ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後深草天皇の時代

・寛元4年(1246) 1.29 後嵯峨天皇の譲位により、久仁親王践祚した(後深草天皇)。(『葉黄記』)

・寛元4年(1246) 3.23 北条(平)経時は自邸にて「深秘の御沙汰」を行った。その後、自分は病で助かりそうになく、子息は幼いからとして、弟の時頼に執権を譲った。(『吾妻鏡』)

※これは秘密会議であり、「寄合」の初名である。このときは、出席者や会議の内容も不明である。

・寛元4年(1246) 閏4.1 前執権,北条経時は死去した。(『吾妻鏡』)

・寛元4年(1246) 5.24 名越流,北条(平)光時が中心となって、執権,北条(平)時頼を滅ぼすという噂が立っていた。そのため、時頼は鎌倉に厳戒態勢を敷き、光時を出家させた。(『吾妻鏡』)

・寛元4年(1246) 5.26 執権,北条(平)時頼は、名越流,北条(平)光時を伊豆国江馬に流罪とした。(『吾妻鏡』)

・1246年 〔参考〕ヤロスラフはジョチ ウルスへの貢納を開始したのだという。(『年代記』)

※徴税のための人口調査人や貢納徴収人に関する記録はないものの、何らかの貢納義務がルースィに課されていた可能性も指摘されている(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・寛元4年(1246) 7.11 前将軍,藤原頼経は帰洛のため出発した。(『吾妻鏡』) 

・1246年 7.22 ヨハンネス カルピニは、バトゥが認可した駅伝の道を通って、モンゴル夏の幕営地シラ オルド(黄金の天幕)を訪れた。

・1246年秋 大モンゴル ウルスにてクリルタイが開かれ、オゴデイの子息グユクがカアンに選出された。

クリルタイに際して、モンゴルの宗族や有力者は参集していたので、ヨハンネス カルピニにとっては観察の好機であった。帰国途中、ヨハンネスは『ヒストリア モンガロルム(モンゴル人の歴史)』という報告書を記した。内容からは、敵情を探ることが目的であったことが理解できる。また、キリスト教文明の優位性を述べながら、モンゴルについては野蛮さや破壊、殺戮を強調している(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※グユクは病弱であった(宮脇淳子『世界史のなかの蒙古襲来』)。

・1246年 9.30 ウラディーミル大公ヤロスラフはカラコルムにて死去した。ローマ教皇使節であるプラノ カルピニによれば、カアン,グユクの母ドレゲネから料理を振る舞われた7日後に死去したのだという。また、毒殺説も流れたのだという。

※グユクのカアン即位を許容しなかったために、グユクとジョチ ウルスが対立していた背景から毒殺されたという説や、ヤロスラフがローマ教皇と交渉したことに関してグユクの怒りを買ったという説もある(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・寛元4年(1246) 11.3 朝廷にて院評定が行われた。(『葉黄記』)

・宝治1年(1247) 7.27 六波羅探題,北条(平)重時は連署となった。(『吾妻鏡』)

・ヤロスラフの弟であるスヴャトスラフはウラディーミル大公となった。しかしそれをヤロスラフの子息ミハイルが強奪した。

・1247年 ヤロスラフの子息であるアレクサンドルとアンドレイは、大公位を要求してバトゥに訴え出た。バトゥは兄弟をモンゴルに送り、その裁定を委ねた。

・宝治1年(1247) 11.24 烟田(平)朝秀は子息,幹泰に烟田・富田・大和田・鳥栖などの所領を譲った。(「烟田文書」『鎌倉遺文』6903)

※秀幹から朝秀、そして幹泰に受け継がれた烟田・富田・大和田などは烟田惣領家の私領として固定化されたことが理解できる。譲状の文言に「嫡男一向に領知せしむべし」とあることから、所領が分割相続から長子単独相続に社会が転換していったことを示すものであるとも考えられる(関幸彦『武士の誕生』)。

・1247年 ドミニコ会修道士,アスケリヌス(アッセリーノ)の使節団は、モンゴルの部将バイジュの陣営を訪れた。使節団は書簡を渡して、バイジュへの面会を求めたが、その態度かモンゴルの将官を怒らせた。使節団はバイジュに会うことができず、ローマ教皇にモンゴルへの臣従を求める書簡を渡されて帰国した。

