ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後白河天皇の時代

・久寿2年(1155) 7.23 雅仁親王践祚した。(『台記』) 前太政大臣,藤原忠通は関白に任じられた。(『兵範記』)

・保元1年(1156) ?.? 伊豆国目代は、伊豆国北条の在庁官人,北条(平)時政を捕縛した。(『吉口伝』)

・保元1年(1156) 7.11 後白河天皇方と、崇徳院方で、戦が勃発した(保元の乱)。佐々木(源)秀義は、妻の兄弟である義朝に従って参戦した。(『保元物語』)

保元の乱の根底には、道徳の頽廃や人心の腐敗があったとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

・保元1年(1156) 7.28 崇徳院方についた、源為義、およびその子息である頼賢、頼仲、為宗、為成、同じく崇徳院方についた平忠正などが処刑された。(『兵範記』)

〔参考〕『保元物語』によれば、為義の子息たちは、太刀の一撃で首を落とされている。

※太刀の切れ味を物語るものである(細川重男「太刀、あれこれ」『論考 日本中世史』所収)。

藤原通憲(信西)は、300年以上実施されていなかった死刑を復活させたことになる。そうした慣習の否定は、当時の風潮として「悪」と見なされた(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

源為義の多くの子息が処刑されたことで、以前より勢力に陰りをみせていた河内源氏義家流は、大きな打撃を被った(細川重男『頼朝の武士団』)。

※公家間の政争の勝敗が、武士によって決着した。そのため、武士は中央政界に実力を知らしめ、政治的地位を高めたとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

・保元2年(1157)?.? 北条(平)時政の娘として、政子が誕生した。(『吾妻鏡』) 母は伊東(藤原)祐親の娘とされる。(前田育徳会所蔵『平氏系図』)

・1157年 セルジューク朝は滅んだ。

セルジューク朝の滅亡後、ホラズム シャー朝はイランに進出し東西交易を掌握した(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。