ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

順徳天皇・仲恭天皇の時代

・承元4年(1210) 11.25 土御門天皇の譲位を受けて、守成親王践祚した。(『玉葉』) 近衛(藤原)家実は関白を続けた。(『百錬抄』)

・建暦1年(1211) 9.15 善哉は出家し、法名公暁と名乗った。(『吾妻鏡』)

・1211年 天山ウイグル カガン国は、保護国のカラ・キタイに背きモンゴル ウルスに降伏した。

※通商国家であった天山ウイグルの知恵、そして情報は、モンゴルに吸収された(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1211年 モンゴルのチンギス カン,テムジンはケルレン川より進軍し、金領内の草原に侵入した。

・1211年 モンゴル軍は金の撫州と大同を攻略した。

・建暦1年(1212) 7.4 源実朝は『貞観政要』を習いはじめた。(『吾妻鏡』)

※『貞観政要』は、唐の太宗,李世民の事績や、臣下の政治討論を納めたものである。後世に「貞観の治」と呼ばれる優れた統治を行った。一方で、兄を滅ぼして皇帝となり、東突厥を滅ぼすなど、李世民の軍事的才能に長けていた点は、日本の武士に馴染みやすかったのだと考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・建暦2年(1212) 3.30 鴨長明は『方丈記』を著した。(『方丈記』)

※『方丈記』の言語は「凝結の気配」が漂い「省略の極北」が現れ、文体は「漢文の調子そのまま和文に巧みに移した和漢をまたぐ名文」とも評される。そのような文体によって、歌人や神官の出としての立場を離れ、世を捨て「閑居の気味」に近づこうとしたとも捉えられる(松岡正剛『千夜百冊』第42夜)。

・建暦2年(1212) ?.? 北条(平)泰時は、安保(丹治比)実員の娘との間に子息(後の時実)を儲けた。

※この時点で、三浦(平)義村の娘とは離婚していたようである。義村の娘は、父の従兄弟である佐原(平)盛連に嫁ぎ、光盛、盛時、時連を儲けている。

・1212年 ナイマン世子,クチュルクはカラ キタイ/西遼を簒奪し君主となった。

※クチュルクは強硬な姿勢で、仏教を広める政策を行った。これはキタイ族への人気取りの政策と考えられるが、イスラーム教徒からの反発を生んだ(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・建保1年(1213) 2.15 千葉(平)成胤は、自身を鎌倉幕府への反乱計画に誘った、僧侶の阿静房安念を捕縛して北条(平)義時に引き渡した。(『吾妻鏡』)

・建保1年(1213) 2.16 阿静房安念は、反乱計画を自白した。その供述によれば、首謀者は信濃国住人の泉親衡であり、源頼家の三男を擁立して北条(平)義時を打倒する計画だったという。逮捕された加担者には、和田(平)義盛の子息義直・義重兄弟、および甥の胤長がいた。(『吾妻鏡』)

※義時の政策に対する不満が噴出した結果である(細川重男『頼朝の武士団』)

・建保1年(1213) 3.8 和田(平)義盛は相模国鎌倉に駆けつけ、源実朝に対して自身の功績を述べ、子息義直・義重の赦免を得た。(『吾妻鏡』)

・建保1年(1213) 3.9 和田(平)義盛は一族を率いて将軍御所を訪ね、甥胤長の赦免を嘆願した。しかし義時は、胤長を縛り、一族の前で連行してみせた。(『吾妻鏡』)

・建保1年(1213) 3.17 和田(平)胤長は陸奥国に配流となった。(『吾妻鏡』)

・建保1年(1213) 3.25 和田(平)胤長が持っていた屋敷は、叔父義盛に与えられた。(『吾妻鏡』)

・建保1年(1213) 4.2 かつての和田(平)胤長邸は北条(平)義時のものとなり、義時はそこにいた代官を追い出した。(『吾妻鏡』)

※昔の功績を持ち出して、鎌倉殿の裁定を覆す和田(平)義盛の行為を危険視し、対立を避けられないと見た義時は、挑発行為を繰り返したと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建保1年(1213) 5.2 三浦(平)義村・胤義兄弟は、和田義盛とともに北条(平)義時打倒を約束していたが、計画を義時に密告した。(『吾妻鏡』)

