ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

近衛天皇の時代

・永治1年(1142) 12.7 崇徳天皇の譲位により、体仁親王践祚した。(『百錬抄』) 藤原忠通は摂政に任じられた。(『帝王編年記』)

・天養1年(1144) 9.? 三浦(平)義継、義明父子は、源義朝の協力を得て、中村(平)宗平とともに大庭(平)景宗と抗争し、高座群の伊勢神宮領,大庭御厨に攻め込んだ。(『天養記』)

※義家から続いて為義、義朝まで、相模三浦家は河内源氏頼信流の家臣「累代の家人」であった(細川重男『宝治合戦』)。

・久安3年(1147) 4.? 源義朝は、前熱田大宮司藤原季範の娘(熱田神宮の伝承では由良御前)との間に子息を儲けた。後の頼朝である。(『武家年代記』) 頼朝の乳母には、比企掃部允の妻(比企尼)、八田(藤原)宗綱の娘(寒河尼)、山内首藤(藤原)俊通の妻(山内尼)、三善康信の伯母が付けられた。(『吾妻鏡』)

・仁平1年(1151) 9.8 左大臣,藤原頼長は従者に命じて、左衛門督,藤原家成の邸を襲撃させた。(『本朝世紀』)

※頼長はその人柄から「悪左府」と呼ばれた。鳥羽院の寵臣である家成の邸を襲撃する無法な振る舞いもさることながら、理論的な事務処理能力の高さという2つの点が、左大臣(左府)に「悪」を冠された理由である(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

・久寿2年(1155) 7.23 近衛天皇崩御した。(『山槐記』)

・久寿2年(1155) 7.23 鳥羽院源雅定や藤原公教らを呼び、次期天皇を決める「王者の議定」を行った。(『兵範記』)

〔参考〕『愚管抄』によれば、候補に挙げられたのは.鳥羽院の皇女である八条院,暲子内親王崇徳院の皇子,重仁親王,雅仁親王、雅仁親王の子息,守仁王であったという。

・久寿2年(1155) 7.24 次期天皇を決定する議論が終わり、雅仁親王が選ばれた。(『百錬抄』)

〔参考〕『愚管抄』によれば、鳥羽院は、雅仁親王天皇になるには器量不足と考えていたという。藤原忠通に相談したところ、父親が即位しないままにその子息が即位した先例がないことから、守仁親王の前に雅仁親王を即位させるべきだと返答されたという。