ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

光明天皇・後醍醐天皇~後村上天皇の時代

・延元1年(1336) 8.15 豊仁親王践祚した(光明天皇)。(『洞院家記』『園太暦』)

建武3年(1336) 11.2 光明天皇は後醍醐先帝より神器を受け取り、後醍醐先帝に対して太上天皇の尊号を贈った。(『勘例雑々』『践祚部類鈔』)

建武3年/延元1年(1336) 11.7 足利尊氏は『建武式目』を公布した。(『建武式目』)

※『建武式目』は、公家が理想視する醍醐天皇村上天皇の時代と、武家が理想視する北条(平)義時・泰時父子の時代を持ち出して、公家と武家が協力する体制の構築を目指した(末木文美士『日本思想史』)。

※第1条において婆娑羅を戒めて、倹約を推奨していることや、賭博や闘茶などが禁止されていることから、『太平記』が語るような婆娑羅の風潮と、それに対する批判的な眼差しが存在していたと考えられる(亀田俊和太平記』解説)。

建武3年(1336) 11.14 成良親王は皇太子となった。(『皇年代略記』)

※『保暦間記』には、成良親王は尊氏に養育されたとあり、後醍醐天皇の皇子では尊氏にと親密であった(亀田俊和太平記』解説)。

・延元1年(1336) 12.21 後醍醐天皇大和国吉野に移った。(『保田文書』)

〔参考〕『神皇正統記』によれば、後醍醐天皇八尺瓊勾玉を持ち出して吉野に赴いたのだという。

・延元2年(1337) 8.11 北畠(源)顕家は義良親王を報じて西上を開始した。(『阿蘇家文書』『上杉家古文書』)

・延元3年(1338) 5.22 北畠(源)顕家の南朝軍と、高階師直の北朝軍が和泉国堺の石津にて交戦した。顕家は討死した。(『田代文書』『神皇正統記』)

※この敗北により機内においては南朝勢力が衰退することとなった(生駒孝臣「後村上天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・暦応1年(1338) 8.13 北朝において益仁親王が皇太子に立てられた。(『中院一品記』)

※この立太子は、足利(源)尊氏が後醍醐天皇との和睦を断念したことを示すとも考えられる。また、光厳院直仁親王立太子を望んでいたが、廷臣に反対されたとも考えられる(家永遵嗣「光厳上皇皇位継承戦略と室町幕府」『室町政権の首都構想と京都』)。

・暦応2年(1339) 3.? 夢窓疎石臨川寺三会院の弟子のために訓戒を定めた。(「臨川家訓」)

※休暇の上限は7日、病気の療養場所は延寿堂として、規定において自由は制限された(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・暦応2年(1339) 4.? 摂津親秀は西方寺を西芳寺と改め、夢窓疎石を住持とした。(『夢想国師年譜』)

夢窓疎石西芳寺の作庭を行った。枯山水は水を用いないながら水を感じさせるものであり、「引き算の美」の発見者とも評される(松岡正剛『千夜百冊』第187夜)

・暦応2年/延元4年(1339) 8.15 後醍醐天皇の譲位により、義良親王践祚した。(『五条文書』『結城文書』)

・暦応2年(1339) 10.5 足利(源)尊氏の要請により、後醍醐天皇の菩提を弔うため、光厳院院宣を発した。それにより嵯峨の亀山殿は禅院に改められた。(『天龍寺重書目録甲』)

※亀山殿が禅院に改められたことが、天龍寺の成立となった(芳澤元「光厳天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・1339年 ウズベクはトヴェリ公アレクサンドルとその子息を処刑した。

※イヴァンの計略であったと考えられる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・暦応2年(1339) この年か翌年、北畠(源)親房は『元元集』を著した。

伊勢神道に由来する神道の理論書である(末木文美士『日本思想史』)。

建武4年/興国1年(1340) 10.6 佐々木京極(源)高氏は、後伏見天皇皇子,亮性法親王の御所である妙法院を焼いた。(『中院一品記』)

〔参考〕『太平記』によれば、高氏とその一族や家臣たちが紅葉を見た帰りに、妙法院の南庭の紅葉の枝を折ったという。亮性法親王はそれを止めさせようと房官に命じたが、高氏の家臣は聞こうとしなかったので、追い出した。すると高氏は、自分の身内に対する振る舞いに怒り、妙法院を焼いたのだという。

