ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

二条天皇の時代

・保元3年(1158) 8.11 後白河天皇の譲位により、守仁親王践祚した。(『兵範記』)

後白河天皇は、権力を保持したまま太上天皇となった。そのため彼は、自身を規定していた「中継ぎ」としての天皇という立場を変化させたのである(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

・1159年 SalisburyのJohnは『Policraticus』を著した。

※著作において、かつてArgeas朝君主Alexandros Ⅲは、慎み、仁慈、人間性、正義といった徳性を示したことで、その評価が高まったと説いている。歴史上の君主を模範として示すことで、君主とその側近は高潔になり、感銘を受けた民の支持を得ることができるとした。君彼のような聖職者たちは、自身が仕える君主に、君主としてあるべき姿を伝えるために「specula principum(君主の鑑)」を著したのである(君塚直隆『君主制とはなんだろうか』)。

・平治1年(1160) 12.14 源頼朝は叙爵し、右兵衛権佐に任官した。(『尊卑分脈』『武家年代記』)

・平治1年(1160) 12.28 源頼朝は官職を剥奪され、伊豆国に流されることが決まった。(『武家年代記』)

※頼朝が助命されたのは、待賢門院,璋子と近しい彼の母方の実家である熱田大宮司家が奔走し、上西門院統子内親王後白河院姉弟、また平清盛の継母池禅尼宗子に働きかけたとも推測される(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・佐々木(源)秀義は本拠の佐々木荘を追われ、母方の姉妹の夫である藤原秀衡を頼って奥州陸奥国まで逃げることにした。しかしその道中で、相模国の武士、渋谷重国に停めてもらい、居候することになった。(『吾妻鏡』弘長1年5.13条) 秀義は後に重国の娘との間に子息義清を儲けている。(『吾妻鏡』治承4年8.26条)

・永暦1年(1160) 3.11 源頼朝山城国京都を出発し、流刑先の伊豆国へと向かった(『清獬眼抄』)

※『平家物語』や『曽我物語』は、頼朝の配流先を、田方郡北条の東にある蛭ヶ小島とする。しかし、その2つの記録は、頼朝と工藤家との逸話を記している。蛭ヶ小島に流されたとすれば、領地の離れた工藤家が日常的に監視することは不可能である。真名本『曽我物語』には「伊藤の御所」という場所が登場することから、実際は加茂郡伊東が配流先だったと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※離職した後に、別の官職に就かなかった場合には、離職する前の官職で呼ばれることが通例であった。そのため頼朝は伊豆国にいる間、右兵衛権佐に因んで「佐殿」と呼ばれた(細川重男『頼朝の武士団』)。

比企尼は、夫である掃部允を説得して、山城国京都から請所の武蔵国比企郡に引っ越して、源頼朝に仕送りをしていた。(『吾妻鏡』治承元年10.17条)

源頼朝の乳母の甥である三善康信は、毎月3回頼朝に使者を遣わし、山城国京都の情勢を伝えていた。(『吾妻鏡』治承4年 6.19日条) 源頼朝の母の弟である僧侶、祐範もまた、毎月使者を派遣していた。(『吾妻鏡』建久2年 8.7条)

源頼朝には、比企尼の娘婿である小野田藤九郎(藤原)盛長や、大和国判官代藤原邦通が住み込みで使えていたほか、渋谷重国の邸宅から、佐々木(源)秀義の子息ら(定綱・経高・盛綱・高綱)が頼朝の屋敷に通っていた。(『吾妻鏡』)

・永暦1年(1160) 7.13 工藤(藤原)祐継は危篤となり、甥の祐親に子息の金石(後の祐経)を託して死去した。(『曽我物語』真名本 『伊東系図』)

・長寛1年(1163) ?.? 北条時政の子息として、義時が誕生した。(『吾妻鏡』) 母は伊東(藤原)祐親の娘とされる。(前田育徳会所蔵『平氏系図』)