ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

白河天皇の時代(延久、承保、承暦、永保、応徳)

・延久4年(1073) 12.8 後三条天皇の譲位により、貞仁親王践祚した。(『師守記』)

・承保3年(1076) 12.18 法勝寺の阿弥陀堂が供養された。(『法勝寺金堂造営記』)

※藤原摂関家が担った政治と文化を克服するために、天平の時代を思わせる寺を創建したとも考えられる(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

・1077年 テュルク系セルジューク人の一派はアナトリア(中央アジア)に進出し、ルーム セルジューク朝を建てた。

※ルーム セルジューク朝はシリアを領有して、オアシスの道を東地中海まで繋げた(岡本隆司『世界史序説』)。

・承暦3年(1079) 『金光明経最勝王音義』が書写された。

※最古のいろは歌を所収している。いろは歌は広く知られるようになったため、辞書の配列にも採用されることとなった(倉橋節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・永保3年(1083) 9.? 源義家陸奥守として陸奥国に補任した。(『奥州後三年記』)

・永保3年(1083) 9.? 清原真衡清原家衡が争った。陸奥守,源義家は真衡に味方した。(『奥州後三年記』)

・応徳1年(1084) 9.22 中宮,賢子は死去した。(『後二条師通記』)

〔参考〕白河天皇は彼女の臨終の際にも退出せず、亡くなると、その遺体を抱いて離さなかったという。源俊明は前例がないと止めようとしたが、白河天皇はこれが前例となると言って、抱き続けたという。(『古事談』)

※臨終となれば、皇后といっても死穢を避けるために、その場を退出するものである。穢れから遠くあるべき天皇が、自ら死穢に触れている。近親者の死穢にあえて触れることで、絆を示す行為を表す逸話である。当時の人が忌避した穢れは、主に自分から遠い人々や、身分の低い者に起因する穢れである(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・応徳3年(1086) 11.2 関白,藤原師実は、源義綱を呼び、義綱の兄,義家が奥州で合戦を行ったことについて尋ねた。(『後二条師通記』)