ツギハギ日本の歴史

日本の歴史を、歴史学者の先生方などの書籍などを元に記述します。

孝徳天皇~斉明天皇の時代(大化、白雉)

・645年 6.14 〔参考〕皇極天皇葛城王への譲位の意志を詔した。しかし葛城王皇位を辞退した。そこで宝王の弟軽王が即位した(孝徳天皇)という。(『日本書紀』)

皇極天皇の即位が、古人王の次期天皇としての地位を予定したうえでのものであるという見解からは、蘇我蝦夷・入鹿父子が滅ぼされた時点で古人王の次期大王としての地位は否定されたとも考えられる。それに伴い、自発的か否かは不明であるものの、皇極天皇もその地位を退く必要が生じたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

葛城王蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼしたのは、彼らが大王に成り代ろうとする目的があったと主張したうえでの行動である。そのため葛城王がすぐに即位すれば、天皇になろうとする点で入鹿と同様の意図があったと疑われて信用を失う。そうした背景から即位を辞退したとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

※そもそも宝が皇極天皇として即位しておらず、空位であったという説が正しいならば、皇極天皇の退位自体が作為となる。当時の慣習として天皇は終身在位であり、譲位する必要もないことが根拠として示される(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※647年には、新羅において女性君主である善徳女王,金徳曼を廃位しようとして反乱が起きたように、女性君主を忌避する風潮が倭国にも生まれ、皇極天皇は意志に反する形で退位させられたとも推測される(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※終身在位の慣例を変えることで、かつての崇峻天皇殺害のような方法を採用することなく、途中で天皇を交代させる道を開いたとも考えられる(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

※宝としては、母(吉備姫王)を同じくする系統の長老女性として、王権を強化して権力集中を行うために同母弟に譲位したとも考えられる。また、次期大王の選定を群臣の判断に委ねるのではなく、先代天皇という立場から継承に関与するために譲位したとも考えられる(義江明子『日本古代女帝論』)。

葛城王は将来自身が天皇になるに際して、敏達天皇の傍系の曾孫という即位の見込みがない者を即位させることで、自身の地位の強さを知らしめる意図があったとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

※群臣からの推戴ではなく、天皇の血族の意志による大王位継承がなされたことになる。そのため、王権が制度として群臣層から自立したとも考えられる(吉田孝『日本の誕生』)。

・645年 6.14 宝前天皇孝徳天皇より「皇祖母尊」の尊号を贈られた。(『日本書紀』)

※この際前大王と現天皇の立場の上下が問題とされたが、結果として、宝前天皇が上位とされた。「皇祖母尊」という称号は「大王の母」を意味するものであり、孝徳天皇との間に擬似的な親子関係を構築していたことを表している。皇祖母尊は譲位後も国政から離れることはなく、倭京の建設を進めた(遠山美都男『古代の皇位継承』)。

※「皇祖母尊」は本来「大祖母尊」と書いて「オオミオヤ」と呼ばれ、当時の社会における年齢階梯制に由来する「古老」的立場だったとも考えられる(荒木敏夫「「譲位」の誕生」『天皇はいかに受け継がれたか』)。

・645年 6.14 古人大兄王は出家し吉野に隠遁した。(『日本書紀』)

※古人王は、軽王を中心とした蘇我蝦夷・入鹿父子を打倒する勢力から圧力を受けて出家したとも推測される。また、古人王の出家は蝦夷の自害前であり、古人王の降伏を受けて、蝦夷は抵抗を諦めて自害したという説もある(遠山美都男『天智天皇』)。

孝徳天皇下の新政権では、阿倍内麻呂左大臣蘇我倉山田石川麻呂が右大臣・中臣鎌足が内臣・高向黒麻呂(玄理)と旻が国博士となった。(『日本書紀』)

・645年 6.19年 〔参考〕孝徳天皇・皇祖母尊・葛城王らは飛鳥寺に群臣を集め、「君に二つの政なく、臣に弍つの朝なし」と誓い、「大化」という日本初の元号を定めたとされる。(『日本書紀』)

※700年以前の木簡や金石文には、年紀は干支によって表記されていることから、700年以前には元号は存在しなかったとも考えられる(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・大化1年(645) 7.2 〔参考〕孝徳天皇は、皇祖母尊の王女、つまりは姪の間人王を「皇后」に立てたという。他に、左大臣阿部内麻呂の娘小足媛と蘇我倉山田石川麻呂の娘乳娘が妻にいる。(『日本書紀』)