※ヨハンネス カルピニに渡されたカアン,グユクの書簡と、アスケリヌスに渡された書簡の文面は違ったものだった。モンゴルの領土の西方にいたバイジュまで、カアンの意志が届いていたことを示している(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1248年 キプロス島ニコシアにいた、フランスのレックス,ルイⅨのもとに、モンゴル将官エルジギデイからの使者という、ネストリウス派キリスト教徒が赴いた。その書簡は、モンゴルのカアン,グユクとエルジギデイがキリスト教徒になったと述べており、キリスト教への好意を含んでいた。

※グユクは入信したかは不明であるが、ネストリウス派に関心を持っていた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1248年 ミハイルはリトアニアにて戦死し、スヴャトスラフが再びウラディーミル大公となった。

・1249年 モンゴルのカアン,グユクはアンドレイをウラディーミル大公、アレクサンドルを「キエフと全ルースィの公」と認め、帰還させた。

アンドレイがウラディーミル大公に任じられたのは、グユクの寵愛を受けたとも推測される。バトゥとグユクの関係は良くなかったため、その後アンドレイはバトゥを訪問したり、贈り物をすることはなかった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1248年 4. 西征への遠征中だったカアン,グユクは、その道中クム・センギルにて死去した。

・1249年 バトゥは軍事力を背景に、空位となったカアン位の選出のため、クリルタイの開催を画策した。グユクの正妻オグル ガイミシュには、モンゴル本土の庶務を命じた。

※あくまで宗族の一員に過ぎないバトゥとして、これは越権行為であつた。バトゥは、母方の従兄弟でもある、モンケの奉戴を望んだ。オッチギン家の老臣たちは、オッチギンの幼い孫,タガチャルを立ててクリルタイに参加した。これにより、次期カアン位はモンケに傾いた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1249年 2. フランスのレックス,ルイⅨは、3人のドミニコ会修道士を使者として、モンゴルからの使者とともに送り出した。

※ルイⅨとしては、モンゴルと協力して、イスラーム勢力を打倒して聖地イェルサレムを回復する算段であった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・建長1年(1249) 7.23 駿河国において、小次郎入道という人物が、紀藤次という人物を「母開」と揶揄して訴訟となった件について、小次郎入道は裁判に出頭しなかったために2貫文の罰金が科された。(尊経閣古文書纂宝「菩提院文書」)

※当時、2貫文は高額であったため、「母開」という悪口が深刻なものであったのとが窺える。「開」は「つび」と読み、「女性器」から転じて「性行為」を意味する言葉である。つまり「母開」とは母親との性行為を示すものである。それを相手に対して用いれば自分が相手の母親と性行為に及んだこと、ないしは相手の母親を犯すことの宣言となる。相手の母親が淫乱であることを公言し、相手の出生まで貶めるものである。また、相手が相手の母親と性行為に及んだと解釈することもでき、その場合は相手の不道徳さを罵る言葉となる。どちらの意味であるにしろ、母子の名誉を懸けた訴訟になるほどの卑猥な悪口であったことになる(清水克行『室町は今日もハードボイルド』)。

・建長1年(1249) 12.? 鎌倉幕府は引付方を設置した。(『吾妻鏡』)

※引付方の長である「引付頭人」は評定衆の上位者が兼任し、その下位に評定衆引付衆、奉行人が位置づけられ、評定が審議する訴訟を、事前に審査することが役割であった(細川重男『宝治合戦』)。

・建長2年(1250) 2.26 北条(平)時頼は藤原頼経に対して、文武の稽古をするべきであると提言した。その結果、和歌と漢詩の学問のために中原師連と世良田(源)頼氏が、武芸の練習のために安達(藤原)義景らが選ばれ、呼ばれたら文武について頼経に教えることとなった。(『吾妻鏡』)

※武士の政治的な立場があがるにつれて、その頂点に立つ征夷大将軍には、武芸だけでなく為政者としての能力が求められたのである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1250年 エルジギデイに送られて、フランスからの使者は、亡きカアン,グユクの未亡人、オグル ガイミシュのもとを訪れた。フランスからの使者は、モンゴルのカアンが改宗したことを祝うとして、フランスのレックス,ルイⅨから預かった、天幕製の礼拝堂、聖書、イェシュアの生涯を描く刺繍などを贈った。

