ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

後醍醐天皇の時代

・文保2年(1318) 2.26 花園天皇は譲位し、尊治親王践祚した(後醍醐天皇)。(『園太暦』)

後醍醐天皇践祚は、その父,後宇多院が再び院政を敷くことを意味した(森茂暁『後醍醐天皇』)。

※当時として、31歳の践祚は異例なほど遅いものであった。しかし、天皇になるまでに時間があったために、彼は朝廷政治の知識を身につけることができた(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・文保2年(1318) 3.9 邦良親王立太子した。(『継塵記』)

・文保2年(1318) 3.30 花園院はこの日、後醍醐天皇践祚に関して、「定めて天の与うるところか」と日記に所感を記した。(『花園天皇宸記』)

※花園院は後醍醐天皇践祚を天命に叶うものと捉えていたことが理解出来る。聖主・聖王待望論から、その践祚を天命と見なす風潮もあった(森茂暁『後醍醐天皇』)。

・文保2年(1318) 12.6 二条(藤原)道平は関白を辞職した。鎌倉幕府からの承認を得るまでは関白を続けるよう後醍醐天皇は説得したが、道平はそれを拒否した。(『公卿補任』)

※当時、関白などの高官の人事は、鎌倉幕府に伺いを立て、承認を得た後に行われることが慣例となっていた(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・文保2年(1318) 12.29 一条(藤原)内経が関白となった。(「鹿王院文書」)

・文保2年(1318) 12.29 後宇多院は、後醍醐天皇に対して返書を送り、後醍醐天皇が除目に際して提案した任官候補者を、承認したことを伝えた。(「鹿王院文書」『鎌倉遺文 35』26915)

後醍醐天皇と後宇多院の父子は、連絡を取りながら政務を遂行していたことが理解できる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・1318年 ユーリーの妻コンチャカは、ユーリーとミハイルの争いが原因で死去した。コンチャカの兄ウズベクは、ミハイルを呼び出し、その後処刑した。

・元応1年(1319) 6.28 前権大納言,六条(源)有房は内大臣に任じられた。有房の父,通有は公卿にもなっておらず、その昇進に花園院は驚きを覚えた。(『花園天皇宸記』)

※この人事は後宇多院の抜擢であった(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・元応1年(1319) 10.28 花園院はこの日、吉田(藤原)定房と中御門(藤原)経継が不仲であることを日記に記した。(『花園天皇宸記』)

※定房は後醍醐天皇の乳父であり、経継は邦良親王に近しかった。貴族間の対立もまた、後醍醐天皇邦良親王の不和の要因であった(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・元亨1年(1321) 12.9 後宇多院による院政が停止し、後醍醐天皇による親政が開始した。(『花園天皇宸記』)

〔参考〕『増鏡』によれば、仏道に専念したい後宇多院が、人々が自分に世事を奏上することを煩わしく思って院政を停止したのだという。

※実際のところは、後醍醐天皇の圧力によって強制的に院政が停止された可能性も捨てきれないと指摘される(森茂暁『後醍醐天皇』)。

※後宇多院は以前より所領の管理を後醍醐天皇に任せていたほか、かつて後二条天皇に政務を譲ろうとしたとの噂が立ったこともあることから(『実躬卿記』徳治2.7.26)『増鏡』が語る通り本人の意志で政務を後醍醐天皇に譲ったとも考えられる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・元亨2年(1322) 1.6 内裏にて、「無礼講」が行われた。(『花園天皇宸記』『太平記』)

〔参考〕『太平記』によれば、これは鎌倉幕府を滅ぼすための計画を内密に立てるためであったという。

花園天皇は日記にて、主に朝廷の風紀の乱れを批判している。このことは『太平記』の語る陰謀が虚構であることを示すとも考えられる(亀田俊和太平記』解説)。

・元亨3年(1323) ?.? 大元から日本に帰還途中の貿易船が新安郡の沖で沈没した。(「新安沈船木簡」)