※間人王は、小足媛の産んだ有馬王の後見人として、「大后」と呼ばれていた可能性も指摘される(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・大化1年(645) 7.10 高句麗百済新羅からの使者が訪れた。百済の使者対しては「任那の調」の貢上を求めた。(『日本書紀』)

※当時の百済新羅から伽耶地域を奪取していたため、以前は新羅に求めていた「任那の調」を百済に求めたのだと考えられる。高句麗新羅百済の三国とは通交が続いており、以前との格段の変化はなかったようである(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・大化1年(645) 9.12 古人大兄王には謀反の疑いがかけられ、葛城王が派遣した兵に捕らえられて処刑された。(『日本書紀』) 

※実際に古人王が謀反を計画していたかは不明であるが、葛城王の権限の強さを物語る(瀧浪貞子女性天皇』)。

 ・大化1年(645) ?.?  葛城王は、蘇我遠智娘との間に鸕野讃良王を儲けた。鸕野讃良王には、生年不詳の同母姉大田王がいる。(『日本書紀』)

・大化2年(646) 1.1 〔参考〕孝徳天皇によって「改新の詔」が下され、公地公民・班田収授法・国郡里制・税制を定めたとされる。(『日本書紀』)

※「大化改新」とは、君臣の違いを明確化し、国家秩序を正す改革であったとも考えられる(田中卓『教養 日本史』)。

※第1条は、王族や豪族が土地と人民を所有することを禁じ、豪族に食封を支給することを定めたものである。しかし、豪族はその後も部曲と田荘を所有していることから、実際にそのような宣言がなされたとは考えられない(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

※第2条は、京師・畿内・国・郡・里という地方行政組織が定めるものである。しかし、700年以前の木簡には、「郡」ではなく、同じく「こおり」と読む「評」と記されている。『日本書紀』の記す詔には文飾があることが理解できる。ただ、「評」という行政機関が数年後に設置されていることから、この際に目標として定められた可能性がある(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・大化2年(646) 3.22 墳墓葬送の制(薄葬令)が出され、墓の規模・副葬品が制限され、殉死・殯・誄といった風習は廃止を命じられた。(『日本書紀』)

※こうして大規模な古墳が造営される時代が終わった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・大化2年(646) 3.22 奴婢・婚姻・祓除の制が定められた。(『日本書紀』)

・大化2年(646) 3.? 孝徳天皇の母,吉備姫王は、大量の稲の出挙(貸付け)を行った。

※『日本書紀』では「吉備嶋皇祖母命」とも表記され、糠手姫王と同様に嶋宮に住んでいたようである。祖母堅塩媛の出身である、蘇我氏の財力を継承していたと推測される(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・大化2年(646) 7.? 倭国は国博士,高向黒麻呂(玄理)を新羅に派遣し、「任那の調」を求めない代わりに「質」を求めた。(『日本書紀』)

※「質」とは一般に言われる人質ではなく、外交官的な側面を持っていた。こうして倭国は「任那」の権益を諦めたことになる(吉田孝『日本の誕生』)。

※このようにして、倭国朝鮮半島における支配を断念し、倭国内の統治に専念する方向に転換した(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

・大化3年(647) ?.? 登下時の礼法が制定されたほか、渟足柵が造営された。(『日本書紀』)

・647年 新羅において善徳女王金徳曼が殺害されるというクーデターが発生(毗曇の乱)したが、王族の金春秋によって鎮圧された。春秋は新たに金勝曼を女王とした(真徳女王)。

※春秋がその年の内に倭に赴いたことは、倭と新羅の間での強調関係を築くためであると思われる(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

・646年 玄奘は唐の太宗,李世民の求めに応じて、インドでの見聞を纏めた『大唐西域記』を著した。

※西突厥と争ううえで、世民は西域の情報を欲していたのである(北村厚『教養のグローバル・ヒストリー』)。

・大化4年(648) 4.1 七色十三階の冠位の制度が施行された。(『日本書紀』)

※冠位の授位対象には大臣も含まれており、臣下の全てが官僚制に組み込まれた(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・648年 金春秋は倭を去り新羅に帰国する。

