ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

崇峻天皇~推古天皇の時代

・587年 8.2 前大后の額田部王や、蘇我馬子ほかの群臣の奉戴により、穴穂部王の同母弟泊瀬部王が天皇に即位した(崇峻天皇)。蘇我馬子は引き続き大臣となる。(『日本書紀』)

用明天皇崩御した後も、まだ竹田王が十分な年齢に達していなかったため、崇峻天皇もまた「中継ぎ」として即位したとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※穴穂部王が薨去したことで、小姉君の産んだ欽明天皇の王子では最年長になったことや、額田部王の派閥には他に即位に相応しい年齢に達した者がいないという、消極的な理由で天皇に選ばれたとも考えられる。そのため、群臣層から全面的な支持を得ていたわけではない(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※当時存命中の欽明天皇の王子女世代から、物部守屋討伐に参戦していた蘇我系王族の男性である彼が大王に選ばれたとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・588年 3. 崇峻天皇は大伴糠手の娘,小手子をキサキに迎えた。(『日本書紀』)

※大伴氏の女性が天皇のキサキとなったのは、小手子が最初で最後である。大伴氏と婚姻していたのは、崇峻天皇は、当初即位を想定していなかったからとも考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

・588年 ?.? は飛鳥衣縫造の祖である樹葉の家を解体し、法興寺を建てることとした。(『日本書紀』)

〔参考〕『日本書紀』によれば、その場所を飛鳥の真神原、もしくは苫田と呼んだという。

雄略天皇の時代、百済からの渡来集団に与えられた居住地が、法興寺の建築場所となった。真神とは狼のことを意味するため、狼が生息していた場所だと思われる。農業を妨げる獣にとって狼は天敵であることから神ないしは神の使者と崇められ、生息地域自体も神聖な場所と見なされたのだと考えられる。大王は豪族の結集の核であったものの、三ツ寺Ⅰ遺跡などを見る限り、大王と豪族の居館は、規模や構造に大きな差はなかった。大王の地位と権力が豪族を超越するまでに高めるために、手始めに居館と周辺空間を豪族とは異なるものに変化させることを望んだのだと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・589年(隋暦開皇9) 1. 隋軍は陳の皇帝,陳叔宝を捕縛した。こうして陳はほろんだ。

※候景の蜂起以降、河南は荒廃しており、陳の国力も衰えていた。そのため隋は強い抵抗をされることもなく陳を滅ぼすことができた(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・589年 7.1 東山道使・東海道使・北陸道使を派遣して、国境を視察させた。(『日本書紀』)

・590年(隋:開皇10) 隋において、兵籍が廃止されて民籍に統合され、旧北斉国境、旧陳国境、北方警備のために設置されていた軍府は廃止された。それ以外の旧来の軍府は残すことにした。

※陳を滅ぼして領土の統一を果たしたことで、大軍の動員が不必要になったことから、軍府が削減されえたのである。しかし、関中付近の軍府は存続した。軍府を政府中央の関中に集中させることで、その勢力を背景に中央集権の全国支配体制を確立させたのである(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・591年 4.13敏達天皇は、彼の母,石姫王の眠る磯長陵に合葬された。(『日本書紀』)

※石姫の母,橘仲王は、仁賢天皇の王女であることから、前王統の血縁的権威を継承したことを示すために、合葬されたとも考えられる(白石太一郎「磯長谷古墳群の提起する問題」)。

※『古事記』『日本書紀』が記す、仁賢天皇の王女に関する系譜は、世襲王権が確立して以降に形成されたものという観点からは、敏達天皇の合葬に、「前王統の血縁的権威の継承」という意図を見ることを慎重視する見解もある。旧王統との血縁的繋がりの誇示は敏達天皇の意志であったとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・590年 10. 飛鳥寺建立のために、材木の伐採が開始した。(『日本書紀』)

物部守屋派の滅亡後、彼らの所有していた田荘・宅・奴婢は蘇我氏蘇我氏に近しい王族に渡っていたため、その財力や労働力が造営に用いられたとも推測される(義江明子推古天皇』)。

※寺院建立に際して、男性は建設によって、女性はそれらの男性に食事を提供することによって仏に対して奉仕を行うという価値観があった。そのため推古天皇の「豊御食炊屋姫」という号が生前からのものであれば、彼女は寺院造営に自ら関与したのであり、ミウチである蘇我氏の力を借りて、王権の聖地の建設を企図したのだと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※『日本書紀』-「神功皇后紀」には、和風諡号崩御後に定められたとあることや、そのような様式の尊号が使用された例がないことから、「豊御食炊屋姫」という称号は生前のものではないという見解もある(東野治之『聖徳太子』)。

※最先端技術によって建てられる当時の寺は、企画して数ヶ月後に建築が開始可能とは思われず、仏教受容の直後から計画は進んでいたとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・591年 11.4 崇峻天皇任那復興のために、紀男麻呂宿禰を将軍として、20000以上の兵を筑紫国に派遣した。(『日本書紀』)

※これは大群を筑紫国に集めることで新羅を威圧し、そのころ新羅が怠りがちであった「任那の調」の貢納を求めることが目的にあったとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・592年 10.4 〔参考〕崇峻天皇に猪が献上された。天皇はその猪を見て、「この猪の首を斬るように、嫌いな奴の首を切りたいものだ」との旨を述べ、武器を集めさせた。それを知った蘇我馬子は、崇峻天皇が自身を殺す意図があることを察知し、逆に天皇を殺害しようと考えたのだという。(『日本書紀』)

崇峻天皇としては、同母兄,穴穂部王を殺害した馬子に対して反感を抱いていたとも考えられる。また、馬子の方も、崇峻天皇の即位自体に協力的ではなかったという説もある。(瀧浪貞子女性天皇』)。

崇峻天皇は額田部王の指名によって即位した。権威においては額田部王よりも劣っていたため、彼が殺害を望んだのは額田部王であったかもしれない(高森明勅『日本の10大天皇』)。

蘇我氏の勢力が強く、天皇としての権力を十分に行使できない状況に不満があったとも考えられる。また、柴垣宮に武器を輸送し、警備を固める崇峻天皇に対して、蘇我氏は警戒を強めたとも考えられる(吉村武彦『聖徳太子』)。

・592年 11.3崇峻天皇は、蘇我馬子の刺客、東漢駒に殺害された。(『日本書紀』)

※渡来系氏族として蘇我氏と近しかったために、馬子は東漢氏の駒に殺害を実行させたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※馬子が処罰などされていないことから、群臣の創意を受けて馬子が計画をしたものと考えられている(遠山美都男『古代日本の女帝とキサキ』)。

崇峻天皇の暗殺は、彼よりも大王に相応しいと考えられ、年齢も39に達していた額田部王を即位させるためだと思われる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

敏達天皇と額田部王の王子,竹田王は既に故人と考えられ、崇峻天皇は「中継ぎ」ではなく新たな王統を担う可能性があった。しかし彼の母は大王の血を引いておらず、また天皇の血を引く女性を妻としていなかったため、王統を次代に継承させる者として不相応と判断され、殺害されたとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

崇峻天皇の在位中に竹田王が薨去したことで、新たな直系継承を創始する者として厩戸王が選ばれたという説もある。厩戸王を擁立するに際して、終身在位であった天皇を交代させるために崇峻天皇は殺害されたとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』)。

※隋によって「中国」の統一が進められていたことや、「任那」への対応に迫られる最中、崇峻天皇の力量では国内外の問題に対処できないと判断され、殺害されたとも考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

崇峻天皇の葬られた倉梯岡陵には、守衛のための守戸が置かれていない(『延喜式』)ことからも、崇峻天皇天皇と見なされず、群臣から見放されたことが理解できる(義江明子推古天皇』)。

592年 12.8 群臣の推挙により、額田部王は飛鳥豊浦宮にて即位した(推古天皇)。(『日本書紀』)。

欽明天皇の孫世代の男子に、天皇となりえる者が不在であったため、敏達天皇の正妻だからというよりはむしろ、欽明天皇の子世代として即位したとも考えられ。また、敏達天皇から崇峻天皇まで、大王には男性が選ばれ、その後に推古天皇が即位していることから、当時の継承は緩やかな男子優先とも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の国家形成と東アジア』)。

※『日本書紀』が「太子」と記す押坂彦人王は、当時存命だったか否かについて示す史料はない。また、彼の母,広姫は既に故人で後見人になれる者もいないため、存命であったとしても即位できたかは疑問である。また、蘇我馬子が即位を支持するとしたら、竹田王よりも蘇我氏の血が濃いかつ娘婿の厩戸王と考えられる。彼らの内誰かが即位すれば、将来的にはその兄弟への継承がはじまることとなり、利害関係に起因する派閥の対立が生じる可能性がある。馬子としては、厩戸王を将来的な皇位継承者とするために、姪の額田部王を即位させ、群臣たちの合意を成立させようとしたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※大后は、それまで皇位継承候補には含まれておらず、紛争調停が可能な第三者の立場にあったと思われる。また、男性天皇の即位は、新たな皇位位継承候補者を増やしてしまうことから、そうした王族間の紛争を抑止するために、人格や資質、統治能力を考慮したうえで、額田部王本人や群臣層が女性天皇の即位を決断したとも考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

