ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

伏見天皇の時代

・弘安10年(1287) 10.21熈仁親王践祚した(伏見天皇)。(『勘仲記』『実躬卿記』)

・1288年 サライのモンゴルはリャザンなどに攻め寄せた。

・正応2年(1289) 4.25 胤仁親王は皇太子となった。(『実兼公記』)

・正応2年(1289) 5.? 北条(平)政村の子息,時村は寄合衆に補任された。(『北条九代記』)

得宗の個人的諮問機関であった寄合が、鎌倉幕府の公的機関へと変化したことが理解できる。先代執権の時宗が没し、最高意志決定者が不在となったことで、それに代わる新たな機関が必要とされたのである。こうして、寄合は評定より上位、寄合衆は引付頭人よりも上位に置かれた。寄合衆を最高職とする家系「寄合衆家」と評定衆を最高職とする家系「評定衆家」が形成され、鎌倉幕府の特権的支配層をなした。世襲官僚的な家系が成立したことで、鎌倉殿の前で平等であるという、御家人制の建前は完全に形骸化した(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・正応2年(1289) 10.9 後深草院の皇子,久明親王征夷大将軍に任じられた。(『勘仲記』)

※こうして持明院統は、皇位と鎌倉の将軍位を独占した(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・正応3年(1290) 9.29 鎌倉幕府は追加法第619条を定めた。

※これは判決から6年以上経過した訴訟の、再審請求を認めないという規定である。これは訴訟処理の公正・迅速化を目指したものともいえるが、再審請求を起こすこと自体を拒否するものであり、根本の問題を解決するものではなかった(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・正応4年(1291) 10.10 将軍,久明親王相模国鎌倉に下向した。(『勘仲記』)

・正応4年(1291) 2.3 鎌倉幕府は追加法第631条を定めた。

※これは訴訟の督励権と監察権を与えられた御内人2人を鎮西に派遣するものであった(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・正応4年(1292) 8.20 鎌倉幕府は追加法第632条を定めた。

※寺社・京下訴訟の処理の促進を目的として、奉行人と五方引付の5人の御内人に、督励権と監察権を与えるものであった。5人の内の3人は、平頼綱の子息,宗綱・資宗兄弟と、頼綱の従兄弟,長崎(平)光綱であった。これは頼綱が頼れるのは自身の一門のみであったことの証左であり、基盤の脆弱さから専制的になったことを示している(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

 

・永仁1年(1293) 3.7 鎌倉幕府の命で、北条(平)時宗の甥,兼時と、名越流,北条(平)時家が鎮西に派遣された。(『島津家文書』『帝王編年記』)

※こうして設置された鎮西探題は、Mongγolからの攻撃に備えるために、鎮西を統治する役割を担った。鎮西探題は確定判決権を与えられたものの、長官である探題は鎌倉から派遣され、引付頭人の人事権も鎌倉幕府の中枢が握っていた。鎌倉幕府の中央集権的な性格を表している(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・永仁1年(1293) 4.22 北条(平)貞時は平頼綱の一派を襲撃した。頼綱は自害し、その子息資宗は討ち取られた。(『醍醐寺日記』)

※その基盤が脆弱であったことから、自ら傀儡化した貞時によって滅ぼされる形となった(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・永仁1年(1293) 6.5 鎌倉幕府の引付方は三方制となり、得宗家の北条(平)師時、名越流,北条(北条)公時、政村流,北条(平)時村らが頭人となった。(『北条九代記』)

・永仁1年(1293) 10.20 北条(平)貞時は五方引付を廃止して7人の執奏を設置した。(『北条九代記』『武家年代記』)

※貞時には、執奏を通して訴訟が奏上された。彼は奏上された全ての訴訟を自身で採決しようとしたが、個人の可能な範囲を超えていた(細川重男『鎌倉幕府の滅亡』)。

・永仁2年(1293) 10. 鎌倉幕府評定衆が復活した。

・1293年 大都はひとまずの完成をみた。

・1293年 大都と通州を結ぶ運河,通恵河が開通した。

・1293年 アンドレイの要請で、モンゴル軍が派遣された。年代記によれば14の都市を占領して焼いたのだという。

・永仁5年(1297) 3.6 北条(平)貞時は徳政令を発布した。(『東寺百合文書』)

※当時、売買する土地というものは、田地である。そのため、購入した土地からは年貢が入る。つまり、土地を購入して何年かすれば元手は取れることになる。買い手の丸損というわけではない(細川重男「言われてるほど、ムチャでもない」『論考 日本中世史』所収)。

・1298年 モンゴル軍はウラディーミルやスズダリなど。14の都市を破壊した。

〔参考〕年代記によれば、モスクワやトヴェリ、また懲罰軍の来ない、アンドレイに味方する諸公の領土に逃げたのだという。

※こうした移住は、人々が逃げた先にあるヴォルガ方面やその北方において、13世紀末以降多くの修道院が建造されたことと関連しているとも思われる(宮野裕『「ロシア」はいかにして生まれたか』)。