ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

清和天皇の時代(天安、貞観)

・天安2年(858) 8.27 惟仁親王践祚した(清和天皇)。(『日本三代実録』)

清和天皇は9歳と幼年のため、太政大臣,藤原良房が政務を代行した。幼帝が即位せざるを得ないという、天皇制の危機的状況の中、それに対応するために良房が代行することになったとも考えられる(樋口健太郎「良房」『図説 藤原氏』)。

恒貞親王廃太子以降、天皇になりえる内親王立后が忌避されたことから、皇位が男系男子に継承される傾向が強まり、幼帝が登場する要因になったとも考えられる(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・天安2年(858) 8.29 清和天皇は、祖母である皇太夫人,順子とともに東宮に移った。(『日本三代実録』)

天皇は幼く、太上天皇も皇太子も不在という状況下で、その祖母が後見人となって補佐することで、緊急事態を乗り切ろうとしたのだと考えられる(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・天安2年(858) 11.5 清和天皇践祚を歴代天皇の祖先霊に報告するために、天智天皇桓武天皇嵯峨天皇仁明天皇文徳天皇の山陵に山陵使(告陵使)が派遣された。また、藤原良房の妻,故源潔姫の墓にも勅使が派遣された。(『日本三代実録』)

天智天皇から始まる王統の直系継承者という意識から、派遣先が決められたと考えられる。また、嵯峨天皇の元皇女である祖母,源潔姫の墓にも派遣することで、母系においても嵯峨天皇につながるという系譜を強調する意図があったと考えられる(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・天安2年(858) 11.7 清和天皇大極殿にて即位式を行った。(『日本三代実録』)

・860年 ルースィはビザンティウムを攻撃した。

貞観6年(864) 9.4 市の商人が勢いのある家(勢家)の家人になることが禁じられ、市籍の人間を家人にした諸司・諸院・諸家および四位以下で無位以上の者は違勅罪に問うとした。(『類聚三代格』)

※時の天皇が政治的実権を持たない幼帝であるため、商人たちは朝廷から離れ、王臣家との私的な主従関係を結び、良い商品を手に入れようとしていた。そうして物流が王臣家に私物化される状況となったため、王臣子孫を含む四位以下で無位以上の者に対して禁制が下されたのである。民が支配者を選ぶ、自力救済の社会風潮が形成されていたことが窺える(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

貞観7年(865) 5.10 出雲国において、浮浪人の藤原恒雄や源永らが、国司と郡司に抵抗して百姓に暴行を加えた。(『日本三代実録』)

※恒雄は貞観1年に相模介に任じられた王臣子孫である。源氏や藤原氏といった王臣家に、群盗のような行動をするまでに落ちぶれた者がいたことを物語る(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

貞観8年(866) 閏3.10 平安宮朝堂院において、応天門が炎上した。(『日本三代実録』)

貞観8年(866) 7.12 故最澄伝教大師の号を授けられた。(『一代要記』)

貞観8年(866) 8.3 官人,大宅鷹取より、応天門に放火したのは大納言,伴善男であるとの告発があった。(『日本三代実録』)

貞観8年(866) 8.7 応天門炎上の件に関して、大納言,伴善男は糾問された。(『日本三代実録』)

貞観8年(866) 8.19 清和天皇太政大臣,藤原良房に対して、「天下之政を摂行」するよう勅を下した。(『日本三代実録』)

※応天門炎上の一連の事件に関して、その収束のために、太政大臣の良房に対して権限を付加したものと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

貞観8年(866) 9.22 太政大臣,藤原良房清和天皇の勅により、伴善男伊豆国に、その子息,中庸を隠岐国に配流することを決定した。(『日本三代実録』)

貞観8年(866) 12.27 藤原良房の養女(長良の娘)は清和天皇の女御となった。(『日本三代実録』)