※自身の権力を凌いでいた父方の従兄弟義盛よりも、母方の従兄弟の義時のほうが親近感があったとも推測される(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建保1年(1213) 5.2申の刻 事前に計画が漏れた和田義盛は挙兵し、その軍は将軍御所を焼いた。(『吾妻鏡』)

・建保1年(1213) 5.3 和田(平)義盛の妻の甥である、横山時兼率いる横山党が、和田勢に加勢した。一度は勢いを取り戻した和田勢であるが、その後壊滅。義盛以下、多くの一族は討死した。(『吾妻鏡』)

※義時は実朝の軍事指導力やその権威を評価し、実朝は義時と中原広元を評価するようになった(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)

・建暦3年(1213) 5.16 この日、御子左家の藤原定家は、嫡子の為家が蹴鞠に熱中して和歌を勉強しておらず、7、8歳で学んだ『蒙求』と『百詠』も忘れてしまっていると嘆いた。(『明月記』)

※当時の貴族社会では、『蒙求』と『百詠』を7、8歳で学んでいたことが読み取れる。和歌の家である御子左家の跡継ぎが、和歌を学ばないことを定家は心配したが、為家は和歌も蹴鞠も腕前は一流となる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1213年(金暦至寧1) 8.25 金皇帝,衛紹が殺害され、珣が即位した(宣宗)。

・建保1年(1213) 11.10 尼御台所政子のはからいで、頼家の三男は出家、法名を栄実とした。(『吾妻鏡』)。

・建保2年(1214) 11.13 和田勢の残党が、栄実を擁立して反乱を企てていたが、討手に襲撃され、栄実は自害した。(『吾妻鏡』)

・1214年 モンゴルは金の首都,中都を包囲し、約定を結ぶことを求めた。金は和議に応じ、公主を差し出し、銀や絹などの貢物を贈った。

※この時点でモンゴルは金を滅ぼす気はなく、脅威となりえる金の力を削ぎ、経済支援を約束させようとしたのだと考えられる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1214年 金の宣宗,従嘉は.黄河の南に位置する開封に遷都した。従嘉らが良郷に至った際、諸民族の構成集団が反乱を起こした。

※この逃亡は、モンゴルとの和議の約定違反であり、モンゴルは金の討伐を決定した(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1214年(貞祐2) 5. 金は黄河の北方を放棄し、主な機構を南に移動した。こうして金の領土は河南と陝西に縮小した。

※金が放棄した黄河の北方は、武装勢力が勃興するようになった。また、モンゴルは燕雲16州を手に入れた。マンチュリアは金との連絡を失ったため、そこの集団の多くはモンゴルに服属した(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1215年 反乱勢力からの要請で、モンゴルは金の元首都、中都を攻略した

・建保3年(1215) このころ、源顕兼は『古事談』を著した。

白河院が「金泥一切経」の供養が雨天で延期になることに腹を立て、雨水を投獄するという逸話が記される。白河院には、思いのままな振る舞いを行い、それが許される人物であるという観念があったことが理解できる(美川圭『院政 増補版』)。

・建保4年(1216) 閏6.1 中原広元は、氏を中原から大江に改めることを認可された。(『吾妻鏡』)

・建保4年(1216) ?.? 足利(源)義氏は、北条(平)泰時の娘との間に子息を儲けた。(『吾妻鏡』) 後の泰氏である。

・建保5年(1217) 10. 公暁鶴岡八幡宮別当に就任し、参籠を開始した。(『吾妻鏡』)

※修行の間、自身が鎌倉殿になることを望み、源実朝が死ぬよう呪詛をしていたのかもしれない(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1217年 チンギス カン,テムジンは、ジャライル族のムカリに太師と国王の称号を与え、ジャライル、コンギラト、イキレス、ウルウト、マングトの有力部族(五投下)を管轄させ、「中国」方面に関することを委任した。

・建保6年(1218) 1.13 源実朝権大納言に任じられた。(『吾妻鏡』)

・建保6年(1218) 2.21 尼御台所政子は、熊野詣のために入洛した。(『吾妻鏡』)