※オグル ガイミシュは、贈り物に対して好意的な反応は示さなかった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1250年 12.13 神聖ローマのカエサル,フリードリヒⅡは死去した。

※亡骸が纏う衣装はイスラーム風であり、アイユーブ朝スルタン アル=カーミルを讃える言葉が縫いつけられていた(宮田律『イスラームがヨーロッパを創造した』)。

・1250年 府主教キリルは、北東ルースィの諸公国リャザン、スズダリなどを訪問した。

※キリルはガーリチ公ダニールと密接な関係があった(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1251年 パレスティナに滞在中の、フランスのレックス,ルイⅨのもとに、モンゴルから帰還した使者が赴いた。モンゴルからの返書は、フランスに対して金銀の貢納を求め、応じないなら滅ぼすというものであった。

※こうしてルイⅨによる聖地奪回計画は潰えた。モンゴルとしても、オグル ガイミシュの対応により、中東攻略の機会を失ったことになる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1251年 大モンゴル ウルスにて、モンケがカアンに選出された

※モンケは数ヶ国語を話し、エウクレイデス幾何学を理解していた。従軍経験も豊富であり、人望のなかったグユクに比べ、カアンとして相応しいと見なされた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1251年 カアン,モンケは、オゴデイ家、チャガタイ家の中で、自身の即位に反対した者はクリルタイに招かないことにし、祝宴を襲おうとしたと噂される者たちを処罰した。また、オゴデイ家とチャガタイ家のウルスは細分化させ、パミール以西はモンケとバトゥで共同で治めるとした。

※モンケは粛清の断行により、大モンゴル ウルスの統制を回復しようとした。しかし、共に富貴を享受するというモンゴルの伝統は損なわれ、ウルス内の不安定要素を増幅させることとなった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1251年 大モンゴルのカアン,モンケは、ジャライル族のモンセルを中心として中央政府の人事を行い、華北中央アジア、イランの属領の財務と徴税機関の担当者を決定した。

※徴税機関の人事は、モンゴル人の軍団長と、イラン系イスラーム教徒による形を明確化した。中央による統制を徹底させようとしたのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1251年 大モンゴルのカアン,モンケは、弟のクビライとフレグに征服活動を委任した。クビライには「中国」を含む東方、フレグにはイーラーン ザミーン以西の征服が命じられた。また、フレグの西征に伴い、部将サリ ノヤンにも兵が与えられ、インド方面の征服も命じられた。

※モンケが構想していたのは、ユーラシアの西北をジョチ家、西南をフレグ、東南をクビライ、東北をタガチャルら、トルイ家の本領を末弟のアリク ブケに治めさせ、それをモンケがモンゴル本土において統括するもいう、世界征服であった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1251年 クビライは金蓮川の草原に入り、そこを東方を経営するうえでの本拠地とした。

※クビライははじめに、雲南と大理への遠征を考えた。宋を側面もしくは背後から攻撃できるからである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1251年 ウラディーミル大公アンドレイは、南ルースィのガーリチ公ダニールの娘を妻に迎えた。

※ダニールは城砦の建設や対モンゴルのためにローマ教皇庁やマジャルロザーク君主ベーラと交渉していた。そのため、アンドレイとダニールの同盟は、反ジョチ ウルスを理由とするものとも考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

キエフと全ルースィの公アレクサンドルは、弟アンドレイと違い、ジョチ ウルスによる支配を容認した。バトゥの支配を認めることでモンゴルから攻められなくするというのは、正教会や、大きな被害を被った北東ルースィ諸公も同調していたと思われる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

カラコルムに至った際に、モンゴルの支配が貢納を基本とした間接支配であり、宗教的に寛容だったために、反モンゴル的同盟やカトリックとの共闘に懐疑的だったとも考えられている(A A ゴルスキー『中世ロシアの政治と心性』)。

・建長3年(1251) 12.2 足利(源)泰氏は出家した。(『吾妻鏡』)

