ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後円融天皇・長慶天皇の時代

・応安4年(1371) 3.23 後光厳天皇は譲位し、緒仁親王践祚した(後円融天皇)。(『後愚昧記』)

・1371年 10.? 懐良親王の使者、僧侶の祖来が明朝の都に到着した。この際、馬や地方の物産が献上され、明州・台州から誘拐された70数人の民が送還された。祖来の帰国の際には僧侶の祖闡、克勤ら8人が随行し、懐良親王に対しては大統暦、綾模様の絹、沙羅が贈られた。(『明史』日本)

1373年 祖闡は日本に到着して、仏教を説いて信望を集めるが、懐良親王は祖闡を軟禁した。(『明史』)

1374年 5.祖闡は軟禁を解かれ、明に帰国した。(『明史』)

1374年7月 日本の「大臣」が僧侶の宣聞渓らに書状を持たせて入明した。馬や地方の産物を献上したものの、上表文を持参していなかったため、明の洪武帝,朱元璋への謁見は叶わなかった。ただ、それまでの慣習の通り、使者には贈り物を与えた。(『明史』日本)

・応安7年(1374) 4.28or29 小嶋法師という人物が死去した。(『洞院公定日記』)

〔参考〕『洞院公定日記』応安7年5月3日条によれば、小嶋法師は『太平記』の作者であるという。

・応安7年(1374) 10.24 足利(源)氏満は、義堂周信と政治について語り合い、『孝経』と『貞観政要』を儒学者から学ぶことを勧められた。(『空華日用工夫略集』)

※この時点で、『貞観政要』は上級武士の必読書になっていたと推測される。また氏満は『吾妻鏡』を所有しており、儒教の経典である『孝経』を学ぶことを勧められたことを含め、帝王学としての高度な勉強をしていたようである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1374年? 氏久(島津氏久か)の使者が上表文を伴って入明する。しかし、その使者の派遣は日本国王の命令でもなく明の年号や暦を用いていなかったため、追い返された。その使者には贈り物とともに、立場を弁えない氏久の非礼を咎める持たせる文書を持たせた。(『明史』日本)

・1374年?日 明においては呉禎が倭寇の取り締まりを命じられ、各地の重要地点の官軍を統制下に置いた。(『皇明馭倭録』)

・永和2年(1376) 冬 後円融天皇は喉に痺れを感じ、丹波篤直や和気繁成ら官医が治療したが、効果がなかった。そこで民間医の坂士仏が呼ばれ、鍼を使って治療を行い、成功させた。その功績により、坂士仏は法印に叙せられた。(『後愚昧記』)

※民間医であろうとも、功績があれば僧位や朝官の職を得ることが出来た。民間医を公認していたことになる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・永和3年(1377) 義堂周信は弟子に対して、起床を促す鐘がなっても朝起きて顔を洗わず、朝粥の時間が知らされて、やっと手と口を洗うという怠け具合について説教を述べ、気を引き締めるよう伝えた。(『空華日用工夫略集』)

※禅寺における、規則正しい生活というのは、現実と乖離した部分があったようである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

1380年 日本より使者が入明する。上表文は届かなかったものの、足利義満から明の丞相あての書状を伴っていた。しかしその文面が傲慢であったことを理由に、貢ぎ物は拒絶され、来日した使者により義満の非礼が咎められた。(『明史』)

・1380年 〔参考〕モスクワ大公ドミトリーはママイを破ったという。

※同時代の記録には残されていないため、事実ではないとも考えられる(岡田英弘世界史の誕生』)。

・1380年 トクタミシュはカンとして、ジョチ ウルスを統一。モスクワに使節を派遣して自身がツァーリーであると伝えた。

・1381年 シャルル6世はアラゴンのペドロ4世に謝辞を送った。

※「マパ・ムンディ」はヴァロワ家のもとで制作され、直接制作を命令したのはペドロ4世だったとも考えられる(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・1381年冬 ルーシィから、ジョチ ウルスのカン,トクタミシュに贈り物があった。

※モスクワ公ドミトリーらが、トクタミシュを宗主と認めていたことを意味する。モンゴルからの解放を望んだわけではなかった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1381年 日本より使者が入明した。明の洪武帝,朱元璋はその使者を追い返し、使者を通して日本国王である懐良親王征夷大将軍足利義満咎め、場合によっては日本に侵攻すると伝えた。懐良親王は、「一度戦争をしても構わないが、戦を止めて民を苦しみから解放することが強者のすることである」といった文面の書状を奏上した。明洪武帝朱元璋は内容に激怒したが、かつて大元が遠征に失敗した例もあることから、日本を攻めることはしなかった。(『明史』)

1380年 明にて、胡惟庸が日本の者の援助を受けて謀反を計画するも、失敗し滅ぼされる。明日本との国交を断絶した。後に明洪武帝朱元璋が記した『祖訓』には明に服属しない国々が挙げられているが、日本もその中に入っていた。(『明史』)