※当時、すぐに天皇権限を行使できるのは、前大后の推古天皇だけであったことや、欽明天皇の孫世代である自身の王子,竹田王、および押坂彦人王、厩戸王らは若年であったことから、執政経験や実績を鑑みて推古天皇が擁立されたと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

〔要参考〕『上宮聖徳法王帝説』には、欽明天皇から推古天皇の間の皇位が「他人」を混ぜずに継承されたことを記している。

※このことから、血統による皇位世襲は、このころに確立したと考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※大王に選定される条件に、血統の要素が加わったことで、人格や資質が優れた女性年長者が大王に即位する機会が増えていったとも考えられる(仁藤敦史『女帝の世紀』)。

欽明天皇の子孫による大王位の世襲が安定すると、1つの血統で古くから継承されてきたかのように系譜が創作されたと思われる。そのために、履中天皇(讃)・反正天皇(珍)の系統と、倭王済倭王興雄略天皇(武)の系統、そして継体天皇の系統が1つの系譜に統合され、その共通祖先として河内ホムタの王の尊称の一部を諱とする応神天皇(誉田別)が創作されたのだという説もある。仁徳天皇(大鷦鷯)もまた、武烈天皇の諱である若鷦鷯から創作され、応神天皇の子息として系譜に組み込まれたのだとも考えられている(遠山美都男『新版 大化改新』)。

〔参考〕飛鳥石神遺跡から出土した荷木簡には、「建王部」「建公部」「蝮王部」「蝮公部」と記載されていた。

※「建(タケル)」は「ワカタケル(=雄略天皇)」「蝮(タジヒ)」は「タジヒ(=反正天皇)」に由来すると思われる。それらの木簡は7世紀あたりのものと見られる。世襲による王統の系譜が作成される過程で、伝承上の君主名を冠した部が形成されていったと考えられる(義江明子推古天皇』)。

・593年 1. 飛鳥寺において、仏舎利を納める塔が建てられた。(『日本書紀』)

〔参考〕『上宮太子拾遺記』所引の「元興寺縁起」によれば、塔を建てる儀式に際して、蘇我馬子は僧形の頭髪で、「百済服」を着ていたという。

※馬子が「百済服」を着用していたのは、飛鳥寺建立に百済からの技術援助があったことを周りの人間に示すためだと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※「元興寺縁起」の1つである『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』は後世の偽文書である可能性が指摘される。また、大臣が他国の服を着用することはその国の支配秩序への従属を示すことであり、儀式には多くの衆人がいたと思われる。仮に百済服を着用していたとすれば、外交を担う立場でありながら、当時の外圧を受ける情勢に無頓着が過ぎるほか、ヤマト王権の一員としては動向が勝手であることから、馬子の悪行として語られた創作という説もある(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・593年 4. 10〔参考〕『日本書紀』によれば、厩戸王は「皇太子」になり、「録摂政」したという。

用明天皇皇位を子孫に伝える予定のなかった傍系であったとも推測される。そのため用明天皇の王子である厩戸王の即位には抵抗が生じることが想定される。そのため推古天皇が大王となり、厩戸王は「皇太子」に留まって自身の即位への抵抗感が薄まることを待ったとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理』)。

※当時、皇太子制は未成立であり、厩戸王はあくまで大王位継承資格を持つ諸王子の中で、最有力者に過ぎなかったとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※「録摂政」の「録」は「フサネ」と読んで「総べる」ことを意味し、「摂」は「代わる」ことを意味する。推古天皇を補佐する形で政権に参画したことを示すと考えられる(吉村武彦『聖徳太子』)。

※大王候補であったとしても年齢は考慮されたはずであり、当時20歳の厩戸王はまだ国政に参画していなかったとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・593年 9. 用明天皇は磯長に改葬された。(『日本書紀』)

用明天皇の陵墓は、方墳の、春日向山古墳であると考えられる。敏達天皇前方後円墳(太子西山古墳)に埋葬されたのに対し、用明天皇蘇我氏族長と同じ方墳に埋葬されていることになる。方墳への埋葬は、推古天皇蘇我馬子の意向と考えられ、大王にとっての、新たな形態の墳墓を造営するという、明確な意図があるとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・593年 ?.?〔参考〕 押坂彦人大兄王と、糠手姫王との間に田村王が誕生日した。(『本朝皇胤紹運録』)

※『日本書紀』は糠手姫王を「嶋皇祖母命(シマノスメミオヤノミコト)」と表記する。嶋宮という住居にて、財力を持っていたと推測される(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・594年 2. 推古天皇は、「三宝」興隆の詔を下した。(『日本書紀』)

百済を通して、倭国南朝と隋の仏教情報が伝わったことに起因する命令と考えられる(義江明子推古天皇』)。

・595年 ?.? 百済より僧侶,慧聡が来日して仏教を広めた。(『日本書紀』)

・596年 11. 法興寺(飛鳥寺)が完成し、蘇我馬子の子息である善徳が寺司となった。(『日本書紀』)

※「飛鳥=あすか」とは本来「すか(洲処)」に接頭語「あ」が付いたものであり、川に運ばれた土砂が堆積した場所を指す。固有名詞としての「飛鳥」は、飛鳥川の運んだ土砂が堆積した東岸一帯のことである。飛鳥川東岸には水鳥が飛来するため、枕詞として「飛ぶ鳥のあすか」と呼ばれており、次第に「あすか」自体に「飛鳥」の文字を当てたのだと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※『日本書紀』において、飛鳥寺の建立に蘇我氏が関与したことを示すのは、馬子の子息,善徳が寺司になったことのみである。そのため、飛鳥寺建立に対する蘇我氏の関与を、過大に評価すべきではないという指摘もある(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※寺院は最新の建築技術によって建てられていたため、見た者を圧倒したとも推測できる(末木文美士『日本思想史』)。

※簡素な作りである神社と比較して、装飾の多い寺院や異国情緒を感じさせる読経、金銅の仏像などに触れた人々は、仏の浄土に憧れを抱いたとも推測される(平泉澄『物語日本史(上)』)。

・596年 11.? 僧侶の慧慈と慧聡は飛鳥寺に住むことになった。(『日本書紀』)

厩戸王は慧慈に仏教を学んだとされ(『日本書紀』)、深く仏教の教義を知ることのできる環境にいたことが窺える。そのため、聡明さや優れた理解力を意味する「トミミ/ヤツ トミミ」に美称「トミ」を冠した「豊聡耳(トヨトミミ)」(『元興寺縁起』)や「豊八聡耳(トヨヤツトミミ)」と讃え名で呼ばれたとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・596年 押坂彦人大兄王の子息茅渟王と、吉備姫王(推古天皇同母弟桜井王の娘)との間に軽王が誕生した。(『日本書紀』)

・597年(隋暦開皇17) 東突厥の突利カガン,染干は隋の安義公主を娶った。

※こうして東突厥は隋に服属した。「中国」から周辺民族に降嫁した公主を、和蕃公主と呼ぶ(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・598年 3.? 厩戸王は、膳太郎の娘である膳太娘を妻に迎えた。(『聖徳太子伝暦』)

・598年 4.15 推古天皇厩戸王に『勝鬘経』を講義させる。多くの王族や臣、連、一般人は感激したという(『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝暦』)。

・598年(隋暦開皇18) 隋は皇子である漢王,楊諒を総大将として高句麗に遠征を行った。この遠征は失敗した。

※遠征軍を指揮したのは高熲である。彼は内政を重視しており、遠征にも反対していたが、敗北の責任を負って失脚した(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・599年 4.27 地震が発生し多くの家屋が倒れた。そのため地震神を全国に祀らせた。(『日本書紀』)

・599年 東突厥のカガン,突利は、隋の文帝,楊堅より意利珍豆啓民カガンの称号を与えられた。

・600年 倭国朝鮮半島に使者を派遣し、新羅に対して「任那の調」を要求しようとした。(『日本書紀』)

・600年(隋暦開皇20) 12.3 隋の文帝,楊堅は、仏像、天尊像の破壊と窃盗を禁じ、それを犯した俗人は不道罪、僧侶・道士は悪虐罪が適用されるとした。

※三階教の熱心な信者であった、高熲の失脚も関連している(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・600年(隋暦開皇20) 隋にて仏教の1宗派,三階教が禁圧を受けた。

※三階教が弾圧されたのは、信者の団結力と、布施により得た財力を警戒されてのものである。

・600年(隋暦開皇20) 10.(陰暦) 隋の皇太子,楊勇は廃された。

・600年(隋:開皇20) 11.(陰暦) 隋にて、文帝、楊堅の皇子,広が皇太子になった。広は自身の誠実さを演出し、母である皇后,独孤伽羅の歓心を買ったという。

・600年 ?.? 隋の開皇20年 倭は隋に使者を派遣した。(『隋書』倭国)

