ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

醍醐天皇の時代(寛平、昌泰、延喜、延長)

・寛平9年(897) 7.3 宇多天皇は譲位し、敦仁親王践祚した(醍醐天皇)。宇多太上天皇は、藤原時平菅原道真に対して、醍醐天皇を補佐するよう詔した。(『日本紀略』)

※当時、租税の未進が深刻な問題になっていたほか、班田収授が行われなくなったため、国家財政が危機的な状況になっていた。道真は受領の経験があったため、醍醐天皇の補佐として国政改革にあたらせたのだと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・寛平9年(897) 7.3 譲位に際して、宇多太上天皇は新帝に、公事儀式と任官叙位における心構えと、人物評により構成される『寛平御遺誡』を授けた。

醍醐天皇に対して、「外蕃」つまりは外国の人との直接の対面を避けるよう訓示されている。異国人との接触が穢れと認識されるようになったことが窺える(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・昌泰3年(900) 9.? 奨学院は大学寮南曹(大学別曹)となった。(『日本紀略』)

※こうして奨学院は勧学院と同じく大学寮南曹となった。最初の奨学院別当は記録にないが、皇親臣籍降下氏族から選ばれたと推測される。奨学院を設置した故在原行平の子息である参議,友于も候補に挙げられる。『職原抄』には源氏長者が奨学院別当を兼任するとあり、『西宮記』には嵯峨源氏であることが源氏長者の条件とある。それらの原則が最初からあったとすれば、大納言,源希が別当であったとも推測される。当時の皇親臣籍降下氏族で、公卿になった者のほとんどは源氏であった。昌泰年間以降の筆頭公卿はほとんど源氏が占めていたことから、淳和院と勧学院別当の地位は源氏長者に受け継がれていったと推測される(岡野友彦『源氏長者』)。

・昌泰4年(901) 1.25 右大臣,菅原道真は、醍醐天皇を廃位して自身の娘婿である斉世親王天皇にしようとしたという疑いがかけられ、大宰員外帥に左遷された。(『日本紀略』)

宇多院の後押しで、学者でありながら右大臣に昇ったことで、嫉妬した公卿たちに反発されて孤立したとも考えられる。また、三善清行藤原菅根などとも不和であったことが指摘される(美川圭『院政 増補版』)。

・延喜2年(902) 3.13 勅旨田の新たな開墾と、百姓が諸院・諸宮・王臣家に田地や舎宅を売却・寄進することが禁じられた。(『類聚三代格』)

・延喜3年(903) 7.15 是貞親王薨去した。(『日本紀略』『為房卿記』)

※是貞親王の歌合においては、文屋朝康が歌を詠んでいる。

草も木も 色かはれども わたつみの 浪の花にぞ 秋かりける(『古今和歌集』巻5)

※この歌について三島由紀夫は、使われる言葉は「意味内容を解析して伝え、知的理解を要求するようにしか使われ」ておらず、そのような歌を収録する『古今和歌集』を、歌の複合的な情緒を欠いた歌集と評した(三島由紀夫古今集新古今集」『古典文学読本』所収)。

・延喜3年(903) 8.1 唐の商船が日本に来ると、院宮王臣家が商品の多くを私的に購入し、朝廷の買う分が残らないため、私貿易は禁じられた。(『類聚三代格』)

※開墾が停止された結果、王臣家は貿易品に執心するようになったようである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜3年(903) 疫病で多数の死者が発生したことを理由に、甲斐国の百姓3000余は、税を免除された。(『北山抄』)

※多くの百姓の税を免除する必要に迫られたのは、甲斐国に隣接する上野国信濃国に群盗が横行したことが影響にあると考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜4年(904) 3.2 都内にて、前安芸守,伴忠行は群盗に殺害された。(『日本紀略』)

※群盗が国司を襲撃するという事件が、天皇の付近で行われるまでになったのである(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜5年(905) 4.15 紀貫之紀友則凡河内躬恒壬生忠岑らにより、『古今和歌集』が完成した。(『日本紀略』) 春夏秋冬、賀歌、離別歌、羇旅歌、物名、恋歌の順番で構成されている。

・巻頭には紀貫之による「仮名序」、巻末には紀淑望による「真名序」がある。

・「仮名序」は「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世中に在る人、事、業、繁きものなれば、心に思ふ事を、見るもの、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。花に鳴く鶯、水に住む蛙の声をきけば、生きとし生けるもの、いづれか、歌を詠まざりせる」と和歌の性質を説きながら、「力をも入れずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をも哀れと思はさ、男女の仲をも和らげ、猛き武人の心をも慰むるは、歌なり」と効用を説明し、和歌の歴史を述べ、当時の優れた歌人を讃える。

