ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

高倉天皇の時代

・仁安3年(1168) 2.19 六条天皇の譲位により、憲仁親王践祚した。(『玉葉』)

・嘉応2年(1170)?.? その序文によれば、この年『今鏡(続世継)』が成立した。大宅世継の孫娘が、後一条天皇から高倉天皇までの歴史を、大和国の古寺の巡礼に訪れた作者語る設定である。

※『今鏡』は、白河天皇が「ゆゆしく事々しき様」を好んだと語る。「ゆゆしく事々し」とは巨大なことを意味する言葉であり、法勝寺の建造物や仏像の巨大さを思わせる。ただ、「ゆゆし」とは「不吉」「事々し」とは「大仰」の意味もある。藤原摂関家が政治を担った時代の繊細で典雅な美意識から、法勝寺の巨大さを批判する意図があると考えられる(上横手雅敬『日本史の快楽』)。

院政期や和歌文学を賛美し、隠者の意識を伺わせる(清水正之『日本思想全史』)。

・常安2年(1172)以前 ?.? 〔参考〕工藤(藤原)祐親は、従兄弟の祐経の持っていた伊東荘を押領して苗字を伊東に改め、河津荘は子息の祐泰に譲り、祐経には屋敷を与えなかったのだという(真名本『曽我物語』)

・常安2年(1172) ?.? 河津(藤原)祐泰は、同じ工藤一族の狩野介(藤原)茂光の娘との間に一萬丸(後の祐成)を儲けた。(真名本『曽我物語』)

※このことから、工藤一族で勢力を伸ばしていた茂光との連携を強化していたことが理解できる。(『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・常安2年(1172) ?.? 〔参考〕工藤(藤原)祐経は、従兄弟の祐親に伊東荘と河津荘を押領されたと、本家や領家に訴えた。祐親は賄賂を用いて訴訟を有利に進め、「半分ずつ知行せよ」との判決を導いたのだという。(真名本『曽我物語』 『伊東系図』) 

・承安3年(1173) ?.? 源頼朝は、伊東(藤原)祐親の出張中、その娘(俗に八重と伝わる。以降、この呼称を用いる)と通じ、間に男児(俗に千鶴と伝わる。以降、この呼称を用いる)を儲けた。(真名本『曽我物語』)

・承安4年(1174) 2.7 高倉天皇法住寺殿において猿楽を見た。(『吉記』)

※散楽(猿楽)は、庶民間で唄われた今様と共に貴族間で流行した。また、当時の「みだらなふるまい」は、貴族文化の終焉を象徴するものであったとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

・承安4年(1174)7.8 平重盛は右近衛大将に任官した。(『玉葉』『公卿補任』)

・安元1年 (1175) 9.? 〔参考〕山城国京都より伊東(藤原)祐親が帰還した。頼朝が娘の八重と通じていることを知った祐親は、平家の目を恐れた2人を別れさせ、千鶴を家臣に殺害させた。頼朝は祐親の子息九郎祐清から知らせを受け、伊豆山神社に逃れたのだという(『源平闘諍録』)

・〔参考〕源頼朝は伊東(藤原)祐清の手引きで祐親の娘婿である北条(平)時政のもとに身を寄せた。(真名本『曽我物語』)

※伊東(藤原)祐親が頼朝を攻めようとしなかったことから、実際のところは、祐親の容認もしくは黙認のうえで、頼朝は時政のもとに移ったのだと考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)

※時政には、伊豆国知行国主である源頼政との接点があったため、平家に遠慮せず頼朝を預かることが出来たのだと考えられる。時政の狙いは、自身の地位を向上させるための、1つの手立てとして貴種である頼朝を手元に置きたかったのだと思われる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・安元1年(1175) 11. 平重盛は大納言となった。

・安元1年(1175) ?.? 北条時政の子息として、時連(後の時房)が誕生した。(『吾妻鏡』)

※時政ほどの地位の坂東武士は、複数の妻を持つことはなかった。そのように考えると、時政の妻である伊東(藤原)祐親の娘は、時連を産んだ後にほどなくして死去したとも考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※安元1年の末から安元2年の2月の間に、時政は大番役として上洛したと考えられる。京都滞在中に、牧(藤原)宗親と知り合い、その娘(もしくは妹)である牧方を後妻に迎えた可能性がある。そうすると、時政は都の人脈と後妻を手に入れたことになる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

※牧(藤原)宗親は駿河国大岡牧庄の預所を務めていた。大岡庄の政所別当平頼盛であり、宗親の婿として現地支配を委ねられたと考えられる。そうした地位の女性と婚姻可能だったことや、平頼盛の邸宅跡から土器(かわらけ)が出土していることから、時政は京武者として、都と密接な関わりを持っていた可能性が指摘される。そうした背景から、伊豆国の水陸交通の要所を抑え、天野家や仁田家といった在地武士を従えていた可能性がある(野口実「伊豆時代の北条氏」「北条時政」『図説 鎌倉北条氏』)。

※時政の時代には伊豆半島を南北に貫通する幹線道路が形成されていなかったことや、他の近隣領主も同様に交通の要所を支配していたことから、北条家の特異性を示すものではないという見解もある(高橋秀樹「挙兵前の北条氏と牧の方の一族をめぐって」『國史學』238号所収)。

・安元2年(1176) 3月頃 北条(平)時政の在京中、源頼朝は時政の娘である政子のもとに通いはじめた。(真名本『曽我物語』) 

・安元2年(1176) 10月以前 工藤(藤原)祐経は、伊東(藤原)祐親・祐泰父子を殺害しようとした。それを知った祐親は、祐経に嫁がせていた娘を離婚させ、相模国の土肥(平)遠平と再婚させた。(真名本『曽我物語』)

・安元2年(1176) 10.? 工藤(藤原)祐経は手勢を遣わして、再び伊東(藤原)祐親・祐泰父子を殺害しようとした。祐親は助かったが、祐親は矢で射られて死亡した。(真名本『曽我物語』)

・安元3年(1177) 3. 平重盛内大臣となった。

※伊東荘の領家でもある重盛の躍進は、その家人である伊東(藤原)祐親や、狩野介(藤原)茂光らの勢力拡大を後押ししたとも考えられる(坂井孝一『鎌倉殿と執権北条氏』)。

・治承3年(1179) 6.- このころ、世間に「銭の病」と呼ばれる病気が流行した。(『百錬抄』)

平清盛が主導した日宋貿易により、多くの宋銭が日本に入ってきた。貨幣の流通は活発になったころであったが、銭を使ったことが原因で病が流行したと噂になるように、金属貨幣を呪物と見る風潮は強かった(網野善彦『日本の歴史をよみなおす(全)』)。

・治承3年(1179) このころ、後白河院は今様を集成した『梁塵秘抄』を編纂した(所功天皇の歴史と法制を見直す』)。

※「鷲の住む深山には、なべての鳥は住むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎はおそろしや」という今様が載せられている。源義家の武勇は伝説として語られながら、反面その残虐さが恐れられてもいたのである(呉座勇一『武士とは何か』)。