ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

堀河天皇の時代(応徳、寛治、嘉保、永長、承徳、康和、長治、嘉承)

・応徳3年(1083) 11.26 善仁親王は皇太子となり、白河天皇の譲位を受けて践祚した。(『後二条師通記』)

・1084年(宋暦元豊7) 宋の司馬光は『資治通鑑』を完成させた。

※『資治通鑑』には、正統な王朝は正統同時代に1つという考えが貫かれている。三国時代では魏が正統、南北朝時代では南朝の宋・斉・梁・陳が正統、五代十国時代では後梁後唐後晋・後周が正統とし、後周より禅譲を受けた趙匡胤の宋こそがそれまでの王朝の正統を継承したのだと主張している。ちなみに隋と正統とされる陳が並立している時代については、隋文帝楊堅は「隋主」と記され、陳滅亡後に「帝」の文字が使用される。(佐川英治 杉山清彦『中国と東部ユーラシアの歴史』)。

※『資治通鑑』によれば、当代人は徐福が至ったという蓬莱は日本であると認知していたという。欧陽脩(または銭君倚)の『日本刀歌』の影響もあり、宋代「中国」には徐福が日本に至ったという認識が定着した(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

・寛治1年(1087) 9.23 源義光は、兄,義家に加勢するために奥州に下向した。(『本朝世紀』『為房卿記』)

・寛治1年(1087) 12.? 源義家清原家衡の籠る出羽金沢柵を包囲した。義家は、金沢柵から逃げ出す者を老若男女問わず殺害した。(『康富記』)

※逃げ出す者がいなくなれば、城内の兵糧が早く枯渇する。そのため柵からの逃亡する者を義家は殺害したのである(呉座勇一『武士とは何か』)。

・寛治1年(1087) 12.26 陸奥守,源義家は出羽金沢柵を陥落させた。義家は清原家衡と武衡を捕らえて処刑した。(『康富記』)

〔参考〕『奥州後三年記』によれば、武衡は降伏して助命されることを望んだという。しかし義家は降伏をを許さず武衡を処刑したという。

・1091年 Abū Ḥāmid(Ghazālī)は、BaghdādのNiẓāmiyya学院の教授に任命された。

※Ghazālīは、khalīfahが理性、武勇、行政能力や知識、経験さを備えているものだと述べたが、それらの条件は武官、文官、法学者が代行すれば良いと説いた。社会の平和と安定のためには、Selçuk朝のsulṭānが権力を持つという現実的な方針を重視していたのである。また、彼は『諸王への助言』という書物において、sulṭānは、「穏やかさと寛大さ(正直)」「勇敢さと大志(勇気)」「良い統治のための判断力(知恵)」「徳を示すことのできる温厚さ(公正)」が必要であると説いている。彼はAristotelēsの影響を強く受けたため、その「徳」の思想と類似したものになっている(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・1095年 ルーム セルジューク朝のシリア進出により、東ローマはローマ教皇に救援を求めた。

・1096年 第1回十字軍が、イェルサレムに向けて出発した。

※当時のヨーロッパでは気候の温暖化により農業生産が増大して人口が増大、封建社会が安定した。そのため、イスラーム圏に大遠征を行うことも可能となった(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・永長1年(1096) 7.12 清涼殿南庭において田楽が行われた。(『中右記』)

※田楽は農民の田植えの音楽から発展したものである。当時の貴族間において庶民の芸能を楽しむ気風があった(田中卓『教養 日本史』)。

・永長2年(1097) ?.? 西大寺本『金光明最勝王経』に加点と書入がなされた。(西大寺本『金光明最勝王経』加点奥書)

※序品第一には、「説ト聴ト説ルヲ惣名ク一時」というように、片仮名が間に書き込まれている。「説クト説ケルヲ聴クト惣テ一時ト名ヅク」と読むことができ、返り点はないものの、漢文と同様の語順となっている(山口仲美『日本語の歴史』)。

・1099年 十字軍はイェルサレムを占領した。

・1100年 このころ、ア行の「イ」とワ行の「ヰ」の発音は同じものとなった。また、ア行の「エ」とワ行の「ヱ」の発音も同じものとなった(今野真二『かなづかいの歴史』)。

※この際も、ア行の「オ」とワ行の「ヲ」の発音が同じになったときと同様に、「い/イ」と「ゐ/ヰ」、「え/エ」と「ゑ/ヱ」を使い続けた(今野真二『かなづかいの歴史』)。

・嘉承2年(1107) 7.19 堀河天皇崩御した。(『殿暦』)