・建長3年(1251) 12.7 足利泰氏は自ら、無断出家の罪状を執権,北条(平)時頼に対して申し伝えた。時頼は泰氏の所領である下総国埴生を没収し、金沢流,北条(平)実時に与えた。(『吾妻鏡』)

※こうして時頼は、足利家を権力から遠ざけることに成功したとも考えられる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・建長3年(1251) 12.26 謀反の疑いとして、了行法師、矢作左衛門尉、長次郎左衛門尉久連が捕縛された。(『吾妻鏡』)

〔要参考〕『武家年代記裏書』は、了行法師について「三浦」と注記する。

〔要参考〕『千葉大系図』は矢作左衛門尉について、諱を常氏とする。彼は千葉/国分(平)常義の子息であり、藤原頼経の命に従い智謀を巡らせたという。

〔要参考〕『保暦間記』によれば、了行の捕縛に伴い、九条(藤原)道家の一族の僧俗は勅勘を蒙ったという。

※捕縛された了行と常氏は、宝治合戦で敗れた三浦家と千葉家の一族の残党であり、黒幕は道家・頼経父子であったと考えられる。彼らは足利(源)泰氏を執権に就ける予定であったものの、泰氏は状況的な不利を察して、自発的に出家したとも推測される(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・建長4年(1252) 4.1 宗尊親王征夷大将軍に任じられた。(『吾妻鏡』)

〔参考〕『五代帝王物語』は、世の中も鎌倉幕府も穏やかであるため、後嵯峨院は自身の皇子を鎌倉に下向させることを了承したと推測する。

後深草天皇の異母兄を鎌倉殿として迎えることで、鎌倉の政権を京都の政権と並ぶものにする意図があったとも考えられる(近藤成一「平将門」『歴史のなかの人間』)。

・建長4年(1252) 4.? 征夷大将軍,宗尊親王相模国鎌倉に到着した。(『吾妻鏡』)

〔参考〕『上杉系図』によれば、勧修寺流,藤原重房が宗尊親王に従って鎌倉に下向し、丹波国何鹿郡上杉荘を所領として上杉を苗字にしたという。

・建長4年(1252) 8.6 安達(藤原)義景は宗尊親王相模国鎌倉に下向したことに関して、武家にとって名誉なことだと述べた。(『吾妻鏡』)

天皇の兄弟が鎌倉幕府の将軍になったことにより、幕府は天皇に次ぐ地位を手に入れたことになる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・建長4年(1252) 11.3 鷹司(藤原)兼平は太政大臣に任じられた。(『百錬抄』)

※『御堂関白記』自筆本全36巻の内、九条家と二分した近衛家が所持するのが14巻なのは、庶流の鷹司家に4巻分を譲ったからとも推測される(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・建長4年(1252) ?.? 相模国鎌倉の深沢里において、大仏の鋳造が開始された。(『吾妻鏡』)

鎌倉幕府によって鋳造された大仏は、朝廷の手がけた東大寺の大仏、もしくは九条摂関家の手がけた東福寺の大仏を意識したものであると考えられる。朝廷に相当する威儀を備えようとする意識を伺わせる(近藤成一「平将門」『歴史のなかの人間』)。

・建長4年(1252) ?.?『十訓抄』が設立した。(『十訓抄』序文)

※その序文には、「翁、念仏ノヒマニ、是ヲシルシヲワル事シカリトナンイヘリ(山口仲美訳:翁が念仏生活の合間に、これを記し終わったとネ、と言っている)」とある。「ナン」の結びは連体形の「ル」ではなく「リ」となっており、「なむ」の連体形の係り結びが崩れていることが理解できる(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1252年 ペルシアの知識人、ジュヴァイニーは、モンゴル総督アルグン・アカに伴われてカラ・コルムを訪問した。彼はモンゴルの宮殿である万安宮について、契丹の職工たちが建てたと語っている。(『世界征服者の歴史』)

※発掘調査からは、素焼きの瓦や、青磁の壺が見つかっており、穀物庫や財宝庫と思われる場所も発掘されている(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・1252年 キエフと全ルースィの公アレクサンドルは、大公位を求めてサライに赴き、何らかの働きかけをした。すると、ウラディーミル大公アレクサンドルは、モンゴルの君主族ネヴリュイの懲罰軍に襲われた。