倭国新羅と対抗していたが、隋から冊封されている新羅を攻撃することは隋の天下を犯すことになり、倭国は隋から攻撃される可能性があった。新羅と対峙するうえで、倭国は隋との外交が必要になったと考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

高句麗が隋との関係修復を画策するため(一度隋に侵入して撃退されている)、慧慈を通して倭国の入朝を実現させて、敵意が無いことを示す目的があったとも考えられている。隋としても「東夷」の入朝は、皇帝の徳を示すうえで好都合であった(西山良平・勝山清次 編著『日本の歴史 古代・中世編』)。

〔参考〕『善隣国宝記』が引用する『経籍後伝記』には、倭国に書籍が多くなかったため、小野妹子を隋に派遣して書籍を購入させたとある。

※遣隋使を派遣した目的の1つに、書籍を集めることがあったと考えられる(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

・『隋書』は倭王の名を「阿毎(アメ)」字を「多利思比孤」、号を「阿輩雞弥」王の妻の号を「雞弥」太子の名を「利歌弥多弗利」と記している。(『隋書』倭国伝)

※太子とされる利歌弥多弗利(リカミタフリ)は、和歌弥多弗利(ワカミタフリ)の誤記とされる。

〔参考〕『通典』には、「多利思比孤」とは華言(中国語)で「天児」のことであると説明されている。

※「天児」という『通典』説明から「多利思比孤」とは「天子」の和語であった可能性が高いとされる。そのため、当時の倭国では、天帝の子を意味する君主号が用いられていた可能性が指摘される(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

※アメを姓として記述しているなど、倭国の君主号が中国の風俗で解釈されている(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※女性の推古天皇に男性を表すヒコ(彦)を用いるとは考えられず、 推古天皇が女性であることを隋に隠そうとしたとも考えられている(河上麻由子『古代日中関係史』)。

※ヒコ(彦)とヒメ(姫)がそれぞれ男性と女性の名前の接尾辞として用いられるのは7世紀後半以降とも推定されているため、女性であることを隠したわけではないという見解もある(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※ワカミタフリとは「ワカミトホリ(=若御統)」つまりは「若い御血統にあるお方」という意味であり、次期大王としての力量があると判断された王子の1人が「太子」として、大王の正妻とともに王権を分担して担ったとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※ワカミタフリというのも若翁(わかんどほり)、つまりは次世代の男女を問わない王族のことを意味したものであるという見解もある。そして、皇帝と1人の正妻=皇后がいて、世継ぎの皇太子がいるという制度が未成立だったがゆえに倭の回答が大雑把なものになったと考えられる(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※「アメ」には「阿毎」と字が当てられていることや、国書の「阿輩台」は「オホト」と読まれることがあるため、「アメキミ」とは読めず、「オオキミ」であるとの指摘がある(高森明勅『謎とき「日本」誕生)。

 ・600年 ?.? 倭からの使者に対し、隋文帝楊堅がその習俗を尋ねたところ、倭の使者は、「倭王は天を兄、太陽を弟として、夜が明ける前に政治を行い、太陽が登るとそれに後の政務を任せる」という内容を伝えた。それに対し堅は、それには道理がないとして制度を改めるよう伝えた。(『隋書』倭国伝)

※従来、倭国において「天」は昼と夜を包摂するものであり、太陽は昼間のみを照らすものであった。つまり天が「主=兄」となり太陽は「従=弟」となる。こうした観念かは、天照大御神高天原を、月読命が食国を治めるという分担統治の神話は未成立であったと考えられる(新谷尚紀『伊勢神宮出雲大社』)。

※太陽は秩序を維持する存在であり、それが昇らない内は、倭王が秩序を維持するのだとして、その徳の高さを誇ったとも考えられる(大平聡『聖徳太子』)。

倭国の政治は、倭王が夜に行った神事をもとに、昼には俗事である政治が行われたとも考えられる。そして、太陽が昇ると天の星が見えなくなるという関係性を、兄弟に例えたとも推測される(平林章仁『「日の御子」の古代史』)。

※「朝政」という言葉があることから、実際に、倭王は夜明け前に政務を行っていたとも考えられる(倉本一宏「大王の朝廷と推古朝」『岩波講座 日本歴史 第2巻 古代2』)。

※堅が不合理だと感じたのは、倭国の大王が夜に政務を行うことで灯りなどの余計な出費がかかり、家臣などの負担になる点だと思われる。ただ、半世紀後の倭国では日の出の後に政務を行っているため、倭国の使者による説明は誤訳されて楊堅に伝わった可能性もある(河上麻由子『古代日中関係史』)。

※「倭の五王」は「中国」の南朝に対して軍事権の承認を求めて倭国王冊封されたが、遣隋使は冊封について言及はせず、また隋側も倭を冊封する気はなかった(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)。

倭国は、隋から冊封体制から独立した君主を承認されることで、冊封を受けている朝鮮半島諸国よりも優位に立ち、「東夷」の小帝国になることを目指したとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※隋は600年代以降、冊封に消極的になっており、また、倭国内も安定した支配体制を構築しており、既に冊封を必要としなくなっていたという見解もある(河上麻由子『古代日中関係史』)。

※600年の遣隋使について、『日本書紀』は何も記さない。編纂過程において『隋書』を参照したことは確実である。倭国としては恥ずかしい経験であり、隠蔽したかったのだと考えられる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

倭国では、殺人・強盗・姦淫は死刑、窃盗は等価の物品による償い、償うための財産がないものは奴隷となる。また、流罪や杖刑があった。罪を自白しない者には、木で膝を抑えつける、強弓の弦で項を引くなどの拷問が加えられた。また、盟神探湯の他に、甕の中の蛇を掴ませて、噛まれるなら不正を働いたとみなしたようである。(『隋書』倭国)

・人々の性質としては、碁、双六、賽子を使った博打が好きであったことが記録されている。また、占いよりは巫女の神降ろしを信頼していたらしい。(『隋書』倭国)

・民衆はまな板を使用せず、柏の上に食物を置き、手づかみで食べていた。(『隋書』倭国)

・601年 2.? 厩戸王斑鳩宮の造営を開始した。(『日本書紀』)

平群郡の斑鳩は、水陸交通の要所であり、難波津への連絡にも適していた。そこを拠点とすることで、厩戸王が、隋や朝鮮半島との外交を担う形で国政に参画したと考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

※河内地域一帯において、蘇我氏と対立していた物部氏が勢力を減退させたことで、斑鳩地域の開発、難波と飛鳥を結ぶ道の整備が可能になったとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・601年(隋暦仁寿1年) 6.13(陰暦) 隋にて、国子学以外の学校が廃止された。

儒学を重んじて学校を設置していたが、効果がなかったため廃止したという。これにより、中央だけで1000人がいた学校の定員は、国子学に所属する70人のみとなった(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・601年(隋暦仁寿1) 6.13 隋にて仏舎利が諸州に分与された。

※学校の大幅な削減とともに、国家の根幹を儒教から仏教に転換させようとしたことが伺える(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・601年(隋暦仁寿1) 隋では、鮮卑人,陸法言によって「韻書」を集成した『切韻』が作られた。

※この当時には漢字の発音の語頭のRがLへと変化している。これは遊牧系のアルタイ言語には語頭のRがないからである(岡田英弘世界史の誕生』)。

・601年 11.5 新羅を攻めることに関して議論が行われた。(『日本書紀』)

・602年 2.1 新羅を攻めるに際して、厩戸王の同母弟,来目王が撃新羅将軍に任じられた。(『日本書紀』)

高句麗百済から、新羅に対して共同で軍事行動を行うことを望まれたため、要求に応えたように見せかけたとも考えられる(西本昌弘「倭王権と任那の調」)。

※王族を将軍に抜擢することで、豪族を将軍とするよりも新羅への威圧感を強める企図があったとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・602年 6.3 撃新羅将軍,来目王は病を患ったため、新羅征討は中止となった。(『日本書紀』)

・602年 10.? 観勒僧正が来倭し、暦本と、天文地理書,『遁甲方術書』を献上した。(『上宮聖徳法王帝説』『日本書紀』)

※こうして、年月の経過に従った叙述が可能になった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・603年 2.4 来目王は筑紫国において薨去した。(『日本書紀』)

※これは圧力をかけられた新羅が、刺客を送って暗殺した可能性も指摘される(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・603年 4.1 故来目王の兄,当麻王は征新羅将軍に任じられた。(『日本書紀』)

※来目王の後任として一般豪族を任命してしまえば、新羅への圧力が弱まるため、厩戸王が異母弟を任命したとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・603年 7.6 当麻王は播磨国に赴いていたが、妻である欽明天皇王女,舎人姫王が薨去したことで引き返した。(『日本書紀』)

・603年 10.4 推古天皇は新たに造営された小墾田宮(雷丘東方遺跡か)に遷った。(『日本書紀』)

