ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後嵯峨天皇の時代

・仁治3年(1242) 1.20 邦仁王は践祚して天皇となった(後嵯峨天皇)。(『後中記』) 摂政,近衛(藤原)兼経が関白に任じられた。(『平戸記』) 

・1242年 ?.? チャガタイは死去した。

・1242年 3. モンゴル軍に対して、オゴデイの死が伝えられた。そこでジョチ ウルス軍は進軍を止めた。

※ウゲデイの死後、長老が参加を拒否するなどして、クリルタイが開かれなかった(宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来』)。

・仁治3年(1242) 6.15 北条(平)泰時は死去した。(『吾妻鏡』)

・仁治3年(1242) 6.16 北条(平)経時が祖父,泰時を継いで執権となった。(『吾妻鏡』)

※前年に評定衆となったことで、19歳という若年ながら、泰時の後継として執権に就任出来たのだと思われる(細川重男『宝治合戦』)。

・寛元1年(1243) 2.13 北条(平)経時は問注所に対して、判決原案を期日までに作成するよう命じた。(『吾妻鏡』)

・寛元1年(1243) 2.26 北条(平)経時は評定衆を3つに分け、5日ごとに評定を行うよう定めた。(『吾妻鏡』)

※訴訟が増加する一向であったため、訴訟制度の改革に迫られていた(細川重男『宝治合戦』)。

・1243年頃 ジョチ ウルスの集団は、ヴォルガ川下流域に都市サライを建設して留まり、モンゴル本国には帰還しなかった。

※こうしてキプチャク諸族の分布していた土地は、ジョチの子孫によって治められた。最東方は、ジョチの長男,オルダ、西方はバトゥ、そしてその間は他のジョチの子息らによるウルスが営まれた。バトゥの兄のオルダという名は、本名ではなく、天幕(オルド)を営んだことに由来するとも推測される(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

※ジョチの子孫らのウルスにおいては、多くの住民がテュルク系キプチャク族である。そこに住む人々は、言語や容姿が早くにテュルクに近づいていった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

※ジョチ ウルスが本拠に帰らず留まったことで、ルースィはモンゴルとの関係を考える必要に迫られた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

※次のカアンが誰になるかは、テムジンの子孫たちにとって重大であったため、各方面に遠征していた子孫たちは帰国を急いだのだと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

※オゴデイの第6夫人,ドレゲネは、自身の産んだグユクをカアンとするため、賄賂や脅迫による多数派工作を行った。ドレゲネはバトゥに対してクリルタイへの参加を求めたが、グユクと不仲のバトゥは応じなかった。バトゥの母は、最高の血筋と見なされたケレイト部族の出身であった。彼は母の姉妹が産んだ、トルイの長男,モンケと親しく、生母の身分が高くないグユクを見下すことも不思議ではなかった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

※バトゥの父,ジョチは、「客人」を意味する名が示すように、チンギス カン,テムジンの実子ではないという疑惑があった。事実かは別として、そうした疑惑はジョチの子孫に、他のチンギス裔とは違うという意識を持たせた。そのためバトゥも新たなカアンに名乗り出ることもなかった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1243年 ウラディーミル大公ヤロスラフは、バトゥからの呼び出しに応じた。また、子息のコスチャンチンをカラ コルムに派遣している。

・寛元2年(1244) 4.28 鎌倉幕府の要請で、朝廷は臨時の除目を行い、藤原頼経からの「譲り」として、その子息頼嗣を征夷大将軍に任じた。(『平戸記』)

※将軍を退いた頼経は、「大殿」と呼ばれた。これは摂関の経験者、かつ子息が現職の摂関である者に対する尊称である。頼経が望んだのは、子息,頼嗣を後見し、鎌倉幕府内における治天の君のような存在であったと考えられる(細川重男『宝治合戦』)。

・寛元2年(1244) 12.2 三善倫長は評定衆となった。(『関東評定衆伝』)

・寛元2年(1244) ?.? 伊賀(藤原)光宗、三浦(平)光村、千葉(平)秀胤は評定衆となった。(『関東評定衆伝』)

※光村の兄,泰村は既に評定衆であり、2人揃って評定衆になっている。光村は讃岐国守護であり(『岡屋関白記』)、讃岐国知行国主は九条(藤原)道家である。道家の子息である頼経に近しく、派閥の中心であった。下総千葉家の分家である秀胤は、泰村・光村兄弟の妹を妻としており、頼経派であった。問注所執事,町野(三善)康持は頼経派であり、訴訟制度改革を進める北条(平)経時にとっては障害になったと考えられる(細川重男『宝治合戦』)。

・1244年 ルースィ諸公らはバトゥの元に参上し、その後「下賜を受けて」帰国した。

・寛元3年(1245) 2.10 北条(平)時頼は前関白,二条(藤原)良実宛に書状を送り、今後とも安心するよう伝えた。(『吾妻鏡』)

※この時点で時頼は、良実を除く九条家の一族を排除することを考えていたと思われる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・寛元3年(1245) 5.29 北条(平)経時は発病した。(『吾妻鏡』)

※『吾妻鏡』には「黄疸の患」とあるので、肝臓病だと思われる(細川重男『宝治合戦』)。

・1245年 コスチャンチンはモンゴルより帰国し、兄弟や子息たちとバトゥのもとを訪れた。

※このような派遣により、ルースィとモンゴルの関係が築かれていったのだと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1245年 6. ローマ教皇,インノケンティウスⅣは、フランスのリヨンにて、リヨン公会議を開いた。そこでは神聖ローマのインペラトル,フリードリヒⅡに関することや、ラテン インペラトル国への支援が話し合われた。また、モンゴルの攻撃に備え、防御壁の建設や、モンゴルの情報を教皇に伝えることなどが決められた。

※モンゴルに対して、攻撃を止めさせて、キリスト教に改宗させることも図られた。托鉢修道会士の使節団をモンゴルに派遣することにした。これは視察の意味も含んでいた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※インノケンティウスⅣは、モンゴルの脅威を利用して、ギリシア正教ネストリウス派カトリックに取り込み、教会を統一し、ヨーロッパ世界において、ローマ教皇こそがキリスト教の代表者であることを示そうとしていた。そうした考えがモンゴル政策に現れていた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・寛元3年(1245) 7.5 藤原頼経は出家した。(『吾妻鏡』)

※これは治天の君としての法皇と同じように、権力を放棄したわけではない(細川重男『宝治合戦』)。

・寛元3年(1245) 7.26 北条(平)経時は妹の檜皮姫を、将軍,藤原頼嗣の御台所とした。(『吾妻鏡』)

※北条家出身者を御台所とすることで、源頼朝・政子夫妻を再現を狙ったのだと考えられる。ただ、頼嗣が7歳で檜皮姫は16歳という、経時の焦りが年齢差に現れていた(細川重男『宝治合戦』)。

・寛元3年(1245) 毛利(大江)季光の弟,海東(大江)忠成が評定衆となった。

※これにより、藤原頼経派は評定衆にまた1人増えた(細川重男『宝治合戦』)。

・1245年 フランシスコ会の修道士,ヨハンネス カルピニの一行は、ローマ教皇,インノケンティウスⅣの書簡を携え、バトゥの治めるジョチ ウルスを訪れた。バトゥは、クリルタイでこれから選出されるであろう、モンゴルのカアンのもとに赴くよう勧めた。