・嘉承2年(1107) 7.19 宗仁親王は践祚した(鳥羽天皇)。藤原忠実は摂政に任じられた。(『殿暦』)
・嘉承2年(1107) 12.19 源義親は出雲国目代を殺害した。そのため朝廷は因幡守,平正盛に命じて義親を追討させた。この日、正盛は都を出発した。(『殿暦』『中右記』)
・天仁1年(1108) 1.6 平正盛は源義親と交戦して勝利し、討ち取った。中御門宗忠は日記に「義家朝臣、年来武士の長者として、多くの罪なき人を殺すと云々。積悪の余、ついに子孫に及ぶか」と書き残した。(『中右記』)
※宗忠は、源義家が多くの罪のない人を殺害したために、子息,義親がその報いを受けたと認識していたことが理解できる(呉座勇一『武士とは何か』)。
・元永1年(1118)? ?.? 工藤(藤原)祐隆の子息として、祐継が誕生した。(『伊東大系図』注記より)
〔参考〕祐隆は祐継に伊東荘を譲った。亡き嫡子(祐家)の子息は次男として養育され、河津荘を譲られて伊東次郎祐親を名乗ったのだという。祐家に与えるはずであった狩野荘は、祐継の弟茂光のものとなる(真名本『曽我物語』)
・1121年(宣和3) 『九域守令図』が北宋にて刻まれた。