小墾田宮は、軽街と海石榴市街を繋ぐ阿部山田道に面する形で造営されたと考えられる。造営地は蘇我氏の本拠地に位置する地域に含まれていた(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※この宮は前夫(まえつきみ)の集まる場所としても用いられた。(佐藤信 編『古代史講義』【宮都篇】)

・603年 11.1 厩戸王秦河勝に仏像を授けた。河勝はその仏像を祀るための蜂岡寺を造営した。(『日本書紀』) これが広隆寺のはじめである。

・603年 12.5 厩戸王により「冠位十二階」が制定され、儒教の6つの徳目を大小に分けて12の冠位(高官から大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智)という区分が決定した。(『日本書紀』)

※「くらゐ(=位)」は坐る場所を意味する。倭国においては、自身が坐る位置と、首長の距離の近さが地位を示す言葉になったと考えられる(吉村武彦『聖徳太子』)。

※「徳」「仁」「信」「義」「智」という徳目は、陰陽五行説に基づいている。倭国に先んじて官位制を実施した、百済高句麗の影響が強いと考えられる(吉村武彦『聖徳太子』)。

※氏族ごとに世襲された姓とは異なり、個人の才能、功績、忠誠心に応じて登用された人物に冠が授けられる制度であった。冠位は世襲することができず、昇進は可能であった。氏姓制度による世襲から官僚制への転換と、官人の序列化が目的であった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※功績次第で冠位が授与されるようになったことで、群臣層に与えられた冠位と同等の地位にまで昇る非群臣層が現れた。こうして相対的に群臣層の地位は低下することとなった。対して蘇我馬子は王族とともに冠位を制定・授与する側となり、群臣の長から王権の代行者として地位を高めたと考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※人材の登用を目的としたほか、冠位を授ける天皇こそが権威の大元であることを明らかにしたとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

※「中華」との外交においては「冠位」が必要とされたため、第1回遣隋使が冠位制を採用する契機であったと推測される(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

朝鮮半島などの冊封体制下の国王には、九品の地位の内、与えられたのは四品が最大である。冠位十二階が定める最上位の冠位「大徳」も、律令制下の「正四位」相当である。「中国」との外交において、使節は自身がどのような身分であるかを示す必要であったことが理由にある。外交上の理由から定められたのだと考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※冠位の授与は、王族、大豪族は対象外であり、朝廷の実務に関わる人々に適用したものと考えられる(東野治之『聖徳太子』)。

〔要参考〕隋の時代、倭は服装を改め、色織の絹で作った金銀の模様がついた冠を着用するようになった。また、男性はスカートと肌着、筒袖の服を着用していたようである。女性は髪を後ろで束ね、毛皮の縁どりのあるスカートを履き、肌着を身につけていた。また、漆で固めた靴を紐で括りつけて履いていたが、庶民は金銀の模様の冠は許されず、また裸足が多かったようである。(『隋書』倭国)

604年 4.3 厩戸王、十七条憲法を制定した。(『日本書紀』)

〔異伝〕『上宮聖徳法王帝説』は605年7月とする。

※十七条憲法は、第1条「以和為貴、無忤為宗(和を以て貴しと為し、忤ふること無きを宗とせよ)」第2条「篤敬三宝(篤く三宝を敬へ)」などの仏教的な訓戒が見えるが、主な目的としては、大王と群臣の新たな関係秩序を確立する法として編まれたものと考えられる(石母田正説)。

※第1条の「和」は、『論語』「学而編」に由来するものであり、儒教的であるとの指摘がある。しかし、『論語』における「和」は身分に相応な礼儀作法を意味するのに対して、十七条憲法における「和」は仏教の慈悲の思想に由来する、人間の行為を規制する原理だという見解もある(中村元『日本思想史』)。

※「忤」を倭語に置き換えて発音すると「サカフルコト」となり、「逆らう」と同語義の動詞「サカフ」の連体形となる。ただ、「和」を「ワ」と発音するなら、「忤」を「ゴ」と発音すべきという見解もある(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

※第2条は仏、法、僧の「三宝」を敬うことが求められている。また、悪に固まった人間というものは、ほとんとおらず、教化されれば仏教に従うようになると述べられている。これは西洋的な「永遠の罰」という観念とは無縁な、東洋的な思惟であるとも捉えられる(中村元『日本思想史』)。

※当時は道徳の教育が不十分で争いが起こりやすかったため、世の中を正しく導くために心構えが提示されたとも考えられる(平泉澄『物語日本史(上)』)。

※第3条には「承詔必謹(詔を承りては必ず謹め)」ともあり、大王の命令に従わねばならないと説明される。しかしその前に、仏教尊重を説いた第2条が置かれている。これは仏教尊重の時代に制作さたことの、1つの根拠とされる(東野治之『聖徳太子』)。

※第3条では、君臣の関係は天地に喩えられる。それを逆にすると国家には混乱が生じるため、君主の命令に背いてはならないことが述べられたとも考えられる(平泉澄『物語日本史(上)』)。

※第3条は権勢の高まる蘇我氏への戒めとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

※第5条の「如石投水」は、『文選』所収の李蕭通「運命論」における「其言也、如以石投水」に由来すると考えられる(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

※第6条の「懲悪勧善」は『春秋左氏伝』「成公14年条」の「懲悪而勧善、非聖人誰能脩之(悪を懲し、而て、善を勧むるは、聖人にあらずして誰かよくこれを脩めん)」に由来すると考えられる(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

※第8条の「早朝晏退」は、『墨子』巻2の「賢者之治国也、蚤朝晏退」巻8の「王公大人蚤朝晏退」との類似が指摘されるほか、『史記』「越王勾践世家」『宋書』「孝武十四王」には「蚤朝晏能」とある(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

※第10条では、「我必非聖(我必ず聖しきにあらず)」と凡夫であることを自覚するよう述べられ、凡夫であるがために起こる闘争を克服するために、怒りを絶って「和」の雰囲気のなかで討論することが求められている(中村元『日本思想史』)。

※第12条は官司が大王の臣下であると述べられており、地方官の越権を戒め、天皇の大権を述べたものだと考えられる(平泉澄『物語日本史(上)』)。

※第14条は、条文中に「嫉妬」という言葉が頻出する(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

※第16条「使民以時、古之良典(民を使うに時を以てするは、古の良き典なり)」は『論語』学而編からの引用であり、隋の儒教文化を取り入れていることが伺える(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

※十七条憲法にどれだけの法的有効性があったかは不明であるが、隋との交渉を行ううえで、文明国として整えた最低限の制度であり、倭国の政治理念を示したことは確実とされる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・604年 9.? 朝礼が改正され、宮門の出入りの際は匍匐礼、朝廷に入って以降は立礼と定められた。(『日本書紀』)

・605年 厩戸王蘇我馬子は仏殿を建立した。(『上宮聖徳法王帝説』)

・605年 4.1 推古天皇は鞍作鳥に丈六釈迦如来坐像を作らせた。その際仏像の鍍金のために、高句麗王から黄金300両が贈られた。(『日本書紀』)

飛鳥寺の伽藍の配置は1つの塔と3つの金堂というものであったが、それは高句麗の清岩里廃寺とも共通していることから、寺院建立の様式は高句麗から提供された可能性が指摘される(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・605年 閏7.1 厩戸王は諸王と諸臣は褶を付けるよう定めた。(『日本書紀』)

※朝廷の儀礼を整えるために、導入されたものと思われる(東野治之『聖徳太子』)。

・605年 10.? 厩戸王斑鳩宮に移った。(『日本書紀』)

・606年 1.18 高屋大夫という人物が、妻,阿麻古のために仏像を制作した。(「菩薩半跏像銘」)

※「作奉」の「奉」は謙譲語「マヲス」を表記したものと思われ、当時の倭国では待遇表現を文字化していたことが理解できる(今野真二『図説 日本語の歴史』)。

・606年(隋:大業1) 3.(陰暦) 隋にて通済渠 河南准北の諸郡の男女百数万人が、運河開設のために動員された。

・606年(隋:大業1) 3.(陰暦) 隋にて邗溝准南の十万数人が、運河開設のために動員された。

・607年(隋暦大業3) 隋の煬帝,楊広は東突厥大利城付近にまで赴いた。

※啓民カガン,染干ほか、諸部族の首長には、忠誠の表明のため、広一行の通り道の草を刈らせた。巨大なテントを伴った行幸であり、東突厥人を驚かせた(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・607年 2.1 厩戸王の壬生部が設置された。(『日本書紀』)

※壬生部とは、大王候補者に対して奉仕する集団である。厩戸王のための各地の壬生部から貢納されたものは彼の住まい斑鳩宮に集められたとみられる。斑鳩宮という住まいと壬生部という経済基盤を与えられたことは、推古天皇を補佐する王位継承資格者として国政に参与を始めたことの証左とも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・607年 2.15 〔参考〕推古天皇の詔に従い、倭国古来の神祇が祀られたという。(『日本書紀』)

