ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

朱雀天皇の時代(延長、承平、天慶)

・延長8年(930) 9.22 醍醐天皇の譲位により、寛明親王践祚した(朱雀天皇)。藤原忠平に政事を摂行させた。(『山槐記』)

・延長8年(930) 9.22 左大臣,藤原忠平は摂政に任じられた。(『山槐記』)

・延長9年(931) ?.? 平高望の子息,良兼と、その甥,将門の仲が決裂した。(『将門記略』)

〔参考〕『将門記』によれば、対立の原因は女性であったという。

〔参考〕『今昔物語集』によれば、将門の父,良持(良将)の田畑の相続が争いの原因であったという。

・承平1年(931) 7.19 宇多院崩御した。(『貞信公記』)

宇多天皇の代の後ほどから、天皇に対する諡は「〇院」とすることが多くなり、「〇天皇」という追号は長らくなかった。これは遣唐使の派遣が絶えたことで、対外的に自立を主張する必要性が減じたからとも考えられる(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・承平4年(934) 土佐国司の任期を終えて、紀貫之山城国京都に向かう。そしてその道中を日記として記しはじめた。『土佐日記』である。

※『土佐日記』は古くは『土左日記』と書いていたことが判明している。また、成立自体は翌年と考えられる(今野真二『かなづかいの歴史』)。

※貫之は、自身の道中に同行する1人の女性を装う形で、女手(平仮名)で日記を書いた。そのため、男性の日記のような公事や行事の備忘録としての要素は持たず、漢詩も記していない。また、文学的要素を含んだ記述を持ち、土佐国で亡くした娘に対する悲しみを感じさせるものになっている。平仮名にて細やかな心情を綴る、日記文学の先駆であった(清水正之『日本思想全史』)。

※『土佐日記』においては、「願(ぐゎん)」「京(きゃう)」「明神(みゃうじん)」「白散(びゃくさん)」などの拗音の入る漢語や、平仮名で書けば誤読されかねない語などは、漢字で記されている(山口仲美『日本語の歴史』)。

※仮名文字を用いたのは、誰もが真似しやすく読みやすい、和語和文和字による表象様式をつくる試みだったという評価もある(松岡正剛『千夜百冊』第512夜)。

・承平4年(934) 12.24 国分寺の講師は、紀貫之の餞別の宴に赴いた。その場の人々は身分の貴賤に関わらず、子供まで酒に酔って、文字を知らない者たちも足で十文字を書いて遊んだ。(『土佐日記』)

※青谿書屋本では、日付や講師、文字といった漢語由来の言葉が、漢字で書かれている。片仮名は漢字との併用を前提としていたが、平仮名はその限りではない。しかし、早い時期から、平仮名は漢字と併用するようになったと考えられる(今野真二『かなづかいの歴史』)。

・承平5年(935) 2.? 平将門は平真樹という人物から誘われて、伯父の平国香とその舅,源護と合戦を行った。国香および、護の子息,扶・隆・繁が討死した。(『将門合戦状』) 

・承平5年(935) 2.? 平将門は、源護に味方する人々の舎宅や、筑波郡真壁郡、新治郡における護の同盟者の舎宅500以上を焼いた。護は将門の行為を朝廷に訴えた。(『将門記』)

・承平5年(935) 10.21 平将門は伯父,良正と交戦し、それを破った。(『将門記』)

・承平5年(935) 12.29 朝廷より太政官符が発給され、平将門と源護は朝廷に赴くことが命じられた。(『将門記』)

・承平6年(935) 8.19 藤原忠平太政大臣に任じられた。(『日本紀略』)

・承平6年(936) 10.26 平将門は伯父,良兼と交戦し、それを破った。(『将門記』)

※『将門記』にある、将門と良兼の「女論」を理由として合戦に発展したという説もあるが、交戦まで4年が経っており、直接的な要因は別であるとも考えられる(木村茂光『平将門の乱を読み解く』)。

・承平6年(936) 10.26以降 平将門は、伯父,良兼らとの私戦について尋問を受けた。(『将門記』)

・承平6年(936) 「日本紀講筵」が行われた。(『釈日本紀』所引「康保二年外記勘申」)

〔要参考〕『日本書紀私記』丁本によれば、受講生が『日本書紀』の理解のために参考にすべき本は何かと尋ねたため、講師の谷田部公望は、『先代旧事本紀』『上宮記』『古事記』『大倭本紀』『仮名日本紀』などであると答えたという。

※『大倭本紀』は、神代史を記した全2巻の本である。『仮名日本紀』は養老5年に行われた講書を参考にして、『日本書紀』を訓読するために書かれたものである(関根淳『六国史以前』)。

936年 石敬瑭はキタイの支援を受けて洛陽を陥落させ、自ら皇帝となって後晋を建てた。キタイ太宗耶律徳光は見返りとして後晋から山西北部から河北北部にあたる燕雲十六州を割譲された。また、後晋はキタイに年額30万匹の絹を支払うという約束も取り付けた。