〔参考〕タチシチェフの歴史書は、アレクサンドルが、「アンドレイがモンゴルへの税金の一部を着服していると訴えた」とする。

※当時のモンゴルのカアンは、バトゥの推すモンケであった。反ジョチ ウルス的な態度を取るアレクサンドルを懲罰したのだと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・ネヴリュイの懲罰軍は、ペレヤスラヴリ近郊でアンドレイを破った。

キエフとルースィの公アレクサンドルは、バトゥよりウラディーミル大公に任じられた。

※アレクサンドルは北東ルースィと北西ルースィの統合のために尽力した。それは両地域の結束を高め、生き延びることを可能にしたといえるが、モンゴルの侵攻を受けなかった北西ルースィもモンゴルの支配下になったことになる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・建長5年(1253) 8.28 道元は死去した。(『建長寺年代記』)

※部派仏教においては、身体の不浄を観ずること(不浄観)は、修行者がまず行うべき修行だと考えられていた。しかし道元は、著書『正法眼蔵』において解釈を改め、不浄を観ずるという行為は日常生活において行われるものだと説いた。道元の説いた「不浄観」は、浄と不浄の対立を超越した位置にて行われることになる。日本における現世中心主義と楽天性のために、現世を不浄とみなす思想は定着しなかったとも考えられる(中村元『日本人の思惟方法』)。

・1253年 ジョチ ウルスより、租税人口を調査するための人が、ルースィに派遣された。

※反モンゴル派が衰退したことで、人口調査が可能となったのである。ただ、このときは住民の抵抗にあって失敗した(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1253年秋 クビライは雲南遠征を開始した。

・1253年秋 フレグは西に遠征を開始した。最初の目標は、ニザール派の打倒であった。

〔参考〕ルブルクのギヨームの『旅行記』には、ニザール派は大モンゴルのカアン,モンケを殺害するためにカラ コルムに刺客を送ったのだという。

〔参考〕『集史』には、フレグの西征の目的は、ニザール派アッバース朝を滅ぼし、イラン全土を掌握することだったとある。

※『集史』はフレグ側から記されており、領土の獲得という結果から、逆算しているとも考えられる(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1254年 フランス君主ルイ9世の命により、ルブルクのギヨームはカラ・コルムを訪れた。彼は市はサン=ドニ市よりも小さく、サン=ドニの教会はカラ・コルム宮殿の10倍の大きさがあると記録した。また、フランス人、マジャルロザーク人、ラスィーヤ人、サカルトヴェロ人などがカラ・コルムに暮らしており、東門では穀類、西門では羊と山羊、南門では牛と車、北門では馬が売られていたのだという。

※ギヨームはキリスト教の伝道のために来たと主張したが、モンケはフランスが臣従する意志を示す使者だと考え、もてなした。

※カラ コルムは、大きな都市ではなく、支配の象徴であった。ギヨームの言葉はルイ9世に対する配慮だという推測もある(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・1254年 7. ルブルクのギヨームは、モンゴルのカアン,モンケからの返書を持たされ、帰国することになった。その返書では、フランスのレックス,ルイⅨを「フランク」の君主と認め、「フランクの地(=ヨーロッパ)」にモンケの命令を伝えるよう述べられていた。

※モンケからの返書は、世界の覇者としての自負を感じさせるものであった。しかし、世界の安寧や平和を大義名分としており、現実を反映したものであった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1254年末 雲南遠征を成功させたクビライは、後処理を副将のウリャンカダイに委任して、自身は金蓮川に戻った。

・1255年 ウラディーミル大公アレクサンドルは、反モンゴル的なヤロスラフ公がいる、ノヴゴロドに進軍した。ヤロスラフは逃亡し、市長はアレクサンドルに従順な者に交代させられた。

・1255年 西征軍を率いるフレグは、サマルカンドに到着し、ニザール派の討伐という目標を表明し、イランの指導者らに参陣、武器や食糧の供給を命じた。セルジューク朝のほか、イラクファールス、サカルトヴェロ、アゼルバイジャンの首長たちは、フレグへの協力を表明した。

※あえて遅く進軍し、周りに圧力を掛けていたことが、成熟したのである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1255年 12. ニザール派の教主,アッラー アッディーン ムハンマドⅢは、側近に殺害された。そしてその子息フルシャーが跡を継いだ。