※日本における片仮名と平仮名の発明は、外国文化を咀嚼・消化する力に長けていることの証左とも考えられる(辻善之助『皇室と日本精神』)。

・「真名序」は『白氏文集』などを引用しながら、和歌の六義(風・賊・比・興・雅・頌)を説明し、『万葉集』以降の和歌の歴史を述べる。

※『古今和歌集』において、仮名序と真名序を並立させ、貫之は漢文と和文を対比を試みた。「和文・仮名つかい」による大和歌(和歌)の収容を行い、文芸において倭語から和語への進歩をもたらしたとも評される(松岡正剛『千夜百冊』第512夜)。

※「鬼神をもあはれと思はせ」という仮名序の文言は、「詩的秩序をあらゆる有効性から切り離す作用」であり、動かすのが人心であれば「詩的宇宙の秩序は崩壊するの他ない」と三島由紀夫は分析した。(三島由紀夫古今集新古今集」)。

※『古今和歌集』は季節の歌を最初に置くことで、天皇の支配は循環・永続することを示し、それを祝福している。恋歌は生命力を象徴し、男女による私的な領域にまで広がる(末木文美士『日本思想史』)。

※花鳥風月という見方の原型を作ったとも評価される(清水正之『日本思想全史』)。

・『古今和歌集』に収録される、紀氏の2人の歌は、王朝風詠歌の規範として知られる(清水正之『日本思想全史』)。

袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ 紀友則

久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ 紀貫之

正岡子規は貫之と『古今和歌集』について、「貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候」と評した(正岡子規「再び歌よみに与ふる書」)。

三島由紀夫は「情感的でなく知的であり、均整美に集中され、新古今集のようなデカダンスがない」と評した(三島由紀夫『わが古典』『古典文学読本』)。

・907年 朱全忠は唐の哀帝,李柷からの禅譲を受け、皇帝に即位して国号を梁とした。後梁と呼ばれる。

・延喜9年(909) 4.9 藤原忠平は権中納言に任じられ(『貞信公記』)、氏長者となった。(『公卿補任』)

・延喜9年(909) 7.1 下総国において騒乱があった。(『日本紀略』)

※下総介だったことのある、平高望の子息,良兼は騒乱に関与した可能性が指摘される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜11年(911) 1.? 藤原豊沢の子息,村雄は下野守に任じられた。(『皆川氏系図』)

〔参考〕『尊卑分脈』によれば、村雄の母は下野史生,鳥取豊俊である。

鳥取氏は豊沢と村雄の2代に渡って娘と結婚させることで、藤原姓を持つ現地豪族を誕生させたと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜11年(911) 1.13 藤原忠平は大納言、紀長谷雄中納言に任じられた。(『小右記』)

・延喜11年(911) ?.? 藤原利仁は上野介に任じられた。(『尊卑分脈』)

〔参考〕『鞍馬蓋寺縁起』によれば、下野国の高蔵山に群盗が住み、山城国京都に運ぶ調と庸を奪っていたのだという。そこで朝廷は藤原利仁を派遣し、群盗を駆逐させたのだという。

※高蔵山という山は下野国どころか坂東のどこにもなく、利仁が下野国国司になった形成はない。ただ、討伐対象が異形のものではなく、当時の一般的な「群盗」であることや、群盗の強奪行為も当時のものとして自然であることから、利仁は群盗討伐のために坂東に派遣されたことは信憑性があると考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜11年(911) ?.? 藤原利仁は上総介に任じられた。(『尊卑分脈』)

※任国が1年で変わったことから、上野介の任官は群盗の制圧が目的であり、上野国の群盗の制圧に成功したか、上総国で別の軍事的危機があったと推測される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜14年(914) 8.25 藤原忠平は右大臣に任じられた。(『小右記』)

・延喜14年(914) ?.? 三善清行醍醐天皇に『意見十二箇条』を提出した。

※僧侶の腐敗や御節の舞妓の用や医の華美化などの問題点を指摘し、口分田の公平な分配の必要性を説いたものである。律令制が崩壊寸前である時代の風潮を伝えるものである(清水正之『日本思想全史』)。

・延喜15年(914) 2.10 上毛野基宗らが上野介,藤原厚載が射殺されたと、朝廷に報告された。(『日本紀略』)

藤原利仁のような強い人物が受領の任期を終え、弱い人物が就任すると、群盗が勢力を回復させる傾向が窺える(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜15年(914) ?.? 〔参考〕藤原利仁鎮守府将軍に任じられたという。(『尊卑分脈』)