貞観8年(866)頃 安然は『即身成仏義私記』の一部を著述していたと考えられる(池山一切圓「安然の即身成仏義私記について」)。

※「中国」の天台宗においては、成仏は輪廻を繰り返した後に辿り着くのであり、現世において可能とは考えなかった。しかし安然は、一度も輪廻することなく、また現生において成仏することが可能であると説いた。安然の思想は、日本特有の現世主義が見て取れる(中村元『日本人の思惟方法』)。

貞観9年(867) 2.16 讃岐介,藤原有年は『讃岐国司解藤原有年申文』を作成した。

※「許礼波(これは)」より2行、3行目の「抑」から「刑大史」、「定以出賜」、「有年申」以外は草仮名で書かれている。その草仮名は万葉仮名に形状をしている。長い文章を楷書の万葉仮名で記すことは労力がいるため、字形が崩されたのである(山口仲美『日本語の歴史』)。

貞観12年(870) 2.? 女性皇親は、皇親のままでいても「公損」が少ないとして、女性皇親に源姓を与えて臣籍降下させることを見送るべきとの意見が上表された。(『日本三代実録』)

※次第に女性皇親の賜姓源氏・臣籍降下は少なくなり、女性皇親の婚姻の幅は再び狭まった。また、内親王身分のまま臣下との婚姻を行なうようになる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

貞観12年(870) 3.29 小野石雄は俘囚の反乱を鎮圧するために、子息,春風を伴って陸奥国に下向した。(『日本三代実録』)

〔要参考〕『藤原保則伝』によれば、春風は「夷の語」を良く理解していたのだという。

アイヌ語のことだと推測される蝦夷の言語を操る能力は、陸奥国下向の際に身につけたものと考えられる。石雄の父,永見も鎮守府将軍として蝦夷征伐に参加したように、小野氏は「累代の将家」(『藤原保則伝』)となっていた(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

貞観12年(870) 12.2 上総国では、俘囚たちが武器を携え、民家を焼いて窃盗行為を行っているとして、そうした行為を行う俘囚の取り締まりと、俘囚に対する「優恤(生活保護)」を施すことが命じられた。(『日本三代実録』)

※丸子廻毛が反乱を起こしてから22年が経っていたが、それでも上総国では俘囚に関する騒動が断続的に続いていたことを物語る(関幸彦『武士の誕生』)。

・・貞観15年(873) 4.21 清和天皇親王宣下により、自身の皇子女のうち、貞固、貞保、貞平、貞純、孟子、包子、敦子に親王号を名乗ることを許した。(『日本三代実録』)

親王宣下の制が成立すると、皇子女・皇兄弟であろうとも、親王宣下を受けなければ親王号を名乗ることが出来なくなった。親王宣下を受けない皇子女・皇兄弟は王号を称した。『養老律令』は皇親の範疇外である五世王にも王号を称することを容認していた。そうした王を称する者や源氏などの元皇親は、広い意味において「王氏」という氏族を形成していった(岡野友彦『源氏長者』)。

貞観15年(873) 4.21 清和天皇は自身の皇子女のうち、長猷、長淵、長鑒、載子に源朝臣の姓を与え、左京一条一坊に本貫を与えた。(『日本三代実録』)

※名目上であっても、平安京が貴族の故郷になっていったことを示しているとも考えられる(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

貞観17年(875) 5.10 下総国にて俘囚が反乱を起こし、役所や寺を焼いて殺人と強盗を行った。そこで朝廷は制圧を命じた。(『日本三代実録』)

※勅符には「怨乱」とあり、何らかの恨みを朝廷に抱いていたようである。蝦夷を蔑視する風潮があり、そうした背景から争いに発展したとも考えられる。朝廷に帰順した蝦夷に対して、食糧の支給が終わる孫世代であり、突然働くよう言われても意欲がなく、収奪に走ったのだと思われる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

貞観17年(875) 7.5 下野国において、群盗27人が、俘囚4人と結託して蜂起したと朝廷に伝えられた。(『日本三代実録』)

※警察や軍事を分担して担っていた俘囚が、群盗と同化しており、軍団制が既に解体されていた朝廷としては、天皇の権威だけでは俘囚の「怨乱」に対処することは困難であったとも考えられる(関幸彦『武士の誕生』)。