ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

敏達天皇の時代

・572年4.3 欽明天皇と石姫王の王子、訳田倉太珠敷王が天皇に即位した(敏達天皇)。(『日本書紀』)

※当時の皇位継承は、現天皇の王子と、天皇の娘もしくは蘇我氏の女性が産んだ王族が優先され、そして大王位継承資格者の中での年齢順になされる緩やかなものであったと考えられる(大平聡「日本古代王権継承試論」)。

・572年 4.3 敏達天皇が即位した際、蘇我稲目の子息,馬子と物部守屋はそれぞれ大臣(おおまえつきみ)と大連(大臣と読み同じ)に任じられた。(『日本書紀』)

※『天孫本紀』によれば守屋は物部尾輿の子息であるが、『日本書紀』には親族関係は記されていない。

※「馬子」の「子」は尊称であり、実名は「馬」であったとも推測される(吉村武彦『聖徳太子』)。

・572年 5.15 高句麗使が入京し、上表文を渡した。敏達天皇はそれを大臣に授け、諸史(書記官)にそれを解読させたが、3日の内に解読することは出来なかった。(『日本書紀』)

高句麗からの書簡は変体漢文であったため、解読出来なかったとの説もあるが、この時代の倭人は、そもそも漢文に習熟していなかったとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

・574年 1.1 橘豊日王と穴穂部間人王との間に、厩戸王が産まれた。(『上宮聖徳法王帝説』)

※橘豊日王と穴穂部間人王という、蘇我氏の血を引く2人の婚姻は、蘇我系王族の結束力を高める意味合いを持っていたと考えられる。敏達天皇と額田部王との婚姻、つまり非蘇我系と蘇我系を繋ぐこととは目的は違うにしろ、どちらも故欽明天皇と故蘇我稲目の意向に寄るものと推測される(義江明子推古天皇』)。

〔参考〕〔参考〕「元興寺露盤銘」は名を「有麻移刀」、「元興寺伽藍縁起」は「馬屋戸」「馬屋門」と表記する。

※「元興寺露盤銘」や「元興寺伽藍縁起」の表記から、「厩戸」は「うまやと」と発音したと考えられる(吉村武彦『聖徳太子』)。

〔参考〕『日本書紀』には、穴穂部間人王が厩の戸の前で出産したため、厩戸と名付けられたという記述がある。

厩戸王命名の逸話は、名前から逆算した逸話であると考えられる。なお、当時の慣習からして厩戸は地名に由来すると考えられるが、どこの土地かは判然としない(東野治之『聖徳太子』)。

※飛鳥の北方、軽の東方には「厩坂」という地名がある。『古事記』「垂仁天皇紀」は「那良坂」を「那良戸」と呼んでいることから、「厩戸」と「厩坂」は同じ場所とも考えられる(古市晃『倭国』)。

※祖母がどちらも蘇我氏の姉妹であることから、厩戸王蘇我氏の影響が強い環境で養育されたと推測される。その名前にある「ウマ」が、大叔父の蘇我馬子の諱と共通していることが注目される(吉村武彦『聖徳太子』)。

※厩戸の前で産まれるという記述が、『新約聖書(Kaine Diathieke)』に記されるIēsūsの誕生と類似しているため、唐の僧侶が伝えた景教(Nestorius派)が『日本書紀』の記述に影響しているとの説もある(久米邦武『上宮太子実録』)。

景教の、他の教義が『日本書紀』編纂時点で見られないことから、厩戸王とIēsūsの誕生譚の類似は偶然とも考えられる(東野治之『聖徳太子』)。

・575年 6.? 新羅倭国に使者を派遣し、「任那の調」を行った。(『日本書紀』)

※「任那の調」とは、新羅から倭国に対して、「任那」からのものとして贈られた調のことである。それは服属の証であり、倭国としては名目上「任那」を服属させる形式を維持することができた。新羅としても、百済から攻撃されている最中に、「任那」復興のためとして倭国から攻められることを避けることができた。そうした思惑があったと考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

伽耶地域の領有を倭国に了解させるに際して、「任那の調」を行うことは代償として安いものであった(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・575年 11.? 〔参考〕敏達天皇の「皇后」広姫が薨去した。(『日本書紀』)

※当時は天皇のキサキに明確な序列はないという観点からは、広姫が「皇后」となったのは、広姫の子孫による『日本書紀』の潤色とも考えられる(義江明子推古天皇』)。

※広姫は王族ながら、その父,息長真手王の明確な系譜は不明である。対して、同じく敏達天皇の妻である額田部王は、敏達天皇の異母妹である。欽明天皇の王女を差し置いて広姫が「皇后」に立てられたとする『日本書紀』の記述には疑問が呈される(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・576年 3.10 〔参考〕額田部王が敏達天皇の「皇后」となったという。(『日本書紀』)

※『日本書紀』の編纂過程において、額田部王は「皇后」と設定されていたと推測される。ただ、広姫もまた「皇后」に位置づける必要があったため、広姫の薨去を受けて額田部王が「皇后」に立ったと表記したとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

※「皇后」は『日本書紀』編纂時点の作為とみられる。また、額田郡王が皇后になる直前に、「皇后」に立てられた広姫が薨去したという記述が挿入されている点が不自然であることから、額田郡王は初めて「大后」に立てられた人物であると考えられる。支配領域の拡大により、大王だけでは複雑化した政務を行うことが困難となり、大王の職務を、実力のある最も近しい女性王族に分担させたのだと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※額田部王が大后となった時点で、大王の配偶者の間に序列が出来たと考えられる(遠山美都男『古代日本の女帝とキサキ』)。