〔参考〕『侍中群要』によれば、延喜14年に、「鎮守府将軍利平」が陸奥国に赴任したという。

※利平と利仁は同一人物と考えられ、利仁が鎮守府将軍になったという伝承は事実とも考えられる。坂東における群盗にとっての拠点や供給源となっていた陸奥国を制圧することが目的であったと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜15年(914)以降 ?.? 平高望の子息,良持(良将)は鎮守府将軍に任じられた。(『扶桑略記』『将門記』)

鎮守府将軍は、蝦夷の反乱からの防衛を専門とする職であり、大伴氏、佐伯氏、坂上氏、紀氏など、武人を排出した氏族から選ばれている。この任官は、良持が武人と認識されていたことの証左と考えられる。彼は坂東の所領と都行き来していたと推測される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

〔参考〕『尊卑分脈脱漏』「平氏系図」によれば、良持の1人は犬養春枝の娘で、子息,将門を産んだという。

上野国には犬養姓の者がいることが確認できるため(『続日本後紀』承和10.3.8)、実際に良持は土着有力者の娘を妻にして子息を儲けたとも考えられる。祖父,葛原親王以来の、騎馬文化が盛んかつ馬を生産可能で、開墾可能な土地を持っていた良持は、土着有力者にとって婿に迎えたい存在であったと推測される(桃崎有一郎『武士の解きあかす』)

・延喜16年(916) 8.12 下野国司より朝廷に、藤原秀郷ら罪人18人を流刑地に送ることが出来ないという申し出があったが、判決通りに執行するよう朝廷から伝えられた。(『日本紀略』)

〔参考〕『尊卑分脈』によれば、秀郷は藤原魚名の末裔で、村雄と「下野掾鹿島」の娘との間に産まれた子息である。

※死刑が有名無実化していた当時、流刑は最高刑であり、彼らは殺人を犯していた可能性が指摘される。「鳥取」を圧縮して記した場合、字形は「鹿」に近くなるため、鳥取の誤記であるとも考えられる。そうであれば、豊沢・村雄父子は2代に渡って鳥取氏を妻に迎えていることになる。その結果産まれた秀郷は、ほぼ現地と同化し、藤原という貴姓でありながら、事実上の現地豪族という性格を有していたことが指摘される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜16年(196) 10.27 前上野介,藤原厚載を射殺した主犯は、上野国の百姓,上毛野貞並であると発覚した。(『日本紀略』)

※厚載の死因が射殺であったことから、貞並は弓馬術を使える富豪百姓であったと推測される。郡司富豪層から溢れた者が実力により国司を殺害する風潮があったことが窺える(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜17年(917) 7.~ 干魃が起き、群盗が溢れる状況となった。(『日本紀略』)

※年貢の徴収を請け負いながらも、納税の不足分を自腹で負わされ王臣家に借金までして穴埋めしていた郡司層が、債務者となって群盗になったと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・延喜23年(923) 閏4.11 延喜から延長に改元された。(『日本紀略』)

・923年 テュルク系,沙陀族の李存勗は、後梁を滅ぼして唐を建てた。後唐である。

・925(遼暦天賛4年) 10.庚辰 〔参考〕『遼史』によれば、日本の使節がKhitan(契丹)を訪れたという。

※日本の使者が訪れた翌日には高麗、翌月には新羅が「来貢」している(『遼史』)。

・延長2年(924) 1.22 藤原忠平左大臣藤原定方は右大臣に任じられた。(『北山抄』)

・延長4年(926) 5.21 興福寺の僧侶,寛建は、「唐」の商人の船に乗って五台山への巡礼を望んで醍醐天皇に奏請した。朝廷はそれを許可し、寛

建の求めに応じて菅原道真紀長谷雄橘広相、都良香の詩集と小野道風の書を携えた。(『扶桑略記』)

・延長5年(927) 1.23 朝廷は寛建に大宰府の牒を賜って、大宋(唐の誤記)の福州に赴かせようとした。(『日本紀略』)

※『扶桑略記』に見られる、寛建が赴くことを望んだ「唐」とは広く「中国」を差し、Khitan(契丹)であると考えられる。渤海国が事実上滅び、耶律阿保機が他界するといった情勢であり、五山台付近の「後唐」の混乱状態を調べることが目的であったかもしれない(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

・928年 キタイはタタル人を支配下に置いた。

・延長8年(930) 4.1 東丹国(元渤海国)の使者は日本側と応答する内に、東丹国を服属させたKhitan(契丹)を悪し様に述べた。日本側はそのことを非礼であると批判した。(『扶桑略記』) 

※日本が東丹国に冷淡であったのは、国際問題を回避するためだとする見解もある。その当否は別として渤海国が事実上滅ぼされたことを日本は認知したとも考えられる(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

・延長8年(930) 9.22 藤原忠平は摂政に任じられた。(『公卿補任』)