ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

嵯峨天皇の時代(大同、弘仁)

・大同4年(809) 4.1 平城天皇の譲位を受けて、神野親王践祚した(嵯峨天皇)。(『日本後紀』)

平城天皇は癇癪持ちで、人格的な不安的さを窺わせる記録があることから、譲位の理由となった病気は、精神疾患であった可能性も指摘される(河内春人『新説の日本史』第1章)。

・大同4年(809) 4.14 平城太上天皇の皇子,高丘親王が皇太子に立てられた。(『日本紀略』)

※平城太上天皇としては、自身の皇子,高岳親王を皇太子に立てるために、早くに譲位したとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』)。

弘仁1年(810) 3.10 嵯峨天皇蔵人所を設置し(『皇年代略記』)、巨勢野足藤原冬嗣蔵人頭に任じた。(『公卿補任』)

嵯峨天皇の自身の勅令を、薬子のような女官を通さずに、直接太政官組織に伝えるために設置されたのが蔵人所である(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

天皇の命令に関する機密を守るために設置されたものであるため、嵯峨天皇と平城太上天皇との間に、この時点で対立関係があったとも考えられる(河内春人『新説の日本史』第1章)。

※蔵人の官職は、政務の書類や天皇の寝所および食膳の管理など、天皇に関する多くの役割を職掌とした。天皇の傍に仕えるため、内裏に宿直することもある多忙な職であり、蔵人に任じられた人々には、宮中に「宿所」と呼ばれる部屋を与えられた。半ば自邸のようなものである(繁田信一『殴り合う貴族たち』)。

弘仁1年(810) 9.6 平城太上天皇は、平城京への遷都を命じた。(『日本紀略』)

弘仁1年(810) 9.10 嵯峨天皇は、伊勢国美濃国越前国の関所を封鎖させると、無断で平城太上天皇重祚を企てたとして、尚侍,薬子兄妹を解任し、その兄,藤原仲成を拘禁した。(『日本後紀』)

※この一件は、平城太上天皇の推し進める専制政治を止めるために、嵯峨天皇側が起こした政変とも考えられる(春名宏明『平城天皇』)。

弘仁1年(810) 9.11 平城太上天皇畿内紀伊国の兵を集め、東国に赴こうとするが、関所を封鎖されていたため叶わなかった。(『日本後紀』)

※かつて、聖武天皇伊勢神宮行幸していた内に、藤原広嗣の乱が鎮圧された故事を思って、伊勢国を目標としていたとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※政権転覆を図る嵯峨天皇の命に、官人の多くは従わないと見込み、すぐに鎮圧されると予想したとも考えられる(春名宏明『平城天皇』)。

※当時の嵯峨天皇は病気がちであったことから、嵯峨天皇側の朝廷を動かしたのは藤原内麻呂・冬嗣兄弟であったとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

弘仁1年(810) 9.11 嵯峨天皇の命令により、坂上田村麻呂藤原仲成を射殺した。(『日本後紀』)

※仲成の殺害は法に則ったものではなく、緊迫した状況を窺わせる(河内春人『新説の日本史』第1章)。

弘仁1年(810) 9.12 平城太上天皇は、嵯峨天皇に対して害意はない旨を伝えて出家した。藤原薬子は服毒自殺した。(『日本後紀』)

※薬子が典侍であったように、天皇の命令伝達を行っていたのは女官であった。しかし、平城太上天皇の政変が集結して以降は、天皇とその付近の命令伝達は蔵人所によって行われることとなった(河内春人『新説の日本史』第1章)。

弘仁1年(810) 9.13 嵯峨天皇は、平城太上天皇方の貴族の罪を問わないと決定した。(『日本後紀』)

※平城太上天皇方の貴族を処罰すれば、朝廷が立ち行かないことになることを考慮した措置であった(河内春人『新説の日本史』第1章)。

弘仁1年以降、長らく律令の規定する死刑は行われなかった。仏教思想の影響のほかに、同じ民族に対して過酷な刑罰を行うことへの忌避があったとも考えられる(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

弘仁1年(810) 9.13 高丘親王は皇太子位を廃され、代わりに嵯峨天皇同母弟,大伴親王が皇太弟に立てられた。(『日本後紀』)

嵯峨天皇としては、高丘親王が将来即位した際に、自身の皇子を皇太子に立ててくれる保証がなかったため、平城太上天皇の系統は皇統から排除し、弟を皇太弟にすることで、自分の皇子が皇太子になる可能性を高めたとも考えられる。当時病気がちであった嵯峨天皇の意図が窺える(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

弘仁2年(811) 1.17 射礼に際して、嵯峨天皇親王や群臣に弓矢を射させた。嵯峨天皇の異母弟,葛井親王は2発の矢をどちらも命中させたため、彼の母方の祖父,坂上田村麻呂は嬉しさのあまり、孫を抱いて踊った。(『日本三代実録』)

※田村麻呂の驚きからして、それまで葛井親王の教育には関わっていなかったと思われるが、それから携わった可能性はある。武人を排出する氏族を母方に持つ貴人は、環境的に武人としての気風を受け継いだとも考えられる(桃崎有一郎『武士の期限を解きあかす』)。

