ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

崇光天皇・後村上天皇の時代

・1348年(和暦貞和4) 10.27以前 益仁親王は諱を興仁と改めた。(『親長卿記』長享3.9.3)

・1348年(和暦貞和4) 10.27 光明天皇の譲位により、興仁親王践祚した(崇光天皇)。直仁親王は皇太弟となり、二条(藤原)良基は関白を続けた。(『園太暦』)

直仁親王の母方の伯父,正親町(藤原)公陰の妻は、赤橋流,北条(平)久時の娘である。足利(源)尊氏の妻も久時の娘,登子である。そのため、尊氏には彼にとって義理の甥である直仁親王の後見を任せることで、北朝の存続を図ったとも考えられる(家永遵嗣「光厳上皇皇位継承戦略と室町幕府」『室町政権の首都構想と京都』)。

※光明院の兄である光厳院は健在であり、光明院は院政を行わなかった。自身が中継ぎであることを自覚していたと考えられる(水野智之「八代の「北朝天皇」、知られざる事績」『北朝天皇研究の最前線』)。

・1349年(貞和5) 8.14 高階師直は足利(源)尊氏の邸宅を軍勢で取り囲み、上杉(藤原)重能、畠山(源)直宗の排除を尊氏に要求した。(『園太暦』)

※将軍の御所を軍勢で取り囲んで政治的な要求を行う風習は「御所巻」と呼ばれるものである(亀田俊和『新説の日本史』第2章)。

・1349年(和暦貞和5) 8.14 足利尊氏は高階師直の要求を受け入れ、畠山(源)直宗の配流を決定し、足利(源)直義の政務を停止し、三条殿の地位を自身の子息,義詮に譲らせた。(『園太暦』)

・1349年  北欧からポルスカに広まった。

※モンゴルによるユーラシアの交易ネットワークによって、ペストはヨーロッパまでもたらされたとも考えられる(玉木俊明『世界史を「移民」で読み解く』)。

・1350年(和暦貞和6) 2.8 光厳院、光明院、広義門院,寧子は夢窓疎石より衣盂を受けた。その場には皇太后(徽安門院,寿子内親王か)ほか宮妃らも臨席した。(『夢窓国師年譜』)

※この受衣は、光厳院・光明院の母である寧子を中心とした共同の受衣であり、家族で俗弟子となることで、持明院統の結束力を確かめる意図があったとも考えられる(芳澤元「光厳天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・1350年(和暦観応1) 11.23 足利(源)直義は南朝に降伏した。(『園太暦』)

※兄,尊氏に対抗するための正当性を確保することを目的としていた(遠藤珠紀 水野智之「八代の「北朝天皇」、知られざる事績」『北朝天皇研究の最前線』)。

・1351年(和暦観応2年) 12.28 後村上天皇は、光厳院・光明院兄弟に太上天皇の尊号を贈った。(『園太暦』)

北朝においては光明院は既に尊号宣下がなされていたが、改めて後村上天皇より贈られる形となった。

・1351年 ペストはRussiaに至った。

・1352年(和暦正平7) 閏2.21 光厳院、光明院、崇光院、直仁親王南朝によって拉致された。(『園太暦』)