室町幕府の有力者の高氏であっても、本来の天皇南朝後醍醐天皇で、北朝天皇武家が擁立した傀儡だと認識していたとも思われる。そうした背景から、北朝系の皇族に対して傍若無人な振る舞いをしたとも考えられる(亀田俊和太平記』解説)。

・1340年 ウラディーミル大公イヴァンの後を子息のセミョンが継いだ。

・暦応4年/興国2年(1341) 6. 北朝方の高階師冬は、宝篋山に布陣し、付近に要害を築いた。(「白河結城文書」)

※師冬の目的は、南朝方の北畠(源)親房が籠る常陸小田城を見下ろす宝篋山に布陣し、援軍の到着を待ちながら小田城に兵糧が入ることを阻止することであったと考えられる。こうした作戦は、当時「向城」「近陣」「詰城」などと呼ばれた。城を攻める際の作戦として、一般的なものになっていた(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・暦応4年/興国2年(1341) 11.10 小田(藤原)治久は北朝方に帰順した。そのため北畠(源)親房は小田城を脱出した。(「結城古文書うつし」)

・康永2年/興国4年(1343) 北畠(源)親房は『神皇正統記』の修訂を終えたという。(『神皇正統記』奥書)

※いくつかの伝本の奥書や前書きには「或る童蒙」に教えるために書いたとあり、その「童蒙」は後村上天皇とも、親房が南朝への帰順を説得していた結城(藤原)親朝とも考えられている(清水正之『日本思想全史』)。

※親房は光孝天皇以前を「上古」とする時代区分を設けている。継体天皇光仁天皇、そして光孝天皇は「カタハラ」すなわち傍流から皇位を継いだのであり、光孝天皇以前は皇位継承の乱れていた時代であると説かれる。そして光孝天皇以降より、「マサ(正)シキ御ユズ(譲)リ」つまり「正統」が実現したとする。天皇の代数には「代」を用いて「正統」の順序には「世」が用いられる。仲哀天皇の父,日本武尊は即位していないものの「正統」として「第十三世」である。「正統」は父子一系であるため、継体天皇の父系祖先ではない仁徳天皇から武烈天皇までは「世」には含まれない。親房は「世」の代数を「マコトノ継体(真実の皇位継承)」と呼んで「世ヲ本トシルシ奉ベキ也」と主張しており、「正統」を天皇制の本質としている(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※親房は1つの皇統が持続していることに、日本の「中国」に対する優越性を見出している。そのような日本の特殊さのために、天皇には道徳的に優れた統治が求められていると親房は説いた(末木文美士『日本思想史』)。

南朝北朝という皇統の分裂に関して親房は「二ヲナラ(並)べアラソ(争)フ時ニコソ傍正ノ疑モアレ」と述べている。かつて持明院統大覚寺統は、どちらも自身が正統だと主張していた。どちらかが「正統」であれば片方は傍流であるというのが、当時の社会通念であったと考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※『神皇正統記』は、神道の立場を加味しながら天皇を論じた初めての試みでもあった。また、文化論としても読めるとの見解もある(松岡正剛『千夜百冊』第815夜)。

・康永3年(1344) 10.8 大高重成は、夢窓疎石の著作『夢中問答集』を開版した。(『夢中問答集』)

※この著作は、足利(源)直義からの質問に、夢窓疎石が答えたものである。戦乱の最中に、大きな心境を構えるという意志を告知するものであった。また、漢字片仮名交じりでの出版が試みられており、当時としては稀有なものである(松岡正剛『千夜百冊』第187夜)。

・1345年 大元ウルスは歴史書『宋史』、『金史』、『遼史』を完成させた。

※大元ウルスは歴史書の編纂に熱心であった。宋ばかりでなく中央ユーラシアの国家も正史として公的な「歴史」に加えたことになる(岡田英弘世界史の誕生』)。

・正平3年(1348) 1.5 高階師直率いる北朝軍と、楠木(橘)正行ら率いる南朝軍が、四條畷にて交戦し、北朝軍が勝利した。(『園太暦』『醍醐地蔵院日記』『阿蘇文書』)

・1347年 ペストはコンスタンティノープルより地中海各地へと拡大し、マルセイユヴェネツィアに至った。

※このペストはジェノヴァの商船がもたらしたとされる。一説にその商船は、ジョチ・ウルス軍が包囲する、クリミアのカッファから脱出したともされる。真偽は不明である(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。

・1348年 ペストはアヴィ二ヨン、フィレンツェ、ロンドンに拡大した。