ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後冷泉天皇の時代(寛徳、永承、天喜、康平)

・寛徳2年(1045) 1.16 後朱雀天皇の譲位により、親仁親王践祚した(後冷泉天皇)。(『百錬抄』)

・永承1年(1046) 1.18 右大臣,藤原実資は死去した。(『扶桑略記』)

※実資の生前、彼の日記『小右記(野府記)』は裁断されていた。それは、日記の内容を儀式ごとに分類した「部類記」を作成するためである。その計画は実資の死により頓挫したが、原本を書写する過程で『小記目録』という目録が作成された(倉本一宏『増補版 藤原道長の権力と欲望』)。

・永承1年(1046) ?.? 源頼信石清水八幡宮に祈願し、告文を奉納した。(『石清水田中家文書』)

※頼信は、石清水八幡宮の祭神,八幡神(=応神天皇)の子孫として祈願を行い、応神天皇まで遡って自身の祖先を述べている。そこにおいて、彼は自身の曽祖父を元平親王、高祖父を陽成天皇であるとしている。頼信の父,満仲や兄,頼親の暴力的な性格は、狩猟に明け暮れた陽成天皇の子孫である可能性も指摘される。ただ、頼信たちの武士的性格は、頼信の曾祖父(とされる)貞純親王の母方の祖先,坂上田村麻呂による養育の結果という可能性もある。頼信の子孫は一貫して清和天皇-貞純親王-源経基という系譜を主張している。元平親王が氏爵の際に陽成源氏だと偽って推薦した源経忠が、経基と同一人物だったとすれば、元平親王の虚偽の報告を、頼信は信じてしまったのかもしれない(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・1046~1047年(ヒジュラ暦433) Selçuk朝君主Tughril Begは「sulṭān」の文字を刻んだ金貨を発行した。

※sulṭānとは権威や超越的な力を意味する言葉であったが、支配者の称号として使われるようになった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・永承7年(1052) 3.28 関白,藤原頼通は自身の別荘を寺院として「平等院」と名付け、大僧正,明尊を執印とした。(『扶桑略記』)

※仏教彫刻では寄木造が発達して写実的な作品が作られた。定朝の作と伝えられる、平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は代表的な作品である(田中卓『教養 日本史』)。

・1055年 Selçuk朝君主,Tughril BegはAbbās朝の都,Baghdādに入った。

※Buwayh朝により傀儡化されていた、Abbās朝のkhalīfahを保護したことで、sulṭānと認められIslāmの盟主となった(岡本隆司『世界史序説』)。

※正式にsulṭānと認められたことで、Muḥammadの後継者としての権威を持つkhalīfahと、世俗権力を持つsulṭānという二重体制が形成されることとなった(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・康平6年(1063) 2.27 除目が行われた。安倍頼時追討の功績により、源頼義は伊予守、その子息,義家は出羽守、義綱は左衛門尉に任じられた。清原武則鎮守府将軍に任じられた。(『扶桑略記』)

※地方豪族が鎮守府将軍に任じられるのは破格の待遇であり、最大の功労者が清原氏だと見なされていたことが理解できる(呉座勇一『武士とは何か』)。

・治暦4年(1068) 4.19 後冷泉天皇崩御した。(『本朝世紀』)