※沈没船には青磁白磁が積まれていたほか、船を安定させるために約28tの銭が船底に積まれていた。全てが日本に送られる予定であったかは不明であるが、多くの銭が日本に入っていたのは確実と考えられる(網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』)。

・元亨4年(1324) 6.25 後宇多院崩御した。この日、花園院は後宇多院を「末代の英主」と評し、哀悼の意を日記に記した。(『花園天皇宸記』)

・元亨4年(1324) 8.17 大仏流,北条(平)維貞は六波羅探題南方を退任した。(『武家年代記』)

〔参考〕『峯相記』によれば、維貞が異動した後、播磨国の「悪党」は活発化したという。「悪党」は、柿色の帷子や六方笠を着て烏帽子や袴を身につけないといった相貌であったという。

※柿色の帷子は被差別民「非人」の衣装であり、当時の成人男性は、烏帽子や袴を必ず着用していた。『峯相記』の作者は僧侶と考えられ、宗教者としての立場から「悪党」に対して差別的な感情を発露しており、その相貌を奇妙で醜悪なものとして描いている。そうした性格を持つ史料であることや、武士団連合であっても訴訟に際しては「悪党」と名指しされていることから、『峯相記』の主張を額面通りに受け取るべきではないとの見解もある(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・元亨4年(1324) 8.26 邦良親王の使者として、六条(藤原)有忠が関東に下向した。(『花園天皇宸記』)

後醍醐天皇が実績を残す中、その子孫が皇統として定着する可能性があり、邦良親王の側は焦り、後醍醐天皇の早期の退位を望んでいた(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・正中1年(1324) 9.19 北条家を追討しようとした疑いで、日野(藤原)資朝、日野(藤原)俊基が鎌倉幕府に捕らえられた。(『花園天皇宸記』)

〔参考〕『神皇正統記』は、邦良親王践祚させようとする勢力が幕府内部にいたため、後醍醐天皇は倒幕を考えたとする。

後醍醐天皇は、自身の子孫による皇位継承を望んでおり、そのためには自分を中継ぎとして扱い両統迭立を維持する鎌倉幕府を倒す必要があると考えたのであり、倒幕構想はもっと早い時期からあったとも推測される(森茂暁『後醍醐天皇』)。

※実際は後醍醐天皇は倒幕計画を立てておらず、持明院統側が後醍醐天皇側を陥れるために嘘の情報を伝えたとも考えられる(呉座勇一『陰謀の日本中世史』)。

・正中2年(1325) 1.13 皇太子,邦良親王は、自身の子孫が皇位を継承すべきと主張するために鎌倉幕府に使者を派遣した。後醍醐天皇側も邦良親王の主張に反論するために使者を派遣した。(『花園天皇宸記』)

※後宇多院崩御により、後醍醐天皇邦良親王の対立が抑えられなくなり表面化したことを示している(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・嘉暦1年(1326) 3.20 邦良親王薨去した。(『神皇正統記』)

・1326年 ミハイルの子息ドミトリーは、ユーリーがモンゴルに収める税金を不正徴収しているとウズベクに訴えた。弁明のためにサライを訪れたユーリーは、ドミトリーによって殺害された。ユーリー殺害はウズベクの許可を得ておらず、ドミトリーはウズベクによって処刑された。

・1326年 ジョチ ウルスのカン,ウズベクは、ウラディーミル大公位を、処刑したドミトリーの弟トヴェリ公アレクサンドルに与えた。

※これは、晩年のユーリーに対してウズベクが不信感を抱いていたことが理由とされる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。

・1327年 トヴェリ在住のモンゴル使節に対して、市民が蜂起した。ウラディーミル大公アレクサンドルはその蜂起を支持した。ユーリーの子息イヴァンはサライに向かい、懲罰軍とともに帰還した。アレクサンドルは北西ルースィのプスコフに逃れた。

