ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後二条天皇の時代

・正安3年(1301) 1.21 後伏見天皇の譲位により、邦治親王践祚した(後二条天皇)。(『継鹿記』)

・正安3年(1301) 7.20 尊治親王の母,忠子は准后宣下を蒙った。(『実躬卿記』)

〔要参考〕『実躬卿記』には、忠子は亀山院からの寵愛により、高倉西大炊御門南の御所に住んでいたとある。

※忠子の准后宣下は、亀山院の意志が働いていた。忠子の地位が高くなったことで、尊治親王らその子息たちもその影響を受けた(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・正安3年(1301) ?.? 卜部兼方と『釈日本紀』の写本が作成された。(『釈日本紀』奥書)

※『釈日本紀』には、神武天皇大和国において即位したため、「ヤマト」を国号にしたと説明する。王権の本拠地の名称が国号になるという観念がこの時点においても受け継がれていたことを示している(吉田孝『日本の誕生』)。

・1302年 ドミトリーの子息イヴァンは、同盟者で叔父のダニールに拠点のペレヤスラヴリを遺贈して死去した。ダニールの伯父ウラディーミル大公アンドレイは、相続を認めなかったが、ダニールはアンドレイの代官を追放してペレヤスラヴリを支配した。ジョチ ウルスのカン,トクタによって、ペレヤスラヴリはダニールの支配するモスクワ公国に帰属することになった。

・1303年 モスクワ公ダニールは死去した。

※大公とならなかった者の子孫は、大公になれない慣例であった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・嘉元2年(1304) 3.7 後二条天皇の弟,尊治親王大宰帥に任じられた。(『続史愚抄』)

※これは院政を敷く後宇多院が、子息,尊治親王の有用性を認識し、また、その兄,後二条天皇とその系統の将来に、何らかの不安を感じていたとも考えられる(森茂暁『後醍醐天皇』)。

・嘉元2年(1304) 12.7 北条(平)師時は執権に、北条(平)宗方は越訴頭人・侍所所司・得宗公文所執事に就任した。(『北条九代記』)

※宗方の27歳の就任は、異例のことであった。北条(平)貞時は師時と宗方を側近として育てるために要職を歴任させていたのである。こうして鎌倉幕府の政治と軍事の指揮権は得宗家一門に独占された(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・1304年 ウラディーミル大公アンドレイが死去し、その弟ヤロスラフの子息トヴェリ公ミハイルが、新たなウラディーミル大公となった。

※ユーリーなど、ダニールの子息らはミハイルに対してウラディーミル大公位を要求し、争いとなった。どちらもジョチ ウルスのカン,ウズベクに訴えている(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

 

・嘉元3年(1305) 3.6 後宇多院の御所にて、『群書治要』の談義が行われた。後宇多院と、その子息である後二条天皇・尊治親王兄弟が出席した。(『園太暦』)

帝王学の書である『群書治要』の勉強会に参加させていることから、後宇多院としては尊治親王を政治の重要な部分を担ってもらおうとしたのだと考えられる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・嘉元3年(1305) 4.23 政村流,北条(平)時村は殺害された。(『北条九代記』『園大暦』)

※これは北条一門庶流で最長老であった時村を殺害し、北条(平)貞時が自身に対する抵抗勢力の排除を画策したとも考えられる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・嘉元3年(1305) 5.2 北条(平)時村を殺害した徒党の内、11人が処刑された。(『北条九代記』)

〔参考〕『保略間記』によれば、時村の殺害は「僻事(間違い)」であったとして、実行者は処刑されたのだという。

・嘉元3年(1305) 5.4 北条(平)宗方は殺害された。 (『北条九代記』『武家年代記』)

※北条(平)貞時は、北条(平)時村を殺害したことに対する反発が大きかったことから、宗方の殺害を命じたとも考えられる。結果として貞時の構想した、得宗家による専制支配は挫折する形となった(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・嘉元3年(1305) 8.5 亀山院は、恒明親王立太子について、鎌倉幕府の了解を得るべきことを書き残した。(『宸翰英華』43)

※その文書から、恒明親王立太子には、後宇多院と伏見院から了解を得ていたことが理解出来る。また、前右大臣,西園寺(藤原)公衡に恒明親王の扶持を委託しているのは、彼が恒明親王の母,瑛子の兄かつ関東申次だったことによる(森茂暁『後醍醐天皇』)。

・嘉元3年(1305) 7.26 亀山院は配偶者や親族への財産分与を行った。後宇多院の妻の1人,忠子には住まわせていた御所と荘園3ヶ所を与え、忠子の死後は子息の尊治親王に譲るよう遺言した。(「亀山院凶事記」『鎌倉遺文 29』22285)

※亀山院は自身の皇子,恒明親王に関して、立太子を望むなど愛情を持っていたが、孫の尊治親王も気にかけていたことが理解できる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・嘉元3年(1305) 閏12.22 前右大臣,西園寺(藤原)公衡は後宇多院の勅勘を蒙り、伊予国伊豆国にあった所領を没収された。(『公卿補任』『皇代暦』)

※これは、恒明親王立太子という故亀山院の意志を履行しようとして、後宇多院との間に確執が生じたことが理由だと思われる(森茂暁『後醍醐天皇』)。

・徳治2年(1307) 白馬節会が挙行された。尊治親王も出席した。(『実躬卿記』)

〔要参考〕『実躬卿記』には、長らく白馬節会が行われておらず、親王の作法を伝える記録もなかったため、新しく作法を作り、尊治親王左大臣,鷹司(藤原)冬平に教わったとある。

※このような経験から、尊治親王の、正しい朝廷の儀式を伝えようとする意志に繋がった可能性が指摘される(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・徳治2年(1307) 5.15 尊治親王中務卿に任じられた。(『実躬卿記』)

大宰帥中務卿を歴任したのは、父,後宇多院による引き立てであると考えられる。後宇多院としては、後二条天皇の系統による皇位継承を支えてくれることを期待したのだと思われる(森茂暁『後醍醐天皇』)。

・徳治2年(1307) 昭訓門院,瑛子は、皇太子,富仁親王践祚と、自身の子息,恒明親王立太子鎌倉幕府に申し入れた。(宮内庁書陵部所蔵「恒明親王立坊事書案」)

恒明親王とその周辺が、持明院統に接近していたことが伺える。持明院統としても、恒明親王が皇太子となれば、富仁親王践祚も実現可能であり、そのため恒明親王立太子を支援したと思われる(森茂暁『後醍醐天皇』)。