ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後一条天皇の時代(長和、寛仁、治安、万寿)

・長和5年(1016) 1.29 三条天皇は譲位し、敦成親王践祚した(後一条天皇)。藤原道長は摂政に任じられた。(『御堂関白記』) 敦明親王は皇太子となった。(『小右記』)

・長和5年(1016) 2.7 藤原道雅従三位に叙された。(『中古歌仙三十六人伝』)

当子内親王との密通の一件の影響か、道雅の暴力的な素行は治ることはなかった。荒々しい性格で三位であったことから、人は彼を「荒三位」と呼んだほか、「悪三位」と呼ぶ人もいた(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・寛仁1年(1017) 3.16 藤原道長は摂政を辞任した。(『御堂関白記』)

・寛仁1年(1017) 3.16 藤原頼通は摂政に任じられた。(『御堂関白記』)

道長は子息に摂政を譲ることで、自身の家系が摂政・関白の地位を継承するという意志を示したとも考えられる(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・寛仁1年(1017) 4.10 前斎宮,当子内親王は、左近衛中将,藤原道雅をしていたたため、母である皇后,娍子のもとに幽閉された。(『御堂関白記』) 道雅は離別を惜しんで、和歌を詠んだ。(『後拾遺和歌集』詞書)

いまはただ 思ひたえなん とばかりを 人づてならで いふよしもがな

※当時、原則としては臣下と皇女の婚姻は認められていなかったため、道雅は当子内親王と再び会うことは叶わなくなった(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・寛仁1年(1017) 5.9 三条院は崩御した。(『御堂関白記』)

・寛仁1年(1017) 8.9 敦明親王は皇太子の位を降り、代わりに後一条天皇の同母弟,敦良親王が皇太子となった。(『御堂関白記』『小右記』)

※唯一の庇護者であった父院が崩御したことで、敦明親王の立場は悪化したのである(美川圭『院政 増補版』)。

・寛仁1年(1017) 8.25 敦明親王は、「小一条院」の尊号を贈られた。(『御堂関白記』『小右記』)

敦明親王は、太上天皇に準ずる待遇を得た(美川圭『院政 増補版』)。

・1019年(宋暦天禧3) 張君房は宋の真宗,趙恒に 『大宋天宮宝蔵』を献上した。

〔参考〕『大宋天宮宝蔵』を抄出した『雲笈七籤』には、漢民族の祖とされる黄帝が、騰黄という神獣に乗って宇宙を往来したという伝説が述べられている。黄騰は日本国から出てきたとされ、乗った者に2000年の寿命を与えるという

※『雲笈七籤』の語る騰黄の話は、日本と長寿を結びつけるものである(王勇『日本にとって中国とは何か』)。

・寛仁4年(1020) 閏12.26 前加賀守,源政職の邸宅に「群盗」が押し入り、鉾によって政職を殺害した。「群盗」にも、矢に射られて死ぬ者が出た。(『小右記』)

※この「群盗」も、武装集団であったことがわかる。また、郎等たちと矢を射掛ける応酬があったと考えられる(繁田信一『平安朝の事件簿』)。

・万寿1年(1024) 7.17 紫宸殿で相撲が観戦がある横で、権右中弁,藤原経輔と蔵人式部丞,源成任が髻を掴みあって喧嘩をした。それを聞いた藤原実資は、そのようなことは今まで聞いたことがなかったと呆れた調子で日記に記した。(『小右記』)

※当時、成人男性は髻は被り物で隠しておくべきもので、人前に晒すことは恥ずかしいことであった。どちらかが相手の被り物を奪ったことが原因であったかもしれない(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・万寿4年(1027) 7.18 藤原道雅と、帯刀長,高階順業は賭博を行った。2人は何らかの理由で口論に及んだ。順業の乳母の夫,惟宗兼任は道雅につかみかかって狩衣の袖を引きちぎり、道雅も応戦して喧嘩が始まった。付近の道路にいた雑人たちはその取っ組み合いを見物しに集まった。(『小右記』)

※『小右記』は口論のことを「濫吹」と記している。この言葉は口汚く相手を罵ることを意味する。見物人ができたことから、道雅と兼任は、家を出て路上で喧嘩を続けたのだと思われる。滅多に見られない貴族層の喧嘩を、見物人は喜んだのかも知れない(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

・万寿1年(1024) 7.21 権右中弁,藤原経輔は、蔵人式部丞,源成任を殴り倒した。成任は自身の宿所に逃げ込んだが、経輔の従者に宿所を破壊された。藤原実資はこの一件を「奇怪なり」と日記に記した。(『小右記』)

・万寿4年(1027) 12.4 前太政大臣,藤原道長は法成寺にて死去した。(『小右記』)

〔参考〕『栄花物語』によれば、阿弥陀如来像の手に結んだ糸を握り、念仏を唱えて極楽往生を願いながら死去したのだという。

※法成寺の「御堂」において死去したため、彼は「御堂関白」と呼ばれるようになり、その日記は『御堂関白記』と名付けられた(倉本一宏『平安貴族とは何か』)。

・長元1年(1028) 6.21 前上総介,平忠常安房国国司を殺害する事件があったため、その追討のための陣定が行われた。平惟時(貞盛孫)は関白,藤原頼通に働きかけたため、彼の子息,直方が追討使となった。(『小右記』) 

・長元1年(1028) 7.24 藤原実資は、近頃、左衛門尉,藤原範基が郎等を殺害したことを知った。範基は武芸を好んでいるが、「内外」がどちらも「武者」の種胤ではないため万人はそれを許さないだろうと日記に記した。(『小右記』)

※「内外」とは父方と母方のことである。このことから、母方が武門であれば兵として生きることが容認されたことを窺わせる(野口実『列島を翔ける平安武士』)。

・長元1年(1028) 8.5 平直方と中原成通は、平忠常を追討するために関東に出発した。(『小右記』)

・長元2年(1029) 12.8 中原成通は追討使を解任された。(『日本紀略』)

・長元3年(1030) 9.2 平直方は、平忠常の討伐が進まなかったことで都に召還され、代わりに源頼信が追討使となった。(『日本紀略』)

・長元4年(1031) 源頼信は、平忠常が降伏したことを都に伝えた。(『左経記』)

・長元4年(1031) 都に連行される途中、平忠常は病死した。(『左経記』)

・長元5年(1032) 2.8 平忠常追討の功績により、源頼信は美濃守に任じられた。(『類聚符宣抄』)

・長元9年(1036) 4.17 後一条天皇崩御した。(『左経記』)