弘仁2年(811) 1.29 藤原冬嗣は参議に任じられた。(『公卿補任』)

藤原仲成らの死によって式家は没落し、代わって北家が政界において台頭することとなった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

弘仁2年(811) 1.29 藤原藤成は播磨守に任じられた。(『日本後紀』)

弘仁2年(811) 1.29 陸奥国出羽国に限って、事前に申請していなくても、開墾地は百姓が私有することが認められた。(『類聚三代格』)

※当時、本貫地での口分田の耕作者や浪人などが、申請することなく開墾を行い、国司が後から来て没収しようとする事例が多くあった。時には難癖により強引に没収することもあった。そのような争いが陸奥国出羽国にあれば、対蝦夷の防衛の妨げとなるため、申請せずに百姓が開墾地を私有することが認められたと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

弘仁2年(811) 10.5 嵯峨天皇の異母弟,葛原親王上野国利根郡の長野牧を与えられた。(『日本後紀』)

蝦夷との戦争も終わると見越して、朝廷の軍馬を管理する場であった牧は、皇親に与える恩賞として再利用されたのだと思われる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

弘仁4年(813) 12.21 朝廷に帰順した蝦夷より、国司が自分たちの訴えに取り合わないと不満が述べられたため、播磨国備前国筑後国肥前国肥後国豊前国において、介以上の国司を「夷俘専当」として対応を命じた。(『日本後紀』)

播磨国においては、播磨介,藤原藤成夷俘専当となった。これにより藤成の一家には、蝦夷の弓馬術が伝わったとの仮説がある(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

弘仁5年(814) ?.? 小野忠岑らにより、漢詩集『凌雲集』が編纂された。(『凌雲集』)

※優れた漢詩や漢文を作る能力は、男性貴族にとって重要視された(山口仲美『日本語の歴史』)。

弘仁5年(814) 5.8 嵯峨天皇は、皇子女の内8人に源朝臣の姓を与え、臣籍に降下させた。それらの人々は、源信・源弘・源明・源貞姫・源潔姫・源全姫・源善姫となった。(『類聚三代格』)

※「源(水元)同心」という言葉があるように、皇親と祖を同じくすることを示す氏である(所功天皇の歴史と法制を見直す』)。

※既に親王であった皇子女とその同母キョウダイは降下の対象外であり、降下したのは中級・下級の女官が産んだ者たちであった。親王が2文字の諱であるのに対して、源氏男子の諱は1文字、源氏女子の諱には「姫」という命名法が用いられら区別された(林陸朗「賜姓源氏の成立事情」『上代政治社会の研究』)。

嵯峨天皇としては、臣籍降下した源氏たちによる藩兵となる勢力を構成しようとしたとも考えられる(岩田真由子「嵯峨天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

※複数の皇子に、共通する姓を与えることは異例であった。嵯峨天皇の皇子女には、皇親と非皇親が混じった状態になったことで、長親王を共通祖先とする文屋氏、美努王を共通祖先とする橘氏などとは異なり、始祖を共有する氏族集団としての性格は薄いものとなった。そのため、源氏は「臣籍の皇族」としての要素を持ちあわせていたと考えられる(岡野友彦『源氏長者』)。

〔要参考〕『新撰姓氏録』には、信が「戸主」となり、8人兄弟姉妹は左京一条一坊に住んだとある。

※「戸主」とは彼らの代表者を意味すると考えられる。そのため、信は初代の「源氏長者」であるとも考えられる(岡野友彦『源氏長者』)。

弘仁6年(815) ?.? 『新撰姓氏録』が完成した。

※これは既存の氏族秩序を再編成することを目的としていた(遠藤みどり「桓武天皇」『平安時代 天皇列伝』)。

摂津国神別条の日下部氏の項目には、日下部は火闌降命の末裔とある。同じく火闌降命の末裔とされる薩摩若相楽という人物は、その名から阿多隼人のいた薩摩との関係性が指摘される。日下部氏が社家を務めた都萬神社の縁起『都萬大明神御縁起』には、妻萬神が稲作の際に土を掘ったところ人間が現れ、それが日下部立次と名乗って大明神を祀ったとある。そうした始祖土中出現神話は宮古島八重山諸島石垣島済州島などに分布しており、Asia東南部の栽培民文化に顕著である。また、国栖氏の祖先とされる磐排別は『古事記』『日本書紀』では厳(磐石)を押し分けて現れたと伝わるが『新撰姓氏録大和国神別条では穴から飛び出て神武天皇の前に現れたとされる。どちらも大地から出現する点において始祖の土中出現物語である。始祖土中出現神話を持つ点から、日下部氏と国栖氏は、南九州から移住した集団の末裔とも考えられる(平林章仁「神武天皇伝承形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

弘仁6年(815) 嵯峨天皇の夫人,嘉智子は皇后に立てられた(檀林皇后)。(『日本後紀』)

弘仁7年(816) 2.? 左兵衛権大尉,興世書主は左衛門大尉に任じられ、検非違使を兼ねた。(『日本後紀』)