・大化4年(648) ?.? 伊賀采女宅子娘は、葛城王の子息、大友王を産んだ。

采女は、舎人、籾負、膳夫のように、大王に近侍する「トモ」であったと考えられる(平野邦男『大化前代社会組織の研究』)。

・大化5年(649) 2.? 冠位十九階が制定され、日文と高向黒麻呂に詔が下されて八省と百官が置かれた。(『日本書紀』)

・大化5年(649) 3.17 左大臣,阿倍内麻呂が死去した。(『日本書紀』)

・大化5年(649) 3.24 蘇我日向は葛城王に対し、兄の倉山田石川麻呂が葛城王を殺そうとしていると伝えた。(『日本書紀』)

・大化5年(649) 3.25 蘇我倉山田石川麻呂は、山田寺にて、長男の興志をはじめとした妻子8人と自害した。(『日本書紀』)

孝徳天皇は、石川麻呂の謀反が事実かどうかを問う使者を派遣しているのに対して、蘇我日向は石川麻呂の遺体の首を斬らせるように命じている。石川麻呂を排除したのは、葛城王の主導であったと考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※石川麻呂と阿倍内麻呂は、どちらも孝徳天皇に娘を嫁がせていた。石川麻呂を自害に追い込んだのが葛城王の策謀であるかは断定できないが、石川麻呂と内麻呂という左右の大臣が立て続けに世を去り、孝徳天皇は側近を失って改革に障害が生じたとも考えられる(瀧浪貞子女性天皇』)。

・大化5年(649) 3.?  蘇我日向は筑紫大宰師となった。(『日本書紀』)

・大化5年(649) 4.20 巨勢(臣)徳陀古が左大臣、大伴(連)長徳が右大臣に任じられた。(『日本書紀』)

※徳陀古と長徳の政治的立場は不明であるが、葛城王に近しい者たちだったと考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・650年 2.9 穴戸(長門)国司が朝廷に白雉を献上した。(『日本書紀』)

・650年 2.15 白雉を祥瑞として、元号が「白雉」に改められた。(『日本書紀』)

・白雉2年(651) ?.? 新羅の貢調使が筑紫に到着した。そのときの使者は新羅の方針で唐風の衣冠を着ていたが、倭国新羅が無断で習俗を変更したことを理由に追い返した。(『日本書紀』)

・白雉2年(651) ?.? 葛城王蘇我遠智娘との間に建王を儲けた。(『日本書紀』)

・651年 正統ハリーファ政権は、サーサーン朝を攻め、ヤズデギルドⅢを敗走させた。これによりサーサーン朝は滅んだ。

アレクサンドロスⅢの死後、ペルシアとシリア以西に分裂していた、地中海世界の東西が統一されたと捉えることも出来る(岡本隆司『世界史序説』)。

※サーサーン朝滅亡によってペルシア人イスラームに同化した。また、唐やソグディアナへと移ってきた者もいた。こうして唐やソグディアナにはゾロアスター教徒マニ教徒、ネストリウス派キリスト教徒が移ってきた(岡本隆司『世界史序説』)。

・白雉3年(652)年 4.? 朝廷は戸籍を制作し、50戸を1里と定め、1里ごとに長1人を置くとした。(『日本書紀』)

・白雉3年(652)年 9.? それまでの都の倭京から難波長柄豊碕宮(難波宮)へと遷都した。(『日本書紀』)

※「戊辰年」つまりは大化4年の年紀を記す木簡が出土したことから、前期難波宮遺跡が、難波長柄豊碕宮と考えられる。朝堂院や官衙域を持つ王宮であった。(市大樹「大化改新」『論点・日本史学』)。

難波宮の付近には「難波之海(大阪湾)」と「河内湖(草香江)」があって、瀬戸内海と内陸は「難波津」によって繋がれ、飛鳥地域とも道路で繋がる交通の要地であって、朝鮮半島や唐から伝来する物品の集まる場所でもあった(佐藤信 編『古代史講義 【宮都篇】』)。

