ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

光厳天皇・後醍醐天皇の時代

・元弘1年(1331) 9.20 量仁親王践祚した(光厳天皇)。八尺瓊勾玉草薙剣は後醍醐前帝が持ち去っていたため、日の御座に安置してあった御剣で代用した。(『践祚部類抄』)

・元弘1年(1331) 12.27 鎌倉幕府からの要請により、光厳天皇は後醍醐前帝を隠岐国に、尊良親王讃岐国に流すことを決定した。(『光厳院宸記』)

※これは後鳥羽院等を流した先例に従うものである(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・元弘1年(1331)頃 兼好による『徒然草』が成立したとされる。

※『徒然草』の第75段は、「つれづれわぶる(じっとしていられなくなる)」感覚について述べている。兼好によれば、世間に合わせたり人と交際していれば、心が惑うのだという。『徒然草』に使われる「あはれ」は世間の人々と価値観を合わせる際の合い言葉のようなものとも捉えられる。また、「無常」という限られた視点を定めて、捉えたものを切り取って綴ったとも評される。「「侘び」と「つれづれ」を合わせた批評の確立」とも評される(松岡正剛『千夜百冊』第367夜)。

※『徒然草』第217段には、大福長者と呼ばれた金持ちの説話が述べられる。大福長者は、銭を奴隷のようにではなく君か神のように敬って使用し、欲を抑えて貯蔵することを推奨したという。当時は、銭の蓄積という行為に「徳」を見出し、裕福な人物を「有徳人」と呼ぶようになっていた。円形で、四角い穴の空いた銭が流通するようになったことで、社会の均質化が進んだとも考えられる(網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』)。

※『徒然草』は平安時代の文章を模倣した擬古文で記されている。ただ、第160段など、終止形であるべき部分で連体形が使用されている。当時、連体形で文を結ぶことが多くなり、連体形が終止形の意味を持つようになり、終止形があまり使用されなくなっていた。そのためラ行変格活用は四段活用と同じになり、サ行変格活用、カ行変格活用、二段活用も変化した(倉島節尚『中高生からの日本語の歴史』)。

・1332年 スズダリ公が死去し、イヴァンはウラディーミル大公国全域を支配した。

・正慶2年(1333) 3.13 大友(藤原)貞宗は、全ての所領を子息の千代松丸(後の氏泰)に譲った。(「大友文書」『大分県史料 26』P181)

※所領の単独相続の開始を示すものである(八木直樹「総論 豊後大友氏研究の成果」『豊後大友氏』)

・正慶2年/元弘3年(1333) 4.1 後醍醐天皇皇子,護良親王は令旨を発し、北条(平)高時を名指しして不忠と暴政を非難し、その討伐を呼びかけた。(「護良親王令旨」『熊谷家文書』)

御家人たちは、鎌倉幕府から度々悪党の討伐命じられていた。しかし、ゲリラ戦を展開する悪党との戦闘に軍事的・経済的に疲弊することになり、御家人の権益を守るかつての体制から変質した鎌倉幕府を、倒すべき敵と認識したのだと考えられる(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・正慶2年/元弘3年(1333) 5.7 後醍醐天皇方は六波羅探題を攻めた。普恩寺流,北条(平)仲時と政村流,北条(平)時益は、光厳天皇後伏見院、花園院を連れて逃れた。(「前田家文書」「毛利家文書」)

・正慶2年/元弘3年(1333) 5.9 北条(平)仲時らは近江国番場に到着するが、現地の者に襲撃された。仲時は自害した。光厳天皇後伏見院、花園院は後醍醐天皇方の軍によって都に送られた。(『梅松論』『神皇正統記』)

・元弘3年(1333) 10.20 北畠(源)親房・顕家父子は、後醍醐天皇皇子,義良親王を報じて陸奥国に下向した。(『神皇正統記』)

※奥州下向の目的は、後醍醐天皇の地域支配構想の一環であった(生駒孝臣「後村上天皇」『室町・戦国 天皇列伝』)。

・元弘3年(1333) 12.10 後醍醐天皇光厳天皇太上天皇の尊号を贈った。(『皇年代略記』)

後醍醐天皇は「元弘の変」によって自身は退位させられたのではなく、自身の治世が続いていたという論理を掲げていた。光厳院に対しては、退位した先帝ではなく、皇太子を辞退した者として太上天皇号を贈っており、光厳天皇の即位自体を認めていなかった。そのため光厳院が定めた元号である正慶は取り消されて元弘に戻ったほか、光厳天皇が定めた人事、決裁なども取り消された(水野智之「八代の「北朝天皇」、知られざる事績」『北朝天皇研究の最前線』)。

建武2年(1335) 7.14 諏訪(神)頼重・頼継父子や滋野一族は、北条(平)高時の遺児,時行を奉じて、信濃国にて挙兵した。その軍は信濃国守護,小笠原貞宗と交戦した。(『市河文書』)

建武2年(1335) 7.22 諏訪頼重・北条(平)時行の軍は、武蔵国に進み、足利(源)直義の軍を破った。(『梅松論』)

建武2年(1335) 7.23 足利直義護良親王を殺害し、相模国鎌倉を脱出した。(『梅松論』)

〔参考〕『太平記』によれば、直義は鎌倉から京都に向かうに際して、駿河国入江という難所にさしかかったという。そこを封鎖されては危機に陥るため、入江荘の地頭,入江春倫に使者を派遣して協力を要請したという。春倫は、入江荘は後醍醐天皇から恩賞として貰ったことを理由に、直義に味方したとされる。

後醍醐天皇から春倫への恩賞が史実かは不明であるが、後醍醐天皇の恩賞政策が機能していたことを窺わせるような逸話である(亀田俊和太平記』解説)。

建武2年(1335) 8.2以前 足利(源)尊氏は北条(平)時行を討つために、征夷大将軍・総追捕使に任じられることを望んだ。しかし後醍醐天皇は許可せず、代わりに征東将軍に任じた。(『梅松論』)

建武2年(1335) 8.2 足利尊氏後醍醐天皇の命を待たずに、北条(平)時行討伐のために出発した。(『梅松論』『元弘日記』裏書)

〔参考〕『梅松論』によれば、尊氏は時行の討伐が天下のために必要だと考えていたという。

※『梅松論』が語るように、尊氏は時行討伐が天下のためになると考えており、それに成功すれば後醍醐天皇も事後承認してくれると楽観視していたとも推測される(呉座勇一『戦争の日本中世史』)。

建武3年(1336) 2.12 足利(源)尊氏は新田(源)義貞、北畠(源)顕家、楠木(橘)正成らの軍に敗れ、九州に落ち延びた。その途上、尊氏は光厳院より新田(源)義貞追討の院宣を受け取った。(『梅松論』)

建武3年(1336) 2.15 大友(藤原)氏泰は、足利(源)尊氏の猶子となった。(「大友文書」『大分県史料  26』P181)

※以降、大友惣領家と庶子家は源姓を使用するようになった。後にその自称が誤信されて、初代の能直は源頼朝落胤であるという説が生まれたと考えられる(渡辺澄夫「野津本「大友系図」の紹介」『豊後大友氏』所収)。