※政子としては、これ以上悲劇が起こらないことと、子供のできない我が子実朝の健康を祈るために詣でたのかもしれない(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建保6年(1218) 3.6 源実朝は左近衛大将に任じられた。(『吾妻鏡』)

※これにより、右近衛大将であった父の官職を超えたことになる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・建保6年(1218) 3.6 安達(藤原)景盛は秋田城介に任官した。(『吾妻鏡』)

※以降、鎌倉幕府において、安達家はこの官職を世襲するようになった(細川重男『宝治合戦』)。

・建保6年(1218) 4.14 尼御台所政子は従三位に叙された。(『吾妻鏡』)

※位階が贈られる者には、位記という文書が与えられる。そこには名前が書いてあり、「政子」という名はこのときに名乗ったと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建保6年(1218) 4.15 後鳥羽院は尼御台所政子に対して、対面しようと持ちかけたが、政子は辺鄙な場所の老いた尼と会ってもつまらないだろうと答えた。(『吾妻鏡』)

・建保6年(1218)間 尼御台所政子の京都滞在中、卿二位兼子が政子のもとを何度か訪れた。兼子は政子に対して、実朝に男子のいないまま何かがあれば、皇子の1人を将軍として鎌倉に下向させることを提案した。(『愚管抄』)

※『愚管抄』は京都での噂とするが、兼子が構想していたのは、自身が養育していた、後鳥羽院の皇子,頼仁親王であったとも考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

※実朝は当初、後鳥羽院の従姉妹である、御台所との間に産まれた子息でなければ鎌倉殿に相応しくないと考えていたようである。つまり、兄頼家の遺児は対象から除外される。北条家としても、排除した人物の子息を鎌倉殿にするのは避けたかった。そこで、実朝は親王を鎌倉殿に据えることを考えたのだと推測される。実朝は、親王の後見人となり、源家(摂関家相当)以上の貴種を奉戴すれば、北条家の権威も増大する。国司荘園領主との利害が対立する地頭御家人の訴えも、親王将軍を通して朝廷に伝えることができる。後鳥羽院としては、親王将軍と実朝を通して鎌倉幕府という武力を動かすことが出来ると考えていた。実朝・北条家と後鳥羽院は、思惑は違えど、方針は一致したのである(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・建保6年(1218) 4.29 尼御台所政子は相模国鎌倉に帰還した。(『吾妻鏡』)

・建保6年(1218) 6. 源実朝は拝賀の儀を行った。(『吾妻鏡』)

・建保6年(1218) 10.13 尼御台所政子は従二位となった。(『吾妻鏡』)

・建保6年(1218) 12.2 源実朝は右大臣に任じられた。(『吾妻鏡』)

〔参考〕流布本の『承久記』は、後鳥羽院は実朝を身分不相応な官位に就かせて破滅を望む、「官打ち」を行ったのだと記す。

後鳥羽院が官打ちを行ったという説は、後の出来事からの逆算である。後鳥羽院としては、将来自身の皇子の後見人として、相応しい官職でなくてはならないと考えたのだと思われる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・建保6年(1218) 12.21 源実朝の拝賀の儀のために、後鳥羽院より牛車などが贈られた。(『吾妻鏡』)

※拝賀とは、任官したことに対して、天皇太上天皇に拝謁し、感謝を伝える行為である。鎌倉においては、鶴岡八幡宮において源氏の氏神,八幡大菩薩に拝礼することで謁見の代わりとしていた(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※こうした拝賀の儀に向けた動きは、親王将軍を奉戴するという計画を人々が知る契機となった。公暁としては、親王が下向してしまえば鎌倉殿になることは叶わない。もはや実朝を呪詛している時間はなく、自営の鶴岡八幡宮に実朝が来たときを狙って、殺害することを計画したと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・1218年 モンゴルは西夏王国に遠征した。

・1218年 ホラズム シャー朝のオトラルにて、モンゴルの通商団が殺害された。

※モンゴルはホラズムを攻めることを決定していた(『集史』)。通商団は、ホラズムを攻めるうえでの偵察をしており、それをホラズムが殺害したのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1218年 西遼/カラ キタイの君主,クチュルクは、モンゴルに攻められて逃亡した。パミール山中にてクチュルクは殺害された。