・1327年 ウズベクはウラディーミル大公国を分割し、ノヴゴロドとコストロマをイヴァンに、ウラディーミルとニジニ・ノヴゴロドなどはスズダリ公に与えた。

・嘉暦3年(1328) 10.9 後醍醐天皇は、自身の皇子,世良親王議奏を担当させるとのことで、関白,二条(藤原)道平に補佐を頼んだ。(『道平公記』)

※尊治(=後醍醐天皇)の子息は親王として朝廷に仕えるようにとの、故後宇多天皇の意志を実行していたことが伺える(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・嘉暦3年(1328) 10(?).16 後伏見院は「御事書并目安案」を書いて、鎌倉幕府に対して後醍醐天皇への退位勧告を要請した。(『伏見宮記録』)

後醍醐天皇は在位10年目であり、その区切りを見込んでの提出である。しかし、その後鎌倉幕府がすぐに行動に移した気配はない。また、持明院統側の焦りがあったとも考えられる(森茂暁『後醍醐天皇』)。

※文書中には、後二条天皇の系統が「中絶」し、後醍醐天皇は「一代の主」の天皇であることが先年定められたとある。しかし、邦良親王の弟である邦省親王は存命であり、後二条天皇の系統は存続している。後伏見天皇は、後醍醐天皇が「一代の主」だと事実を歪め、自身の持明院統に有利な立場を作ろうとしていたとも考えられる(中井裕子「後醍醐天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

元徳2年(1330) 2.? 花園院は、皇太子,量仁親王に『誡太子書』を贈った。(『花園天皇宸記』)

※花園院は『孟子』の放伐論を引き合いに出して、天命を失った君主は滅ぼされることを説き、日本においても同じことが起こる可能性はあるため、天皇は徳を積むべきだと主張している。熱心に朱子学を学んだ末の結論であった(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

※これは花園天皇の時局認識が現れており、当時の社会情勢を伝えるものである(森茂暁『後醍醐天皇』)。

元徳2年(1331) 2.14 後醍醐天皇真言宗の僧侶,道祐に、臨川寺の荘園である若松荘を与えた。(「臨川寺文書」)

・元弘1年(1331) 5.5 北条(平)高時は、鎌倉幕府の打倒を企てたことを理由に日野(藤原)俊基、文観、円観らを捕らえた。(『北条九代記』)

鎌倉幕府は穏便な解決を望み、倒幕計画の責任を、後醍醐天皇にではなく近臣に被せたと考えられる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・元弘1年(1331) ?.?「楠木兵衛尉」という人物が、若松荘に乱入した。(「臨川寺文書」)

※「臨川寺文書」において「悪党」と名指しされる「楠木兵衛尉」とは、楠木(橘)正成のことだと考えられる。後醍醐天皇の挙兵に協力して、彼は若松荘から兵糧米を強制的に徴収していたのだと考えられる(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

・元弘1年(1331) 8.24 後醍醐天皇三種の神器を持って内裏を離れ、比叡山に赴くことを装って、山城国笠置寺に向かった。(『増鏡』『梅松論』『北条九代記』)

・元弘1年(1331) 8.27 後醍醐天皇山城国笠置寺に到着した。(『興福寺年代記』『神皇正統記』)。

・元弘1年(1331) 8.27 元天台座主,尊雲法親王は、延暦寺の宗徒を率いて、六波羅探題と交戦し、勝利した。(『増鏡』)

後醍醐天皇比叡山に赴くとの情報が、虚報であると判明すると、宗徒は離散し、尊雲法親王も行方を晦ました(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・元弘1年(1331) 9.? 河内国守護代が、若松荘を占領した。(「臨川寺文書」)

・1331年 大元ウルスにて、勅命により、『経世大典』が編纂された。

※『経世大典』の附地図は、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルス、ジョチ・ウルスの主要都市が記入された、モンゴル君主国全体の形態の概略を示すものである(杉山正明『世界史を変貌させたモンゴル』)。