ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

光孝天皇の時代(元慶、仁和)

・元慶8年(884) 2.5 仁明天皇の皇子,時康親王践祚した(光孝天皇)。(『日本三代実録』)

※清涼殿において陽成天皇が殺人を犯したことで、貴族層は天皇およびその寝床に死のケガレが及んだと考え、なるべく皇統を転換させようとする意図をもって時康を天皇にしたとも考えられる(美川圭『院政 増補版』)。

・元慶8年(884) 4.13 光孝天皇は定省ら皇子女に源姓を賜い臣籍降下させた。(『日本三代実録』)

藤原基経は、自身の娘,佳珠子が清和天皇との間に儲けた貞辰親王を次期天皇に考えており、光孝天皇はそれを理解していたために、皇子女の全てを臣籍降下させ、皇太子も立てなかったのだと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・元慶8年(884) 8.4 上総国司からの要請を受け、朝廷は国内の浪人を追放する命令を下した。ただし残留を望む者は現地の戸籍に登録することとした。(『日本三代実録』)

※朝廷を主導する藤原摂関家は王臣家の代表的存在であり、王臣家を潰してしまうと自らにも不利益があることから、例外規定を設けることになったのだと考えられる(桃崎有一郎『武士の起源を解きあかす』)。

・仁和3年(887) 8.25 光孝天皇は、藤原基経から皇太子を立てることを求められたため、自身の子息,源定省皇籍に戻し親王とした。(『日本三代実録』)

※高子が復権する可能性を考えた基経は、光孝天皇の子孫に皇統を伝えるよう予定を変更したとも考えられる(倉本一宏『藤原氏』)。