※先代は対モンゴルに強行であったが、フルシャーはモンゴルに臣従することで、教団の存続を図った。父親の殺害を支持したのはフルシャーとも考えられる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1256年 フレグはニザール派教主,フルシャーに対して、人質や山城の一部の破壊などを命じた。譲歩される度にフレグは要求を強めながら、アラムート地方を封鎖し、包囲を強めた。

・1256年 フレグ率いるモンゴル軍はニザール派の山城を攻めた。教主のフルシャーは開城して降伏した。

・1256年 ジョチ ウルスのカン,バトゥは死去した。

・1256年春 クビライは都城として開平府を築いた。

※クビライの緩慢さに対して、短期決戦を望んだ兄のカアン,モンケは不満を募らせた。クビライに私領として与えていた京兆地方の会計に関して、疑義を呈して監査を行った。クビライが登用した漢人官僚などは処刑、追放されるなどした(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・康元1年(1256) 11.22 北条(平)時頼は、執権を赤橋流,北条(平)長時に譲った。(『吾妻鏡』)

・康元1年(1256) 11.22 北条(平)時頼は出家し、家督を子息,正寿(後の時宗)に譲った。(『吾妻鏡』)

※時頼の存命中に、正妻の産んだ子息への家督継承を行うことは、得宗家が不安定な地位を克服するために必要であったと考えられる(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・建長8年(1256)  3.30 北条(平)政村は連署となった。(『吾妻鏡』)

・建長8年(1256) 11.22 北条(平)長時は執権となった。(『吾妻鏡』)

※長時を補佐したのは、連署,北条(平)政村のほか、三番引付頭人,北条(平)実時、五番引付頭人,安達(平)泰盛であった。

※こうして得宗,北条(平)時頼に近しい人物が政権中枢を担い、時頼の子息,正寿(後の時宗)が成長するまでの体制を固めようとした(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。 

・正嘉1年(1257) 2.26 北条(平)時頼の子息,正寿は、宗尊親王を烏帽子親として元服し、その偏諱により諱を「時宗」とした。(『吾妻鏡』)

時宗を補佐したのは、

時宗の母,葛西殿の父である極楽寺流,北条(平)重時

②重時の子息,業時の舅である時房流,北条(平)政村

③政村の娘婿,金沢流,北条(平)実時

④重時の娘婿,安達(藤原)泰盛である(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・1257年春 モンゴルのカアン,モンケは、自ら宋に遠征すると発表し、クビライを宋への遠征から外し、代わりにオッチギン家のタガチャルを遠征に向かわせることにした。(『集史』)

〔参考〕『集史』には、モンケはクビライに「足の痛み」があるため、休養を命じたとある。

※足の痛み、すなわち痛風は、モンゴルにおいて不参加の口実である。『元史』は理由について何も語っていない。記すことのできない何かがあったようである(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・正嘉1年(1257) 6.22 北条(平)政村は相模守に任じられた。(『関東評定伝』)

※政村はこうして北条(平)時頼の受領を継承し、時頼の子息,時宗の一人立ちのための地盤の形成を図った(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・1257年 ジョチ ウルスのカンとして、バトゥの弟ベルケが即位した。

※ベルケがカンになって以降、ジョチ ウルスの人々には、ムスリムになる者が増えた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1257年 ジョチ ウルスの調査により、ルースィのスズダリ、リャザン、ムロムの人口が登記された。今回もまた調査に反発があり、町では蜂起する者もいて、ウラディーミル大公アレクサンドルに鎮圧されている。

※この調査はモンゴル単独で行うのは困難なため、各地の諸公より助けを受けたのだと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1257年 フルシャーはモンゴルのカアン,モンケの護衛部隊により殺害された。

