・嘉祥3年(850) 3.21 皇太子,道康親王は践祚して天皇となった(文徳天皇)。(『日本文徳天皇実録』)
※文徳天皇の母,順子は藤原良房の妹である。そのため良房は天皇の外戚となった(樋口健太郎「良房」『図説 藤原氏』)。
・嘉祥3年(850) 3.25 文徳天皇は、藤原良房の娘,明子との間に惟仁親王を授かった。(『日本文徳天皇実録』)
※この時代、文徳天皇と藤原良房の仲は更に深まった(樋口健太郎「良房」『図説 藤原氏』)。
・嘉祥3年(850) 4.17 文徳天皇の母,順子は皇太夫人となった。(『日本文徳天皇実録』)
・嘉祥3年(850) 11.25 惟仁親王は皇太子に立てられた。(『日本文徳天皇実録』)
〔参考〕『吏部王記』承平1年9月4日条によれば、文徳天皇は第一皇子,惟喬親王を天皇にすることを望んだが、源信の進言で思い留まったのだという。
※『吏部王記』の記述から、文徳天皇は惟喬親王に皇位を継承させることを望んでおり、惟仁親王の立太子は文徳天皇にとって不本意であったという見解もある(仁藤智子「幼帝の出現と皇位継承」『天皇はいかに受け継がれたか』)。
・856年 キルギスに国家を滅ぼされたウイグル人は、天山山脈南方、パミール高原東方のタリム盆地に至り、天山ウイグル(西ウイグル) カガン国を形成した。
※西ウイグルの支配したオアシス都市はそれまでイラン系ソグド人が多く住んでおりトカラ語が話されていたが、ウイグル人と共存するようになったことで、トルコ語使用者の地域へと変化する(岡田英弘『世界史の誕生』岡本隆司『世界史序説』)。
※タリム盆地オアシス地帯は、東トルキスタンと呼ばれるようになる(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。
・天安1年(857) 2.19 右大臣,藤原良房は太政大臣、大納言,源信は左大臣、大納言,藤原良相は右大臣に任じられた。(『日本文徳天皇実録』)
・天安1年(857) 6.25 大宰府より、対馬守,立野正岑ほか17人が、対馬の郡司が率いる百姓によって射殺されたとの知らせがもたらされた。(『日本文徳天皇実録』)
※被害者が射殺されたことからして、実行犯の百姓は弓を使える有閑階級の者だと考えられる。郡司層の総意によって、郡司と対立した受領は排除してもよいという観念が形成されていたと考えられる。天皇の代理人の殺害であり、権威が失墜していたことを物語る(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。
・天安1年(857) 2.19 右大臣,藤原良房は太政大臣に、大納言,源信は左大臣に、大納言,藤原良相は右大臣に任じられた。(『日本文徳天皇実録』)
※大宝令の制定の後、藤原恵美押勝は「大師」道鏡は「太政大臣禅師」として任じられていたため、「太政大臣」という官名でこの職に任じられたのは良房が初となる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。