・承久1年(1219) 1.27 源実朝鶴岡八幡宮にて、拝賀の儀を行った。(『愚管抄』『吾妻鏡』) 実朝は北条(平)義時に対して、中門で待機するよう命じた。(『愚管抄』)

〔参考〕『吾妻鏡』は、義時は白い犬を見て気分が悪くなり、実朝に随伴しなかったと記す。

※右大臣任官の拝賀という儀式では、義時は地位は高くなく、中門に待機させられる程の身分であった。北条家側の立場で編纂された『吾妻鏡』は、義時は理由があって随伴できなかったのだと潤色している(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・承久1年(1219) 1.27 源実朝公暁に殺害された。公暁の一派は、源仲章を北条(平)義時だと誤認して殺害した。(『愚管抄』)

※これは三浦(平)義村が黒幕だという説がある(石井進鎌倉幕府』)。

公暁が自ら実朝を殺害してしまっては、公暁が鎌倉殿になれる可能性は低く、義村としては利点はなかったという指摘がある(細川重男『頼朝の武士団』)。

※北条(平)義時と義村が、将軍独裁を望んだ実朝と方向性で不一致となり、共謀して暗殺したという説もある(五味文彦吾妻鏡の方法』)。

※義時にしても義村にしても、殺害する必要があるほど実朝と対立していた形跡は見い出せないとも指摘される(細川重男『頼朝の武士団』)。

親王下向計画を進めていた義時も殺害しなくては、鎌倉殿になったとしても、公暁の地位は安泰ではない。義時が最後尾にいることを確認して、殺害に望んだのだと思われる。しかし、実朝の命で義時は中門に留まっていた。そのため最後尾にいた仲章が義時と間違えて殺害されたのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。 

正岡子規は実朝の和歌を高く評価しており、「あの人をして今十年も活いかして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候」と、その死を惜しんだ(正岡子規歌よみに与ふる書」)。

・承久1年(1219) 1.27 公暁は三浦(平)義村のもとに使者を送り、自分を将軍にしてくれるよう取り成しを求めた。しかし義村は使者のことを北条(平)義時に伝えた。義時の命を受け、義村は長尾(平)定景を使って公暁を殺害させた。(『吾妻鏡』)

・承久1年(1219) 1.28 大江親広、長井時広、中原季時、安達(藤原)景盛、二階堂(藤原)行村、加藤(藤原)景廉ら、100余の御家人は、源実朝の死を悲しんで出家した。(『吾妻鏡』) 

〔要参考〕『愚管抄』は出家した御家人を7、80人とする。

※頼朝の死に際して出家したのが4、5人だったのに対し、かなりの数の者が出家した。実朝は多くの御家人の支持を受けていたことが見て取れる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・承久1年(1219) 2.13 二階堂(藤原)行光は鎌倉幕府の意向で、行光は宿老の御家人連署を携え、上洛することになった。(『光台院御室伝』)

※かつて尼御台所政子が卿二位兼子から提案されたように、雅成親王か頼仁親王を、新たな鎌倉殿として迎える許可を得るためであった。嘆願の連署を持参していたことからも、首脳部の焦りが見える(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久1年(1219) 2.14 伊賀(藤原)光季が京都警護のために上洛に向かった。(『吾妻鏡』)

※光季の父朝光は秀郷流の京武者、そして外祖父の源邦業は源頼義の弟頼清の子孫であった。光季自身は二階堂(藤原)行政の外孫という、血統や京都との関わりの深さにおいて、京都守護に任じられたのである(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久1年(1219) 2.15 駿河国にて、阿野(源)全成と阿波局の子息である、時元が謀反を起こしたという知らせが鎌倉に届いた。(『吾妻鏡』)

鎌倉幕府の中心が、求心力を低下させたことを物語る(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・承久1年(1219) 2.19 尼御台所政子の命により、弟義時は、甥の阿野(源)時元を討つための兵を駿河国に派遣した。(『吾妻鏡』)

・承久1年(1219) 2.23 阿野(源)時元が自害したとの知らせが、鎌倉に伝えられた。(『吾妻鏡』)

・承久1年(1219) 2.29 大江広元の子息,源親広は京都守護として京都に向かった。(『吾妻鏡』)

