイグル カガン国の都城があった場所でもあり、相応しいものであった(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』『モンゴル帝国の興亡 上』)。

※カアンは常にカラ コルムにいるわけではなく、大帳殿で暮らしており、クリルタイや宴会などの際に訪れた。商業機関と捉えるのが正確である(宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来』)。

※カラ コルムにおいては、書記局が財務を管轄した。ウイグル人のチンカイを首班とし、キタイ人の耶律楚材、ホラズム出身のマフムード ヤラワチ、ジュシェン人の粘合重山などの多人種の者たちが、ビチクチ(書く人)として、文書や帳簿を管理する使用人として働いていた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※カラ コルムに連結するように、中央アジアとイランの属領には総督府が置かれた。ウイグル人やキタイ人が長官となり、モンゴルの中央からはイラン系イスラーム教徒の財務官僚が派遣された。モンゴル自身は、行政や軍事以外のことを卑しいと考え、直接関わらないことを誇りにしていた。こうしてモンゴルの中央と属領に、ささやか統治機構が誕生したのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1235年 モンゴル ウルスにてクリルタイが開かれた。そこでは戸口調査や所領の分配、ルースィやブルガールを、モンゴル全軍をもって攻撃することが決定された。

※「モンゴル」の土地の中央、河北と河南地方はオゴデイ家とトルイ家のウルス、山西方面はジョチ家とチャガタイ家のウルス、山東方面には五投下など、というように所領が分けられた(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

※かつてチンギス カン,テムジンは、西方ユーラシアの土地は、長男のジョチに与えることを構想していた。クリルタイで決定した西征は、ジョチの死により残された事業を、完遂する意味合いがあった。遠征軍の総司令官は、ジョチの次男で当主のバトゥが担った。

・1236年モンゴルは華北戸口を分配し、漢人武装勢力の領域を整備した。大勢力の漢人軍閥の下に中小勢力が配属されるなどした。

※こうして生まれた軍閥は、モンゴル勢力の土地と重なることがあった。軍閥とモンゴル勢力は、反目することもありながら、接近、一体化することもあった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1236年 バトゥ率いるジョチ ウルス軍は、キプチャク大草原に至った。

※キプチャク族には抵抗したり逃げる集団もいたが、多くはバトゥに従った。キプチャクの騎馬軍団を吸収し、ジョチ ウルス軍は大勢力となった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1236年 秋頃 グユクやモンケらテムジンの孫らが、ジョチ ウルス軍に合流した。

※モンゴル軍の数は、12万~14万人ほどと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・嘉禎3年(1237) 近衛(藤原)兼経は、九条(藤原)道家の娘である仁子と結婚することになった。兼経の父家実は、道家に嫁取婚を提案したが、道家は父兼実と同様に、嫁取婚が不吉な結果をもたらしたことを理由に反対した。結果として、九条家の牛車で嫁入りして、近衛家で生活するという妥協案に収まった。(『玉蘂』)

※嫁取をする側が牛車を出してしまえば、天皇の婚姻と同じようになってしまうため、牛車を出すのは九条家になったのである。中下級貴族は、天皇と身分が乖離しているため、嫁取をする側が牛車を出すことに抵抗はなかったが、道家摂関家であったがために配慮が必要であった(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1237年 春 モンゴル軍はブルガールを攻略した。バトゥら北方モンゴル軍は、ヴォルガ川を越えた先の人々を屈服させた。

・1237年 秋 モンゴルのバトゥ軍はリャザン公国の国境に迫り、国境南方に陣を張った。バトゥは使者を送り、諸公を含めたあらゆる者に「10分の1の貢納」を求めた。バトゥは使節団を送って懐柔しようとしたが、リャザンはそれを殺害した。

・1237年 秋 リャザン公はウラディーミル公ユーリーらに援軍を要請した。しかしそれが到着する前に、バトゥの陣所に進軍した。その後戦闘となり、リャザン軍は敗れ、籠城する。

※バトゥ率いるモンゴル軍の到来は、すぐにヨーロッパに伝えられた。ヨーロッパにおいて、「プレスビテル ヨアンネス」に対する期待は無くなっていった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1237年 2.7 バトゥ軍はウラディーミルを陥落させた。その後バトゥは部隊を分け、その1つはトルジョークを落とした。

・1237年 3.4 バトゥの部隊はシチ川にてウラディーミル大公ユーリーを敗死させた。モンゴル軍は南のステップに引き返しはじめた。

・嘉禎3年(1237) 11.29 安達(藤原)義景は、かつての父景盛と同じく秋田城介に任官した。(『吾妻鏡』)

・1237年 12.21 リャザン公は住民とともにバトゥ軍に殺害された。

・1237年 リャザン敗残兵はコロムナにて北東ルースィ軍と合流するも、町近郊で破れた。バトゥ軍はマスクヴァを占領し、ウラディーミルの攻略を開始した。

・暦仁1年(1238) 1.28 九条(藤原)道家は関白に任じられ、氏長者となった。(「詔敕宣下摂関准后作進之実記」「近衛文書」)

道家関東申次にもなり、関白であり将軍/鎌倉殿,頼経の父でもある立場により、朝廷にて権勢を振るった(細川重男『宝治合戦』)。

・暦仁1年(1238) 1.28 将軍,藤原頼経相模国鎌倉を出発し、山城国京都に向かった。(『吾妻鏡』)

※頼経の上洛は、鎌倉幕府九条家の関係が良好であることを示すための演出であった(細川重男『宝治合戦』)。

・暦仁1年(1238) 4.5 三浦(平)義村の嫡子,泰村が評定衆に任じられた。(『吾妻鏡』)