天皇の第一の職務が、神祇の祭祀だったことが窺える(若井敏明『邪馬台国の滅亡』)。

※2月15日は、Gotama某(釈迦牟尼)の死去した涅槃の日とされる。『日本書紀』の編纂者は、内容が仏教関連の記述に偏重していたことから、神祇信仰に関する記述を増やそうとして、涅槃会の日に重ねて神祇礼拝の記録を作為したとも考えられる(東野治之『聖徳太子』)。

・607年 推古天皇厩戸王は、故用明天皇の詔に従い仏像を造立した。(『上宮聖徳法王帝説』)

〔参考〕法隆寺薬師仏の光背銘も、用明天皇の望んでいた仏像建立の意思を継いで、推古天皇厩戸王が、丁卯(607年)に薬師如来像を完成させたことを記す。

用明天皇の言葉は、自分に対して敬語を用いている。当時、特定の人物には、常に敬語を用いるという「絶対敬語」の名残から、大王は自分の行為に敬語を用いたのである。用明天皇の、最高位にある者としての自覚とも捉えられる(山口仲美『日本語の歴史』)。

※「イケノヘ」を「池辺」、「オホミヤ」を「大宮」と表記しており、漢字の訓を連続させて日本語の文章が書かれていることが理解できる(沖森卓也『日本語全史』)。

※光背銘には「召於大王天皇与太子」とあることから、動詞「召」が目的語「大王天皇与太子」の前に置かれており、その部分は漢語の語順であることが理解できる。「薬師像作」を「薬師像を作り」、「造不堪」を「造るに堪えず」、「大命受」を「大命を受け」と読むのならば、日本語の語順で表記したことになる。尊敬の意を表す「オホミ(大御)」や尊敬の補助動詞「タマフ(賜)」など、漢語にない表現を文字化している。また、助詞の「と」は「与」、「て」は「而」という漢書を用いて表記されている(今野真二『図説 日本語の歴史』)。

※仏像の様式や技法から、製造は7世紀以降とも考えられる。また、銘文が厩戸王のことを「東宮聖王」と呼ぶのも当時のものとしては不自然であると指摘される。厩戸王の実績を語るために、その父である用明天皇の願いにより建立されたと、由緒が創作されたと考えられる(義江明子推古天皇』)。

・607年 ?.? 隋の大業3年 倭は隋に対し朝貢を行って、隋の煬帝,楊広に国書を送った。その国書は隋の皇帝を「海西の菩薩天子」と讃えた。また、隋の皇帝を「日没処の天子」倭の大王を「日出処天子」と記していた。倭からの国書に対し、煬帝楊広は不快感を示し、無礼だとして二度と取り次がないように臣下の鴻臚卿に伝えた。(『隋書』倭国)

※日本側の「天子」という称号の使用は、朝鮮半島の権益を失ったことや、前回の遣隋使の失敗から、国家再編が必要となり、隋のような国になることを目指そうとした意志の発露とも考えられる(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※『隋書』も『日本書紀』も、倭国の使者は朝貢したと記されていることから、隋はあくまで倭国朝貢国として扱っていたことが理解できる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

百済高句麗新羅の王は、冊封体制下において「中国」である隋の臣下になっていた。対して倭国冊封体制に組み込まれることを望んでいない。臣下にならないことで、百済高句麗新羅に対して優位に立とうとしたとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※「日出処」と「日没処」という文言は、『大智度論』巻10の「日出処是東方、日没処是西方(日出づる処は是れ東方、日没する処はこれ西方)」を出典とする表現であり、使者が広を「菩薩天子」と讃えたように、仏教に由来する表現であるとされる(河上麻由子『古代日中関係史』)。

※『礼記』祭義の「日出於東、月生於西(日は東より出て、月は西より生ず)」ほか、『礼記』斉風「東方之日、毛伝、日出東方(日は東方より出ず)」など、先秦の時代から、「日出」は東方の雅語として用いられていた。また、『唐文粹』巻24の李白「金銀泥画西方浄土変相讃」には、西方は「日没処」と呼ばれ、西方浄土の場所として表現されている。そのため、「日没処」という表現に、悪い意味はない(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「日没処」すなわち西方は極楽浄土のある場所と見なされており、その表現に隋を貶める意図はなかったと思われる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※「海西の菩薩天子」とは、仏教の信仰に篤い文帝,楊堅のことである。つまり、隋の皇帝が代替わりしていたことは倭は知らなかったようである。煬帝楊広が不快感を示したのは、父と間違われたことも理由の1つかもしれない。(王勇ほか『日本にとって中国とは何か』)

※菩薩としての皇帝は、「菩薩戒弟子皇帝」と表現される。この表現は、懺悔文において、皇帝が仏弟子として自称するものである(『広弘明集』巻28)。これは皇帝以外の者が使うのは不遜である。その表現がどれだけ隋側が気にしたかは不明であるが、「菩薩天子」と記す倭国の国書は、語の使用に関して不備があったのである(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※かつて魏(北朝)は、梁(南朝)の武帝,蕭衍が「皇帝菩薩」と名乗り、仏道修行をする様を揶揄した(『魏書』島夷蕭衍)。魏(北朝)において、皇帝は「当今の如来」として、悟りを開いた存在と扱われた(『魏書』釈老志)。北朝に連なる隋としては、「菩薩天子」という呼称が、敬意を表したものと認めなかったとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※『隋書』突厥伝には、先代文帝,楊堅の時代に、突厥(Türük)のIl-kül-šad-baγa-ïšbara-qaγan(伊利倶盧設莫何始波羅可汗)が自らを「天子」と称した国書を隋に送ったとある。この際に問題は起こっていないため、倭王を「天子」とする国書には問題はないとの見解もある。しかし、隋から突厥(Türük)への返書には、隋の「皇帝」から突厥の「可汗(qaγan)」に対してのものであると記される。突厥可汗(qaγan)に対して「天子」を用いておらず、突厥の国書も隋を立てるものになっている。そのため、隋側としては「天子」は絶対無二という認識があったと考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

倭国の考える「天」とは、天上の神々がいる世界のことであり、「天子」とは天上世界を主宰する神の子孫を意味しており、「中国」における「天」の観念とは異なっていたとも考えられる。大王が日本列島を支配する正当性の根拠として、天の神の子孫であるという観念が成立していたとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※国書において推古天皇は「日出処天子」と名乗っており、本名を用いなかったのは、冊封を受けない形での、主体的で対等な外交を望んだからとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※「天子」とは、諸々の「天」(仏の一階級)に守護され、徳を分与された君主の一人を意味する可能性もある。その場合、「天子」は複数人いても良いことになる。広の不快感は、仏教後進国の「蛮夷」の首長が仏教君主を名乗ったことが理由かもしれない(河上麻由子『古代日中関係史』)。

※『梁書』諸夷伝 盤盤条や、『宋書』夷蛮伝 呵羅単国条,闍婆婆達国条に記載のある国書は、仏教的文脈において「天子」が用いられている。ただそれは国書の冒頭に記された相手に対する敬意を込めた呼称である。倭国の国書のように「○天子から○天子へ」という書式では、仏教的文脈における「天子」は使われないという指摘がある(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※隋は高句麗を服属させていたが、それは多大な兵の犠牲の末のものであった。また、高句麗は東突厥と結託して隋に対抗するような行為を見せていた。倭国高句麗と結託することは隋にとって不都合である。そのような状況下を見込んで倭国は隋に対して自立した外交を提起したという説もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

※「倭の五王」の時代以降、「中国」王朝との臣従関係は無化された。国書の文言の不備が節々に見られることから、倭王を「天子」と称した外交は、ことさらに対等を目指したというよりは、素朴な感情からの対等外交の要請だったとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※「天子」の名乗りが不興を買ったことから、少なくとも隋は倭国の君主に対して、「倭王」以外の名乗りを認めていなかったと考えられる(神野志隆光『「日本」とは何か』)。

倭国において、支配の正当性を語るために、このころには神話的な倭国誕生の由緒が形成されていったと考えられる。天皇は天の神から支配を委任されたという神話的な由緒と、「中国」から王に認めてもらったという由緒は両立しない。そのため推古天皇は隋から官職を受けることはなかったとも考えられる(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

〔参考〕『隋書』「倭国条」は、小野妹子のことを「蘇因高」と記す。

〔参考〕『新撰姓氏録』は、妹子は近江国滋賀郡小野村に居住していたため、氏を「小野」にしたとする。

※「蘇因高」とは、妹子が自身の名前を「小妹子(せういもこ)」というように漢字音で呼んだものと考えられる。隋において自らの姓を答える必要があったため、自身の居住地を姓として名乗ったようである。倭国における姓制度は、隋との外交に起因するものとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。

・608年 4.?  隋の煬帝,楊広は文林郎,裴世清を使者として倭に派遣した。(『隋書』倭国)

※隋側の認識としては、倭国からの使者は皇帝の徳を慕って派遣されたはずである。しかし、倭国からの使者は官職や爵号を望まなかった。その原因を探り、隋の天下秩序に参入させるために、野蛮人を懐柔する「宣撫使」として派遣されたと考えられる(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