※広元自身が下級官人出身であったことが、就任の理由と考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久1年(1219) 閏2.12 二階堂(藤原)行光からの使者が鎌倉に到着し、朝廷は、いずれ親王を鎌倉に下向させる意向があるが、今すぐではないという返答を伝えた。(『吾妻鏡』)

・承久1年(1219) 3.8 後鳥羽院の使者として、藤原忠綱が鎌倉を訪れた。忠綱は北条(平)義時と面会し、後鳥羽院の寵愛する白拍子,亀菊の所領である摂津国長江荘の地頭の改易を命じる院宣を伝えた。(『吾妻鏡』)

〔参考〕慈光寺本『浄久記』によれば、長江荘の地頭は義時であった。

※もし改易の要求に従えば、他の御家人の地頭職も朝廷は容易に改易することができる。義時が改易を拒めば、鎌倉への親王下向を撤回し、義時を朝敵にすることができる。そのような魂胆であったと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久1年(1219) 3.12 尼御台所政子の邸宅に、弟の北条(平)義時、時房、そして泰時と大江広元が集まり、会議を行った。長江荘の地頭職解任については、すぐに拒否すれば後鳥羽院の怒りを買うだろうからと、返答を引き伸ばすことにした。(『吾妻鏡』)

・承久1年(1219) 3.15 北條(平)時房は姉政子の使者として、長江荘の地頭職改易要請の返答と、親王下向の懇願のために、1000騎を引き連れて京都に向かった。(『吾妻鏡』)

※武力を示すという最終手段を選んだほどに、鎌倉幕府は追い詰められていた(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久1年(1219) 北條(平)時房は後鳥羽院に対して、地頭職解任の院宣を拒否する意向を伝えた。(『吾妻鏡』) 後鳥羽院親王下向に関して、「イカニ将来ニコノ日本国二ニ分ル事ヲバシヲカンゾ(どうして将来日本国を2つに分けることが出来ようか)」と前言撤回を行ったが、「タダノ人ハ、関白・摂政ノ子ナリトモ申サムニシタガフベシ(皇親でないただの人なら、摂政・関白の子であっても願い通りにしてやろう)」と、皇親でないなら下向させてもよいとの意向を表明した。(『愚管抄』)

※鎌倉の軍勢を見て、後鳥羽院は多少の譲歩をしたのかもしれない(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久1年(1219) 6.25 左大臣九条(藤原)道家の子息,三寅(後の頼経)が、相模国鎌倉に向けて出発した。(『吾妻鏡』)

源頼朝の姉が一条(藤原)能保に嫁ぎ、2人の娘を儲けていた。1人は九条(藤原)良経に嫁いで道家を産み、もう1人は西園寺(藤原)公経に嫁いで掄子を産んだ。道家と掄子の間に産まれたのが、教実、良実、実経ら、そして三寅であった。武力を誇示しても、鎌倉幕府が奉戴できたのは、頼朝の姉の曾孫という遠い血縁で、当時2歳の子供であった。当時の鎌倉幕府が危機的であったことが理解できる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久1年(1219) ?.? 藤原定家は歌論書『毎月抄』を著した。

※定家は『毎月抄』において、和歌に関して「幽玄」よりも「有心」を高く評価している。「有心」というのは、深く心の籠ったことを言うのだと思われる(末木文美士『日本思想史』)。

・1220年 2. モンゴルはホラズムを攻め、ブハラとサマルカンドを攻略した。

※スルタン,ムハンマドはクーデターを恐れ、実母テルケン ハトゥンを主人と仰ぐ、テュルク系カンクリ族の兵力を集中させることを避けた。しかしそれが仇となり、都市や要塞は陥落していった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1220年 3. モンゴル軍はサマルカンドの住民に出城を命じ、それを無視した者は殺害すると布告した。そしてモンゴル軍は掠奪のために市内に入り、布告を無視して市内に隠れていた住民を殺害した。生き残った住民の内、工芸家と職人30000以外は、チンギス カン,テムジンの子息やキサキ、将校らに与え、捕虜には兵役を課した。残る50000の捕虜は、身代金の支払いを条件に帰還を許された。『世界征服者の歴史』)

