ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後朱雀天皇の時代(長元、長暦、長久、)

・長元9年(1036) 4.17 敦良親王践祚した。左大臣,藤原頼通は関白に任じられた。(『左経記』)

※兄弟間で皇位が継承継承されることで、世代交代は遅くなり、外戚外戚の地位に留まりやすくなった。そうした背景から、天皇が早くに崩御して代替わりがあったとしても、外戚藤原氏は権力を権力者であり続けたとも考えられる(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

・長元9年(1036) 10.14 除目が行われ、源頼義は相模守に任じられた。(『範国記』)

※このころ、頼義は平直方の娘を妻に迎えた(『詞林采葉抄』)と考えられる。彼は直方から継承した相模国鎌倉郡を坂東における自身の拠点とし、在地の平氏系武士を配下に収めた(野口実「伊豆時代の北条氏」『図説 鎌倉北条氏』)。

※当時において頼義のような婿取婚は、その地域に基盤のない男性の婚姻に限られたと考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。

・1038年 甘粛・陝西ではタングート人の西夏国王李元昊大夏皇帝を称して大夏(西夏)を建国し、銀川を都に定めた。

大夏(西夏)においてはタングート語を書き表すための西夏文字が用いられた(岡田英弘世界史の誕生』)。

大夏に圧迫された宋は、遼と同じように贈り物をする条件で和平を結んだ(岡田英弘世界史の誕生』)。

※宋とキタイ・大夏(西夏)の国境では、宋の絹・北方の馬・毛皮・高麗人参が取引された。また、大夏(西夏)はオアシスの道の出入り口を掌握して西方との中継貿易によって栄え、宋の物産は大夏を通って中央アジアやイランへと流れた(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・長久5年(1044) ?.? 大江匡衡の孫,匡房は4歳となり、はじめて幼学書を読んだ。(『暮年記』)

※匡房は『暮年記』において、8歳になると『史記』と『漢書』を読んだと述懐している。大江氏は学者の家系であるため、英才教育を受けたのだと考えられる(呉座勇一『日本中世への招待』)。