※大規模な宮が難波に造営されたのは、対外的に倭王の権威を示す意図があったからとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・白雉4年 (653) 5.12  吉士長丹・高田根麻呂を大使、吉士駒・掃守小麻呂を副使として第2回遣唐使が派遣された。中臣鎌足の長男である貞慧(定恵/俗名真人)や、同じく僧侶の道昭も随行した。道昭は三蔵法師の1人である玄奘に師事した。(『日本書紀』) 貞慧は神泰法師に師事するために、長安の慧日道場に滞在した。(『藤氏家伝』)

※当時の僧侶は、官僚に転身しても対応できるほどの基礎学力と技能を身につけるものだった。そのため、鎌足は貞慧に対して官僚になることを期待していたとも考えられる(遠山美都男『新版 大化改新』)。

・?年 ?.? 〔参考〕『新撰姓氏録』によれば、孝徳天皇の在位中、朝鮮半島出身の智聡という人物の子息が、牛乳を献上して「和薬使主」の名を賜ったという。

※そのまま事実と考えられないとしても、古くから牛乳が飲まれていたために生まれた伝承とも考えられる(東野治之『木簡が語る日本の古代』)。

・白雉4年(653) ?.? 葛城王の、都を倭京に戻す提案を孝徳天皇が拒否すると、皇祖母尊・葛城王・大海人王・大后間人王や、大半の廷臣が飛鳥の河辺行宮へと移った。(『日本書紀』)

※殆どの廷臣が都を離れたというのは誇張であるとしても、多くの廷臣が葛城王らに従ったのは事実と考えられ、葛城王の権力が孝徳天皇を上回っていたことが窺える(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・自分を置いて兄,葛城王に従う間人王に対して、孝徳天皇は歌を詠んだ。

錯着け 吾飼う駒は 引出せず 吾が飼う駒を 人見つらむか

※「見」を夫婦の契りの意味と考えて、葛城王と間人王との間に肉体関係があったとする解釈がある。葛城王は同母姉妹との婚姻という禁忌を犯したがために、即位しなかったという説である(吉永登「間人皇女-天智天皇の即位をはばむもの」『万葉-歴史と文学のあいだ』)。

※同母妹との恋愛という禁忌が、即位できない程度の咎めで終わることが不自然であるとの指摘ある。また、葛城王、間人王、皇祖母尊という親子たちの間に問題があったという記録もないことから、恋愛関係ははかったとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・白雉5年(654) 1.5 中臣鎌足は紫冠を授けられ、食封若干1000戸が追加された。(『日本書紀』)

・白雉5年(654) 2.? 第2回遣唐使の帰国を待たずして、高向玄理を横使(大使より上位)、河辺麻呂を大使・恵日を副使として第3回遣唐使を派遣した。(『日本書紀』)

 ※第3回遣唐使は、唐を中心とした東アジアの秩序の支持と、新羅との友好関係の進展することを表明する意味を持っていた。玄理らは唐の皇帝である高宗李治より、危急の際には倭国より新羅に援軍を送ることを命じられた(河上麻由子『古代日中関係史』)。

・白雉5年(654) 7.24 第2回遣唐使が帰国した。(『日本書紀』)

・白雉5年(654) 2.? 唐の郭章柱は、遣唐使に対して倭国の「国初めの神の名」について質問した。遣唐使はそれに全て答えた。(『日本書紀』)

※このころには、神々の時代の物語「旧辞」が文字化され、倭国の官人は共有していたものと考えられる(関根淳『六国史以前』)。

・白雉5年(654)年 10.10 孝徳天皇は有間王に看取られて崩御した。(『日本書紀』)

・白雉5年(654) 12.8 孝徳天皇は大坂磯長陵に葬られた。(『日本書紀』)

孝徳天皇陵に比定された山田上ノ山古墳は円墳であり、当時の大王の陵墓であった八角墳の形ではない。そのため、孝徳天皇の陵墓を叡福寺北古墳だとする見解もある(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・白雉5年(654) ?.? 葛城王の同母弟である大海人王は、胸形尼子娘との間に高市王を儲けた。(『扶桑略記』)

※海人を統括する大(凡)海人氏に養育されてその名を持った大海人王は、海部を配下に持ち、海上活動を支える宗像(胸形)氏を妻の1人に選んだのだと考えられる(森公章『奈良貴族の時代史』)。

・655年 1.3 皇祖母尊は飛鳥板蓋宮にて再び即位(重祚)した(斉明天皇)。(『日本書紀』)