・承久2年(1220) 4.14 源頼家の遺児,禅暁は殺害された。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 4.20 順徳天皇は譲位し、懐成親王践祚した(仲恭天皇)。(『葉黄記』)

・1220年 4. ホラズムのスルタン,ムハンマドは逃亡して西に向かった。

※早い撤退であったことから、ゲリラ戦を行おうとしたとも推測される。しかし、スルタンの逃走はホラズムを崩壊に近づけることになる(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1220年 モンゴル軍とホラズム軍の戦地は、ホラーサーン・アフガニスタンに移った。

※この戦闘において、無意味な攻撃が行われるなど、モンゴル軍の行動に計画性は見られない。ホラズム軍を深追いして、不必要に踏み込んだからとも考えられる。ホラーサーン・アフガニスタンの作戦は、モンゴルにとって成功とは言えない結果となった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

※モンゴル側は、敵の降伏を促すために、殺戮や破壊を誇張して喧伝した。また、それらの行為は当時において功業であるため、後の世のモンゴル側の史書にも、敵の犠牲者は多く記された(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1220年 12. 逃亡していたホラズムのスルタン,ムハンマドカスピ海の孤島にて死去した。

・1221年 プレスビテル ヨアンネスは、ダヴィデを名乗り、ペルシアを攻略し、バグダード近くまで来たという噂が、ヨーロッパに流れた。

※モンゴルがホラズムを攻めていたことが、思い込みにより婉曲され、ヨーロッパに伝わったのだと推測される(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1221年 南宋の使者がモンゴルを訪れた。使者はモンゴル人について、純朴であったことを書き残した。(『蒙韃備録』)

・1221年 春 都市バルフはモンゴル軍に降伏し、チンギス カン,テムジンに贈り物をした。テムジンはバルフの人口調査をするとして住民を市外に出させ、虐殺した。

※前方にはホラズムの新スルタン,ジャラール ウッディーン率いる大軍がおり、人口の多いバルフをそのままにして後にすることを危険と考えたことが理由である(宮脇淳子『モンゴルの歴史[増補新版]』)。

・承久3年(1221) 5.14 仲恭天皇の勅命という形で、後鳥羽院は兵を招集した。この軍勢は官軍と呼ばれた。

※朝廷軍には大内(源)惟信、佐々木(源)定綱の子息広綱、後藤(藤原)基清、河野通信などの御家人もいた。北条(平)義時ら鎌倉幕府首脳部への反感を持つ者もいたかもしれないが、多くは勅命が下ったとの理由で特別な考えはなく参加した者であった(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 5.15 西園寺(藤原)公経、実氏父子は、後鳥羽院の意向で捕縛された。

※公経は朝廷と鎌倉幕府の交渉を請け負っており、その職によって権力を持っていたが、後鳥羽院からは幕府側と認識されていたのである(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 5.15 後鳥羽院は、山城国京都にいた伊賀(藤原)光季を討伐するために兵に出陣を命じた。光季は奮戦の末、子息の光綱を殺害した後に自害した。(『浄久記』)

・承久3年(1221) 5.15 仲恭天皇の命という形で、北条(平)義時追討の宣旨が発給され、御家人を含めた全国の武士に対して、義時の討伐が命じられた。(「小松美一郎所属文書」)

鎌倉幕府が反義時派と争って瓦解すればそれまでである。しかし、後鳥羽院は、朝廷の威光があれば義時討伐は容易に終わるとの算段があったとも考えられる。後鳥羽院は反義時派による新たな幕府を管轄下に置き、武力も手に入れた治天の君になることを狙ったとも推測される(細川重男『頼朝の武士団』)。

※鎌倉殿の三寅(後の藤原頼経)は幼く、尼御台所,政子は女性であることから追討対象にはできない。そのため、追討対象として義時を名指ししたとも考えられる。後鳥羽院の目的が義時のみの排除にあったかは断定できないという見解もある(亀田俊和『新説の日本史』第2章)。

