ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

用明天皇の時代

・585年 9.5 敏達天皇の異母弟で、額田部王の同母兄である橘豊日王が即位した(用明天皇)。(『日本書紀』) 

※本来王統を受け継ぐのは、敏達天皇と額田部王との間に産まれた竹田王であったとも考えられる。ただ、当時の竹田王は成人していなかったため、「中継ぎ」として用明天皇が即位したとも考えられる。必ずしも皇位が近親婚の結果産まれた王子に受け継がれなかったのは、天皇が成人であることや力量が求められたからであったからだと思われる。また、用明天皇の在位中にはその妻が大后として立てられておらず、額田部王が大后として王権の最高権力者であったと考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。  

・586年 1.1 用明天皇の異母妹で、母方は従兄妹の穴穂部間人王が大后に立った。また、蘇我稲目の娘石付名も妻に迎えている。(『日本書紀』)

※これらの婚姻は、蘇我系王統の結束力を高める意味を持っていた(義江明子推古天皇』)。

 ※敏達天皇崩御後の額田部王は、娘の小墾田王女と桜井弓張王女の2人を蘇我氏の血を引かない、敏達天皇王子の押坂彦人大兄王に嫁がせる(『日本書紀』)などして、蘇我系と非蘇我系を結びつけようとしている(義江明子推古天皇』)。

・?年 ?.? 〔参考〕用明天皇は王子,厩戸王を寵愛し、池辺双槻宮の南の上殿に住まわせたという。そのため、「上宮厩戸豊聰耳太子」と呼ばれたという。(『日本書紀』)

〔要参考〕『上宮聖徳法王帝説』は、厩戸王のことを「上宮王」とも呼ぶ。

※当時は人を実名で呼ぶことは避けられたため、厩戸王は日常的には「上宮」と呼ばれたと推測される(吉村武彦『聖徳太子』)。

・586年  5.? 用明天皇の異母弟で従兄弟の穴穂部王は、自身が大王になれないことを不満に思い、額田部王を犯そうと殖宮に赴いた。しかし故敏達天皇の寵臣三輪逆が門を閉ざして穴穂部王を中に入れず、額田部王女を守った。(『日本書紀』)

※仮に額田部王女との合意があっての性関係が結ばれれば、婚姻と見なされ、蘇我系を率いる存在になった可能性もある(義江明子推古天皇』)。

※王族間で婚姻が結ばれた場合は、男性優位になったとも推測される。そのため、額田部王と強引に婚姻関係を結び、自身が額田部王より上位の存在として大王候補として優位に立とうとしたとも考えられる(大平聡「女帝・皇后・近親婚」『日本古代の国家形成と東アジア』)。

用明天皇と穴穂部王は、母親同士が姉妹であり、出自の優劣は無い。自分が天皇となる順番を待つことなく皇位の継承を主張したことからして、皇位の兄弟継承原理は、同母兄弟間のみに適用されたと考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・586年 5.? 穴穂部王は天皇になることを望み、物部守屋と共に三輪逆を殺害しようとした。逆は用明天皇の住む磐余池辺宮に逃げ込むが、穴穂部王らはそれを包囲した。逆は穴穂部王の兵によって討ち取られた。(『日本書紀』)

※穴穂部王は、逆と共に用明天皇も殺害しようと望んだと考えられる。用明天皇は生存したが、傷を負った可能性も指摘される(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。

※額田部王の支持を得たならば天皇への即位が可能と考えており、目的としていたのは額田部王への接近を妨害した逆の殺害だけであったとも推測される(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・586年 ?.? 用明天皇は病となり、妹額田部王と子息,厩戸王を召し、病の回復のために寺の建立と薬師如来像の造立を命じた。(『上宮聖徳法王帝説』)

・587年 4.2 用明天皇は病となり、仏教に帰依したいと願って、その是非を群臣に問うた。その後、司馬達等の子息鞍部多須奈(法名を丈六)は、仏像と寺(坂田寺)を造ると奏上した。(『日本書紀』)

・587年 4.9 用明天皇崩御した。

〔異伝〕『古事記』は崩御を15日とする。

・?年 ?.? 穴穂部間人王は、用明天皇の王子,田目王と再婚した。(『日本書紀』)

※田目王は、用明天皇と、蘇我稲目の娘,石付名との間に産まれた王子でする。継母子婚であるが、どちらも蘇我稲目の孫であり、イトコ婚ともいえる。蘇我系王族の結束のための近親婚の一端であったと考えられる(義江明子推古天皇』)。

・587年 5.? 物部守屋は、穴穂部王を新たな天皇として擁立しようとした。(『日本書紀』)

・587年 6.7 前大后,額田部王による詔が蘇我馬子に下され、穴穂部王は馬子によって殺害された。(『日本書紀』)

・587年 6.8 蘇我馬子の命により、宅部王が殺害された。(『日本書紀』)

※『日本書紀』の分注によれば、宅部王は宣化天皇の王子である。穴穂部王の殺害後、物部守屋は彼を擁立したと考えられる。敏達天皇用明天皇の従兄弟として同世代であり、長老格として天皇には適切であったかもしれないが、ヤマト王権は既に、欽明天皇の子孫を差し置いて宣化天皇の王子を奉戴することはなかった(佐藤長門蘇我大臣家』)。

・587年 7.21 用明天皇は磐余池上陵に葬られた。(『日本書紀』)

・587年 7.? 〔参考〕蘇我馬子と、泊瀬部王・竹田王・厩戸王・難波王・春日王ら諸王子、紀氏・巨勢氏・膳氏・葛城氏・大伴氏・阿倍氏平群氏・坂本氏・春日氏ら群臣らは物部守屋を討つために挙兵したという。(『日本書紀』)

※『聖徳太子伝暦』によれば、厩戸王は当時14歳である。『日本書紀』記す順番は年齢順だと思われ、難波王と春日王はさらに年少となる。額田部王と馬子の側にいることを示す意味でその場にいたとしても、実際に参戦したかは疑われる(義江明子推古天皇』)。

※従軍者の中に敏達天皇の王子,押坂彦人王の名前が見えず、その後も『日本書紀』は動向を語らない。中臣勝海が彼を呪詛を一旦諦めていることからして、勝海の主導によって既に殺害されていた可能性が指摘される(佐藤長門蘇我大臣家』)。

※押坂彦人王は当時10代後半とする設があり、子息,田村王の誕生年を鑑みるに、587年以降、数年は生存していたとする見解もある(薗田香融「皇祖大兄御名入部について」)。

※押坂彦人王は、当時としては特に有力な皇位継承候補者ではなかったことが、『日本書紀』に薨去年が記されていない理由とも考えられる(義江明子推古天皇』)。

・587年 7.? 蘇我馬子・諸王子・諸群臣らの軍は物部守屋を攻め、討ち取った。(『日本書紀』)

※守屋討伐に動いたのは群臣層の氏族である。穴穂部王擁立に関して群臣層から支持を得られず、最高権力者である大后,額田部王を敵に回して孤立していたと考えられる。物部氏の衰退により、群臣層において蘇我氏の地位は高まった(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※この内戦により額田郡王の権威は高まり、蘇我馬子との連携も強化されたと考えられる(遠山美都男『天皇と日本の起源』)。