斉明天皇は自身の退位を必要だと感じておらず、あくまで孝徳天皇を「中継ぎ」と見なしていたという見解もある。葛城王を後継者として、斉明天皇が終身在位するという方針が、群臣層が合意した結果であるとも考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

孝徳天皇が失脚した後に即位すれば、豪族間からの人望を失ってしまう可能性がある。そのため、孝徳天皇に位を譲った皇祖母尊に再び即位してもらったとも考えられる(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

葛城王はすでに「皇太子」になっているため、「当代の女性天皇の実子は次期天皇になれない」という不文律を無化できたという説もある(瀧浪貞子女性天皇』)。

孝徳天皇に続き、その姉の斉明天皇を即位させることで、葛城王は母方の血統の権威を高める意図があったとも考えられる(河内祥輔『古代政治史における天皇制の論理 増訂版』)。

・655年 唐と、百済が連携している高句麗が交戦した。

・655年 10.? 斉明天皇は、小墾田宮を瓦覆にすることを試みた。(『日本書紀』)

※後岡本宮を恒久的な都とし、小墾田宮を北方の起点とする構想があったとも考えられている(義江明子『日本古代女帝論』)。

655年 冬 飛鳥致板蓋宮が消失したため、斉明天皇飛鳥川原宮に遷った。(『日本書紀』)

・土木工事が頻繁に行なわれ、運河を造るために多くの人を動員することになり、民衆は運河を「狂心の渠」と呼んだ。(『日本書紀』)

・656年 飛鳥川原宮より、後飛鳥岡本宮に遷った。(『日本書紀』)

・琵琶湖の水路を使える交通の要地の大津宮に遷都して、対馬壱岐・九州北部に防人・烽を設置・拡充して警備を行わせ、筑紫には水城、太宰大宰や瀬戸内海沿岸には大野城などの朝鮮式山城を築いた。

・657年 大海人王は、葛城王蘇我遠智娘の娘、つまりは姪である鸕野讃良王を妻に迎えた。(『日本書紀』)

※大海人王は鸕野讃良王の同母姉である大田王も妻に迎えており、姉妹型一夫多妻婚と呼ばれる形態である。また、大海人王は、中臣鎌足の娘である氷上娘・五百重姫姉妹も娶っている。『古事記』や『日本書紀』には、瓊瓊杵尊のほかに孝霊天皇垂仁天皇景行天皇応神天皇仁徳天皇が、姉妹複数を娶る記載がある。当時そうした婚姻、は頻繁ではなくとも、稀であるわけでもなかったようである(荒木敏夫『古代天皇家の婚姻戦略』)。

※近親婚が多かったのは、他氏族に血統を流出させないためだという見解がある(西野悠紀子「律令体制下の氏族と近親婚」『日本女性史 一』所収)。

※近親婚を行なうことで、豪族が外戚として介入できない、自立した君主権の確立を狙ったとの見解もある(吉田孝『歴史のなかの天皇』)。

・657年 葛城王は忍海色夫古娘との間に川島王を儲けた。(『日本書紀』)

・658年 11.5 蘇我赤兄の密告により有間王の叛心が明らになり捕縛された。(『日本書紀』)

蘇我赤兄の娘,常陸娘は葛城王の妻であった。このことから、赤兄は葛城王と通じていたと考えられる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

・658年 11.11 有馬王は処刑された。(『日本書紀』)

・長意吉麻呂は有馬王の薨去を悲しみ歌を詠んだ。

岩代の 崖の松が枝 結びけむ 人はかへりて また見けむかも(『万葉集』巻2 143)

※歌の内容から、有馬王が謀反を計画し、処刑されたことは事実と考えられる。彼は反体制派の中心となりえる存在であり、警戒されていたと思われる(篠川賢『飛鳥と古代国家』)。

※父親が大王となったことで、大王位継承候補者となり、紛争の原因になったと考えられる(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

・658年 再び唐と高句麗が交戦した。

・658年 4.? 朝廷から派遣された阿倍比羅夫は船師180艘を率いて、東北の蝦夷を討った。(『日本書紀』)

・658年 5.? 葛城王の子息、建王は薨去した。建王の祖母,斉明天皇はそれを悲しみ、自分が身罷った後は建王と同じ陵墓に葬ることを命じた。(『日本書紀』)