・承久3年(1221) 5.19 西園寺(藤原)公経の家臣,三善長衡が発した使者が、鎌倉に到着し、伊賀(藤原)光季が討たれたことと、北条(平)義時追討の宣旨が出されたことを伝えた。三浦(平)義村に対しては、朝廷軍に付いた弟胤義から義時を討伐するよう要請する書状が届いた。しかし義村は書状を義時に渡し、幕府に忠義を尽くすことを述べた。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 5.19 尼御台所政子は御家人たちを自室に招き、安達(藤原)景盛を通して言葉を伝えさせた。景盛の口から、御家人が享受した源頼朝の恩が述べられた。そして後鳥羽院は「逆臣の讒」により義のない綸旨を出してしまったとして、「逆臣」である藤原秀康と三浦(平)胤義を討伐するよう命じた。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 5.19 北条(平)義時、泰時、大江広元、三浦(平)義村、安達(藤原)景盛は、朝廷軍に対処するための会議を行った。当初、足柄と箱根を封鎖して朝廷軍を迎撃する案が出されたが、広元は山城国京都に軍勢を送ることを主張した。義時は姉政子の元に行き、どうすべきか尋ねると、武蔵国の兵が集まったらすぐにでも出陣すべきと返答された。義時は遠江国駿河国伊豆国甲斐国信濃国相模国武蔵国安房国上総国常陸国下野国上野国陸奥国出羽国越後国に向けて、出陣を命じる関東御教書が発給された。(『吾妻鏡』)

※御教書は、鎌倉殿の意向を執権が伝えるものである。しかし当時鎌倉殿になる予定の三寅(後の頼経)は元服もしていない。御教書が奉じた意向は、源頼朝の後家である政子のものと考えられる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 5.22 北条(平)泰時は、源頼朝より授かった剣を携え、20騎を率いて出陣した。東海、東山、北陸の軍勢が加わり、その数は増えて言った。(『吾妻鏡』)

〔参考〕『増鏡』には、泰時が、後鳥羽院本人が敵軍として出陣したなら、どうすべきかを父,義時に訪ねたとある。義時はその際は降伏するべきだと答えたという。

※義時のような「関東の無骨物」であっても、太上天皇に対する敬意があったのだと、そう主張するために創作された逸話とも考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

・承久3年(1221) 6.8 朝廷軍が敗れたとの知らせが次々と伝わり、後鳥羽院は、西園寺(藤原)公経・実氏父子を連れて比叡山に向かった。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 6.10 後鳥羽院は帰京し、西園寺(藤原)公経・実氏父子を赦した。(『吾妻鏡』)

※敗戦後の鎌倉幕府との交渉役として期待したのだと思われる(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 6.14 幕府軍と朝廷軍は宇治川を挟んで睨み合った。幕府軍は死亡者を出しながらも氏川を渡り、朝廷軍を撃退した。西園寺(藤原)公経は家司の三善長衡を泰時の陣に派遣した。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 6.15 〔参考〕三浦胤義と藤原秀康後鳥羽院に対して出陣を要請した。しかし後鳥羽院は「只今ハトクトク何クヘモ引退ケ(今すぐどのにでも行け)」と言って出陣しなかったという(慈光寺本『承久記』)

※自分がしてやれることは何もないから、逃げるよう促したとも解釈される(細川重男『頼朝の武士団』)。

・承久3年(1221) 6.15 幕府軍山城国京都に進軍し、洛中に入った。三浦(平)胤義は教王護国寺に籠城し、兄義村の兵に攻められて、逃亡の後に自害した。後鳥羽院は、今回の合戦は「謀臣」が引き起こしたものとして、北条(平)義時追討の宣旨を撤回した。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 6.19 仲恭天皇の命という形で、後鳥羽院藤原秀康の追討を命じる宣旨を発給した。(『百錬抄』『承久三年四年日次記』)

・承久3年(1221) 6.23 北条(平)泰時の書状が鎌倉に届き、父義時と伯母政子は幕府軍の勝利を知った。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 7.2 後藤(藤原)基次、佐々木(源)広綱、五条有範らは処刑された。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 7.5 後鳥羽院の側近である、参議,一条(藤原)信能は美濃国遠山荘にて処刑された。(『吾妻鏡』)

・承久3年(1221) 7.8 後鳥羽院は出家した。(『愚管抄』) 法名は金剛理。(『一代要記』)

・承久3年(1221) 7.9 仲恭天皇は退位させられた。(『愚管抄』『吾妻鏡』『百錬抄』)