※フルシャーはフレグから優遇されたが、モンケはニザール派の存続を望まなかった(杉山正明モンゴル帝国の興亡』)。

・1257年秋 タガチャル率いるモンゴルの東路軍は襄陽と樊城を攻撃したが、1週間で撤退した。

〔参考〕『元史』は、撤退の理由を秋の長雨だとする。

〔参考〕『集史』によれば、モンケは、タガチャルが酒食に耽っていたことを叱責したのだという。

・1257年 カアン,モンケは、クビライに東路軍を任せ、タガチャルはクビライの下に付けることにした。遠征軍には、黄河淮河を渡り、長江下流域至った。

※モンケは遠征軍の再編成に手間取り、自ら最前線で四川を攻める必要に迫られた。モンケは四川の暑さと宋の山寨に苦しまされることになる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1257年 四川にいたモンケ率いるモンゴル遠征部隊の間で、疫病「ヴァバー」が流行した。(『集史』)

※「ヴァバー」とは、ペルシア語やアラビア語で伝染病、赤痢ないしはコレラを意味する言葉である。ペストという推測もあるが、真偽は不明である(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1257年  フレグはアッバース朝の都,バクダードを包囲し、開城勧告を行った。アッバース朝のハリーファ,ムスタースィムは、自身がムスリムの長であると述べ、全てのムスリムが自分の軍隊であると言って、フレグ軍に権威を示そうとした。(『集史』)

バグダードを救援しようとする勢力はいなかった。また、アッバース朝の宰相でアリー派はモンゴル軍に内通し、バグダードの守りを弱めるなど、内部分裂を引き起こしていた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1258年.2 バグダードは開城し、アッバース朝のハリーファ,ムスタースィムはフレグに降伏した。ムスタースィムは幽閉されて餓死させられたとも、絨毯に巻かれて馬に踏み殺されたともいわれる。

※絨毯に巻いて踏み殺すという処刑は、モンゴルにおいて貴人を殺す作法である(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

スンナ派の多くは、ハリーファが不在という状況を受け入れた。また、アリー派の多くは、歪んだ信仰であるスンナ派への鉄槌と考えたという(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・正嘉2年(1258) 9.21 諸国の盗賊が蜂起したため、鎌倉幕府は守護にそれらの「悪党」の逮捕を命じた。(『吾妻鏡』)

承久の乱以後、幕府は全国の軍事・警察権を掌握した。そのため、日本の治安を守るために「悪党」を鎮圧する義務を自ら負った形となる。「悪党」という言葉は、刑事犯に対するものとなり、夜討ち、強盗、山賊、海賊に限定されることとなった。(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・正嘉2年(1258) 『御成敗式目』の追加法321条が制定され、尼御台所,政子の死去から北条(平)泰時の死去までの期間について、源頼朝、頼家、実朝、政子の代の採決に準拠し、再審を行わないことを決定した。(「追加法321条」『中世法制史料集』)

※泰時の採決に、頼朝から実朝までの採決と同等の効力を持たせ、政子の地位を実朝までの鎌倉殿と同等としている。北条家の権勢を示したものと考えられる(村井章介北条時宗と蒙古襲来』)。

・1259年 ノヴゴロドはジョチ ウルスの人口調査に同意した。しかしモンゴル人の態度に反発したノヴゴロド人は蜂起するなどして、結局はアレクサンドルが手助けしている。

※徴税人としてムスリムがの名前が、年代記などで登場する。ムスリムが徴税請負人となり、集めた税金をサライに運んだと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

※税は一定単位ごとに一定額が徴収された。また、駅逓の荷役、不定期な徴収や、贈り物などが課せられた(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1259年 8. 11 モンゴルのカアン,モンケは疫病「ヴァバー」を患って死去した。(『集史』)

※宋軍の矢を受けた傷が原因との説もあるが、真偽は不明である(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1259年 8. 鄂州を目指して遠征中のクビライの元に、異母弟のモゲより、カアンである兄モンケの死が知らされた。部将バアトルはクビライに対して、北に進むより南進することを勧めた。(『集史』)

※新たなモンゴルのカアンとしては、モンケの同母弟であるクビライ、フレグ、アリク ブケなどが候補にあった。モンケの子息たちは20代であり、カアンとしては未熟と見なされた。フレグはモンゴル本土から離れた場所におり、本土で開かれるクリルタイによる即位は困難であった。モンケは父トルイの家領の多くを継承しており、モンケの遺児や后の支持を集めていた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1259年夏 クビライは、漢人軍閥を束ねる厳忠済の領内に留まった。

