ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

村上天皇の時代(天慶、天暦、天徳、応和、康保)

・天慶9年(946) 4.20 朱雀天皇の譲位により、成明親王が即位した(村上天皇)。(『貞信公記』)

・947年(和暦天暦1) 4.26 源等は参議に任じられた。(『公卿補任』)

〔要参考〕『西宮記』には、源等は源氏長者であったとする。また、源氏長者嵯峨天皇の子孫である必要があったとする。

・947年 キタン族の耶律阿保機は、自身の国の号を遼とした。

・天暦5年(951) 3.10 参議,源等は死去した。(『公卿補任』)

※等は嵯峨源氏で公卿となった最後の人物であった。『西宮記』には醍醐天皇皇子,重明親王が源氏長者であったと記すが、これは嵯峨天皇の公卿がいなくなったことに伴い、嵯峨源氏の源昇を外祖父にもつ彼が源氏長者になったのだと考えられる(岡野友彦『源氏長者』)。

・天暦6年(952) 1.? 氏爵が行われた。(『河海抄』)

※正月の叙位において、王氏(皇親)・源氏・藤原氏橘氏からそれぞれの氏長者が、同氏族の1人を従五位下に推薦するものである。既に衰退して公卿のいなかった橘氏に関しては、藤原氏の長者が代行者「是定」として担った。皇親の事実上の氏族の長は天皇であるが、「氏長者」は「臣下」の制度であるため、皇親の1人は「是定」に任じられることとなった。また、皇親の祖先の天皇はそれぞれいるため、推薦資格は氏爵が行われるごとに順番で回されることとなった(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・天暦7年(953) 1.? 氏爵が行われた。元平親王(陽成天皇元第一皇子)は、源経忠を従五位下に推薦した。しかし、経忠は清和天皇の子孫であったが陽成天皇の子孫でなかったことが発覚した。そのため元平親王と経忠は処罰された。(『行成卿記』長徳4.11.19)

※この経忠という人物は、系図には見られない。しかし、「経忠」は誤写であり、清和天皇の孫で貞純親王の子息,源経基と同一人物である可能性も指摘される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・960年 趙匡胤は宋を建てた。

※「中華」を統一した宋の下、長江下流域では農業技術が発展し穀倉地帯が出来たことで増加した人口を支えた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

※宋はキタンと対立した。キタンは熱河草原、モンゴル高原東半分、マンチュリア全域、燕雲16州を領有し、武力において宋を圧倒した(杉山正明モンゴル帝国の興亡 上』)。

・962年 東FrancとItaliaのrex,Ottoは、RomaのCaesarとして戴冠し、塗油を行った。

※オリーブ油などを君主の頭や体に注ぐ儀式によって、君主は神より力を授けられると考えられた。Christ教によって、君主位の聖性と永続性が示された(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・康保2年(965) 「日本史講筵」が行われた。(『釈日本紀』所引「日本紀講例」)

※以降、『日本書紀』の講読が行われることはなくなった。国史編纂も『日本三代実録』以降途絶えており、人々の関心が歴史的・国家的なものから個人的なものに変化していったとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

・965年 キエフ公スヴャトスラフはハザール カガン国の中心都市サルケルを攻略した。

※ハザール カガン国崩壊の後、そこにはテュルク語を話すペチェネグ人が東方より進出した(岡田英弘世界史の誕生』)。

・康保4年(967) 5.25 村上天皇崩御した。(『日本紀略』)