敏達天皇と額田部王女の婚姻は、非蘇我系王統と蘇我系王統を繋ぐという役割があった(義江明子推古天皇』)。

・577年 私部が設置された。(『日本書紀』)

※大后は大王と住まいを別としており、私宮(キサキの宮)に住んでいた。大后には私部(キサイチベ)と呼ばれる貢納集団が服属し、それを私宮にて統括していた。大后には大王候補たる王子を育てる役割があったため、その費用を捻出する意味合いもあったと考えられる。大王とは独立した経済基盤を持つ実力者であった(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※当時の社会においては、両親の財産は男女子に分割相続された。額田部王は、かつて祖父,蘇我稲目が仏像を安置した「向原の家」を、母,堅塩媛を通して相続したものであり、自身も育った場所を、蘇我氏の血を引く王子女を養育する宮にしたとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・577年 北周武帝,宇文邕は、旧北斉の領内にて仏教を弾圧した。

・580年(大象2) 5.(陰暦) 西魏の宣帝,高洋は死去した。

・580年 楊堅は故宣帝,高洋のより国政を任されたとして、雇命の臣となった。

・580年 6.相州総官,尉遲迥は、相州にて楊堅に対して反乱を起こした。

・580年 7.鄖州総官の司馬消難が、鄖州において楊堅に対して反乱を起こした。消難はその後敗れて陳に逃れた。

・580年 8.益州総官の王謙が、楊堅に対して反乱を起こした。

・580年 8.尉遲迥は楊堅に敗れ自害した。

・580年 10.王謙は殺害された。

※こうして、西魏における楊堅に対する蜂起はなくなった。楊堅に対する抵抗勢力があまり振るわなかったのは、北周に対する民衆の不満が募っており、新たな指導者を求める風潮があったからだとも考えられる(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

※準備不足や兵力差、内部の団結の不十分さが原因であった(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・581年 2.楊堅北周静帝,宇文闡からの禅譲を受けて皇帝となり(文帝)、国号を隋とし、元号を開皇と定めた。

・581年 2.隋の文帝,楊堅は、仏教徒の出家、経典と仏像の製作を許可し、都や洛陽に一切経を供えさせた。

※仏教再興を認めることで、それまで北周から弾圧されていた仏教界からの支持を得て、北周とは違う正当性の獲得を狙ったのだと考えられる。これにより仏教は隆盛したが、仏教のために国家財政を過度に利用することはなかった(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・581年(隋:開皇) 隋の文帝,楊堅は周(北周)の官儀を「漢魏の旧」に基づいたものにすると宣言した。

※実際には漢や曹魏にまで制度を戻したわけではなく、北魏北斉の体制が参考にされた。広大な領土を統治するうえで、皇帝を頂点とする政治体制が望まれ、当時の人々が考える普遍的国家体制の採用を喧伝したのである(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・582年(隋:開皇2) 6.(陰暦) 隋の文帝,楊堅は、新都の建設を命じた。

・582年(開皇2) 7.(陰暦) 隋において非刑罰法規である令が発布された。

※令の規定により、地方行政の人事権は中央に集約された。九品官人法の弊害として、家柄によって選ばれた貴族が、地方の長官となり行政を牛耳っていた。その改善のために、長官以外の官僚も中央で任命する形式に変更された。また、文官の任期を3年、武官の任期を4年とし、出身地には赴任してはならないことが定められた。また、当時は大勢の役人が各々細分化された州を治めていたため、郡―州―県という階層を州―県に変更し、行政機関と冗官の整備と経費削減が図られた。このこともまた、貴族の権限の削減に拍車をかけた(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・583年(隋:開皇3) 隋において刑罰法規である律(開皇律)が発布された。

※この律は、古来の黥(入れ墨)、劓(鼻切り)、刖(足切り)、宮(去勢)といった肉刑を、死罪を除いて廃止し、刑罰の内容を(鞭打ち10~50回)、杖(鞭打ち60~100回)、徒(懲役刑)、流(流罪)、死(死罪)と定めた。罪人の罪を、対応する条文に定められた形で処罰されることが明確化された。罪刑法定主義に通ずるものである(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・583年(隋:開皇3) 3.(陰暦) 隋の文帝,楊堅は、新宮殿,大興宮に移り住んだ。

・583年 突厥は東西に分裂した。

・585年 蘇我馬子は病になり、仏教を信仰する許可を敏達天皇に求め、許可された。(『日本書紀』)

・585年 疫病が流行した。物部守屋と中臣勝海は、疫病流行の理由は異国の神である仏を信仰したからだとして、敏達天皇にその禁止を求めた。敏達天皇はそれを許可した。(『日本書紀』)

物部氏の本拠地であった河内国渋川郡には寺院跡(渋川廃寺)があるため、守屋が反対したのは仏教信仰そのものではなく、その受容や利用方法であったとも考えられる。飛鳥に寺を建立することで、そこを大王の本拠地と聖地にする馬子の計画に反対したという説もある(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※仏教信仰を背景に、渡来人を統括する蘇我氏が台頭することを防ぐために、物部氏は仏教排斥を主張したとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・585年 3月以降 疱瘡(天然痘か)が流行し、敏達天皇物部守屋は感染した。(『日本書紀』)

・585年 8.15 敏達天皇崩御し、後に母,石姫王の眠る陵墓に追葬された。(『日本書紀』)