・608年 6.15 小野妹子らは帰国し、難波津に到着した。妹子は、煬帝,楊広からの国書は、百済を通過する際に、百済人に奪われて紛失したと奏上した。(『日本書紀』)

・608年 8.3 裴世清ら隋からの使者が入京した。(『日本書紀』)

・608年 9.5 倭は小徳の阿輩台とその供数百人を派遣して、武装した兵士たちと共に裴世清を迎えた。(『隋書』倭国)

〔参考〕『隋書』「倭国条」には、倭王が臣下を集める際には武装した兵隊を集めさせ、音楽を演奏させるとある。また、倭の武器として弓・矢・片刃の刀・矛・弩・槍・斧、皮に漆を塗った鎧、骨の鏃を記録している。

・608年 9.5 裴世清は小治田宮に到着し、隋の国書を奏上した。国書は阿倍臣が受け取り、大伴齧に渡され、正殿の門の前の机に置かれた。(『日本書紀』)

推古天皇は、卑弥呼雄略天皇と同じように、外国使節の前に姿を見せないという、倭国の君主の風習を続けていたのだと考えられる(義江明子『つくられた卑弥呼』)。

〔異伝〕『隋書』によれば、倭の都にて、諸王子・王族・諸臣らが列席する中で、裴世清は倭国王と会見し、「礼儀の国」である隋に朝貢したのは礼儀を学びたいからだと伝えたのだという。

※隋を「礼儀の国」と言ったのは、仏教をそこまで重視しない楊広が隋の皇帝だったがために、遣隋使派遣の目的を、礼儀を学ぶことにすり替えて裴世清に伝えたものだと思われる。(王勇『日本にとって中国とは何か』)

天皇がいる場所から、世清がいた庭中までは距離があるため、世清に直接言葉を伝えたのは、厩戸王であったとも考えられる。倭国への滞在期間中に、彼は倭国王が女性であることは知っており、かつて女性君主である卑弥呼が存在していたことから、問題にしなかったとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※『日本書紀』によれば、隋の国書の文言には、「皇帝問倭皇(皇帝、倭皇に問う)」とあったのだという。しかし、「中華」の皇帝が周辺国の君主を「皇」と呼んだ記録はない。『日本書紀』は国書にあった「王」を「皇」に書き換えたとも推測される。「倭王」という対外的な称号は、宋(南朝)との関わり以降廃れたものの、忌避することもなかったもとも考えられる(冨谷至『漢委奴国王から日本国天皇へ』)。

※『隋書』「倭国伝」は倭国の鵜養漁について言及しているが、それは裴世清一行の見聞を参照したものと考えられる。彼らを歓迎する饗宴において実演されたとも推測される。『古事記』『日本書紀』において、鸕鷀草葺不合尊(神武天皇の父)は鵜の羽で葦いた産屋にて産まれたとされる。赤子は人の魂を取り入れてはじめて人になるという信仰があり、それを運ぶ霊鳥が鵜と考えられてきた。『古事記』『日本書紀』では、神武天皇の曽祖父とされる瓊瓊杵尊は神吾田津姫(木花開耶姫)と結婚しており、神武天皇の妻の1人は「阿多/吾田」の出身であり、『日本書紀』では神武天皇は阿陀の鵜飼を訪れている。そのため、鸕鷀草葺不合尊や神武天皇の神話を伝えたのは、鵜を霊鳥として尊重する大隅国の阿多隼人の集団であり、大和国宇智郡の阿陀は同族と考えられる(平林章仁「神武天皇東遷伝形成史論」『神武天皇伝承の古代史』)。

・608年 9.11 裴世清の帰国とともに第3回遣隋使が派遣された。(『日本書紀』)

・第3回の遣隋使は、妹子の他に、倭漢福因・奈羅訳語恵明・高向黒麻呂(玄理)・新漢人大国の4人の留学生と、旻(日文か)・南淵請安・志賀慧隠・広済の4人の学問僧が派遣された。 

・『日本書紀』は、このときの国書には推古天皇を「東の天皇」と記載されていたことを語っている。

※「天皇」という称号は、百済から渡来した五教博士によって伝えられたとも考えられる(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※〔参考〕鄭玄による『周礼』の注によれば、太宗伯が祀る「昊天上帝」は、天の中心である「天皇大帝」のことであり、北極星を指すという。

※天の星は北極星を中心に回転すると考えられていた。そのため、政治秩序の普遍的な中心を意味する言葉として「天皇」を称号に選んだとも考えられる(斎川眞『天皇がわかれば日本がわかる』)。

※「日出処の天子」から「東の天皇」に変わったとしても、国書の内容と態度は変わっておらず、対等外交を行ったとも考えられる(平泉澄『物語日本史(上)』)。

※これを天皇号の初の使用例とみる見解もあるが、「蛮夷」が先に使用した称号を「中華」の皇帝である唐の高宗,李治が用いるはずがないという反論がある(河上麻由子『古代日中関係史』)。

※後の時代に聖神皇帝,武曌(則天武后武則天)が使用した「天后」という称号は周辺国に先に使用した例があることから、天皇を先に倭が使用していても問題はないという見解も存在する(高森明勅『「女性天皇」の成立』)。

※唐高宗李治の用いた「天皇」は個人を差す尊号であって君主号ではないことも反論としてある(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

※元は「天皇」とは別に成立した和語であると考えられ、後にその訓となった「スメラミコト」は、「澄む」に由来する君主の清らかさ・神聖さを表す「スメラ」と貴人に用いる「ミコト」を組み合わせたものである(西郷信綱説)。

※「天皇」という漢字は、かつて秦王,趙正に新たな称号として提案された「天皇地皇・秦皇」の内の天皇を採用したものという『史記』「秦始皇本紀」を参考にしたとの説がある(吉田孝説)。

※この時点では天皇号がまだ成立していないという説を採用すれば、「東の天皇」という表記は『日本書紀』の粉飾となるが、「大王」を使用したとすれば「天子」の使用より主張の後退が過ぎることから、実際に天皇号を使用していたとの説がある。(堀敏一説)

※隋が倭王天皇号を受容したかは別として、楊広の訓戒を受けて対等の主張は取り下げても、一定の自己主張は維持したも考えられている。(大津透『律令国家と隋唐文明』)

・609年 4.8 厩戸王は『勝鬘経』の注釈書である『勝鬘経義疏』の制作を開始した。(『上宮聖徳太子伝補完闕記』)

※『勝鬘経義疏』では、他の大乗仏教の教えと同じく、絶対的なものを「śūnya(空)」と捉え、それは有でも無でもないため、『維摩経』の思想に従って「不二」と述べられる(中村元『日本思想史』)。

※通常大乗仏教において、法身は現象界を超越した世界にあると考えられるが、『勝鬘経義疏』は現象界にあるとする(中村元『日本思想史』)。

※印度や「中国」の仏教は、仏の法身を善悪を超越したものと捉えるが、『勝鬘経義疏』は善であると考える(中村元『日本思想史』)。

※ 『勝鬘経義疏』に続いて、厩戸王は『妙法蓮華経(法華経)』と『維摩経』の注釈書を著した(偽書説もある)。合わせて三経義疏と呼ばれる。

※『法華経義疏』は、梁の法師法雲の『法華義記』を参考としながらも独自の見解を載せており、大乗仏教の説く「大乗」を超越する「一大乗」という思想を展開している。また、法雲が説く坐禅の推奨に対して、坐禅ばかりする修行者は「小乗」であり菩薩に近づいていないと批判している(末木文美士『日本仏教史』)。

※『法華経義疏』は、仏教的内省を修めた人にとっては、苦悩に満ちた現世が至福の園に変わると述べている(中村元『日本思想史』)。

※『維摩経義疏』では、帰謬法を用いることで、衆生は本来悟るものと定まっており、Buddha(仏陀)やbodhisattva(菩薩)による授記は必要ないという見解が述べられている。また、因果関係を「習因」「報因」「相資因」「相似因」に分類している。これは伝統的な仏教哲学とは異なる説である(中村元『日本思想史』)。

※伝統的な仏教において、「anupādisesa-nibbāna(無余涅槃)」は自我の完全な消滅である。しかし『維摩経義疏』は、日常の宗教的実践の末にに無余涅槃に到達する道を見出している(中村元『日本思想史』)。

・609年 ?.? 鞍作鳥による丈六釈迦像が完成し、元興寺に安置された。(『元興寺縁起』)

〔異伝〕『日本書紀』は606年とする。

・609年(隋暦大業5) 隋の煬帝,楊広は西方に赴き、谷渾の主,伏充を西方に放逐し、祁連山を越えて張掖に至り、トゥルファン(高昌)王,麴伯雅を引接した。

※こうして隋と西域方面との繋がりが生まれた(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・610年(隋:大業6) 1.1(陰暦) 弥勒教と呼ばれる集団が、洛陽皇城の門衛から武器を奪い、反乱を起こそうとした。

※彼らは弥勒菩薩の下生(降臨)による世直しを掲げる集団であった(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・610年(隋:大業6) 1. 隋の煬帝,楊広は西域諸国の首長を招いて祭典を催した。

