・貞観18年(876) 11.29 清和天皇の譲位を受け、貞明親王が践祚した。(『日本三代実録』)
・貞観18年(876) 11.29 清和太上天皇の勅により、藤原基経は摂政に任じられた。(『日本三代実録』)
・元慶2年(878) 3.15 俘囚が秋田城を襲撃し、周辺の民家を焼き払った。(『日本三代実録』)
〔要参考〕『藤原保則伝』によれば、秋田城司,良岑近の課税が苛烈であったため、恨みを募らせた俘囚が反乱を起こしたのだという。
※凶作による疲弊と、城司による苛政が反乱の理由であったと考えられる(関幸彦『武士の誕生』)。
・元慶3年(879) 3.23 太皇太后,正子内親王は薨去した。(『日本三代実録』)
※正子内親王の遺言により、生前の彼女に侍っていた尼僧や、山城国京都の中で自分で生活できない僧侶は淳和院で生活できることとなった。こうして、淳和院は皇親の離宮から皇族の直轄する尼寺へと変化した(岡野友彦『源氏長者』)。
・元慶4年(880) 3.11 白丁,神服部部貞氏ら11人は、弓馬術に優れた軍人して、出羽国の警固した功績を認められ、出羽国司に推薦された。(『日本三代実録』)
※私財をもとに辺境の警備が可能であった貞氏は、富豪百姓であったと考えられる。弓馬術の習得により、免税特権と俸禄を得ることが可能になったことで、富豪百姓の多くが殺到した。一方で、納税を担う民が減少することとなった(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。
・元慶5年(881) 在原行平は奨学院を設置した。
※源俊明の供養文からは、皇親、臣籍降下した公卿、諸大夫らのための大学別曹であることが理解できる。また、平氏が通った記録もあるため(『兵範記』『姉言記』)、元皇親の賜姓氏族(王氏)全体のための大学別曹であったと考えられる(岡野友彦『源氏長者』)。
・元慶5年(881) 12.11 恒貞(恒寂)親王の要請を受け、朝廷は、淳和院と大覚寺と檀林寺を総括する役職である公卿別当がそれぞれの院に設置された。(『日本三代実録』)
※最初の淳和院別当が誰であったか記録は残っていないが、その深い関わりから、皇親・源氏から選ばれたと推測される。その場合、当時の筆頭公卿であった左大臣,源融が候補に挙げられる。なお『職原抄』には、大臣に昇った者は淳和院別当の職を別の人に譲るとある。この原則が最初からあったとしたら、当時大臣でなかった源氏の公卿である、大納言,源多か参議,在原行平あたりが候補になりえる(岡野友彦『源氏長者』)。
・元慶7年(883) 6.? 100余の群盗が、筑後守,都御酉の館を襲撃し、御酉を殺害して強盗行為を働いた。(『日本三代実録』)
※後に逮捕された犯人は、筑後掾,藤原近成、筑後少目,建部貞道という受領の部下と、大宅宗永(浮浪人)、在原連枝(蔭子無位)、大初位下,大秦宗吉(蔭孫)であった。共犯者には清原利蔭(蔭子)、藤原宗扶(無位)、日下部広君(元医者)、白丁,八多久吉岑などがいた。在原氏・清原氏・藤原氏といった王臣子孫の無職や、受領の部下、百姓など、様々な階層の者が犯人であった。蔭子や蔭孫には受領殺害の利点はないはずである。親の威光も栄達には役に立たず、就く職もなかったことから、有り余る暇と体力から地方の争いに加わったのだと考えられる。受領を結託して殺害するという発想が実行される風潮は、地方社会が荒廃していたことを物語る(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。
・元慶7年(883) 11.10 清涼殿において、陽成天皇の乳兄弟,源益が死亡した。(『日本三代実録』)
・元慶8年(884) 2.4 陽成天皇は退位した。(『日本三代実録』)
※これは源益殺害の責任を取らせるために退位させたとも考えられるが、陽成天皇が母,高子を後ろ盾として自ら政務を執ることを嫌った藤原基経が退位させたとも考えられる(角田文衞「陽成天皇の退位」)。