※相模三浦家は評定衆世襲に成功し、鎌倉幕府の幹部としての地位を保った(細川重男『宝治合戦』)。

・暦仁1年(1238) 6.10 三善康俊は問注所執事を辞め、その子息,町野(三善)康持がその職を継いだ。(『吾妻鏡』)

・1238年 〔参考〕ゴトランドとフリースラントのバルト海賊は、モンゴル軍(バトゥ遠征軍)を恐れて、ニシン漁の時期になってもイングランドのヤーマスには来ず、母港に留まった。その結果、ヤーマスのニシンは余り、最上級のニシンさえ40~50匹が銀貨1枚の値段になったのだという。(マシュー パリス『大年代記』)

・1238年 〔参考〕イスラーム圏から「山の老人」の使節がフランスを訪れたという。その使節はフランスのレックス(ルイⅨのことになる)とイングランドのレックス(ヘンリーⅢのことになる)に、モンゴルに対抗するための救援を求めたという。(マシュー パリス『大年代記』)

※「山の老人」とは、アラビア語とペルシア語の「シャイフ アル=ジャバル」を直訳したものであり、ニザール派のこととなる。ヘンリーⅢは、当時ゴール朝でしか鋳造されていない、10ペニーの重さの金貨を所有していた。ゴール朝の使節は、ニザール派接触している。同盟を求めたニザール派が、イングランドに10ペニーの金貨をもたらしたか、真偽は不明である(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1238年 秋 モンゴル軍はコーカサス西部から黒海北岸あたりのステップの攻略に取りかかった。

1239年 ウラディーミルは、スモレンスクに遠征を行った。

※モンゴル軍に攻められて以降、ある程度兵力が回復していたことが理解できる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

※モンゴル軍による破壊活動は、モンゴル側が誇張して喧伝したものであり、実際はルースィは壊滅していないことの証左という見解もある(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

1239年 3. モンゴル軍の一部隊は南ルースィのペレヤスラヴリを陥落させた。

1239年 10. モンゴル軍の一部隊はチェルニゴフを陥落させた。

1239年 12. モンゴル軍はポロヴェツ人を追って、クリミア半島の南端に到達した。

※モンゴルの次の攻略として、キエフに目をつけた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・延応1年(1239) ?.? 大仏北条(平)朝直、北条(平)政村、安達(藤原)義景は評定衆となった。(『吾妻鏡』)

・延応1年(1239) 11.21 藤原頼経は、中納言,藤原親能の娘,二棟御方との間に子息を儲けた。(『吾妻鏡』) 後の頼嗣である。

・延応1年(1239) 12.5 三浦(平)義村は死去した。(『吾妻鏡』)

・1240年 初頭 モンゴルのモンケ率いる部隊が、キエフの川を越えた左岸に到達し、降伏勧告の使者を派遣した。キエフ公は町から逃亡し、モンケ軍はそれを追って、捕虜を獲得して引き返した。

・1240年 秋 モンゴル軍は、キエフ公の代官が守るキエフを本格的に攻撃した。

・延応2年(1240) 大友(藤原)能直の未亡人,深妙は、7人の子息に所領を分割して相続させた。(「志賀文書」『熊本県史料』中世篇2 P394)

・1240年 12.6 モンゴル軍はキエフを陥落させた。

・仁治1年(1240) ?.? 足利(源)泰氏は、北条(平)時氏の娘との間に子息を儲けた。(『吾妻鏡』) 後の頼氏である。

※頼氏の生母は、生年からして、時氏と安達(藤原)景盛の娘との間に産まれた子供だと推測される(細川重男『宝治合戦』)。 

・1241年 4.9 〔参考〕チャガタイの子息,バイダル率いるモンゴル軍の別働隊は、レグニツァ東南の平原にて、ポルスカ・ドイチュ騎士団連合軍を破り、シレジア領主を討ち取ったという。

※この戦は、ドイチュ語で「死体の町」の意味を関する「ワールシュタットの戦い」と呼ばれた。しかし、同時代史料にこの戦いの記録は見えない。当時のドイチュ騎士団の動員力は200~300程度であったと考えられる。仮に合戦があったとしても、それは小規模だったと考えられる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1241年 4.11 バトゥ率いるモンゴル軍は、マジャルロザークのレックス,ベーラⅣを破った。

※ベーラⅣはローマ教皇グレゴリウスⅨに救援を求めたが、グレゴリウスⅨは神聖ローマのインペラトル,フリードリヒⅡとの対立を優先した。ベーラⅣによるヨーロッパ連合軍の構想は潰えた(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・仁治2年(1241) 6.28 北条(平)泰時の嫡孫,経時は評定衆となった。(『吾妻鏡』)

※この人事は、経時を泰時の後継にすることを前提としたものである(細川重男『宝治合戦』)。

・1241年 8.初 バトゥの命により、モンゴル部隊はエスターライヒを攻め、ノイシュタットにまで進んだ。しかしエスターライヒボヘミア、アクレイア総主教などの連合軍に迎撃され、撤退した。

・1241年 バトゥはマジャルロザークの平原で冬営した。

※かつてフン人の君主,アッティラが本拠地とした草原であり、モンゴルの馬にとって適していると思ったのである。前線基地を兼ねる牧地を手に入れたバトゥ遠征軍は、どこに向かうか予想できず、西欧キリスト教圏にとって脅威となった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1241年 12.11 大モンゴル ウルスのカアン,ウゲデイは死去した。

・仁治3年(1242) 1.9 四条天皇は転倒が原因で崩御した。(『後中記』『百錬抄』)