・610年(隋:大業6) 12. 隋において、河南河の工事のために民衆が動員された。

煬帝,楊広は解説した運河に船を浮かべ、江都まで船旅を行っている。これは開設した運河が、使えるものであるかを試したのだと考えられる(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)

・612年 2.20 推古天皇の母堅塩媛が夫欽明天皇の葬られた檜隈大陵に改葬された。その際に蘇我馬子は支族の代表者を率いて進み出て、馬子の弟(『聖徳太子伝暦』),蘇我境部摩理勢が「氏姓の本」を読み上げた。(『日本書紀』)

推古天皇の父母を同じ陵墓に埋葬することで、堅塩媛を欽明天皇の第一の妃であったかのように位置づけ、蘇我氏の血を引く自身の正統性をアピールしたのである(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※「氏姓の本」とは蘇我氏の系譜伝承であり、それを人々の前で述べることで、その系統の尊貴さを示そうとしたとも考えられる(水谷千秋『日本の古代豪族 100』)。

・612年 ?.? 百済人の味摩之が呉の伎楽舞を伝えた。(『日本書紀』)

・612(隋暦大業8) 1.隋の煬帝,楊広は高句麗に親征を行った。

※隋は大軍であったため、全軍の出征完了には40日を要した。戦線が伸びたことで広の支持が上手く伝達できなかった。対する高句麗軍は国土防衛に熱心であり、頑強に抵抗した(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・612年(隋暦大業8)7隋の遠征軍は高句麗から撤退した。

・613年(隋暦大業9) 4.隋軍は高句麗の遼東に攻め込んだ。

・613年(隋暦大業9)6隋にて、楊素の子息,玄感が反乱を起こした。

煬帝,楊広は鎮圧に向かうために、高句麗からの撤退を余儀なくされた。隋の中央集権に反発する地方勢力が、次々に反乱を起こすようになる(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。 

・614年(隋暦大業10) 隋軍は高句麗に遠征を行った。高句麗王,高元が降伏したことで、隋軍は引き返した。

※遠征中、隋軍からは逃亡者が続出した。遠征は隋の国庫を疲弊させ、東アジアへの拡張路線の失敗を露呈させた(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・615年(隋暦大業11) 隋の煬帝,楊広は、突厥の根拠地近くまで赴くが、そこで突厥に包囲された。広は逃げることに成功する。

※その後、広は政治への関心を失った(氣賀澤保規『絢爛たる世界帝国』)。

・618年(隋暦大業14) 3. 宇文化及の反乱が起きる中、隋の煬帝は部下に殺害された。

・ 620年 ?.?〔参考〕倭国において国史天皇記』『国記』が編纂がされたという。(『日本書紀』)

国史編纂は、遣隋使が倭国の歴史や神話について、隋に答えることが出来なかったことが契機になったと考えられる(倉本一宏『蘇我氏』)。

※隋の滅亡を知り、倭国の歴史を明らかにする必要性を感じたからとも考えられる。『日本書紀』が神武天皇の即位を紀元前660年に設定するのは、讖緯説を採用し、辛酉年である推古天皇即位9年(601)から1260年を遡ったからとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

国史編纂は1年以内に終わることはないため、意図的に推古天皇即位28年の出来事として意図的に記事が挿入されたとも考えられる。推古天皇の時代の出来事ではあっても、正確な年時が伝わって

いなかったため、推古天皇の王統の基点である欽明天皇に因んで、その50年忌の年の出来事として記されたとも考えられる(関根淳『六国史以前』)。

・621年 法隆寺釈迦三尊像の台座に墨で銘文が記された。(法隆寺釈迦三尊像墨書銘)

※書かれた内容は土地の財産目録、ないしは日常的な経費などの帳簿の一部であると考えられる。これは、この時点で文書業務が行われていたことを示している(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・622年 2.21 膳大郎女は死去した。(「釈迦三尊像」)

・622年 2.22夜半 厩戸王薨去した。その後恵慈は菩提を弔うために経を講じて願を立てた。(『上宮聖徳法王帝説』)

・?年 厩戸王の妻の1人であった橘大娘(推古天皇の孫)は王子を追悼するために、帰化系工人の下絵を元に宮中の采女に刺繍を施させ、「天寿国繍帳」を制作した(『上宮聖徳法王帝説』)。

※そこに描かれた「天寿国」というのは、当時は漠然と思い描かれていた極楽浄土のことと思われる(末木文美士『日本仏教史』)。

※『上宮聖徳法王帝説』における「なお天と言うがごときのみ」という注釈からして、天寿国とは弥勒菩薩の住む兜率天であるとの説もある(『東野治之『聖徳太子』)。

〔要参考〕釈迦三尊像の光背の銘文は、膳氏の者たちが厩戸王と「彼岸」を共にしたいと願う文言がある。

厩戸王は、兜率天に登った後に、いずれ六道の輪廻を離れ、『妙法蓮華経』の説く阿弥陀如来の浄土に往生することを願ったという説もある(東野治之『聖徳太子』)。

※銘文には厩戸王の言葉として、「世間虚仮、唯仏是真実」というものが記されており、世俗の無常と仏のみが真実であるという厩戸王子の思想が現れている。(末木文美士『日本仏教史』)。

※「世間虚仮、唯仏是真実」について、日本における現実を超越した真理の探求は、厩戸王からはじまったという見解もある(家永三郎『日本思想史に於ける否定の論理の発達』)。

※繍帳の銘文において、「天皇」が欽明天皇推古天皇に用いられていることから、君主号というよりは王統の始祖の尊称として「天皇」を用いることがあった可能性も考えられている(義江明子『女帝の古代王権史』)。

※「天寿国繍帳」は橘大娘が亡き夫を偲ぶために作成されたのであり、本来の用途からして繍帳そのものに製作意図や系譜を文字として縫い付ける必要はないという見解もある。そのため、橘大娘が薨去した後に銘文は書かれ、刺繍として縫い付けられたとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※銘文の刺繍は図像の一部であり、「天寿国繍帳」の製作と同時に銘文が成立したとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

※「天寿国繍帳」の銘文は推古天皇を、崩御後に贈られるはずの和風諡号「豊御食炊屋比弥(姫)」で呼んでいる。また、織るまでに時間のかかる「羅」と呼ばれる織物である。このことから、繍帳は厩戸王薨去後かなりの年月が経って後の作品であり、以前に制作された繍帳を、時間をかけてより贅沢な刺繍にして、呼称もより敬意の籠ったものに改めた豪華版であるとの見解もある(東野治之『聖徳太子 』)。

※後世に銘文の号まで改めたのだとしたら、「天皇」に合わせて「大后」は「皇后」に統一するはずであり、「天皇」と「大后」が併存していることは、後世の作為によって「天皇」号が追加されたわけではない証左だという説もある(高森明勅『謎とき「日本」誕生』)。

・622年 預言者ムハンマドとその支持者は、迫害を逃れるために、メッカを脱出してヤスリブに移った。(イブン=イスハーク『預言者ムハンマド伝』)

・623年 新羅の使者から、仏像一具や金製の塔がもらたされたとともに、学問僧の恵済・恵光と留学生の薬師恵日・倭漢福因が倭に帰国した。

※留学生と学問僧を無事に帰国させることで、唐は隋を継承する正統な王朝であることを伝え、隋と同じような日本との関係を継続することをアピールしたものと思われる(河上麻由子『古代日中関係史』)。

・623年 ?.? 厩戸王の子供たちの願いにより、鞍作止利(鳥)の手で釈迦三尊像が制作された。その由来は光背に銘文として刻まれている。(「釈迦三尊像銘文」)

※銘文については、事実に基づくとは限らない由来を説明する、後の時代に刻まれた、像の「縁起」ではないかという説もある。当時、天皇号が未成立だという立場から、厩戸王を指し示す「法皇」という呼称が後の時代のものである、との主張である(福山敏男「法隆寺金石文に関する二十三の問題」『夢殿』13号所収)。

釈迦三尊像は土で作った型に蝋を貼り付け、そこに文様を刻んで、その後で銅を流し込んで制作されている。光背には凹凸が残っており、銘文は蝋に下書きをしたような柔らかい書体である。このことから、光背の銘文は後世のものではなく、像が関係してすぐに刻まれたものだと考えられる(東野治之『聖徳太子』)。

※光背銘の由緒が仏像と一体で制作されているとみられることから、「法皇(のりのきみ)」という「仏法に優れた王」を意味する称号も、生前のものと考えられる。薨去後すぐの厩戸王の評価には政治に関する事績への言及は見られず、仏教への造詣の深さを窺わせるものになっている(義江明子推古天皇』)。

※当時は「皇」と「王」は特に区別されておらず、画数の多い「皇」を厩戸王に対して敬意を表すために用いたのだと考えられる(東野治之『聖徳太子』)。

※銘文には膳部菩岐々美郎女の名前が見えるが、他の妃の名前はない。このことから、釈迦三尊像の制作は、膳氏の主導で進められたのだと考えられる(東野治之『聖徳太子』)。