※厳忠済の旗下である宋子貞ら幕僚は、クビライを支持した。こうしてクビライは兵糧を獲得し、漢人部隊を編成して自営に加えた。バアトルの提案は、モンゴル高原の兵の多くは遠征中であり、アリク ブケはほとんど兵を持っていなかったことも計算に入っていた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1259年 9. 29 クビライは兵を率いて長江を渡った。(『集史』)

・1259年 バアトルの甥,クルムシ、クビライの正妻の兄ナチン、そしてタガチャルはクビライに味方した。

※クビライにそれらの勢力が味方したことで、傍観していたモンゴルの諸勢力は、その多くがクビライの支持に回った(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1260年 1.10 クビライは燕京地区に野営した。(『元史』世祖本紀)

・1260年 2. フレグ西征軍はアレッポ(ハラブ)を陥落させた。

・1260年 2. マムルーク朝に進軍しようとしたフレグのもとに、兄のカアン,モンケ死去の知らせが伝えられた。フレグは先鋒部隊のキト ブカに西方の差配を委ね、自らは帰還を決めた。

〔参考〕アルメニア君主,ヘトゥムの記録によれば、フレグはカアンになることを望んでいたという。

・1260年 3. クビライ派は本拠地の開平府に北上した後にクリルタイを開き、クビライがカアンに選出された。

※クビライはその後、夏期の開平府周辺と冬期の燕京近郊を往来することになる(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・1260年 タブリーズにいたフレグのもとに、クビライがカアンに即位したとの知らせが届いた。

※フレグはカアンへの望みを一旦捨てて、イランに留まり、西アジアに勢力圏を持つことを決めた。これにより、フレグ ウルスが成立した(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※フレグがイランを占領すると、随伴していたジョチ ウルスの部隊はフレグの本隊から抜け出し、マムルーク朝に逃れるようになった。マムルーク朝のスルタン,バイバルスはジョチ ウルスとの交渉を考えた。しかし、陸上はフレグ ウルスに、海上の道に通ずるボスポラス海峡は、ラテン インペラトル国に塞がれていた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・1260年 アリク ブケ派はクリルタイを開き、アリク ブケはカアンに選出された。ジョチ ウルスのカン,ベルケはアリク ブケを支持し、チャガタイ家の当主,オルクナ、フレグの子息,ジュムクルはこのクリルタイに参加していた。

※先代カアンのモンケの葬儀を行った、アリク ブケが正統性においては勝っていた。葬儀に参加しなかったクビライはその点不利であった(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・文応1年(1260) 3.21 将軍,宗尊親王は、近衛(藤原)兼経の娘である宰子を妻に迎えた。(『吾妻鏡』)

慶事に際して、北条(平)時宗は砂金100両、安達(藤原)泰盛は砂金30両を献上している。泰盛は得宗との縁戚関係とその実力で、政権に中枢として参画していたことが伺える(福島金治『北条時宗安達泰盛』)。

・1260年 5. クビライはモンゴルとして始めて年号を定め、それを「中統」とした。

※これはモンゴルの正統を継承するという意志を込めた年号である。実弟アリク ブケとカアン位を巡って対立していた、当時のクビライの立場を思わせる(杉山正明モンゴル帝国の興亡 下』)。

・1260年 9.3 フレグより兵を預かったキト ブカの軍はパレスティナのアイン・ジャールートにて、マムルーク朝の伏兵に敗れた。

※キト ブカは戦死したとも、捕縛され処刑されたとも言われる。モンゴル勢力はシリアから駆逐され、その地を獲得することは出来なかった。モンゴルの不敗という「神話」は効力を失った。そしてマムルーク朝はエジプトの民衆からの強い支持を受けて、エジプトとシリアにおける地盤を強化させた(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

※その後もフレグはシリアとエジプトを征服しようとするも果たせなかった(岡田英弘世界史の誕生』)。

・1260年 モンゴル・ウルスの首都が大都に移った。

※カラ・コルムは祖先が興隆した土地であり、象徴的な立場を留めていたが、次第に影響力が薄れてゆく(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・1260年 クビライは漢人の郝経を使者として、停戦協定のために宋に派遣した。彼は宋の国境付近にて拘留された。

・文応1年(1260) 7.16 日蓮は北条(平)時頼に『立正安国論』を献上した。(『日蓮上人註画讃』)