※キタイは燕雲十六州を割譲されたことで、北京と内モンゴルを獲得した(岡田英弘世界史の誕生』)。

・承平7年(937) 4.7 平将門は恩詔を受けて私戦の罪を赦された。(『将門記』)

・承平7年(937) 8.6 平良兼平良兼常陸国下総国の国境である子飼渡で交戦した。将門を破った良兼は常羽御厩を焼いた。(『将門記』)

・承平7年(937) 9. 平将門は、平良兼に攻められた際に人を殺されて略奪されたことを朝廷に訴えた。(『将門記』)

・承平7年(937) 11.5 平将門に対して、平良兼と源護を追捕することが命じられた。(『将門記』)

・承平7年(937) 12.14 平良兼平将門を襲撃した。将門は反撃して良兼に勝利した。(『将門記』)

・天慶1年(938) 2.中 故平国香の子息。貞盛は、平将門の罪を告発するために都に向かおうとした。将門はそれを追跡し、信濃国にて合戦に及んでそれを破るが、貞盛は都に着いて将門の罪を訴えた。(『将門記』)

・天慶2年(936) 3.3 武蔵介,源経基は、武蔵権守,興世王と、平将門が謀反を起こしたと、朝廷に訴えた。(『貞信公記』)

・天慶2年(939) 6. 朝廷は平貞盛の訴えを受け入れ、平将門に朝廷に赴くよう命じる太政官符が発給された。(『将門記』)

・天慶2年(939) 6.7 武蔵権守,興世王平将門の謀反が事実か調査するために、問密告使が任じられた。(『貞信公記』)

※問密告使は現地に赴いて事件調査を行うが、この際に任命された問密告使は都を出発することはなかった(近藤成一「平将門」『歴史のなかの人間』)。

・天慶2年(939) ?.? 平貞盛常陸国に赴いた。貞盛の叔母(高望の娘)の夫である常陸介,藤原維幾と、その子息,為憲も下向した。(『将門記』)

・天慶2年(939) 11. 平将門常陸国住人,藤原玄明から頼まれて、玄明と常陸国司の争いを仲裁するために常陸国に赴いた。(『将門記』)

・天慶2年(939) 11.21 平将門藤原玄明は、常陸国府において常陸介,藤原維幾を攻めて降伏させた。(『将門記』)

・天慶2年(939) 12.2 常陸国より朝廷に、平将門と武蔵権守,興世王から受けた被害の訴えが届けられた。(『扶桑略記』)

・天慶2年(939) 12.15 平将門上野国に赴き、上野介,藤原尚範を印鑰を略奪、国衙に入って「新皇」を名乗り除目を行った。(『将門記』『本朝世紀』)

・天慶2年(939) 12.15 〔参考〕平将門は、太政大臣,藤原忠平の子息,師氏宛に奏上を送ったという。(『将門記』)

※書状において将門は、Khitan(契丹)が渤海国を手に入れたことを例に出して、実力によって国を獲得することを正当化している。そして桓武天皇の5代後の子孫である自分であれば、実力で「半国」を領有することは当然であると述べている(杉山正明『疾走する草原の征服者』)。

※天子(=天皇)は本来、諸侯に国を持たせることはあったが、その上位に立って天下を統治する立場にある。しかし将門のような王臣子孫は、天皇の血を継いだ自分は部分的に天子であり、天皇の権威に全面的な服従をする必要はないと考えたのだと思われる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・天慶2年(939) 12.29 武蔵守,百済貞連は山城国京都に赴いた。そこで貞連は殿上に呼び出され、平将門らの行為についての尋問を受けた。(『貞信公記』)

・天慶3年(940) 1.1 朝廷は東海、東山、山陽道などの追捕使を補任した。(『貞信公記』)

・天慶3年(940) 1.11 朝廷は東海と東山道の諸国に対して、平将門の追討を命じる太政官符が発給された。(『貞信公記』)

※朝廷としては、天皇を軽んじる姿勢や、天皇代理人である国司の殺害までは黙認していた。しかし、将門のように天皇と対等の立場になろうとする行為は容認できなかったものと思われる。将門は朝廷の設ける基準を理解できなかった可能性が指摘される(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・天慶3年(940) 1.19 参議,藤原忠文は右衛門督・征夷大将軍に任じられた。(『貞信公記』『公卿補任』)

・天慶3年(940) 2.1 平貞盛藤原秀郷は、平将門と交戦して勝利した。(『扶桑略記』『将門記』)

・天慶3年(940) 2.14 平貞盛藤原秀郷平将門は交戦した。将門は敗れて討死した。(『貞信公記』)

・天慶4年(941) 11.8 藤原忠平は関白に任じられた。(『公卿補任』)