※銘文は1行14文字で14行の196文字で掘られている。これは『無量寿経』の「不但此十四仏国中、諸菩薩等当往也(ただ、この十四の仏国中の、もろもろの菩薩らのみ、まさに往生すべきにあらず)」に由来すると推測される(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

・624年 10.? 蘇我馬子は、自身の「本居」であり、当時大王領となっていた、葛城県の割譲を求めた。しかし推古天皇は、それだけは聞き入れられないと拒否した。(『日本書紀』)

推古天皇が自らの子孫に王統を伝える計画が潰える中、馬子は娘の法提郎女を田村王(押坂彦人大兄王と糠手姫王の子息)に嫁がせていた。両者の大王位継承計画に齟齬が生じ、仲に亀裂が生まれていた可能性も指摘される(義江明子推古天皇』)。

蘇我氏の血縁という立場を離れて、大王としての矜恃を示したとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・625年 1.7 高麗王は倭に僧侶の恵灌を送った。これにより『三論宗』が倭に伝わった。(『日本書紀』)

・626年 5.20 蘇我馬子は死去した。(『日本書紀』)

・626年 ?.? 田村王とその姪(茅渟王と吉備姫王の娘)宝王との間に葛城王(後の中大兄王)が誕生した。(『日本書紀』)

※田村王と宝王の婚姻は、田村王にとっての父、宝王にとっての祖父である、押坂彦人王の資産の分散を防ぐ狙いがあったと考えられる(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

※田村王と宝王の婚姻は、敏達天皇の子孫による財と勢威を結集しながら、宝王の曾祖母(堅塩媛)に由来する蘇我氏の財を取り込む意図があったと考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。

※傍系王族が増加する中で、直系意識が芽生えたとも考えられる。田村王は自身の系譜を父,押坂彦人王に連なると考え、他の大王候補者よりも優位に立つために、押坂彦人王の「王統」を築くことを望み、姪の宝王と婚姻関係を結んだとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の王権と東アジア』)。

※宝王と結婚する以前、田村王の妻には王族出身者がいなかった。天皇に即位するに際して、妻を共に政務を担う「大后」に立てる必要があった。ただ、政治的な混乱を防ぐために、大后は一般豪族でなく王族でなくてはならなかった。そのため宝王と婚姻関係を結んだとも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。

※「葛城」という名前は、葛城氏に養育されたからだと考えられる。ただ、当時は葛城氏は没落していたため、その地盤を継承した蘇我氏に養育されたのかもしれない。異母兄の古人王も同母兄弟間の長子すなわち「大兄」であったことから、葛城王は2番目の大兄として「中大兄」という通称で呼ばれたとも考えられる(遠山美都男『天智天皇』)。

・626年 蘇我馬子の子息,蝦夷が大臣となった。(『扶桑略記』)

・627年 唐の僧侶,玄奘長安を出発し、涼州に至った。そこで現地の人々に求められ仏典の講義を行った。

※講義の聴衆には、中央アジアの商人がおり、故郷に帰ると、玄奘がインドに行こうとしているのだと広めた。意図していたかは不明であるが、玄奘は自身のインド行きを宣伝することができた(林俊雄『スキタイと匈奴 遊牧の文明』)。

・628年 玄奘は旅の途中、トゥルファン(高昌)の君主に招かれ、そこに滞在することになった。君主からの引き止めに対して、再び来ることを伝えた玄奘は、インドに向けて旅立つことにした。そこでトゥルファンの君主は、妹婿の父である、西突厥のカガンへの紹介状を渡した。

・628年 玄奘は西突厥のカガンに面会した。カガンは玄奘のために中央アジアの言葉を理解する通訳を随伴させ、諸国に対してカーシピーまで玄奘を送るよう伝えた。

・628年 2.27 推古天皇は病を患った。(『日本書紀』)

・628年 3.6 自身の最期を悟った推古天皇は、田村王と、山背王を呼び寄せ、田村王には天皇になるうえでの心構えを、山背王には将来天皇になるまでに精神的に成長するよう諭した。(『日本書紀』)

※山背王は蘇我馬子の娘を母としていたが、蝦夷は自身の妹婿であり、田村王を推していたとも推測される。田村王と法提郎娘との間には子息,古人王が産まれており、田村王の方が次期大王候補として有利な立場にあった。推古天皇は情勢を汲み取り、山背王に将来の天皇としての希望を持たせ、田村王を積極的に支持しないという立場において、蝦夷に抵抗したとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※膳氏との関係を深める山背王よりも、田村王とその子息,古人王に蘇我系王統を託したものとも考えられる(義江明子推古天皇』)。

※田村王と山背王はどちらも欽明天皇の曾孫として同世代である。ただ、田村王は蘇我馬子の娘婿であったのに対して山背王は馬子の孫であり、田村王の方が年長だったと思われる。枕元に最初に呼んだのが田村王であることからしても、田村王を最初の、山背王をその次の大王と構想していたとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※このことは、群臣の擁立による即位から、先王の遺言による即位へと、王位継承のあり方が変化していくことの片鱗を示すものである(渡辺育子元明天皇元正天皇』)。

※現存史料からして、天皇が次期大王を指名したのはこれが最初である。長年権力の中枢にいて、統治の実績を作っていたことで、次期大王の指名が可能だったとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

・628年 3.7 推古天皇崩御した。(『日本書紀』)

〔異伝〕『古事記』には3月15日とある。

・628年 7.15 法隆寺に命過幡が奉納された。(「法隆寺命過幡銘」)

※幡(ハタ)を「者田」と表記している。「者」には「ハ」「田」には「タ」の訓がある。字義を無視して訓を借りた表記を「訓仮名」と呼ぶ(沖森卓也『日本語全史』)。

 ・628年 9.24 推古天皇は、先立たれた自身の王子である竹田王と同じ陵墓に葬られた。(『日本書紀』)

※植山古墳がそれであると考えられている(義江明子『女帝の古代王権史』)

推古天皇崩御後、馬子の子の蝦夷は群臣を招集して、推古天皇の意向の通りに、田村王を次期天皇とする合意を得ることにした。蝦夷の妹法提郎女は田村王妻であり、間に古人王を儲けている。(『日本書紀』)

蝦夷としては、長年馬子の後継者として推古天皇から目を掛けられていたため、その遺志を無下には出来なかったとも推測される(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・山背王は自身が推古天皇から皇位を託されたと主張、蘇我馬子の弟の蘇我境部摩理勢も山背王を推した。山背王を推す群臣も少なくはなかった。蝦夷の弟の蘇我倉麻呂はどの王族を支持するかを保留した。(『日本書紀』)

※山背王は、天皇による次期天皇の指名という慣例が形成されていない内に、父,厩戸王の実績や母方の蘇我氏の実力を背景に、自らの即位を実現させようとしたとも考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※摩理勢としては、山背王が即位すれば自身が大臣に任じられる可能性があり、甥の蝦夷ではなく自身が族長になることを望んだからとも考えられる。当時の氏族の族長位は、政治能力がある人物が、一族の支持を得て就任するものであった(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※これまでの群臣が天皇を選ぶという前提に、先代天皇の遺詔という新たな選定要素が加わったため、議論が紛糾したのだと考えられる。また、遺詔をもってしても、群臣が大王を選ぶという風習を排除出来なかったといえる(義江明子「王権史のなかの古代女帝」『日本古代女帝論』所収)。

※群臣たちは田村王と山背王のどちらかから次期天皇の選定を思案しており、そのことに異議は唱えられていない。群臣たちが議論を行ったのは、推古天皇の遺詔の内容についてであったと考えられる(佐藤長門蘇我大臣家』)。

敏達天皇のキサキとなって以降、50年近い国政経験を積んだ推古天皇の遺詔は、既存の群臣が大王を選ぶという体制を揺るがすことができたのだと思われる(義江明子元明天皇と奈良初期の皇位継承」『日本古代女帝論』所収)。

・群臣の1人からは、「すでにして天皇の遺命にしたがうのみ。さらに群言すべからず」との言葉が発せられた。(『日本書紀』)

※結果として、蝦夷は山背王と、山背王を推す群臣を説得することに成功した。天皇の遺詔を群臣が承認することで、次期天皇が即位するというシステムが形成されつつあったことを表している(遠山美都男『古代の皇位継承』)。

推古天皇の遺詔があったことを示す史料が、『日本書紀』を編纂するうえで残っていたかが疑問であるとして、その遺言自体が架空である可能性も指摘される(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

682年 9.? その後も蝦夷と麻理勢の不和は続き、麻理勢が馬子の墓の造営を放棄し、蘇我の田家という施設に立てこもった。蝦夷が使者を送って諭そうとしたところ、山背王の弟,泊瀬仲王の宮に逃げ込んだ。怒った蝦夷は山背王に麻理勢の引渡しを要求、山背王はそれに応じたことで、麻理勢は味方を失って、蝦夷により滅ぼされた。(『日本書紀』)