・658年 7.? 沙門智通・智達が新羅船に乗って唐に渡った。(『日本書紀』)2人は三蔵法師玄奘に師事した。

・659年 坂合部石布を大使、津守吉祥を副使とした第4回遣唐使が派遣された。

※君主の代替わりごとに使節を派遣するという、模範的朝貢国としての姿勢を示した(大津透『律令国家と隋唐文明』)。

※『日本書紀』が引用する、第4回遣唐使の船に乗っていた下級官吏伊吉博徳の記録によれば、百済を出発した翌日に津守吉祥の船は島に流されて、彼はそこで島民に殺害されたのだという。

・659年 閏10.29 唐に辿り着いた使者は倭国の北方の民である蝦夷を伴って唐の高宗,李治に謁見した。(『日本書紀』)

倭国は「異民族」を引き連れることで勢力拡大を示した。唐側としても、遠方の民が皇帝の徳を慕って朝貢した形となったため、倭国の使者は治の歓心を買った(河上麻由子『古代日中関係史』)。

660年 7.18  唐と新羅の連合軍は百済を滅ぼした。(『三国史記百済本紀)

 660年10.? 百済の将軍,鬼室福信は、倭国に使者を派遣し、唐の捕虜を倭国に献上した。使者は福信らが百済復興のために挙兵したことを報告し、倭国にいた扶余豊璋王子を王に擁立して百済を復興することを望み、倭国に協力を要請した。斉明天皇は承諾し、新羅の地を目指すと述べた。(『日本書紀』)

斉明天皇の言葉からして、戦争するであろう相手は新羅と認識していたのだと考えられる。当時、福信ら百済遺臣の反乱軍は唐の進駐軍に各地で勝利していた。倭国に対しては戦果を誇大報告し、派兵を要求したのである。百済遺臣の反乱軍が各地で勝利しているとの情報は、誇張であっても誤情報ではないと判断し、援軍を送れば勝利できると考えたのかもしれない。同盟国の百済を失えば朝鮮半島の南端までもが倭国の敵対国家の領土になってしまうことや、仮に唐に臣従すれば高句麗との戦争に駆り出される可能性があった(倉本一宏『はじめての日本古代史』)。

・660年 12.24 斉明天皇は、百済救援軍を派遣するために難波宮行幸した。(『日本書紀』)

・660年 1.14 伊予国熱田津に、救援軍を乗せる船が到着した。(『日本書紀』)

・660年 1.14 百済救援軍が西に向かおうとするに際して、額田王は歌を詠んだ。

熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎい出な(『万葉集』8番歌)

※『万葉集』には、この歌は斉明天皇の作であるとの注がある。額田王が命令により代作したとも考えられる。『万葉集』が収録する額田王の歌には雑歌と挽歌が多いため、専門歌人である可能性が指摘される(今野真二『ことばでたどる日本の歴史』)。

・661年 1.8 葛城王の娘,大田王と、大海人王との間に娘,大来王が産まれた。(『日本書紀』)

※大田王・鸕野讃良王姉妹は、叔父,大海人王に嫁いだ。葛城王と大海人王の兄弟仲が緊張することを見越して、斉明天皇が仲介したのかもしれない(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。

・661年 1.28 ハリーファ,アリーはハワーリジュ派に暗殺された。

※ハリーファの死という状況であっても、イスラーム社会は正統教義を定める聖職者階級を設けなかった。「誰がムスリムか」「イスラームの正しい教義とは何か」といった判断は、アッラーの前に立つムスリム個々人に委ねるという姿勢を崩さなかったのである(中田考『帝国の復興と啓蒙の未来』)。

・661年 3.25 斉明天皇筑紫国娜大津の磐瀬行宮に到着した。その際娜大津を長津と改めた。(『日本書紀』)

※対外戦争に際して、斉明天皇は自ら軍事に携わり「親征」を行っている。戦争に関する直接行動は、君主に要求される条件の1つであり、在位し続けた点からも彼女の傀儡性を否定する根拠であるとも指摘される(荒木敏夫『可能性としての女帝』)。

・661年 8.24 斉明天皇崩御した。(『日本書紀』)

※『日本書紀』にほ、斉明天皇の前に数人が死去していることから、朝鮮半島からの伝染病とも推測される(水谷千秋『女たちの壬申の乱』)。