ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

崇徳天皇の時代(保安、天治、大治、天承、長承、保延)

・保安4年(1123) 2.25 顕仁親王は皇太子となり、鳥羽天皇の譲位を受けて践祚した(崇徳天皇)。(『法性寺関白記』)

・1125年 トゥングース系遊牧民のジュシェン(女真)族は、ワンヤン(完顔)部族の長アグダに率いられ、皇帝を捕えキタイを滅ぼした。アグダは皇帝となり、ワンヤン部族の本拠地近くの川アンチュフ(ジュシェン語で黄金)に因んで国号を「金」とした。

※キタン勢力は金の軍事力となり、キタン人は官僚にもなる者がいた。耶律大石なとの一部のキタン人は金に服属せず、中央アジアに移った(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1126年 金は開封を占領し宋の欽宗,趙桓を捉えた。

※こうして金はキタイの領土に加え、華北も獲得した(岡本隆司『世界史序説』)。

※ジュシェン人は元々森林地帯で狩猟を営んでおり、家屋も固定であって農耕も行っていた。そのためキタイよりも中国型都市社会には適応が容易であった(岡田英弘世界史の誕生』)。

※ジュシェン人は銅貨を用いていたが、華北では銅の鉱山が少なく、しかし商業は発展している状況であったため、通貨が不足した。そこで金政府は約束手形を大量発行した。こうして、信用取引が促進された(岡田英弘世界史の誕生』)。

※ジュシェン人は、漢字を参考にして、自分たちが話す言語を書き表すための文字を作った(岡田英弘世界史の誕生』)。

1127年 宋の皇族や、遺臣は江南に逃れ、趙桓の弟趙構を皇帝として(高宗)、宋を存続させた。以降の宋は南宋と呼ばれる。

・1132年 耶律大石率いるキタン(キタイ)人らはモンゴル高原の勢力を吸収し、新たな国家を成立させた。カラ キタイと呼ばれる。

※カラ キタイとは、ペルシア語で「黒いキタイ(キタン)」という意味である。ただ、イスラームの史料では、キタン族は全てカラ キタイと呼ばれた。カラ キタイは「中国」からは西遼と呼ばれた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1135年 モンゴル部族は金領付近にて掠奪を開始した。

※当時のモンゴル部族は、自らの集団をカムク モンゴル ウルスと呼んでいた。カムク モンゴルを直訳すれば「あまねくモンゴルの民の集まり」となる。「ウルス」は国のことであるが、意味合いとしては「人の集まり」に近い。当時のモンゴル部族は、血縁で結びついた氏族集団が、複数集まって構成されていた(白石典之『モンゴル帝国誕生』

・1136年(阜昌7)10.(陰暦) 金が置いた傀儡国家である斉国にて、『華夷図』が刻まれた。

※唐朝の『海内華夷図』を参考にしているとされる。南は五天竺、西はパミール、西は大秦(ローマ領)とシリア、西はペナン(扶南)とジャワに至る。それほど「中華」の枠を出るものではなかった(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・保延2年(1136)頃 雅仁親王は今様に熱中していた。(『梁塵秘抄口伝集』)