※違法行為の摘発を行う弾正台や、司法機関の刑部省がありながら令外官として都の警備と裁判を担う検非違使を設置したことになる。制度の刷新よりも人脈で動く制度外の機関を設置して対応しようとする傾向性が指摘される(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

※それまでは事件が起こる度に「非違を検する使い」として役人を派遣する慣習法があったが、「検非違使」として固定されたのである。律令制を基盤として慣習法(公家法)が勢力を強める形で融合し、新たな法体系が成立したのである(坂本太郎「日本歴史の特性」)。

弘仁9年(818) 5.13 最澄は「天台法華宗年分学生式(六条式)」を奏上した。

弘仁9年(818) 8.27 最澄は「勧奨天台宗年分学生式(八条式)」を奏上した。

弘仁10年(819) 3.15 最澄は「天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)」を奏上した。

最澄が奏上した「天台法華宗年分学生式(六条式)」「勧奨天台宗年分学生式(八条式)」「天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)」を合わせて『山家学生式』と呼ぶ。

※『山家学生式』には、国宝(仏教の精神的指導者)たるものは千里もの世界を照らし、隈なく目を届かせるべきだという思想(照千一隅、此則ち国宝なり)が語られている。天台宗においては、国宝が指針を示し、それを国師や国用が地方に適用することを理想とする。朝廷の世俗権力(王法)と仏教権力(仏法)による、一定の距離を保った協力関係が築かれた。(末木文美士『日本思想史』)。

弘仁13年(822) 5.4 藤原藤成は、伊勢守在任中に死去した。(『日本後紀』)

※かつての左大臣,魚名の子息であっても、没落しえることの詳細である。しかしこの没落は、その子孫が地方に土着する契機となった(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・822年頃 薬師寺の僧侶、景戒(元は私度僧)によって説話集『日本国現報善悪霊異記(日本霊異記)』が編まれた。序文によれば、民衆の間における仏教の浸透が不十分であるから、「中国」の「応報記」を参考にして奇譚を集めたのだとされる。

※最初に収録されるのは、雄略天皇の説話である。このことからも、雄略天皇が古い時代における代表的な天皇と見なされていたことが理解できる(高森明勅『日本の10大天皇』)。

※冒頭の雄略天皇の説話は、仏教に無関係な内容である。説話に雄略天皇が登場することそれ自体に意味があったのであり、存在が強く意識していたことを窺わせる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』)。

※編者が元私度僧であることから、私度僧に関する説話が多い(清水正之『日本思想全史』)。

※『日本国報善悪霊異記』は、聖武天皇の治世である仏教全盛の時代を理想とする観点から描かれている。

※ 『日本国報善悪霊異記』には、行基がある河内国から説法を聞きに来た女性に、子供を捨てるよう命じ、その子供の正体が、女性に返済を迫る貸し手であることが判明するという説話がある。この説話は、前世の因果からの救済とも読める(清水正之『日本思想全史』)。

※罪ある者が閻魔王に召喚されることになるが、地獄からの死者を饗応したことで、地獄に行くのを免れる話がある。当時の東国では国神や罪司(閻魔王)、仏に対して、罪を免れて延命を願っていた痕跡が、墨書土器から伺える。説話や墨書土器からは、大祓とは違った形での罪の捉え方が見て取れる(佐々田悠「古代日本の罪と穢れ」『差別と宗教の日本史』)。

孝謙天皇に対しては天皇の娘としての即位と解釈し、その治世を光明皇后とともに統治したものであると叙述する。また、孝謙天皇の呼称は「皇后」であり、女性の統治をキサキとしての行為として描いている(義江明子『日本古代女帝論』)。

※女性像に関しては、女性の自由な性愛を「邪淫」としてその報いを描くこともあり、妻や母としての役割を強調することもあれば、とある女性の怪力と素直さを称え、仏教の教義に関して高僧を論破する尼僧も描かれる。女性に対する観念は一様ではない(義江明子『日本古代女帝論』)。

※称徳孝謙皇帝と道鏡は愛人関係として描かれ、その後光仁天皇桓武天皇が即位したことについて、「天の下こぞりて歌詠いし」と説明されている。これは、天命は民の声を通して示されるという『孟子』的な思想を窺わせる。また、儒教的な道徳や論理によってではなく、「物語」によって天智天皇の子孫による王権の正当性が示される点に特殊さが指摘される(東島誠 與那覇潤『日本の起源』)。

弘仁14年(823) ?.? このころ、藤原冬嗣の子息,良房は、嵯峨天皇元皇女,源潔姫と結婚したと思われる。

嵯峨天皇政権における功労者の冬嗣に対して、その子息に娘を嫁がせることで礼を表明したと考えられる。『養老令』「継嗣令4条 娶親王条」においては、女性皇親は四世王以上との婚姻しか許されていなかった。潔姫は臣籍降下していたとはいえ、破格の待遇であった。嵯峨天皇の娘で、臣下と婚姻したのは潔姫のみである。無造作に臣下と婚姻させはしない方針であったと考えられる(岩田真由子「嵯峨天皇」『平安時代 天皇列伝』)。