ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

花園天皇の時代

・延慶1年(1308) 8.26 富仁親王践祚した。(『園太暦』) 九条(藤原)師教は摂政に任じられた。(『践祚部類抄』)

・徳治3年(1308) 閏8.3 後宇多院は譲状を書き、讃岐国越前国因幡国にある所領および安楽寿院、歓喜光院領などの所領を皇子,尊治親王に譲るとした。(「後宇多法皇譲状案」「京都御所東山御文庫文書」『鎌倉遺文 30』2336)

※尊治親王に与えた所領は、後々は故後二条天皇の皇子,邦良親王に譲り、子孫も親王として天皇を補佐するよう述べてあった。そのことから、尊治親王大覚寺統の中心となったのは便宜的な処置であり、後宇多院としては、大覚寺統を将来的に嫡孫の邦良親王の系統に移ることを望んでいたと考えられる(森茂暁『後醍醐天皇』)。

※後宇多院の譲状には、世の人々が褒める人物ならば、天照大御神の神意に委ねるとの文面があり、皇位継承は故後二条天皇系を優先させるが、決して尊治親王の子孫を将来の皇統から排除する意図はなかったとも考えられる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・延慶1年(1308) 9.4 鎌倉幕府の使者として御家人,長井道潤が、関東申次,西園寺(藤原)公衡のもとを訪れ、伏見院による治天と尊治親王立太子を承認したことを伝えた。(藤井孝昭所蔵『東寺長者補任』)。

・延慶2年(1309) 9.19 尊治親王は皇太子となった。(『一代要記』『皇代暦』)

・延慶2年(1309) 9.19 征夷大将軍,守邦王は親王となった。(『皇代暦』)

・延慶2年(1309) 北条(平)貞時の子息,成寿丸は元服し、諱を「高時」とした。(『鎌倉年代記』)

※高時は鎌倉幕府の将軍からの偏諱を受けていない。父,貞時同様、祖先の名前に肖ったものであって、桓武平氏の始祖である平高望の「高」を使用したという推測もある(細川重男「さだたか」『論考 日本中世史』)。

・延慶3年(1310) 1.5 除目が行われた。北畠(源)具行は従四位下に昇った。(『公卿補任』)

※具行は皇太子,尊治親王の御給によって昇進した。長らく後宇多院の庇護下にいた尊治親王は独自の側近がいなかったため、次期天皇として将来の側近の確保を望んだとも考えられる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・延慶2~3年(1309~10) 根来寺において、『平家物語』が書写された。(延慶本『平家物語』奥書)

※『平家物語』は仏教的な無常観を感じさせる内容であるが、「宿世」という考えとは違い、敗北や死といった自身の出来事を正面から受け止めようとしている。建礼門院徳子による弔いと自らの成仏は、鎮魂という、敗者に対する当時の視線を伺わせる(清水正之『日本思想全史』)。

※延慶本には、栄華に奢る平時忠の台詞として「この一門に非ざる者は、男も女も法師も尼も、人非人たるべし」というものがある。「人非人」とは本来、仏教に帰依して人の姿に転じた悪魔「八部衆」のことであり、ここでは意味が転じて人並み以下の者を指す。台詞は平家一門でなければ栄華を享受できないという意味である。公家でありながら武家の力を背景に出世した時忠は、平清盛よりも憎まれており、こうした台詞が創作されたとも考えられる(呉座勇一『武士とは何か』)。

・応長1年(1311) 10.26 北条(平)貞時は死去した。(『一代要記』)

〔参考〕『保暦間記』によれば、貞時は臨終に際して長崎(平)盛宗と安達(藤原)時顕を呼び、自身亡き後の政務を託したという。

・正和3年(1314) 7.3 皇太子,尊治親王は令旨を発行し、順徳天皇皇子,四辻宮,善統親王山城国上桂荘を安堵した。(『東寺百合文書之二』28)

※当時、皇太子の令旨によって所領を安堵されるという事象は珍しいものだった。次期天皇の座にいながら安閑としない、その特異性が指摘される(森茂暁『後醍醐天皇』)。

※令旨写の端裏には、後宇多院が隠居した後に、尊治親王は諸御領の管理権限を行使していた際の令旨でらることが記されている。このことから、大覚寺統の所領の管理は後宇多院から譲られたものであり、その意向に従った行為であるとも考えられる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・正和5年(1316) 7.10 普音寺流,北条(平)基時は執権を辞した。長崎(平)盛宗と安達(藤原)時顕の談合により、北条貞時の先例に従い、この日付に、貞時の子息,高時が執権となった。(「金沢貞顕書状」『金沢文庫文書』135)

※高時はこの時点で14歳である。これは貞時の執権就任と同じ年齢であり、それまで中継ぎとして基時に執権でいてもらったことになる。実務能力を問わない執権就任であり、先例偏重的な風潮を表している。『保略間記』の記す貞時の遺言は事実かは不明であるが、『保略間記』の語る通り「形の如く子細なく(先例にしたがい形式通りに)」政権が運営されたことは事実であった。鎌倉幕府は寄合の合議によって運営され、得宗ですら将軍と同様に、ただ存在すればいい立場に変容していた(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・文保2年(1318) 比叡山延暦寺の光宗は、『渓嵐拾葉集』を著した。(『渓嵐拾葉集』序)

顕教密教・戒を総合した百科全書的な書物である。また、「大日本国」を「大日の本国」と解釈しており、日本を仏教の中心に位置づけ、インドはGotama某が垂迹した土地であるとした。反本地垂迹説である(末木文美士『日本思想史』)。